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藤原ふじわらいん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原ふじわら いん
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 延喜えんぎ20ねん6月2にち920ねん7がつ24にち
死没しぼつ 安和やすかず2ねん10月15にち969ねん11月27にち
別名べつめい 小一条こいちじょう左大臣さだいじん
官位かんい せい左大臣さだいじん
主君しゅくん 村上むらかみ天皇てんのう冷泉れいせん天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた小一条こいちじょうりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら忠平ちゅうへいははみなもと昭子あきこみなもとのうゆうむすめ
兄弟きょうだい じつよりゆき貴子たかこ寛子ひろこいん藤原ふじわらしょぼうしつ
やしなえ兄弟きょうだい忠君ちゅうくん
つま 正室せいしつ藤原ふじわら定方さだかたきゅうじょ
定時ていじすみ定昭さだあき芳子よしこ
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藤原ふじわら いん(ふじわら の もろただ、延喜えんぎ20ねん920ねん〉 - 安和やすかず2ねん969ねん〉)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき公卿くぎょう摂政せっしょう関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわら忠平ちゅうへいなん官位かんいせい左大臣さだいじん小一条こいちじょうりゅう

経歴けいれき

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朱雀すざくあさうけたまわひらた2ねん932ねん元服げんぷくしてしたがえ叙爵じょしゃくし、うけたまわひら5ねん935ねん侍従じじゅう任官にんかんする。うけたまわひら7ねん937ねんしたがえじょうひだり兵衛ひょうえにんぜられると、てんけい4ねん941ねんせい昇進しょうしんする。てんけい5ねん942ねんしたがえよんみぎちゅうべん叙任じょにんされ一時いちじ文官ぶんかん兼帯けんたいするが、てんけい7ねん944ねん蔵人くろうどあたまけんひだり近衛このえ中将ちゅうじょう補任ほにんされてべんかんはなれ、朱雀すざくちょうまつてんけい9ねん946ねん参議さんぎにんぜられ公卿くぎょうれつした。

てんけい9ねん946ねん村上むらかみ天皇てんのうだい嘗会ともな叙位じょいにてしたがえよんじょう昇叙しょうじょされると、てんれき2ねん948ねんあにふくうえ﨟の参議さんぎ5にん(ほかにみなもと兼明かねあきらばんたもつたいらみなもと庶明みなもとひとし)をえてしたがえさんけん中納言ちゅうなごんてんれき5ねん951ねん中納言ちゅうなごんてんれき10ねん956ねんせいさん順調じゅんちょう昇進しょうしんする。政官せいかんとしてひだり中将ちゅうじょうひだり兵衛ひょうえとく左衛門さえもんとく武官ぶかんねた。また、てんれき4ねん950ねんあに右大臣うだいじん藤原ふじわら外孫そとまごにあたるけんひら親王しんのう(のち冷泉れいせん天皇てんのう)が生後せいごまもなく春宮とうぐうつと、その春宮とうぐう大夫たいふねている。一方いっぽうで、いんむすめ芳子よしこ村上むらかみ天皇てんのう後宮こうきゅう入内じゅだいさせ、天徳てんとく2ねん958ねん芳子よしこ女御にょうご宣下せんげける。芳子よしこ容貌ようぼうすぐれて天皇てんのう寵愛ちょうあいふか昌平しょうへい親王しんのうえいひら親王しんのうりょう皇子おうじむが、いずれも病弱びょうじゃくであったため春宮とうぐうにはなれなかった。

そのも、てんれき11ねん957ねんみぎ近衛このえ大将たいしょう天徳てんとく4ねん960ねんけん大納言だいなごんかんたもつ3ねん966ねん大納言だいなごん昇進しょうしんかさねる。

かん4ねん967ねん村上むらかみ天皇てんのう崩御ほうぎょともなって冷泉れいせん天皇てんのう即位そくいすると、関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん長兄ちょうけい藤原ふじわらみのるよりゆき左大臣さだいじんみなもと高明こうめい右大臣うだいじんにはいんく。いんじつよりゆきはかって、高明こうめいむこにあたる年長ねんちょう為平親王ためひらしんのうはずしてもりひら親王しんのう春宮とうぐうて、いんはその東宮とうぐうでんとなる。安和やすかず2ねん969ねん)3がつ為平親王ためひらしんのうほうじて謀叛ぼうほんはかっているとの密告みっこくがあり左大臣さだいじんみなもと高明こうめい失脚しっきゃくした(安和あわへん)。いん高明こうめいわって左大臣さだいじんのぼるが、やく半年はんとしの10がつ15にち発音はつおん障害しょうがいともなやまいにより薨御した[1]享年きょうねん50。最終さいしゅう官位かんい左大臣さだいじんせい没後ぼつごせいいち贈位ぞういされた。

