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かみすめらぎ正統せいとう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

かみすめらぎ正統せいとう』(じんのうしょうとうき)は、南北なんぼくあさ時代じだい南朝なんちょう公卿くぎょう北畠きたばたけ親房ちかふさあらわした歴史れきししょ神代かみしろからのべもと4ねん/こよみおう2ねん8がつ15にち1339ねん9月18にち)の後村上天皇ごむらかみてんのう践祚せんそまでをく。奥書おくがきによれば、「ある童蒙どうもう」という人物じんぶつのために、ろうふでせて、のべもと4ねん/こよみおう2ねん1339ねんあき初稿しょこう執筆しっぴつされ、興国こうこく4ねん/かんひさし2ねん1343ねん)7がつ修訂しゅうていわったという[1]慈円じえんの『かんしょう』と双璧そうへきす、中世ちゅうせい日本にっぽんもっと重要じゅうよう歴史れきししょ[2]、または文明ぶんめい史論しろんしょ神道しんとうしょ政治せいじ実践じっせんしょ政治せいじ哲学てつがくしょひょうされる[3]。『だい日本にっぽん』を編纂へんさんした徳川とくがわ光圀みつくに筆頭ひっとうに、山鹿やまが素行そこう新井あらい白石はくせきよりゆき山陽さんよう後世こうせい代表だいひょうてき歴史れきし思想家しそうかに、きわめておおきな影響えいきょうあたえた[2]

歴史れきししょとしての内容ないよう

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概要がいよう

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はじめに序論じょろんき、神代かみよ地神ちじんについてしるしている。つづいて歴代れきだい天皇てんのう事績じせき後村上天皇ごむらかみてんのうだいまでのべている。つてほんによりこれを上中かみなかしたまたは天地人てんちじんの3かんにわけている。その場合ばあい序論じょろんからせん天皇てんのうまで・欽明天皇てんのうから堀河ほりかわいんまで・鳥羽とっぱいんから後村上天皇ごむらかみてんのうまで、と区分くぶんしている。

神代かみしろから後村上天皇ごむらかみてんのう即位そくい後醍醐天皇ごだいごてんのう崩御ほうぎょを「」にしたという)までが、天皇てんのうだいごとしるされる。そして、その史的してき著述ちょじゅつあいだに、哲学てつがく倫理りんり宗教しゅうきょう思想しそうならんで著者ちょしゃ政治せいじかんまれている[4]

北畠きたばたけ親房ちかふさ常陸ひたちこく籠城ろうじょうせんひろげていた時期じき執筆しっぴつがなされており、手元てもとにあるわずかな資料しりょうだけを参照さんしょうしていているため、(当時とうじられていた)歴史れきしてき事実じじつかんしての間違まちがいも散見さんけんされる[注釈ちゅうしゃく 1]

承久じょうきゅうらん

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承久じょうきゅうらんについて、かみすめらぎ正統せいとうにはつぎのようにしるされている。

みなもと頼朝よりとも勲功くんこう抜群ばつぐんだが、天下てんかにぎったのは朝廷ちょうていかられば面白おもしろくないことであろう。ましてや、頼朝よりともつま北条ほうじょう政子まさこ陪臣ばいしん北条ほうじょうよしときがそのけたので、これらを排除はいじょしようというのは理由りゆうのないことではない。しかし、天下てんかみだれをたいらげ、皇室こうしつうれいをなくし、万民ばんみんやすんじたのは頼朝よりともであり、じつあさんだからといって鎌倉かまくら幕府ばくふたおそうとするならば、かれらにまさる善政ぜんせいがなければならない。また、王者おうじゃ覇者はしゃでない)のたたかいは、つみあるものつみなきしゃほろぼさないものである。頼朝よりともたか官位かんいのぼり、守護しゅご設置せっちみとめられたのは、こう白河しらかわ法皇ほうおう意思いしであり、頼朝よりとも勝手かってぬすんだものではない。人望じんぼうそむかなかった。陪臣ばいしんである天下てんかったからという理由りゆうだけでこれを討伐とうばつするのは、後鳥羽ごとばがある。謀反むほんこした朝敵ちょうてきたのとはくらべられない。したがって、幕府ばくふたおすにはじゅくしておらず、てんゆるさなかったことはうたがいない。しかし、臣下しんかうえつのは最大さいだい非道ひどうである。最終さいしゅうてきにはすめらぎふくするべきである。まずしん徳政とくせいおこない、あさて、つだけのみちがあって、そのうえつべきであった。もしくは、天下てんか情勢じょうせいをよくて、たたかいをこすかどうかを天命てんめいまかせ、人望じんぼうしたがうべきであった。結局けっきょく皇位こうい後鳥羽ごとば子孫しそんこう嵯峨天皇さがてんのう)につたえられ、後鳥羽ごとば本意ほんい達成たっせいされなかったわけではないが、朝廷ちょうてい一旦いったん没落ぼつらくしたのは口惜くやしい。 — 「廃帝はいてい」より[注釈ちゅうしゃく 2]

