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二条天皇にじょうてんのう

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二条天皇にじょうてんのう
二条天皇にじょうてんのう

即位そくいれい 1159ねん1がつ11にちもと3ねん12月20にち
大嘗祭だいじょうさい 1160ねん1がつ3にち平治へいじ元年がんねん11月23にち
元号げんごう もと
平治へいじ
えいれき
おう
ちょうひろし
えいよろず
時代じだい 平安へいあん時代じだい
先代せんだい 後白河天皇ごしらかわてんのう
次代じだい ろくじょう天皇てんのう

誕生たんじょう 1143ねん7がつ31にち康治こうじ2ねん6月18にち
崩御ほうぎょ 1165ねん9月5にちえいよろず元年がんねん7がつ28にち
押小路おしこうじ東洞ひがしぼらいん
大喪たいそう 1165ねん9月13にちながまん元年がんねん8がつ7にち
りょうしょ こうたかしてらりょう
追号ついごう じょういん
二条天皇にじょうてんのう
いみな まもりひとし
元服げんぷく 1156ねん1がつ3にち久寿きゅうじゅ2ねん12月9にち
父親ちちおや 後白河天皇ごしらかわてんのう
母親ははおや みなもと懿子
中宮なかみや 姝子内親王ないしんのう
藤原ふじわら育子いくこ
子女しじょ ろくじょう天皇てんのう
僐子内親王ないしんのう
みことめぐみ法親王ほうしんのう
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二条天皇にじょうてんのう(にじょうてんのう、きゅう字体じたい二條天皇にじょうてんのう1143ねん7がつ31にち康治こうじ2ねん6月18にち〉- 1165ねん9月5にちえいよろず元年がんねん7がつ28にち〉)は、日本にっぽんだい78だい天皇てんのう在位ざいい: 1158ねん9月5にちもと3ねん8がつ11にち〉- 1165ねん8がつ3にちえいよろず元年がんねん6月25にち〉)。いみなまもりひとし(もりひと)。

後白河天皇ごしらかわてんのうだいいち皇子おうじははは、大炊おおい御門みかどけいむすめで、みなもとゆうひとし養女ようじょおく皇太后こうたいごう懿子

略歴りゃくれき

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まさひとし親王しんのう後白河天皇ごしらかわてんのう)の長男ちょうなんとしてまれる。生母せいぼ・懿子が出産しゅっさん直後ちょくご急死きゅうししたことで、祖父そふである鳥羽とば法皇ほうおうられ、そのきさき美福門院びふくもんいん養育よういくされた[注釈ちゅうしゃく 1]

近衛天皇このえてんのう即位そくいしており、おなじく美福門院びふくもんいん養子ようしとしてじゅうじん親王しんのうたかしとく上皇じょうこう長男ちょうなん)がいたために皇位こうい継承けいしょうのぞみはうすく、僧侶そうりょとなるために9さいさとしせい法親王ほうしんのうのいる仁和寺にんなじはいった[3]

そのまごおう二条天皇にじょうてんのう)は仏典ぶってんをよくみこなし「ちゑふかくおはしましけり」[4]評判ひょうばんになった。仁平にだいら3ねん1153ねん)9がつ近衛天皇このえてんのう重病じゅうびょうとなり、関白かんぱく藤原ふじわらただしどおり鳥羽とば法皇ほうおうに「まさひとし親王しんのういきわらわ」への譲位じょうい奏請そうせいした[5]鳥羽とば法皇ほうおうはこの提案ていあん幼主ようしゅ擁立ようりつしてせいけんせんらにしようとするちゅうどおり謀略ぼうりゃく看做みなし、ちゅうどおりちちである藤原ふじわら忠実ちゅうじつまさひとし親王しんのうだまっているはずがないと指摘してきして「関白かんぱくきょうへるか」と非難ひなんしている。まごおう擁立ようりつあん拒絶きょぜつされたが、このときからまごおう皇位こうい継承けいしょう候補者こうほしゃ一人ひとりとして浮上ふじょうすることになる[注釈ちゅうしゃく 2]