安和あわへん高明こうめい失脚しっきゃくはかったいんたくらみであったとされ、左大臣さだいじん昇任しょうにんいちねんもたたずにぼっしたことについて、世間せけんでは高明こうめいうらみによるものとうわさされた[2]

人物じんぶつ

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他人たにんへの対応たいおうについて親疎しんそ好悪こうおにより非常ひじょう区別くべつけ、いかにもくせのあるあつかいをした[3]。また「ごくメテはらあくじん[4]との記述きじゅつ今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうられる[5]故実こじつはんすることがあったさいには天皇てんのうたいしてでも反論はんろんをし退出たいしゅついとわないなど強硬きょうこう態度たいどをとり[6]、また業務ぎょうむおこたった国司こくしへの加階かかいさだめるさい一人ひとりのあるもの処罰しょばつもせずにしょうあたえるとはどういうことか」と主張しゅちょうする[7]など、異母いぼけいじつよりゆき生真面目きまじめ頑固がんこめんられる。

日記にっきに『小一条こいちじょう』があるが現在げんざい散逸さんいつし、『西宮にしのみやとう引用いんようされている逸文いつぶん確認かくにんできるのみである。

勅撰ちょくせん歌人かじんとして『こうせん和歌集わかしゅう』に3しゅ採録さいろくされている[8]

かんれき

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公卿くぎょう補任ほにん』による。

系譜けいふ

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子孫しそん小一条こいちじょう、その庶流に飛騨ひだこく国司こくしいえあね小路こうじがある。

登場とうじょう作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ こえしつびょう」『源平げんぺい盛衰せいすい
  2. ^ だいかがみだいかん,左大臣さだいじんいん
  3. ^ 栄花物語えいがものがたりまきだいいちがつうたげ
  4. ^ 非常ひじょう短気たんきである。
  5. ^ 今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまき19 だい9 小児しょうにやぶすずりさむらい出家しゅっけ だいきゅう
  6. ^ 西宮にしのみやつえ
  7. ^ 北山きたやましょう まきじゅう加階かかいごと
  8. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい
  9. ^ このとしの10がつは29にちまでで、30にち存在そんざいしない。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 竹鼻たけはな績「藤原ふじわらいんろん」『山梨県立女子短期大学やまなしけんりつじょしたんきだいがく紀要きようだい27ごう山梨県立女子短期大学やまなしけんりつじょしたんきだいがく、1994ねん3がつISSN 0385-0331 
  • 黒板こくばん勝美かつみ国史こくし大系たいけい編修へんしゅうかい へん公卿くぎょう補任ほにん だいいちへん吉川弘文館よしかわこうぶんかんしんてい増補ぞうほ国史こくし大系たいけい〉、1982ねん
  • 黒板こくばん勝美かつみ国史こくし大系たいけい編修へんしゅうかい へん尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく だいへん吉川弘文館よしかわこうぶんかんしんてい増補ぞうほ国史こくし大系たいけい〉、1987ねん

外部がいぶリンク

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官職かんしょく
先代せんだい
みなもと高明こうめい
左大臣さだいじん
969
次代じだい
藤原ふじわらざい
先代せんだい
みなもと高明こうめい
右大臣うだいじん
968 - 969
次代じだい
藤原ふじわらざい
先代せんだい
みなもと高明こうめい
陸奥むつ出羽でわ按察使
963 - 968
次代じだい
藤原ふじわら
先代せんだい
みなもと高明こうめい
ひだり近衛このえ大将たいしょう
969
次代じだい
藤原ふじわらいん
先代せんだい
藤原ふじわらあらわちゅう
みぎ近衛このえ大将たいしょう
957 - 969
次代じだい
藤原ふじわらいん
先代せんだい
みなもと高明こうめい
左衛門さえもんとく
953 - 957
次代じだい
藤原ふじわら
先代せんだい
みなもと庶明
ひだり兵衛ひょうえとく
947 - 953
次代じだい
みなもと庶明