写本しゃほん

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はつ稿本こうほん修訂しゅうていほんともに原本げんぽん現存げんそんしない[2]

平田ひらた俊春としはるによれば、はつ稿本こうほん系統けいとうでは、宮地みやじおさむくに所蔵しょぞうほん(1さつ残欠ざんけつ)が比較的ひかくてきはやく、これをもとにりゅうもん文庫ぶんこぞうおもねかたなほん(1さつ残欠ざんけつ)のようなかたち成立せいりつしたと[2]

修訂しゅうていほん系統けいとうでは、白山はくさん咩神しゃほん(4さつえいとおる10ねん1438ねんうつし)が現存げんそん最古さいこである[2]

ある童蒙どうもう

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かみすめらぎ正統せいとう』のうち、「白山はくさんほん」など主要しゅよう底本ていほんにある奥書おくがきには、「ある童蒙どうもう」のためにろうふでせてかれたとしるされている[5]。この「ある童蒙どうもう」とはだれなのか、そもそもその内容ないよう鵜呑うのみにしてよいのか、とったてん議論ぎろんあらそわれており、決着けっちゃくいていない[5]詳細しょうさい#『かみすめらぎ正統せいとう』とはなにかくせつ参照さんしょう

かみすめらぎ正統せいとう』とはなに

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だれけて、なにのためにかれたのかは確定かくていしていない[6]

もっと有力ゆうりょくせつ幼少ようしょう後村上天皇ごむらかみてんのう帝王ていおうがくいた教育きょういくしょであるというせつである。に、東国とうごく武士ぶし南朝なんちょう勧誘かんゆうするためとするせつ親房ちかふさ自身じしんのために正義せいぎろんについて真摯しんし思索しさくした哲学てつがくしょであるというせつがある。

主要しゅようせつ

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後村上天皇ごむらかみてんのうへの帝王ていおうがくしょせつ

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かみすめらぎ正統せいとう』の執筆しっぴつ目的もくてきとして比較的ひかくてき有力ゆうりょくなのは、初稿しょこう執筆しっぴつ12さいだった後村上天皇ごむらかみてんのう英明えいめい君主くんしゅとして教育きょういくするための、帝王ていおうがくしょだったとするせつである[7]おもに『えきけい』(しゅうえき)および『孟子もうし』からの影響えいきょうられ、「南朝なんちょう正統せいとうせい主張しゅちょうした」などという素朴そぼく国粋こくすい主義しゅぎではなく、「とくがない君主くんしゅ皇統こうとう断絶だんぜつしてべつ皇統こうとう正統せいとううつる」というきびしい理論りろんうしろむらじょうきつけたもので、易姓革命えきせいかくめいろんならぬ「えきけい革命かくめいろんともうことができる。自身じしん皇統こうとう正統せいとうでありつづけるために、自己じこ修養しゅうようおろかにせず、よくててみんのためにくすように訓戒くんかいしたものであるという。

このせつはもともと江戸えど時代じだいから存在そんざいしたが、そのときつて親房ちかふさ奥書おくがきられていなかったため、「ある童蒙どうもう」とは関連付かんれんづけられていなかった[1]奥書おくがきられるようになると、「ある童蒙どうもう」は後村上天皇ごむらかみてんのうすと解釈かいしゃくされるようになった[1]

ところが、その松本まつもと新八しんぱちろうによって、親房ちかふさ主君しゅくん童蒙どうもうつまり「おろかなども」とぶことはかんがえにくい、として#東国とうごく武士ぶしへの勧誘かんゆうしょせつとなえられた[8]

