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かおる

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熏習(くんじゅう、: vāsanāabhyāsabhāvanā、 वासना)とは、こうあらわれる善悪ぜんあく行法ぎょうほうもしくはあらわれる善悪ぜんあく思想しそうが、こるにしたがってその気分きぶん真如しんにょあるいはおもねよりゆき耶識めること。ぞくにいう「うつ」、かおりがころもいて残存ざんそんするようなことを[1]

かおる習が身口意しんくいあらわれたのを「現行げんこうほう」(げんぎょうほう)といい、真如しんにょあるいはおもねよりゆき耶識に気分きぶんとどまったものを「種子しゅし(しゅうじ)」あるいは「習気」(じっけ)という。このように現行げんこうほう真如しんにょあるいはおもねよりゆき耶識にその種子しゅしもしくは習気をめる作用さようかおる習という[よう出典しゅってん]

かおる習のとは、世間せけん衣服いふくじつこうなし、もしひとこうをもって熏習するに、すなわち香気こうきあるがごと
うま?、『大乗だいじょうおこりしんろん
熏とはげきはつ意味いみ。習とは数々かずかず意味いみ数々かずかずの熏発によってこのたね()があるから。
慈恩じおん大師だいし窺基えらべ、『唯識ゆいしきじゅつ一本いっぽん

仏教ぶっきょう

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よんかおる

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「しくんじゅう」とむ。妄たがいにかおるならわし、それによってしみきよしふたつのほう相続そうぞくして断続だんぞくすることがないことを説明せつめいする。

このよんかおる習は、うま仮託かたくされる大乗だいじょうおこりしんろん所説しょせつで、根本ねもと煩悩ぼんのうである無明むみょうが、本来ほんらい平等びょうどう一味いちみ世界せかいたいして分別ふんべつ妄想もうそう生起せいきして、人間にんげん差別さべつてき執着しゅうちゃくこさせ、それが世間せけん差別さべつしょうぜしめ、そこにこる対立たいりつかん人間にんげんくるしめられるとしみほう重荷おもにいてまよいの事実じじつあきらかにする。

また、さとについては、本来ほんらいてき一味いちみ平等びょうどうであり、自他じた一如いちにょであるという事実じじつ認識にんしきが、つね自他じた対立たいりつまよ人間にんげん生存せいぞん影響えいきょう作用さようすることによって、人間にんげんまよいを克服こくふくさとりを実現じつげんすることができるときよしほうの熏習をく。このように、流転るてんかえめつ(げんめつ)をしみきよし互熏ということからあきらかにする。このような熏習による迷悟の理解りかいは、ひいては人間にんげんせい開発かいはつ(かいほつ)や確立かくりつについて、また人間にんげん形成けいせい問題もんだいかんがえるとき大切たいせつ暗示あんじあたえる。

無明むみょうかおる

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衆生しゅじょうはじめからの無明むみょうっている。真如しんにょかおるならわし、そのかおる習によって妄心をしょうずる。妄心とはごう識である。

妄心かおる

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この妄心がかえって無明むみょうに熏じてりょうねんやすことになるから、さらに妄境界きょうかい現行げんこうすることとなる。妄境かいとは、うたて識およびげん識のことである。

境界きょうかいかおる

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この妄境かいかえって妄心を熏動して諸々もろもろなみおこして、種々しゅじゅごうつくって身心しんしんける。分別ふんべつごと識がこれである。以上いじょうさんかおる習の意味いみによってしみほう相続そうぞくする。

きよしほうかおる

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これにふたつある。真如しんにょかおる習と妄心かおる習である。

真如しんにょかおる習とは、衆生しゅじょう真如しんにょほう具備ぐびしているので、無明むみょうめい熏することができる。めい熏の因縁いんねんによって、妄心に、生死せいしいと涅槃ねはんらくもとめさせる。これを真如しんにょかおる習という。妄心かおる習とは、このいやもとめの妄心がかえって真如しんにょかおるならわすることによりその勢力せいりょくし、種々しゅじゅ方便ほうべん随順ずいじゅんくだりおこして無明むみょうめっする。無明むみょうめっするからしんしょうみなことごとく涅槃ねはん自然しぜんきよしぎょう成就じょうじゅする。このかおる習によってきよしほう不断ふだんとなる。

