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たいらともたび

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たいら ともたび
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 寿ことぶきひさし2ねん5月11にち1183ねん6月2にち
官位かんい したがえじょう三河みかわまもる
氏族しぞく 伊勢いせたいら
父母ちちはは ちち平清盛たいらのきよもり
兄弟きょうだい 重盛しげもりもともりそうもりもり藤原ふじわら信隆のぶたかしつ藤原ふじわらけんみやびしつ徳子とくこ盛子もりこじゅう維俊きよしぼう藤原ふじわら隆房たかふさ正室せいしつかん
御子みこ姫君ひめぎみろう御方おかた
やしなえ兄弟きょうだいせいさだせいくに
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たいら ともたび(たいら の とものり)は、平安へいあん時代じだい後期こうき武将ぶしょう伊勢いせたいら平清盛たいらのきよもりなななん官位かんいしたがえじょう三河みかわまもる

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

清盛きよもりなななんとされるがはは不明ふめいうけたまわ3ねん1179ねん)、うけたまわ政変せいへんのち尾張おわりもりから、三河みかわまもるに遷る。よくうけたまわ4ねん1180ねん)、みなもと頼朝よりともつべく、おい維盛叔父おじちゅうとも大将軍だいしょうぐん一人ひとりとして東国とうごく下向げこうするが、富士川ふじかわたたか敗北はいぼくきっ帰京ききょうよくうけたまわ5ねん1181ねん)に参加さんかした墨俣すのまたがわたたかではみなもとこうらの軍勢ぐんぜい勝利しょうりおさめるが、寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)の倶利伽羅峠くりからとうげたたか参加さんかしたさい源義仲みなもとのよしなかぐん壊滅かいめつてき敗北はいぼくきっする。このさいは、みなもと親義ちかよし重義しげよし父子ふし交戦こうせんして相打あいうちとなり、戦死せんしげた(あるいは自刃じじんしたとも)。清盛きよもりつらなる平家ひらか一門いちもんにおいて最初さいしょ戦没せんぼつしゃである。ただし討死うちじにしたのはその直後ちょくご篠原しのはらたたかとするせつもある。

石川いしかわけん河北かほくぐん津幡つばたまちにはそのくびづかつたわる石碑せきひ現存げんそんする。なお、『系図けいず纂要』はその重義しげよしげるが、上述じょうじゅつ岡田おかだ重義しげよしちがえた誤謬ごびゅうとみられる。

画像がぞうしゅう[編集へんしゅう]

かんれき[編集へんしゅう]

時期じきしょう したがえじょう尾張おわりもり うけたまわさんねん 三河みかわまもる

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]