これにたいし、我妻あづま建治けんじは、『えきけい』のこうむおよびろくの爻辞をもちい、「えき」によればここで童蒙どうもうは「君主くんしゅ」のであり、まさしく後村上天皇ごむらかみてんのうす、と反論はんろんした[8]我妻あづまによれば、『かみすめらぎ正統せいとう』はとくによる「せい」のながれを説明せつめいするものであるという[9][10]。つまり、皇統こうとう継承けいしょう断絶だんぜつ、および皇室こうしつかぎらず家系かけい興亡こうぼうは、「正道せいどう」「有徳うとく」「積善せきぜん」があるかどうかにっているという[11]。この思想しそうは、おもに『しゅうえき』と『孟子もうし』からの影響えいきょうおおいとられるが[3][12]、そのほかにも『大学だいがく』『中庸ちゅうよう』や大乗だいじょう仏教ぶっきょうの「自利じり利他りた思想しそうなどの影響えいきょうもあるという[13]。また、親房ちかふさ君主くんしゅ条件じょうけんとしてまず三種さんしゅ神器じんぎ保有ほゆう皇位こうい必要ひつよう不可欠ふかけつ条件じょうけんとしているのは著名ちょめいである[注釈ちゅうしゃく 3]我妻あづまによれば、これはたん物質ぶっしつてきたっとんだのではなく、それぞれの神器じんぎさん達徳たつのり対応たいおうさせて意味いみとらえた、思想しそうてき象徴しょうちょうとしての根拠こんきょおもであるという[14]親房ちかふさ自身じしん思想しそうきわめて率直そっちょくだった[15]。たとえば、総合そうごう評価ひょうかでは最大さいだい名君めいくんとする後醍醐天皇ごだいごてんのうであっても、その政策せいさくぜん肯定こうていするわけではなく、部分ぶぶんてきには痛烈つうれつ批判ひはん対象たいしょうとした[15]ぎゃくに、相手あいてがたとえ武家ぶけであったとしても、ただしい政治せいじおこなったものは評価ひょうかした[16]承久じょうきゅうらんこした後鳥羽上皇ごとばじょうこう非難ひなんされ、ぎゃく官軍かんぐん討伐とうばつした北条ほうじょうよしときとその北条ほうじょうやすしときのその善政ぜんせいによる社会しゃかい安定あんてい評価ひょうかして、「てんあきら大神おおがみ意思いし忠実ちゅうじつだったのはたいである」という論理ろんり展開てんかいをした[16]。これも徳治とくじ重視じゅうしする親房ちかふさかられば、せいなのである[16][注釈ちゅうしゃく 4]

平田ひらた俊春としはるは、我妻あづまえきけいせつへの反論はんろんこころみ、平安へいあん時代じだい用例ようれいさがした[17]。そして、藤原ふじわらよりゆきちょうたい』で、久安ひさやす元年がんねん1145ねん)4がつ25にちしょう内記ないきもりこう当時とうじ7さい近衛天皇このえてんのう宣命せんみょうに、天皇てんのうあらわかたりとして「童蒙どうもう」をもちいたところ、よりゆきちょうが『しゅうえき』によれば妥当だとうではない、として「ようよわい」となおさせたという、我妻あづませつへの有力ゆうりょく反論はんろん発見はっけんした[17]。ところがその一方いっぽうで、久安ひさやす5ねん1149ねん)にだい内記ないき藤原ふじわら長光ちょうこう作成さくせいした宣命せんみょうでは、「童蒙どうもう」が天皇てんのうかたりとして使つかわれていた[17]童蒙どうもう天皇てんのうを、よりゆきちょう不可ふかだとしたが、長光ちょうこうだとしたのである[17]結果けっかよりゆきちょう長光ながみつ解釈かいしゃくをどうすればよいのか、我妻あづませつへどのようにもちいればよいのかはっきりとわからず、平田ひらた結論けつろんけた[17]

窪田くぼた高明こうめいは、平安へいあん時代じだいれいは、宣命せんみょう、つまり形式けいしきじょう天皇てんのう言葉ことばであるから、天皇てんのう自分じぶん謙遜けんそんする自称じしょうを、家臣かしんがどこまで代筆だいひつしていてよいのかわからないから問題もんだいになるのであって、親房ちかふさのようにあきらかに他称たしょうとして「童蒙どうもう」とぶのはかんがえにくいのではないか、として童蒙どうもう後村上天皇ごむらかみてんのうせつ疑問ぎもんした[18]

岡野おかの友彦ともひこは、我妻あづましゅうえきせつ支持しじし、やはり後村上天皇ごむらかみてんのう名君めいくんそだてるための帝王ていおうがくしょであろうとしている[7]岡野おかのによれば、「正統せいとう」とは「南朝なんちょう絶対ぜったいただしい」といったような素朴そぼく楽観らっかんてき南朝なんちょう正統せいとうろんとは、まったくかけはなれているという[7]親房ちかふさは、『孟子もうし』の易姓革命えきせいかくめい思想しそう影響えいきょうけており、易姓革命えきせいかくめい思想しそうのうち天皇てんのう天皇てんのう以外いがい人間にんげんわたるかもしれないという部分ぶぶん拒絶きょぜつしたものの、君主くんしゅとくによって、天皇てんのう内部ないぶ皇統こうとうあいだで「正統せいとう」が移動いどうすることはみとめており、『かみすめらぎ正統せいとう』はいわば「皇統こうとうない革命かくめい」あるいは「えきけい革命かくめい」という思想しそうしめしたしょであるという[7]。そして、親房ちかふさはまだおさな後村上天皇ごむらかみてんのうたいし、自分じぶんよくててみんのためにくさねば、たとえただしい血筋ちすじ三種さんしゅ神器じんぎそなえた天皇てんのうであっても、帝位ていいうしな可能かのうせいがあり、北朝ほくちょうなどべつ皇統こうとう敗北はいぼく自身じしん皇統こうとう断絶だんぜつする可能かのうせいつねにある、ときびしい現実げんじつきつけたのだという[7]。ところが、親房ちかふさ儒学じゅがく思想しそう自体じたい後世こうせいおおきく普及ふきゅうしたのに、その一方いっぽう結果けっかろんとして南朝なんちょう内乱ないらん事実じじつじょう敗北はいぼくして断絶だんぜつしてしまったため、江戸えど時代じだい前期ぜんきには新井あらい白石はくせきの『読史どくしあまりろん』で、南朝なんちょう断絶だんぜつしたのは南朝なんちょう君主くんしゅ不徳ふとくだったからだ、と、敗者はいしゃ悪玉あくだまろんろんじられるなど、皮肉ひにく結果けっかになってしまった、という[7]