久寿きゅうじゅ2ねん1155ねん)7がつ23にち近衛天皇このえてんのう崩御ほうぎょする。後継こうけい天皇てんのうめる王者おうじゃ議定ぎてい参加さんかしたのは久我くがまさじょう三条さんじょうこうきょうで、いずれも美福門院びふくもんいん関係かんけいふか公卿くぎょうだった。候補こうほとしてはじゅうじん親王しんのうまごおう暲子内親王ないしんのうがったが、まごおう即位そくいするまでの中継なかつぎとして、ちちまさひとし親王しんのう立太子りったいししないまま29さい即位そくいすることになった(後白河天皇ごしらかわてんのう)。まごおうはまだ年少ねんしょうであり、存命ぞんめいちゅうである実父じっぷまさひとし親王しんのうえての即位そくい如何いかなものかとのこえがったためだった[注釈ちゅうしゃく 3]。8月4にち仁和寺にわじからもどったまごおうは、9月23にち親王しんのう宣下せんげこうむり「まもりじん」と命名めいめいされ即日そくじつ立太子りったいし、12月9にち元服げんぷく翌年よくねん3がつ5にちには美福門院びふくもんいん皇女おうじょ姝子内親王ないしんのうむかえるなど、美福門院びふくもんいん全面ぜんめんてき支援しえんけた。

もと3ねん1158ねん)8がつ11にち後白河天皇ごしらかわてんのうからの譲位じょういをうけ践祚せんそ。これは「ふつふつとの評定ひょうじょう[12]によるもので、美福門院びふくもんいん信西しんぜいつよ要求ようきゅうして実現じつげんしたものであった[注釈ちゅうしゃく 4]

二条天皇にじょうてんのうささえる勢力せいりょくとして、藤原ふじわらどおり美福門院びふくもんいん従兄弟いとこ)・大炊おおい御門みかどけいむねじょう生母せいぼ・懿子のおとうと)・しつおもんみかたじょう乳母うば俊子としこ)らが集結しゅうけつして、二条にじょうちかし政派せいは形成けいせいした。ここに、二条にじょうちかし政派せいは白河しらかわ院政いんせい対立たいりつはじまった。二条天皇にじょうてんのう美福門院びふくもんいんそだてられたこともあり、実父じっぷこう白河しらかわ上皇じょうこうとの関係かんけい冷淡れいたんなものであった。平治へいじ元年がんねん1159ねん)12月に平治へいじらんきた[注釈ちゅうしゃく 5]らん勃発ぼっぱつ直後ちょくごは、藤原ふじわら信頼しんらい政局せいきょく主導しゅどうするが、これをこころよおもわない三条さんじょうこうきょう親政しんせい反発はんぱつし、三条さんじょうこうきょうはからいにより平清盛たいらのきよもり親政しんせいみ、親政しんせい清盛きよもり策謀さくぼうにより二条天皇にじょうてんのう清盛きよもりろくてい行幸ぎょうこうする[注釈ちゅうしゃく 6]二条天皇にじょうてんのうろく行幸ぎょうこうによりそれまで官軍かんぐんだった信頼しんらいいち賊軍ぞくぐんとなり、天皇てんのううごかしたけいむねおもんみかたらと平清盛たいらのきよもり官軍かんぐん地位ちい獲得かくとくして勝利しょうりる。

らん終結しゅうけつした直後ちょくごの12月29にち美福門院びふくもんいんはちじょうてい行幸ぎょうこうし、よく正月しょうがつには太皇太后たいこうたいこう藤原ふじわら多子おいご入内じゅだいさせる(だいきさき)。『平家ひらか物語ものがたり』は多子おいご入内じゅだいじょうみかど独断どくだんとするが、後見こうけん美福門院びふくもんいん側近そっきん大炊おおい御門みかどけいむねしつおもんみかたがこのような重大じゅうだい問題もんだい関与かんよしなかったとはかんがえにくく、二条天皇にじょうてんのう立場たちばかためるための政略せいりゃくてき婚姻こんいん推測すいそくされる。しかし、3月にけいむねおもんみかたこう白河しらかわ上皇じょうこういのちにより配流はいるされて失脚しっきゃく、7がつには藤原ふじわら隆信たかのぶ藤原ふじわらみやびちょういん昇殿しょうでん停止ていし処分しょぶんけ、8がつには中宮ちゅうぐう・姝子内親王ないしんのうやまいにより出家しゅっけ[注釈ちゅうしゃく 7]、11月には後見こうけん美福門院びふくもんいん死去しきょするなどじょう親政しんせい要人ようじん次々つぎつぎえて、二条天皇にじょうてんのう立場たちば不安定ふあんていとなり白河しらかわ院政いんせい勢力せいりょく拡大かくだいした。表面ひょうめんてきには「いん内申ないしんあいツツどうしんニテ[17]というようにとう政治せいじおこなわれたが、両派りょうは対立たいりつふかく「上下じょうげおそれをののいてやすいしんなし、ただ深淵しんえんにのぞむで薄氷はくひょうをふむにおなじ」[18]という状況じょうきょうであった。

