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平通ひらどおりもり

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たいら どおりもり
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん 仁平にだいら3ねん1153ねん
死没しぼつ 寿ことぶきひさし3ねん2がつ7にち1184ねん3がつ20日はつか
享年きょうねん32
別名べつめい おおやけもり
墓所はかしょ 神戸こうべ兵庫ひょうご 願成寺がんじょうじ
官位かんい 中宮なかみやあきら建礼門院けんれいもんいん別当べっとう参議さんぎしたがえさん
主君しゅくん 安徳天皇あんとくてんのう
氏族しぞく 桓武かんむたいら維衡ながれ伊勢いせたいら
父母ちちはは 平教盛たいらののりもり藤原ふじわらけんむすめ
兄弟きょうだい つうもりきょうけいごうもりちゅうこころよもりゆかり教子きょうこ
つま 正室せいしつ平宗盛たいらのむねもりむすめ側室そくしつしょう宰相さいしょう
つう
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たいら どおりもり(たいら の みちもり)は、平安へいあん時代じだい末期まっき平家ひらか武将ぶしょう平教盛たいらののりもり嫡男ちゃくなん平教経たいらののりつねらのあにつま1人ひとりしょう宰相さいしょう越前えちぜんさんばれた。本名ほんみょうおおやけもり

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

北陸ほくりくどうたたか[編集へんしゅう]

ちちきょうもり平清盛たいらのきよもりおとうとで、たいら政権せいけん樹立じゅりつとともにきょうもり家系かけい栄達えいたつすることになった。ちちきょうもり門脇かどわき中納言ちゅうなごんばれ、嫡男ちゃくなんつうもりおさなくしてしたがえ蔵人くろうどにんじられ、順調じゅんちょう昇進しょうしんかさねる。

たいら財源ざいげんはしら知行ちぎょうこく支配しはいであり、そのなかでも大国たいこく越前えちぜんこく重要じゅうよう収入しゅうにゅうげんだった。越前えちぜんこく知行ちぎょう国主こくしゅ清盛きよもり嫡男ちゃくなん平重盛たいらのしげもりであり、従弟じゅうていつうもり国司こくしとなり支配しはいかためた。ところが、うけたまわ3ねん1179ねん)に重盛しげもり死去しきょすると、こう白河しらかわ法皇ほうおう越前えちぜんこくげ、つうもり国司こくし解任かいにんされてしまう。清盛きよもりはこの措置そちいかり、やがて、同年どうねん11がつうけたまわさんねん政変せいへんにつながる。この政変せいへんによってつうもり越前えちぜんまもる復帰ふっきしている。

うけたまわ4ねん1180ねん)5がつ以仁王もちひとおう挙兵きょへいはしはっして、各地かくちはんたいら蜂起ほうきこる。そのなかさいたるものが関東かんとう挙兵きょへいしたみなもと頼朝よりとも信濃しなのこく挙兵きょへいした源義仲みなもとのよしなかだった。頼朝よりとも義仲よしなか叔父おじ以仁王もちひとおう挙兵きょへい関与かんよしたみなもとこう三河みかわこく尾張おわりこく勢力せいりょくけんきずきつつあった。養和ようわ元年がんねん1181ねん)3がつ平重衡たいらのしげひら大将たいしょうとするくだり討伐とうばつぐん派遣はけんされ、つうもり従軍じゅうぐん墨俣すのまたがわたたかくだり撃破げきはする。

北陸ほくりくどう加賀かがこく能登のとこくでも在地ざいち源氏げんじ蠢動しゅんどうはじめていた。越前えちぜんまもるつうもり従兄じゅうけい平経正たいらのつねまさとともにこの鎮定ちんていめいじられた。同年どうねん9がつ越前えちぜんこく賊徒ぞくと乱入らんにゅうして大野おおのぐん坂北さかきたぐん放火ほうかした。国府こくふにあったつうもりくにちゅうしたがわない状態じょうたいになっていると報告ほうこくおくっている。越前えちぜんこく水津すいつたたかつうもりぐん越前えちぜん加賀かが国人くにびと源義仲みなもとのよしなか配下はいか根井ねいこうおや)にやぶれ、国府こくふ放棄ほうきして津留つるじょう敦賀つるがじょう)への退却たいきゃく余儀よぎなくされている。援軍えんぐんもとめ、平教経たいらののりつねくだりもりらがおくられることがまるが、つうもり津留つるじょう放棄ほうきして山林さんりんのがれて、11月に帰京ききょうしている。北陸ほくりくどう義仲よしなか侵食しんしょくされることになった。

寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)4がつ平維盛たいらのこれもりそう大将たいしょうとする源義仲みなもとのよしなか追討ついとうぐん(『平家ひらか物語ものがたり』によると10まん)が編成へんせいされ、つうもり大将軍だいしょうぐん一人ひとりとして従軍じゅうぐんする。追討ついとうぐん越前えちぜんこくひうちじょうたたか勝利しょうりおさめた。5月にはいり、維盛らの主力しゅりょく7まん義仲よしなかって加賀かがこくからえつ中国ちゅうごく進出しんしゅつつうもりたいらともたびと3まんへいひきいて能登のとこく反乱はんらん鎮圧ちんあつかった。だが、維盛の主力しゅりょくぐん倶利伽羅峠くりからとうげたたか大敗たいはいきっしてしまう。つうもり能登のとから撤退てったい義仲よしなかげるたいらぐん追撃ついげき篠原しのはらたたか北陸ほくりく追討ついとうぐん壊滅かいめつした。