東国とうごく武士ぶしへの勧誘かんゆうしょせつ

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結城ゆうき親朝ちかとも代表だいひょうとする東国とうごく武士ぶしたちを南朝なんちょう勧誘かんゆうするためのしょとしてかれたとするせつである[7]武士ぶしにもわかりやすいよう、日本にっぽん歴史れきし既存きそん歴史れきししょよりも簡単かんたんき、結城ゆうき宗広むねひろ親朝ちかともちち)や結城ゆうき親光ちかみつ親朝ちかともおとうと)の南朝なんちょうへの忠誠ちゅうせいしんめることで、親朝ちかともらをもうとしたとする。20世紀せいき後半こうはん一時期いちじき通説つうせつちかかったが、その支持しじはややちている。

1965ねん松本まつもと新八しんぱちろうは、北畠きたばたけ親房ちかふさ主君しゅくんである後村上天皇ごむらかみてんのうを「ある童蒙どうもう」=「あるおろかなども」とぶことはかんがえにくい、と反論はんろんした[19]。そして、「童蒙どうもう」とは結城ゆうき親朝ちかとものことであり、最期さいごまで南朝なんちょうのためにたたかった結城ゆうき宗広むねひろ親朝ちかともちち)や結城ゆうき親光ちかみつ親朝ちかともおとうと)の忠誠ちゅうせいしんを『かみすめらぎ正統せいとう』でたたえることで、親朝ちかとも南朝なんちょうがわれようとしたのではないか、ととなえた[19]

このせつ当時とうじ佐藤さとう進一しんいち永原ながはらけいら、日本にっぽん研究けんきゅうにおける代表だいひょうてき研究けんきゅうしゃからも支持しじされたため、ほぼ通説つうせつちか地位ちいめていたころもあった[19]。しかし、#後村上天皇ごむらかみてんのうへの帝王ていおうがくしょせつべたように、我妻あづま建治けんじが『しゅうえき』によって童蒙どうもう君主くんしゅせつとなえてから、全盛期ぜんせいきくらべて支持しじされるいきおいはおとろえた[19]

坂本さかもと太郎たろうもまた、親朝ちかともは「童蒙どうもう」とばれるような年齢ねんれいではないし、たしかに『かみすめらぎ正統せいとう』は漢字かんじかなじりでかれており、分量ぶんりょう表記ひょうき記述きじゅつすべてで、『日本書紀にほんしょき』などそれまでにあった歴史れきししょよりははるかにみやすいものの、はたして武士ぶしたちへの勧誘かんゆう手段しゅだんとして有効ゆうこうかどうかは疑問ぎもんである、と勧誘かんゆうしょせつ否定ひていした[18]

窪田くぼた高明こうめいも、この時期じき親房ちかふさおやあさてた書簡しょかんとして『関城せきじょうしょ』があるが、『関城せきじょうしょ』と『かみすめらぎ正統せいとう』では親房ちかふさ姿勢しせいまったちがい、どういち著者ちょしゃどういち対象たいしょうしゃどう時期じきおくったものとはかんがえにくい、と疑問ぎもんした[20]

自己じことの対話たいわせつ

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ぜん」「正統せいとう」という哲学てつがくてき命題めいだいを、親房ちかふさ自身じしんいかけた哲学てつがくしょであるというせつである。静的せいてき現在げんざいぜんは、儒学じゅがく有徳うとく君主くんしゅろんによって保証ほしょうすることができる。過去かこから現在げんざいへのぜん持続じぞくは、てんあきら大神おおがみかみみことのり三種さんしゅ神器じんぎなどの神道しんとう論理ろんりによって保証ほしょうすることができる。しかし、現在げんざいから未来みらいへの方向ほうこう動的どうてきいままさにつぎ時間じかんながれに持続じぞくしている現在げんざいぜんは、本質ほんしつてき行動こうどう要請ようせいするものであり、言葉ことば文字もじによってすべてを表現ひょうげんすることはできない。『かみすめらぎ正統せいとう』の内容ないようれがあるのは、このためである。そして、親房ちかふささいいたるまで苦闘くとうつづけたのは、『かみすめらぎ正統せいとう』ではあらわすことができなかった摂理せつり行動こうどうによってしめすためであり、北畠きたばたけ親房ちかふさという人間にんげん生涯しょうがいそのものが、ひとつのきた哲学てつがくしょなのであるという。