二条天皇にじょうてんのうたのみとしたのは、藤原ふじわらどおり平清盛たいらのきよもりだった。どおり太政大臣だじょうだいじんとしてじょう補佐ほさし、政道せいどう意見いけんしょだいえんじゅしょう』をあらわした。また乳母うば平時子たいらのときこしたがえさん典侍てんじにするとともに[19]時子ときこおっと清盛きよもり検非違使けびいし別当べっとう中納言ちゅうなごんにすることで軍事ぐんじてきうしたてとした。おう元年がんねん1161ねん)9がつこう白河しらかわ上皇じょうこう平滋子たいらのしげこあいだまれただいなな皇子おうじ高倉天皇たかくらてんのう)を皇太子こうたいしにしようとする陰謀いんぼう発覚はっかくすると、二条天皇にじょうてんのうこう白河しらかわいん近臣きんしん平時忠たいらのときただ平教盛たいらののりもり藤原ふじわらしげるおや坊門ぼうもん信隆のぶたかかいかんした。こう白河しらかわ上皇じょうこう政治せいじ介入かいにゅう停止ていしされ「主上しゅじょうじょういんことヲバ一向いっこうぎょうハセマイラセテ[17]という状況じょうきょうとなる。実権じっけん掌握しょうあくした二条天皇にじょうてんのうは、親政しんせい拠点きょてん押小路おしこうじ東洞ひがしぼらいん内裏だいりえて清盛きよもり警護けいごさせた。12月には美福門院びふくもんいん皇女おうじょ・暲子内親王ないしんのうはちじょういん院号いんごうあたえてじゅんははとなし、出家しゅっけしていた姝子内親王ないしんのうにも高松たかまついん院号いんごうあたえた。さらに、藤原ふじわらはじめ猶子ゆうし藤原ふじわら育子いくこ(むねこ、実父じっぷ徳大寺とくだいじ実能さねよしまた藤原ふじわらただしどおり)を中宮ちゅうぐうとして、関白かんぱく近衛このえはじめとも連携れんけいして摂関せっかんみずからのしたむことに成功せいこうした。おう2ねん(1162ねん)には叔父おじ大炊おおい御門みかどけいむね召還しょうかんする一方いっぽうみずからを呪詛じゅそした平時忠たいらのときただみなもとけん配流はいるするなど着々ちゃくちゃく政治せいじ基盤きばんかためていった。

二条天皇にじょうてんのう悪僧あくそう神人しんじん統制とうせいれい荘園しょうえん整理せいりなど、信西しんぜい政策せいさく踏襲とうしゅうして積極せっきょくてき政務せいむ展開てんかいする。政治せいじから排除はいじょされたのち白河しらかわ上皇じょうこう信仰しんこう世界せかいにのめりこみ、蓮華れんげおういん造営ぞうえいして供養くよう二条天皇にじょうてんのう行幸ぎょうこうてらへの功労こうろうしょうのぞんだが、天皇てんのうこばんだことからうらみをいたという[17]蓮華れんげおういんには荘園しょうえん所領しょりょう寄進きしんされ、二条天皇にじょうてんのうこう白河しらかわ上皇じょうこう院政いんせい復活ふっかつうごきに警戒けいかいしんいだくことになる。ちょうひろし3ねん1165ねん)2がつ太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらどおりくなり、みずからもやまいたおれた。6月には前年ぜんねんまれた実子じっしじゅんじん親王しんのうろくじょう天皇てんのう中宮ちゅうぐう育子いくこ養子ようし)の立太子りったいしおこなうとそののうちに譲位じょうい太上天皇だじょうてんのうとなるも、7がつ押小路おしこうじ東洞ひがしぼらいん崩御ほうぎょした。宝算ほうさん23。

