久保田くぼたおさむ

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久保田くぼた おさむ(くぼた おさむ、明治めいじ43ねん1910ねん7がつ22にち - 昭和しょうわ51ねん1976ねん12月7にち)は、日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃせんもん神道しんとう学位がくいは、文学ぶんがく博士はかせ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

明治めいじ43ねん(1910ねん)、富山とやままれる(本籍ほんせき滋賀しがけん)。静岡しずおか県立けんりつ浜松はままつだいいち中学校ちゅうがっこう昭和しょうわ3ねん1928ねん卒業そつぎょう)、だいろく高等こうとう学校がっこう文科ぶんかかぶとるい昭和しょうわ6ねん1931ねん卒業そつぎょう)をのち昭和しょうわ9ねん1934ねん)、東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく文学部ぶんがくぶ国史こくし学科がっか卒業そつぎょうよく昭和しょうわ10ねん東京とうきょう府立ふりつだいきゅう中学校ちゅうがっこう教諭きょうゆとなり、昭和しょうわ13ねん1938ねん)、だいなな高等こうとう学校がっこうづくりかん教授きょうじゅとなった。

在学ざいがくちゅう平泉ひらいずみきよしまなび、高弟こうていとしてられ終生しゅうせい師事しじした。しゅひかりかい創立そうりつかかわり、また青々あおあおじゅく最初さいしょ入塾にゅうじゅくしゃ一人ひとりでもあった(いずれも平泉ひらいずみ主宰しゅさい)。東大とうだい卒業そつぎょう鹿児島かごしま赴任ふにんするまでのあいだ青々あおあおじゅく塾頭じゅくとうをつとめ、ななだか時代じだいしゅうじゅくひらくなどして、後進こうしん指導しどうにあたった。終戦しゅうせん際会さいかいして、ななだか教授きょうじゅ辞任じにん

戦後せんご昭和しょうわ21ねん1946ねん)、京都きょうとにちにち新聞しんぶんしゃ入社にゅうしゃし、論説ろんせつ委員いいんとなり、昭和しょうわ24ねん1949ねん)、合併がっぺいした京都きょうと新聞しんぶん論説ろんせつ委員いいんうつる。よく昭和しょうわ25ねん、「藝林げいりんかい」が設立せつりつし、事務じむきょくかれ自宅じたくかれた。昭和しょうわ28ねん1953ねん)、神道しんとう史学しがくかい創立そうりつとともに会長かいちょう就任しゅうにんし、歿するまでそのしょくにあった。昭和しょうわ29ねん福井ふくいけんふみ編纂へんさん専門せんもん委員いいんとなり、昭和しょうわ30ねん高野山大学こうやさんだいがく教授きょうじゅ就任しゅうにんした。昭和しょうわ35ねん1960ねん)、「中世ちゅうせい神道しんとう研究けんきゅう」により、國學院大學こくがくいんだいがくより文学ぶんがく博士はかせ学位がくい取得しゅとくし、また同年どうねん日本にっぽん教育きょういく協議きょうぎかい日本にっぽん教師きょうしかい前身ぜんしん会長かいちょうとなった(昭和しょうわ38ねんまで)。

昭和しょうわ36ねん1961ねん)、皇學館大學こうがくかんだいがく設立せつりつ準備じゅんび委員いいんとなり、よく昭和しょうわ37ねん皇學館大學こうがくかんだいがく再興さいこうとともに教授きょうじゅ就任しゅうにんした。皇學館大學こうがくかんだいがく教授きょうじゅ在任ざいにんちゅう文学ぶんがく部長ぶちょう評議ひょうぎいん理事りじどう大学だいがく神道しんとう研究所けんきゅうじょ所長しょちょう併任へいにんした。

神道しんとう研究けんきゅう権威けんいで、主著しゅちょであり学位がくい論文ろんぶんでもある『中世ちゅうせい神道しんとう研究けんきゅう』は、「今後こんごともなが神道しんとう研究けんきゅう史上しじょう不朽ふきゅう地位ちいめるであろう」(柴田しばたみのる)とひょうされる。人柄ひとがら学問がくもんともに、中正ちゅうせい穏健おんけんなものであった。

昭和しょうわ51ねん1976ねん)12月、66さい死去しきょせいじょされ、くんさんとう瑞宝章ずいほうしょうおくられた。墓地ぼち三重みえけん伊勢いせあさひまち伊勢いせやすらぎ公園こうえんにある。

日本にっぽんがく協会きょうかい設立せつりつ準備じゅんび委員いいんかい理事りじ

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

編著へんちょ[編集へんしゅう]

  • たけ教本きょうほんろんたけきょう小学しょうがくたけきょう全書ぜんしょこうろく』(日本にっぽんがく叢書そうしょ4、解説かいせつ校訂こうてい注釈ちゅうしゃく) 雄山閣ゆうざんかく 昭和しょうわ13ねん1938ねん
  • 眞言しんごん内證ないしょうよし』(北畠きたばたけ親房ちかふさしる校訂こうてい) 藝林げいりんかい 昭和しょうわ34ねん(1959ねん
  • 有馬ありま正義まさよし先生せんせい遺文いぶん』 藝林げいりんかい 昭和しょうわ45ねん1970ねん
  • 古文書こもんじょがく教本きょうほん 古文書こもんじょ』 皇學館大学こうがくかんだいがく出版しゅっぱん 昭和しょうわ46ねん1971ねん

共著きょうちょ[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 彙報いほう久保田くぼたおさむ博士はかせく」 『神道しんとう研究けんきゅう』25-1 昭和しょうわ52ねん(1977ねん)1がつ
  • 西山にしやまいさお久保田くぼたおさむ博士はかせ」 『日本にっぽん歴史れきし』345 昭和しょうわ52ねん(1977ねん
  • 久保田くぼたおさむ博士はかせしのべくさ』 久保田くぼたおさむ先生せんせいじゅうねんさい準備じゅんび委員いいんかい 昭和しょうわ61ねん(1986ねん
  • はやし潤一じゅんいち久保田くぼたおさむ博士はかせ小伝しょうでん』 伊勢いせ青々せいせい 平成へいせい17ねん(2005ねん
  • 神道しんとう研究けんきゅう のこよしへん』 皇學館大学こうがくかんだいがく出版しゅっぱん 平成へいせい18ねん(2006ねん
附録ふろくとして平泉ひらいずみきよし中正ちゅうせい穏健おんけん学風がくふう」、たに省吾しょうご久保田くぼたおさむ博士はかせ学風がくふう」のほか、「久保田くぼたおさむ博士はかせりゃく年譜ねんぷ」・牟禮むれじんへん久保田くぼたおさむ博士はかせ著作ちょさく目録もくろく」を収録しゅうろく