かみすめらぎ正統せいとう』を、正義せいぎろんについて真摯しんし思索しさくした哲学てつがくしょなす傾向けいこうは、政治せいじがく研究けんきゅうしゃである丸山まるやま真男まさおによっておぼろげながら提示ていじされた[21]丸山まるやま1942ねん執筆しっぴつ依頼いらいされて、「『かみすめらぎ正統せいとう』にあらわれたる政治せいじかん」(『日本にっぽんがく研究けんきゅう所収しょしゅう)という論文ろんぶんあらわしたが、皇国こうこく史観しかんただしい歴史れきしがくとされた戦時せんじちゅう論文ろんぶんであるため、皇国こうこく史観しかんとはちが自身じしん思想しそう率直そっちょくしすぎて周囲しゅういから危険きけんされないように、注意深ちゅういぶかかれており、またそれとはべつ丸山まるやま自身じしん思想しそうかたまっていなかったとられるため、ややわかりにくいところがある[21]

丸山まるやま論文ろんぶん特異とくいなのは、伝統でんとうてきな『かみすめらぎ正統せいとうひょうかならろんじられる「せい」「正統せいとう」といった概念がいねんにはほとんど言及げんきゅうせず、『かみすめらぎ正統せいとう』を「行動こうどうしょ」と位置付いちづけているところである[21]。そして、本書ほんしょを「平板へいばんてきな「概論がいろん」」ではなく、「実践じっせんてき意欲いよくから動態どうたいてき理解りかいされ」るべき政治せいじろんであるとしている[21]たしかに、北畠きたばたけ親房ちかふさ政治せいじてき実践じっせんは、後世こうせいから結果けっかろんとしてれば失敗しっぱいだった[21]。しかし、ひとつの理論りろん提示ていじし、そしてその内面ないめんせいしたがってみずか主体しゅたいてき行動こうどうした思想家しそうかとしての親房ちかふさは、たか評価ひょうかすることができる、という[21]。また、丸山まるやま論理ろんり筋道すじみちしたがえば、親房ちかふさは「正直しょうじき」(心情しんじょう倫理りんり)と「やすみん」(責任せきにん倫理りんり)を混同こんどうしているため、『かみすめらぎ正統せいとう』は客観きゃっかんてき思想しそうしょとはなっておらず、むしろそこにこそ、主体しゅたいてき思想しそうしょとしての価値かちがあるのだという[21]

その佐藤さとう正英まさひで主体性しゅたいせい正統せいとう関連付かんれんづけて考察こうさつした[22]佐藤さとうは、「永遠えいえん」と「無窮むきゅう」をべつのものとし、「永遠えいえん」は「時間じかんながれを超越ちょうえつする」もので、「無窮むきゅう」は「時間じかん現前げんぜんとして現在げんざい持続じぞくすること」であるという[22]。そして、「正統せいとう」の時間じかん意識いしきは、「永遠えいえん」ではなく「無窮むきゅう」のほうである[22]。つまり、正統せいとう持続じぞく保証ほしょうするのではなく、そのぎゃくに、持続じぞく正統せいとうしめすのであるという[22]。『かみすめらぎ正統せいとう』が儒学じゅがく有徳うとく君主くんしゅろんちかづくのはそのためであるが、その本質ほんしつには、「現在げんざい主体しゅたい行為こういが「正統せいとう」の持続じぞくす」という思想しそうがあるのだという[22]

窪田くぼた高明こうめいは、丸山まるやま佐藤さとうせつ補強ほきょうし、『かみすめらぎ正統せいとう』は「ぜんとはなにか」「そしてそれをいかに実践じっせんすべきか」をもとめて、自己じことの対話たいわおこなった哲学てつがくしょであるとした[23]。その論拠ろんきょとして、『かみすめらぎ正統せいとう』には君主くんしゅたいして政治せいじ心構こころがまえをくことをべたぶんつぎに、唐突とうとつに、人臣じんしんがわわきまえをかたぶんつづくなど、対象たいしょうてんさんてんしていることがげられる[24]おやぼうほどの学者がくしゃ著作ちょさくがこれを意識いしきしていないわけがなく、だれたいしていたのか一貫いっかんした解釈かいしゃくができないということは、つまりだれたいしていたのでもなく、自問自答じもんじとうおこなった哲学てつがくしょであると解釈かいしゃくするのが妥当だとうであるという[23]奥書おくがきの「ある童蒙どうもう」についてはとくふか意味いみはなく、そのつぎの「ろうふで」のほう重要じゅうようであり、たん自分じぶんを「ろう」として、この作品さくひんいぼれがいた不完全ふかんぜんしょであるという謙遜けんそん定型ていけいであり、その対比たいひとしてたまたま読者どくしゃたいして童蒙どうもうというかたりもちいたにぎないという[25]