人物じんぶつ

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  • すぐれた人物じんぶつで「すえけんおうにおはします」[4]賞賛しょうさんされ、愚昧ぐまいとされたちちこう白河しらかわ上皇じょうこうとは対照たいしょうてきだった。一方いっぽうで、上皇じょうこうとの対立たいりつ生涯しょうがいわたって解消かいしょうされることはなく、「孝道たかみちにはだいそむけけり」[20]という世評せひょうもあった。
  • 鳥羽とば院政いんせいした発生はっせいしたまちけんもんいん美福門院びふくもんいん対立たいりつは、皇位こうい継承けいしょうけん皇室こうしつりょう分裂ぶんれつ危機ききともなりかねない状況じょうきょうとなった。鳥羽とっぱいん美福門院びふくもんいん二条天皇にじょうてんのうまもりじん親王しんのう)には実父じっぷ後白河天皇ごしらかわてんのうつうじてまちけんもんいんけい所領しょりょう獲得かくとくし、である姝子内親王ないしんのうじゅんははである暲子内親王ないしんのうつうじて美福門院びふくもんいんけい所領しょりょう獲得かくとくすることで皇位こうい継承けいしょう皇室こうしつりょう二条天皇にじょうてんのうしたにまとめようとしたとかんがえられている。だが、姝子内親王ないしんのう婚姻こんいん関係かんけい破綻はたんちちであるのち白河しらかわ上皇じょうこうとの対立たいりつ、そしてなによりも二条天皇にじょうてんのう自身じしんはやすぎる崩御ほうぎょによって挫折ざせつしてわった。暲子内親王ないしんのうきゅうじょう親政しんせい二条天皇にじょうてんのう異母弟いぼていである以仁王もちひとおう後継こうけいとしてようしようとしたために皇室こうしつりょう一本いっぽん成功せいこうせず、暲子内親王ないしんのうゆかりのはちじょういんりょうとこれに対抗たいこうして発生はっせいしたのち白河しらかわ法皇ほうおうゆかりの長講ちょうこうどうりょうけられたまま、南北なんぼくあさ時代じだいにおける大覚寺だいかくじみつる持明院じみょういんみつる有力ゆうりょく財源ざいげんとなっていった[21]

系譜けいふ

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二条天皇にじょうてんのう系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. だい72だい 白河天皇しらかわてんのう
 
 
 
 
 
 
 
8. だい73だい 堀河ほりかわ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 藤原ふじわら賢子さとこ
 
 
 
 
 
 
 
4. だい74だい 鳥羽天皇とばてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 藤原ふじわら実季みき(=20,28)
 
 
 
 
 
 
 
9. 藤原ふじわら苡子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 藤原ふじわら睦子むつこ(=21,29)
 
 
 
 
 
 
 
2. だい77だい 後白河天皇ごしらかわてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 藤原ふじわら実季みき(=18,28)
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原ふじわらこう(=14)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 藤原ふじわら睦子むつこ(=19,29)
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原ふじわら璋子あきこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原ふじわらたかしかた(=30)
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原ふじわら光子みつこ(=15)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. だい78だい 二条天皇にじょうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原ふじわら頼通よりみち
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原ふじわら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 藤原ふじわら祇子
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原ふじわらけい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 藤原ふじわらはじめさだ
 
 
 
 
 
 
 
13. 藤原ふじわらはじめ貞女ていじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. みなもと懿子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 藤原ふじわら実季みき(=18,20)
 
 
 
 
 
 
 
14. 藤原ふじわらこう(=10)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 藤原ふじわら睦子むつこ(=19,21)
 
 
 
 
 
 
 
7. 藤原ふじわら公子きみこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. 藤原ふじわらたかしかた(=22)
 
 
 
 
 
 
 
15. 藤原ふじわら光子みつこ(=11)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図けいず

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77 後白河天皇ごしらかわてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
78 二条天皇にじょうてんのう
 
