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太政官だじょうかんごと

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

太政官だじょうかんごと(ちだいじょうかんじ)は、飛鳥あすか時代ときよ奈良なら時代じだい存在そんざいした律令制りつりょうせいれいそとかんのひとつ。太政官だじょうかん統括とうかつするものとして、刑部親王おさかべしんのう大宝たいほう3ねん)、穂積ほづみ親王しんのうけいくも2ねん)、舎人親王とねりしんのう養老ようろう4ねん)、鈴鹿すずかおう天平てんぺい9ねん)の4にん皇族こうぞく任命にんめいされた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

太政官だじょうかんごととは、文字もじどおり「太政官だじょうかんことる」、つまり太政官だじょうかん長官ちょうかんとして諸事しょじ統括とうかつする官職かんしょくである。最初さいしょ太政官だじょうかんごと任命にんめいされたのは、天武天皇てんむてんのう刑部親王おさかべしんのう忍壁皇子おさかべのみこで、ときに大宝たいほう3ねん703ねん)1がつのことである。当時とうじすでに大宝たいほうれい施行しこうされており、れい太政大臣だじょうだいじん官職かんしょく規定きていとして存在そんざいしていた以上いじょう太政大臣だじょうだいじん任命にんめいしてもよいところである。それをあえて太政官だじょうかんごとというれいそとかん設置せっちをもってえたのは、近江おうみれいしたでの太政大臣だじょうだいじんであった大友皇子おおとものおうじ飛鳥あすかきよしはられいしたでの太政大臣だじょうだいじんであった高市皇子たけちのおうじ存在そんざい前提ぜんていとして、両者りょうしゃがともに皇太子こうたいしないしそれにじゅんじる立場たちば天皇てんのう共同きょうどう統治とうちしゃ政務せいむ代行だいこうしゃとしての地位ちいにあったことから、太政大臣だじょうだいじん任命にんめい皇太子こうたいし指名しめい相当そうとうするものとの誤解ごかいあたえ、当時とうじ朝廷ちょうてい首脳しゅのうにより意図いとされていた草壁皇子くさかべのおうじ男系だんけい子孫しそんによる直系ちょっけいてき皇位こうい継承けいしょう不安定ふあんていすることをける配慮はいりょはたらいたものとかんがえられている。また、親王しんのう皇族こうぞくという出自しゅつじによって大臣だいじん任命にんめいされることが、律令りつりょう官制かんせい進展しんてんとも原則げんそくとして勤務きんむ評価ひょうかもとづいて官位かんいげて官僚かんりょう機構きこう最高さいこうである大臣だいじんいたるという、律令りつりょう官制かんせい理念りねんはんするとかんがえられるようになったという側面そくめんもあった[1]

経緯けいい[編集へんしゅう]

刑部親王おさかべしんのう太政官だじょうかんごと任命にんめいされた理由りゆうは、大宝たいほう律令りつりょう編纂へんさん主宰しゅさいするなど、当時とうじかれさい有力ゆうりょく皇族こうぞくとしておもんぜられていたことにある。しかし、大宝たいほう3ねん1がつというタイミングであえて任命にんめいされたのは、この直前ちょくぜん大宝たいほう2ねん702ねん)12月にもちすべ太上天皇だじょうてんのう崩御ほうぎょしたことが理由りゆうとして想定そうていされる。りから在位ざいいしていた文武ぶんぶ天皇てんのうは20さいであり、当時とうじ感覚かんかくではまだ天皇てんのうとしては若年じゃくねんであった。もちすべ天皇てんのう崩御ほうぎょによりしょうじた権力けんりょく真空しんくう状態じょうたいめるとともに、有力ゆうりょく皇族こうぞく天皇てんのう補佐ほさすることが必要ひつようかんがえられ、刑部親王おさかべしんのう任命にんめいいたったものである。

刑部親王おさかべしんのうけいくも2ねん705ねん)5がつ薨去こうきょした。太政官だじょうかんごと後任こうにんには、同年どうねん9がつおな天武天皇てんむてんのう皇子おうじ穂積ほづみ親王しんのう任命にんめいされた。かれ任命にんめいされた理由りゆうも、刑部親王おさかべしんのう同様どうよう当時とうじ生存せいぞんしていた天武天皇てんむてんのう皇子おうじのうちの年長ねんちょうしゃとしてのおもみによるものである。

和銅わどう8ねん715ねん)に穂積ほづみ親王しんのう薨去こうきょしたさいには、太政官だじょうかんごと後任こうにん補充ほじゅうされなかった。このときは、草壁くさかべりゅう皇統こうとう直系ちょっけい後継こうけいしゃであるくび皇子おうじ聖武天皇しょうむてんのう)が皇太子こうたいし地位ちいにあり、その成長せいちょうつかたちで祖母そぼ元明もとあき天皇てんのう在位ざいいしていたこと、さらに皇太子こうたいし外祖父がいそふであり岳父がくふでもある藤原不比等ふじわらのふひとがすでに右大臣うだいじんとなっており、将来しょうらい太政大臣だじょうだいじんにふさわしい人材じんざいとしておもきをなしていたことから、太政官だじょうかんごと設置せっち不要ふようとみなされた。