窪田くぼた主張しゅちょうによれば、親房ちかふさ過去かこ現在げんざい未来みらいつらぬいて持続じぞくするぜん存在そんざいを、理論りろんけたいとかんがえたのであるという[26]儒学じゅがくにおける有徳うとく君主くんしゅろんは、現在げんざいとくによって、現在げんざい秩序ちつじょ維持いじされることを保証ほしょうしてくれる[26]。しかし、それは過去かこから現在げんざいへのぜんながれは保証ほしょうしない[26]。そこで親房ちかふさしたのが、てんあきら大神おおがみの「天壌無窮てんじょうむきゅう」や三種さんしゅ神器じんぎといった神道しんとう思想しそうであり、これらの装置そうちによって、始原しげんから現在げんざいまで一貫いっかんしてぜんつづいてきたことを保証ほしょうすることができる[26]。しかし、なにっても、未来みらいたいし、「持続じぞくする現在げんざい」というぜん表現ひょうげんすることはできない[26]。それはつね消滅しょうめつ危機ききにあるのである[26]。「持続じぞくする現在げんざい」というのは、書物しょもつという固定こていてき媒体ばいたいとは本質ほんしつてき相容あいいれないものであり、『かみすめらぎ正統せいとう』の記述きじゅつ矛盾むじゅん混乱こんらんられるのは、そこにもとめられるという[26]

未来みらいへのぜん持続じぞくせいというのは存在そんざいそのものにたいするいであり、そこになんらかの原理げんりはあるとしても、それは言語げんごによってはけっして表現ひょうげんできない[26]。したがって、思索しさくしゃにして行動こうどうしゃたる親房ちかふさは、「原理げんりとしてかたりえない原理げんりてきなるものをみずからのせいをとおして表現ひょうげん」しようとしたのではないか、という[26]

その

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折衷せっちゅうせつ

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上記じょうきの、後村上天皇ごむらかみてんのうへの帝王ていおうがくしょせつも、東国とうごく武士ぶしへの勧誘かんゆうしょせつも、両方りょうほうともただしいとする見解けんかいもある。もと東国とうごくにおいて東国とうごく武士ぶしへの勧誘かんゆうのためにいたものを、のち後村上天皇ごむらかみてんのう献上けんじょうして帝王ていおうがく教育きょういく役立やくだてようとしたとするものである。

日本にっぽん概説がいせつしょせつ

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江戸えど時代じだい前期ぜんき慶安けいあん2ねん1649ねん)2がつ、『かみすめらぎ正統せいとう』は、風月ふうげつそうともによって刊本かんぽん出版しゅっぱんされた[27]のちはやし羅山らざんらによる江戸えど幕府ばくふ公式こうしき史書ししょ本朝ほんちょうどおりかん』(寛文ひろふみ10ねん1670ねん))では、「正統せいとう簡約かんやくえきこんそん而行於世」と、国史こくし概観がいかんするに便利べんりしょだとひょうされている[27]。20世紀せいき日本にっぽん研究けんきゅうしゃ平田ひらた俊春としはるもまた、わかりやすい日本にっぽん概説がいせつしょとしてのいちめん肯定こうていてきとらえている[27]

一方いっぽう窪田くぼた高明こうめいは、歴史れきししょとしてわかりやすいほんであるとはおもいにくい、と主張しゅちょうする[27]記述きじゅつ客観きゃっかんてきではないうえに、『吾妻あづまきょう』や『ぞうきょう』といったほか中世ちゅうせい日本にっぽん史書ししょくらべても異質いしつである[27]。また江戸えど時代じだいでも、おおくのひと本書ほんしょ単純たんじゅん歴史れきし概説がいせつしょだとはおもわなかったのではないか、と推測すいそくしている[27]

神国しんこく思想しそうしょせつ

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1977ねん神道しんとう研究けんきゅうしゃ久保田くぼたおさむは、『北畠きたばたけ父子ふし足利あしかが兄弟きょうだい』で、親房ちかふさ確信かくしんあふれた神道しんとうかん国家こっかかん政治せいじかんには、後世こうせい読者どくしゃかならふるってしまうほどの気魄きはくうかがえるとした[27]