以仁王もちひとおう
 
80 高倉天皇たかくらてんのう
 
亮子あきこ内親王ないしんのう
いんとみもんいん
 
式子内親王しきしないしんのう
 
覲子内親王ないしんのう
せんもんいん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
79 ろくじょう天皇てんのう
 
ぼうおう
北陸ほくりくみや
 
81 安徳天皇あんとくてんのう
 
まもりさだ親王しんのう
高倉たかくらいん
 
82 後鳥羽ごとば天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
86 こう堀河ほりかわ天皇てんのう
 
83 土御門天皇つちみかどてんのう
 
84 順徳天皇じゅんとくてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
87 四条しじょう天皇てんのう
 
88 こう嵯峨天皇さがてんのう
 
85 仲恭天皇ちゅうきょうてんのう
 
ちゅうなりおう
岩倉いわくらみや
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃こうひ皇子おうじおんな

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在位ざいいちゅう元号げんごう

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りょう霊廟れいびょう

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こうたかしてらりょう

りょう(みささぎ)は、宮内庁くないちょうにより京都きょうと京都きょうときた平野八丁柳ひらのはっちょうやなぎまちにあるこうたかしてらりょう(こうりゅうじのみささぎ)に治定じじょうされている。宮内庁くないちょうじょう形式けいしきえんおか

ながまん元年がんねん(1165ねん)7がつ28にちじょういんさとだい崩御ほうぎょし、8がつ7にちこうたかしてらきた火葬かそうし、遺骨いこつ一時いちじこうたかし寺本てらもとどうぞうめた。のちじょういんうつして三昧ざんまいどうて、よしみただし2ねん(1236ねん)5がつ17にち遺骨いこつをこのどうぞうめた。中世ちゅうせい山陵さんりょう所在しょざいうしない、元禄げんろく年間ねんかんおこなわれたしょりょう探索たんさくさいにも定説ていせつなかった。江戸えど時代じだい初期しょき史家しか黒川くろかわ道祐どうゆうはその著書ちょしょ『雍州こころざし』のなかで「二条院陵在洛北船岡山北麓、りょうじょうゆう五輪ごりん石塔せきとう」としるしており、国学こくがくしゃまつ下見したみりん元禄げんろく9ねん(1696ねん)にあらわした『ぜんおうびょうりょう』もこれにしたがって「れきみかどりょうこう」で「愛宕あたごぐん舟岡ふなおかさんいぬい蓮台寺れんだいじ境内けいだい畑中はたなか古家ふるやあり、こう朱雀すざく堀河ほりかわじょうさんみかどなんけつ」としている。りょうじょう石塔せきとう九輪くりんとう手水ちょうずばち千利休せんのりきゅうつくったものとつたわるが、このことからも当時とうじ山陵さんりょう荒廃こうはいしていた様子ようすさっすることができる。幕末ばくまつおさむりょうさいにも決定けっていせず、りょう発見はっけん不能ふのうとして『ちゅう右記うき記載きさいによりこうじょうしたこうたかしてら旧址きゅうし中点ちゅうてん付近ふきんりょうぼくおさむりょうそとなしとして、明治めいじ22ねん(1889ねん)6がつ3にち裁可さいか治定じじょう)をもってびょうりょう造営ぞうえいされた。

なお今日きょう皇居こうきょでは、宮中きゅうちゅうさん殿どののひとつの皇霊こうれい殿どの歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞくとともに二条天皇にじょうてんのうれいまつられている。