一門いちもん都落みやこお[編集へんしゅう]

同年どうねん7がつ京都きょうと維持いじむずかしくなり、たいら都落みやこおちをする。きょう源義仲みなもとのよしなか支配しはいすることになった。だが、義仲よしなかきょう統治とうち失敗しっぱいし、こう白河しらかわ法皇ほうおうとも対立たいりつするようになる。同年どうねんうるう10がつ讃岐さぬきこく屋島やしまたいら本営ほんえい攻略こうりゃくすべく義仲よしなか足利あしかが義清よしきよ派遣はけんし、備中びっちゅうこく水島みずしま渡海とかいのための水軍すいぐん編成へんせい準備じゅんびをさせるが、そこへ平知盛たいらのとももりそう大将たいしょうとし、きょうもりつうもりきょうけい父子ふしふく将軍しょうぐんとする軍勢ぐんぜい襲撃しゅうげき義仲よしなかぐん壊滅かいめつし、足利あしかが義清よしきよ自害じがいしてしまう(水島みずしまたたか)。たいらぐん久々ひさびさ勝利しょうりであった。いよいよ信望しんぼううしなった源義仲みなもとのよしなかこう白河しらかわ法皇ほうおう幽閉ゆうへいして強引ごういん政権せいけんにぎろうとするが、寿ことぶきひさし3ねん1184ねん正月しょうがつ鎌倉かまくら頼朝よりとも派遣はけんした源範頼みなもとののりより義経よしつねぐんほろぼされた。

一方いっぽうたいら摂津せっつこく福原ふくはら進出しんしゅつして奪回だっかいをうかがうまでに勢力せいりょく回復かいふくさせていた。同年どうねん2がつ4にち福原ふくはら攻略こうりゃくすべく源範頼みなもとののりより義経よしつねぐんきょう発向はっこうたいら福原ふくはら外周がいしゅう防御ぼうぎょじんきずいてこれにそなえた。やまじんにはつうもりおとうときょうけいはいされた。つうもりにはしょう宰相さいしょうというつまがいた。『平家ひらか物語ものがたり』によると決戦けっせんまえ沖合おきあいのたいら船団せんだんからつま最後さいご名残なごりしんでいたが、剛勇ごうゆうられるおとうときょうけいから「そのようなこころがけでは、合戦かっせんやくにはちませんよ」とたしなめられてようやくふねかえしている。2月7にちわせとなり激戦げきせんかえされるが、一ノ谷いちのやたたかたいらうみかって敗走はいそうはじめた。つうもり湊川みなとがわあたり佐々木ささきしゅんつなたれた。『平家ひらか物語ものがたり』では敗勢はいせいなか自害じがいしようとするが木村きむらしげるつな玉井たまいじょけいらにかこまれてたれている。このたたかいでおとうときょうけいごうもりにしている(『吾妻あづまきょう』による。きょうけいについてはべつ史料しりょう生存せいぞん風聞ふうぶんがあり、壇ノ浦だんのうらたたか戦死せんししたというせつもある)。享年きょうねん32。2月13にちつうもりくびられたほか一門いちもんものたちとともきょう獄門ごくもんにかけられた。つましょう宰相さいしょうおっとかなしみ、屋島やしまへの帰路きろうみげてつうもりのちった。

には『吾妻あづまきょう』の文治ぶんじ元年がんねん12月17にちこうに「越前えちぜん三位通盛卿息一人被搜出之」とあり、生母せいぼ不明ふめいだが鎌倉かまくら平家へいけ残党ざんとうりによってあきらかになった息子むすこがいたこと判明はんめいしている(つう衡かどうかは不明ふめい)。また「鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうきょうそう次第しだい」によると源実朝みなもとのさねとも暗殺あんさつさい嫌疑けんぎをかけられた平教盛たいらののりもりまごとされるそうがいるが、出家しゅっけしたつう衡かきょうもりべつまごなのかは不明ふめい

背景はいけい[編集へんしゅう]

平家ひらか物語ものがたり』のしょう宰相さいしょうとのエピソードがどの程度ていど真実しんじつかは不明ふめいだが、実際じっさい平家ひらか本流ほんりゅうむねもりたちいんへの関係かんけい強化きょうかという政治せいじてき要素ようそい。

元々もともと上西かみにしもんいん白河しらかわ法皇ほうおうあねおとうと当人とうにんたちだけでなく関係かんけいしゃたち同士どうしつながりもふかく、これらの事情じじょうからしてつうもりしょう宰相さいしょうにしても完全かんぜん恋愛れんあい結婚けっこんとはれない側面そくめんがある。滋子しげこ上西かみにしもんいん女房にょうぼうだったとき当時とうじ上皇じょうこうだったのち白河しらかわ法皇ほうおう見初みそめられとなって高倉天皇たかくらてんのう誕生たんじょうしている。みなもと頼朝よりとも上西かみにしもんいん皇后こうごうみやけんしょうすすむ蔵人くろうどつとめていたときに、おな御所ごしょんでいたのち白河しらかわ上皇じょうこう男色なんしょく相手あいてだったのではないかというせつもあり、平治へいじらんさい池禅尼いけのぜんにから平清盛たいらのきよもりへの頼朝よりとも助命じょめい嘆願たんがん上西かみにしもんいんこう白河しらかわ上皇じょうこう意向いこうもあったのではないかとわれている。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

系譜けいふ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]