国史こくしだい辞典じてん』「かみすめらぎ正統せいとう」(大隅おおすみ和雄かずお担当たんとう)もまた、「明確めいかく歴史れきしへの態度たいどと、つよ意志いしあらわす明晰めいせき文章ぶんしょうとによって(りゃく)」と本書ほんしょ執筆しっぴつ目的もくてきあきらかであるとだんじ、皇統こうとう移動いどう儒学じゅがくてき歴史れきしろん伊勢いせ神道しんとう正当せいとうしようとした、中世ちゅうせい神道しんとうてき歴史れきしろん神国しんこく思想しそう代表だいひょうする古典こてんとした[2]

国威こくい発揚はつようせつ

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イスラエル歴史れきし研究けんきゅうしゃベン=アミー・シロニーは、王朝おうちょう非常ひじょうふるいという「万世ばんせい一系いっけい」の主張しゅちょうは、日本にっぽん国民こくみん感心かんしんさせるためだけではなかったと主張しゅちょうした。国家こっかとしては日本にっぽんよりふるいが、歴代れきだい王朝おうちょう日本にっぽんより短命たんめいだった中国ちゅうごく感銘かんめいあたえるためでもあったという。中国人ちゅうごくじん日本にっぽんのこの主張しゅちょうにとめ、一目いちもくいていたとっていという[28][注釈ちゅうしゃく 5]

日本人にっぽんじんも、王朝おうちょう寿命じゅみょう長短ちょうたんかんする中国ちゅうごくとの比較ひかくろん熱中ねっちゅうしたという。『かみすめらぎ正統せいとう』では以下いかのようにろんじられている[28][29]

モロコシ(中国ちゅうごく)は、なうての動乱どうらんくにでもある。…ふくぜんさんさんはちねん治世ちせいはじめたという伝説でんせつじょう最初さいしょ中国ちゅうごく帝王ていおう)の時代じだいからこれまでにさんろくもの王朝おうちょうかぞえ、さまざまな筆舌ひつぜつくしがたい動乱どうらんきてきた。ひとりわがくににおいてのみ、天地てんちはじめより今日きょうまで、皇統こうとう不可侵ふかしんのままである。 — 『しんすめらぎ正統せいとう

その

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明徳めいとくやく北朝ほくちょう正統せいとうろんとなえる室町むろまち幕府ばくふ影響えいきょう改竄かいざんや、続編ぞくへんしょうしながら親房ちかふさろん否定ひていする『ぞくかみすめらぎ正統せいとう』(小槻おおづくはれとみ)がかれたこともあった。徳川とくがわ光圀みつくには「だい日本にっぽん」で親房ちかふさ主張しゅちょうたか評価ひょうかし、江戸えど幕府ばくふなかにもたいれいなどを引用いんようして「武家ぶけによる徳治とくじ政治せいじ」の正当せいとうせいみちび意見いけんあらわれるようになった。

水戸みとまなぶむすびついた『かみすめらぎ正統せいとう』は、皇国こうこく史観しかんにも影響えいきょうあたえた。だが、明治めいじになってからぎゃく国粋こくすい主義しゅぎ立場たちばから儒教じゅきょう仏教ぶっきょう異端いたんされた伊勢いせ神道しんとう影響えいきょうけすぎているという理由りゆうで、重訂じゅうていという改竄かいざん親房ちかふさ思想しそう否定ひてい)をおこなうごきもこったが、これは定着ていちゃくにはいたらなかった。『かみすめらぎ正統せいとう研究けんきゅうふたた興隆こうりゅうするのは、現実げんじつ政治せいじからはなされた、戦後せんごしばらくたってからのことである[30]