関連かんれん作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ けんまごおう一院いちいんおさむやしなえせしめきゅうしょなり」[1]、「女院にょいん襁褓おしめ(むつき)のなかより養育よういくたてまつらる」[2]
  2. ^ この奏請そうせい直前ちょくぜん近衛天皇このえてんのう中宮ちゅうぐうちゅうどおり養女ようじょである藤原ふじわらてい懐妊かいにん兆候ちょうこうせていたが、結局けっきょく出産しゅっさんしなかった[6]橋本はしもと義彦よしひこは、てい出産しゅっさん絶望ぜつぼうてきになったことから、美福門院びふくもんいんちゅうどおりまごおう擁立ようりつけてうごしたとしている[7]河内かわうちさち輔は、ちゅうどおりがこの段階だんかいではてい再度さいど懐妊かいにん期待きたいし、てい所生しょせい即位そくいするまでの中継なかつぎとしてまごおう擁立ようりつはかったとしている[8]
  3. ^ やまえんじゅえいれき元年がんねん12がつ4にちじょうに「そんちちきながら、即位そくいれいなし」とある。『たま寿ことぶきひさし2ねん8がつ14にちじょうや『かんしょう』はこの発言はつげんをしたのはちゅうどおりとしている。『古事ふるごとだん』1-96にもちゅうどおりまさひとし擁立ようりつ進言しんげんしたとあるが、その理由りゆう正妃せいひまちけんもんいん所生しょせい皇子おうじであるためとしている。一方いっぽう、『やまえんじゅ』と『こんかがみ』ではちゅうどおりまさひとし擁立ようりつうごいたとはしるされていない。河内かわうちさち輔はちゅうどおりまごおうではなくまさひとしした理由りゆうを、近衛天皇このえてんのう崩御ほうぎょにより状況じょうきょう変化へんかしたためとする[8]橋本はしもと義彦よしひこは、2ねんまえまごおう擁立ようりつ奏請そうせいしたちゅうどおり前言ぜんげんひるがえしてまさひとし擁立ようりつ進言しんげんするのは不自然ふしぜんであり、まさひとし擁立ようりつ目指めざして鳥羽とば法皇ほうおう説得せっとくしたのは、まさひとし乳母うば藤原ふじわら朝子あさこ)のおっといん近臣きんしんなか主導しゅどうてき立場たちばにあった信西しんぜいではないかと推測すいそくしている[9]山田やまだ邦和くにかずは、信西しんぜいいん近臣きんしんなか台頭たいとうしたのはまさひとし擁立ようりつ結果けっかによるものであり、議定ぎてい当時とうじにはまだその政治せいじてき権力けんりょく存在そんざいしなかったとして、ちゅうどおりまさひとし擁立ようりつ主導しゅどうてき立場たちばにあったとする[10]佐伯さえき智広ともひろまさひとし擁立ようりつ鳥羽とば法皇ほうおう皇位こうい継承けいしょう構想こうそう一端いったんとみなし、その理由りゆうとして即位そくいしたまもりじん成人せいじんするまえ法皇ほうおう崩御ほうぎょした場合ばあい可能かのうせいしょうじるたかしとく上皇じょうこう院政いんせい阻止そしすることとまもりじんまちけんもんいんとその皇子おうじおんな所領しょりょうたいする相続そうぞくけんつづけるためにまさひとしとの父子ふし関係かんけい維持いじとそれにもとづく皇位こうい継承けいしょうようしたこととする。また、その結果けっか消滅しょうめつする美福門院びふくもんいんとの養子ようし縁組えんぐみ代替だいたいとして姝子内親王ないしんのうとの婚姻こんいんはちじょういんじゅんはは待遇たいぐう設定せっていされたとする[11]
  4. ^ もっとも、鳥羽とば法皇ほうおう遺命いめいにより二条天皇にじょうてんのう親政しんせい方策ほうさくまかされたのは信西しんぜいそのひとであり、平治へいじらん信西しんぜいころされたのは二条天皇にじょうてんのう親政しんせい阻止そしするためののち白河しらかわ上皇じょうこう命令めいれいであったとするせつもある[13]
  5. ^ 平治へいじ物語ものがたり』によると、二条天皇にじょうてんのう信頼しんらいらによって黒戸くろど御所ごしょ幽閉ゆうへいされたとあるが、『かんしょう』によると「とりまいらせ」という表現ひょうげんがあるだけで、これが身柄みがら拘束こうそく意味いみするわけでない。実際じっさいには通常つうじょうどお政務せいむおこなわれており、二条天皇にじょうてんのうとく身柄みがら拘束こうそくされていたわけではない[14]
  6. ^ 平治へいじ物語ものがたり』によると女房にょうぼうしゃなかのぞいた武士ぶしが、天皇てんのう女房にょうぼうあやまったとする。女性じょせいのような美貌びぼうった美男びなんだったという。一方いっぽう、『かんしょう』では女装じょそう記述きじゅつ一切いっさいなく、たんおんなしゃって行幸ぎょうこうされたとのみある。そのさい女房にょうぼう側近そっきんはたらきによりかがみ以外いがい神器じんぎ天皇てんのうまわりのしなおんなしゃせ、天皇てんのう地上ちじょうをじかにあるくことがいようにみじか敷物しきもの交互こうごいてくるままで案内あんないしたという記載きさいもある。また、『かんしょう』によると、「サリゲナシニテヤリシテケリ」とあり、だれからもあやしまれず、尋問じんもんけずに内裏だいりのちにしたことになる[15]
  7. ^ へいはんもと元年がんねん(1156ねん)3がつ5にちじょうには姝子内親王ないしんのうについて「ぜん斎院さいいん猶子ゆうし」という記述きじゅつがあり、彼女かのじょ統子もとこ内親王ないしんのう上西かみにしもんいんこう白河しらかわ同母どうぼあね)の猶子ゆうしだったことが確認かくにんできる。そのため、姝子内親王ないしんのうこう白河しらかわ院政いんせいぞくしている、という指摘してきもある[16]
  8. ^ 内裏だいり女房にょうぼう。『こんかがみ』むらかみの源氏げんじ 藻塩もしおけむり において「じょうのみかどの、ちかくさぶらひきゅうひてとくきみとかきこえきゅうひしはことのそとにときめききゅうふときこえきゅうひしかば、尚侍しょうじになりきゅうへりしにやありけん。ただまたとく殿しんがりなどもうすにや。よくもえうけきゅうはりさだめざりき」とある。尚侍しょうじへの任官にんかん叙位じょい確認かくにんできない。
  9. ^ 出自しゅつじについては、ろくじょう天皇てんのう項目こうもく参照さんしょう