ところが、養老ようろう4ねん720ねん)8がつとう右大臣うだいじんのまま死去しきょした。これをけて同月どうげつ、やはり天武天皇てんむてんのう皇子おうじである舎人親王とねりしんのう太政官だじょうかんごと任命にんめいされた。同時どうじに、中央ちゅうおう政府せいふ直属ちょくぞく軍隊ぐんたいぜん指揮しきけん掌握しょうあくする五衛及授刀舎人事という名称めいしょう臨時りんじ官職かんしょく設置せっちされ、おなじく天武天皇てんむてんのう皇子おうじしん田部たなべ親王しんのう任命にんめいされている。とう死去しきょ朝廷ちょうていあたえた衝撃しょうげき緊張きんちょうおおきさを物語ものがたる。翌年よくねん1がつには、高市皇子たけちのおうじであり、天武天皇てんむてんのう皇孫こうそん世代せだいではさい有力ゆうりょく皇族こうぞくである長屋王ながやおうとう後任こうにん右大臣うだいじん任命にんめいされ、さらに太政官だじょうかん補強ほきょうおこなわれている。

舎人親王とねりしんのう天平てんぺい7ねん735ねん)11月に薨去こうきょし、ふたたび太政官だじょうかんごと空席くうせきとなった。聖武天皇しょうむてんのうは35さい壮年そうねんであり、もはや太政官だじょうかんごと不要ふようであったからである。しかし、わずか2ねん天平てんぴょう9ねん737ねん)9がつ高市皇子たけちのおうじ長屋王ながやおうおとうとである鈴鹿すずかおう太政官だじょうかんごと任命にんめいされる。これはこのとしりから流行りゅうこうしていた疫病えきびょうにより、左大臣さだいじん藤原ふじわら武智たけち麻呂まろ中納言ちゅうなごん多治比たじひけんもり参議さんぎ藤原ふじわら房前ふさざき参議さんぎ藤原ふじわら宇合参議さんぎ藤原ふじわら麻呂まろ相次あいついで薨去こうきょし、太政官だじょうかん構成こうせいするメンバーがほぼ壊滅かいめつするという非常ひじょう事態じたい対応たいおうするためであった。また、それまで親王しんのうにんじられてきた太政官だじょうかんごと天皇てんのうまごすでかんじんとしてしたがえさん参議さんぎ地位ちいにあった鈴鹿すずかおう任命にんめいされたのも異例いれいであった。こののち鈴鹿すずかおう天平てんぴょう9ねん(737ねん)に登用とうようされて太政官だじょうかん首班しゅはんとなった橘諸兄たちばなのもろえ勢力せいりょくと、とうまご世代せだい藤原ふじわら勢力せいりょくとのバランサーの役割やくわりえんじ、天平てんぴょう17ねん745ねん)9がつに薨御した。

終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

鈴鹿すずかおう没後ぼつご太政官だじょうかんごと任命にんめい最終さいしゅうてき途絶とだえた。鈴木すずき琢郎たくろうは、鈴鹿すずかおう在任ざいにんちゅう右大臣うだいじんである橘諸兄たちばなのもろえ位階いかい逆転ぎゃくてんされたことや、諸兄しょけい天皇てんのうみことのりさいほうじて単独たんどく政務せいむ執行しっこうする権限けんげん後世こうせいうえきょうによるうえせん原型げんけい)がみとめられて、すべての政治せいじてき決定けってい太政官だじょうかんにおける合議ごうぎ原則げんそくくずれたことで、太政官だじょうかんごと政治せいじてき立場たちば存在そんざい意義いぎ低下ていかしたこと[2]くわえて天皇てんのう血縁けつえんてきむすびついた藤原ふじわら大臣だいじん太政官だじょうかんごと本来ほんらい期待きたいされていた天皇てんのう輔弼ほひつ後見こうけんおこなうようになったことで、発展はってんてき解消かいしょうげたとしている[3]

しかし、やく200ねん編纂へんさんされた『延喜えんぎしき』には、親王しんのう太政官だじょうかんごと任命にんめいされたさいには右大臣うだいじんじゅんじてろくあたえるむね規定きていがある。ろくは、びている官職かんしょく官位かんい相当そうとうおうじて、位階いかい基準きじゅんにしてあたえられる俸給ほうきゅうであるが、官位かんい相当そうとうのない太政官だじょうかんごとにはろくあたえることができないことからもうけられた規定きていである。この規定きていはもともとけいくも3ねん706ねん)にさだめられたものであるが、この規定きていが『延喜えんぎしき編纂へんさんさいしてのこされたことから、その時点じてんでも将来しょうらい太政官だじょうかんごと復活ふっかつする可能かのうせいがゼロではないとかんがえられていたことがうかがえる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 鈴木すずき、2018ねん、P201.
  2. ^ 鈴木すずき太政官だじょうかんごと位置付いちづけについて、元々もともと太政大臣だじょうだいじんじゅんじてそのしたかれていたものが、鈴鹿すずかおう時代じだい左右さゆうりょう大臣だいじんじゅんじてそのしたげられたとみる。
  3. ^ 鈴木すずき、2018ねん、pp187 - 188・194 - 195.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]