ただし、しみほう自性じしょう差別さべつするのでさんしゅけて、きよしほうからだようひとつであるから一種いっしゅ説明せつめいしている。

三種さんしゅかおる

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  1. 名言めいげんかおる習(みょうごんくんじゅう):名字みょうじげん言説げんせつ名字みょうじ言説げんせつの識を分別ふんべつする。つまり、だいろく意識いしきが、だい七識第八種子識に伝送でんそうかおるならわして、しみぶんそう成就じょうじゅするから。
  2. いろ識薫習:いろたいする諸色しょしきである。この諸色しょしきによってを引生するのをいろ識という。この場合ばあい分別ふんべつすなわちだいろく意識いしきまただいなな識第はち種子しゅしの識に伝送でんそうかおるならわして、しみぶんそう成就じょうじゅするから。
  3. 煩悩ぼんのうかおる習:むさぼ邪険じゃけんなどの煩悩ぼんのう。この煩悩ぼんのうだいろく意識いしきおこすものであり、まただいなな識がだいはち種子しゅし識に伝送でんそうかおるならわしてしみぶんそう成就じょうじゅするから。

以上いじょう唯識ゆいしきかおる習説のあらましである。このような熏習が可能かのうであるためにはところ熏とのう熏とに、それぞれ一定いってい条件じょうけんがなければならないので、それぞれよっつの条件じょうけんをあげる。すなわちところ熏のよんのう熏のよんである。

ところ熏のよん

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ところ熏のよんとは1.けんじゅうせい、2.せい、3.熏性、4.のうしょ和合わごうせいである。

  1. けんじゅうせいとは熏習をうけるものは、永続えいぞくてき同一どういつせい保持ほじできるものでなければならないということである。途中とちゅう間断かんだんしたり、変化へんかしたりしてしまっては、保持ほじしている種子しゅし間断かんだん変化へんかしてしまうことになってしまうであろうからである。
  2. せいとは善悪ぜんあく種子しゅしを熏じつけられるものとしてのところ熏の識は、それ自身じしんぜんであったりあくであったりでは、どうにもならないから、ぜんともあくとも決定けっていしない性質せいしつのものでなければならないという。
  3. 熏性とは、それが支配しはいされるようなものでなく、自主じしゅせいをもったものでなければならないことと、つねつね不変ふへんであるというようなものでは熏習する余裕よゆうがないから、熏習可能かのう余裕よゆうのあるものでなければならないという。
  4. のうしょ和合わごうせいとは、のう熏と和合わごうしてはなれないものでなければならないという。すなわち、のう熏とところ熏とが同時どうじ同所どうしょにして、しゃ和合わごうしてはなれないということが条件じょうけんであるというので、これはにおいてとまえあやときにおけるものをしりぞけるものである。そうでないと因果いんが関係かんけいまったくこわれてしまうからである。

のう熏のよん

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のう熏のよんについては1.ゆう生滅しょうめつ、2.ゆうかちよう、3.ゆう増減ぞうげん、4.のうしょ和合わごうてんよんをあげている。一切いっさいのものがなんでもしょ熏のおもねよりゆき耶識にむかって種子しゅしを熏じつけることができるかというと、そうはゆかない。それにはよんしゅ条件じょうけんがあるというのである。

  1. ゆう生滅しょうめつ、これは作用さようのあるものという意味いみをふくんでいる。すなわち、影響えいきょうりょくあたえるものというのは、当然とうぜんはたらきのあるものでなければならない。作用さようがあるということは変化へんかするものということである。変化へんかのない常住じょうじゅうのものはなんらの作用さようはない。いやしくも熏習するものは、だいいちみずか変化へんかするものであり、生滅しょうめつにわたるものでなければならないという。つぎに、このように変化へんかするものとして作用さようをもつものであっても、その作用さよう劣弱れつじゃくなるものではどうにもならないから、
  2. ゆうかちようという条件じょうけんがとかれる。たとえばしんのようなものはちからよわいから問題もんだいにならないから、それはぜんであるとかあくであるとかというつよがち思慮しりょ作用さようでなければならないという。また、ただぶらぶら散歩さんぽしておるようなものではなにもならないように、つよいきおいなる行動こうどうりょくをともなうものでなければならない。
  3. ゆう増減ぞうげんとは、なんらの増減ぞうげんのない完全かんぜん円満えんまんなものではのう熏のやくたしえない。不完全ふかんぜんであるから完全かんぜんへと増長ぞうちょうやくたすことができるが、究極きゅうきょくたっすれば、もはや種子しゅしかおる習の余地よちはないからである。したがって、これはかおる習が不完全ふかんぜんのものであることをしめしている。
  4. のうしょ和合わごうてんとはところ熏と和合わごうしててんずるものということである。それはかおる習をうけるものとどういちにんであり、同時どうじどうしょでなければならないという。

以上いじょうのようなのう熏とところ熏のそれぞれの条件じょうけんをもって熏習ということがかれるが、このような条件じょうけん満足まんぞくするものは識よりにないといわねばならない。

このように熏習という概念がいねんは、われわれの意識いしき作用さようなかかたられ、そこにまよいとさとりがなんであるかがかたられている。

ヒンドゥーきょう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 井筒いづつ俊彦としひこ意識いしき形而上学けいじじょうがく中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2001ねん、P.63ぺーじ