出典しゅってん

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  1. ^ 本朝ほんちょう世紀せいき久安ひさやす5ねん6がつ24にちじょう
  2. ^ やまえんじゅえいれき元年がんねん12がつ4にちじょう
  3. ^ 本朝ほんちょう世紀せいき仁平にだいら元年がんねん10がつ14にちじょう
  4. ^ a b こんかがみだい3 122だん
  5. ^ たい仁平にだいら3ねん9がつ23にちじょう
  6. ^ たい』9がつ14にちじょう
  7. ^ もとらん前史ぜんししょうこう」『平安へいあん貴族きぞく社会しゃかい研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1976ねん
  8. ^ a b もとらん平治へいじらん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2002ねん
  9. ^ もとらん前史ぜんししょうこう」『平安へいあん貴族きぞく社会しゃかい研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1976ねん
  10. ^ もとらん関白かんぱくちゅうどおりおぼろたにひさし山中やまなかあきら へん平安京へいあんきょうとその時代じだい所収しょしゅう 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2009ねん
  11. ^ 鳥羽とば院政いんせい王家おうけ皇位こうい継承けいしょう」『中世ちゅうせい前期ぜんき政治せいじ構造こうぞう王家おうけ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2015ねん
  12. ^ へいはんもと3ねん8がつ4にちじょう
  13. ^ 河内かわうちさち輔『もとらん平治へいじらん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2002ねん
  14. ^ 元木もとき泰雄やすおもと平治へいじらんなおす』NHKブックス、河内かわうちさち輔『もとらん平治へいじらん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  15. ^ 元木もとき泰雄やすおもと平治へいじらんなおす』NHKブックス
  16. ^ 佐伯さえき智広ともひろじょう親政しんせい成立せいりつ」『日本にっぽん研究けんきゅう』505、2004ねん佐伯さえき中世ちゅうせい前期ぜんき政治せいじ構造こうぞう王家おうけ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2015ねん
  17. ^ a b c かんしょう
  18. ^ 平家ひらか物語ものがたり
  19. ^ やまえんじゅ
  20. ^ 源平げんぺい盛衰せいすい
  21. ^ 佐伯さえき智広ともひろ鳥羽とば院政いんせい王家おうけ皇位こうい継承けいしょう初出しょしゅつ:『日本にっぽん研究けんきゅう』598ごう(2012ねん)/所収しょしゅう:佐伯さえき中世ちゅうせい前期ぜんき政治せいじ構造こうぞう王家おうけ』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2015ねんISBN 978-4-13-026238-5

外部がいぶリンク

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