評価ひょうか

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窪田くぼた高明こうめいによれば、『かみすめらぎ正統せいとう』は歴史れきししょという体裁ていさいってはいるものの、著者ちょしゃ親房ちかふさが、ただ歴史れきし客観きゃっかんてき叙述じょじゅつするのではなく、自身じしんなんらかの主観しゅかんてき思想しそうを、非常ひじょうつよ確信かくしんをもって、明快めいかいべているように「える」というてんで、きわめて不可思議ふかしぎしょである[31]。したがって、本書ほんしょんだそれぞれの論者ろんしゃは、親房ちかふさはこれこれの思想しそう明快めいかいべている、と断定だんていてき主張しゅちょうするし、その「明快めいかい思想しそう」に、熱意ねついをもって賛同さんどうするか、あるいは強烈きょうれつ嫌悪けんおかん拒絶きょぜつする[31]。そうでありながら、親房ちかふさ本当ほんとうなにいたかったのかはいまだにかっていないと指摘してきし、『かみすめらぎ正統せいとう本文ほんぶんおよび『かみすめらぎ正統せいとうひょうときは、このてんつよ注意ちゅういする必要ひつようがあるとべている[31]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ひとつのれいとして神功じんぐう皇后こうごうこうにおいて「『こう漢書かんしょ』に倭国わのくに女王じょおう使者ししゃ来朝らいちょうしたと記載きさいされている」とかれているが、実際じっさい邪馬台国やまたいこく女王じょおう卑弥呼ひみこ使つかいについて記載きさいがあるのは『こころざし倭人わじんでん』である。
  2. ^ 廃帝はいていとは仲恭天皇ちゅうきょうてんのうのこと[よう出典しゅってん]
  3. ^ かがみ一物いちもつたくわえず、わたし心無こころなくして、万象ばんしょうらすに是非ぜひ善悪ぜんあく姿すがたあらわれずということなし。その姿すがたいて感応かんおうするをとくとす、これ正直しょうじき本源ほんげんなり。たま柔和にゅうわぜんじゅんとくとす、慈悲じひ本源ほんげんなり。けんつよし決断けつだんとくとす、知恵ちえ本源ほんげんなり。(この『かみすめらぎ正統せいとう』の部分ぶぶんは、丸山まるやま真男まさおかみすめらぎ正統せいとうあらわれたる政治せいじかん」/丸山まるやま真男まさおちょ戦中せんちゅう戦後せんごあいだ 1936-1957』みすず書房しょぼう 1976ねん 80ページ)から引用いんようした。)
  4. ^ 近代きんだい日本にっぽん評論ひょうろん大町おおまち桂月けいげつもまた、これを「この一節いっせつ仁政じんせい力説りきせつす。頼朝よりともたいきょにして、仁政じんせいなり。親房ちかふさ頼朝よりともたいを褒むるは、すなわ仁政じんせいを褒むる也。千古せんこ公論こうろんなり」とっている。
  5. ^ そうふみまきよんきゅういち 外國がいこくでん 日本國にっぽんこく 此島えびすみみ 乃世祚遐ひさ其臣またつぎかさねぜっ ぶたいにしえ道也みちや 中國ちゅうごくとうみだれけん分裂ぶんれつはりしゅう五代享歴尤促 大臣だいじんかぶと鮮能嗣續 ちん雖德慙往きよしつね夙夜とらかしここうもとめほん敢暇いっけん無窮むきゅうこれぎょう 久之ひさゆきはん また以爲子孫しそんけい 使つかい大臣だいじんこう世襲せしゅうろくちんこころ

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 窪田くぼた 2002, p. 6.
  2. ^ a b c d e f 大隅おおすみ 1997.
  3. ^ a b わがつま 1973c, pp. 13–15.
  4. ^ 丸山まるやま真男まさおかみすめらぎ正統せいとうあらわれたる政治せいじかん」(丸山まるやま真男まさおちょ戦中せんちゅう戦後せんごあいだ 1936-1957』みすず書房しょぼう 1976ねん 78-79ページ)
  5. ^ a b 窪田くぼた 2002, pp. 5–11.
  6. ^ 窪田くぼた 2002, pp. 4–11.
  7. ^ a b c d e f g 岡野おかの 2009, pp. 176–189.
  8. ^ a b 窪田くぼた 2002, p. 7.
  9. ^ わがつま 1973c.
  10. ^ わがつま 1973d.
  11. ^ わがつま 1973c, p. 13.
  12. ^ わがつま 1973d, pp. 109–115.
  13. ^ わがつま 1973d, pp. 102–103.
  14. ^ わがつま 1973d, p. 104.
  15. ^ a b わがつま 1973c, p. 15.
  16. ^ a b c わがつま 1973c, pp. 10–11.
  17. ^ a b c d e 窪田くぼた 2002, pp. 8–9.
  18. ^ a b 窪田くぼた 2002, p. 9.
  19. ^ a b c d 岡野おかの 2009, p. 178.
  20. ^ 窪田くぼた 2002, pp. 9–10.
  21. ^ a b c d e f g 窪田くぼた 2002, pp. 13–15.
  22. ^ a b c d e 窪田くぼた 2002, pp. 15–16.
  23. ^ a b 窪田くぼた 2002, pp. 12–13, 16–17.
  24. ^ 窪田くぼた 2002, pp. 12–13.
  25. ^ 窪田くぼた 2002, pp. 10.
  26. ^ a b c d e f g h i 窪田くぼた 2002, pp. 16–17.
  27. ^ a b c d e f g 窪田くぼた 2002, p. 2.
  28. ^ a b シロニー 2003, pp. 22–24.
  29. ^ Ryusaku Tsunoda, Wm. Theodore de Bary, Donald Keene, eds., Sources of Japanese Tradition. New York: Columbia University Press, 1958, p.279.『かみすめらぎ正統せいとう現代げんだい思潮しちょうしゃ、1983ねん、27~29ぺーじ
  30. ^ 日本にっぽん思想しそうぜん清水しみず正之まさゆき132ぺーじ
  31. ^ a b c 窪田くぼた 2002, pp. 1–4.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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