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じゅん胝観おん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
じゅん胝観おん

じゅん胝観おん(じゅんでいかんのん、じゅんていかんのん)は、仏教ぶっきょうにおける信仰しんこう対象たいしょうである菩薩ぼさついちみことじゅん胝観おんまたはじゅんひさげ観音かんのんともく。じゅん胝仏ははとも。

日本にっぽん真言しんごんけいでは変化へんか観音かんのんとされて真言宗しんごんしゅうけいでは「六観音ろくかんのん」のいちみことかぞえられ[1]日本にっぽん天台てんだいけいでは観音かんのんではなくふつははとされる[2]。インド・チベットでは一般いっぱんふつははとされ、変化へんか観音かんのんとはみなされない[3]。インドでは観音かんのん男性だんせい名詞めいしのためおとこみこととされるが、じゅん胝は女性じょせい名詞めいしであり、おんなみこととして表現ひょうげんされる。じゅん胝は守護しゅごおんなみことやマーリーチー(摩利まりささえてん)と同様どうように、特定とくてい陀羅尼だらに[ちゅう 1]むすびついたおんなみことである[4]密教みっきょうにおいてはなな倶胝ふつはは(しちくていぶつも)[1]ともばれる。みつごうさいかち金剛こんごう降伏ごうぶく金剛こんごう

日本にっぽんでは従来じゅうらいじゅん胝のかえ梵はチュンディーとされている[5]かんめいじゅん胝はチュンダー陀羅尼だらににおける「チュンデー」というかたり(チュンダーの女性じょせい単数たんすうよびかく、「チュンダーよ」)のおとうつしであるというせつもある[5]。インド原典げんてんではチュンダーである[5]

じゅん胝はチュンダー(Cundā)をおとうつしたとするせつ[6][7]、チュンディー(Cundī)をおとうつしたものとするせつ[8][9]がある。また、じゅん胝を cundī ではなく cuṇḍī[10]還元かんげんするせつもある。

由来ゆらい

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じゅん胝の源流げんりゅうヒンドゥーきょう女神めがみチャンディー (Caṇḍī) に比定ひていするせつがある[11][12](チャンディーはドゥルガー異名いみょうとされる[12])。岩本いわもとひろしは、じゅん胝は観音かんのんころも観音かんのん同様どうようにヒンドゥーきょう女神めがみ仏教ぶっきょうれられた姿すがたであるとする[13]佐藤さとうつとむは、売春ばいしゅん宿やど主人しゅじんとするモニエル・ウィリアムのせついにして神聖しんせい娼婦しょうふむすびつけている[14]。「チュンダー陀羅尼だらに[ちゅう 2]よりしょうじたというせつ[16][17]もある。これは、じゅん胝観おんの梵名チュンダーを動詞どうし √cud (鼓舞こぶする)の派生はせい解釈かいしゃくして、行者ぎょうじゃみずからを奮起ふんきさせるためにとなえる陀羅尼だらにみことかくされてじゅん胝観おんとなったとするせつである[18]

概説がいせつ

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日本にっぽんでは「じゅん胝仏はは」、「じゅん胝観おん菩薩ぼさつ」、「じゅん観世音菩薩かんぜおんぼさつ」、「天人てんにん丈夫じょうぶ観音かんのん」などさまざまな呼称こしょうがある。

中国ちゅうごくでは密教みっきょう、こののちひろ禅宗ぜんしゅう浄土宗じょうどしゅう道教どうきょうひとしでも信仰しんこうされるが、かつてインドから東南とうなんアジアでも信仰しんこうされた[ちゅう 3][19]

日本にっぽん真言宗しんごんしゅう開祖かいそである空海くうかい高野山こうのやま開基かいきさいに、僧房そうぼうつぎにまずじゅん胝堂を建立こんりゅうし、じゅん胝観おん弟子でしたちの得度とくど本尊ほんぞんとしておまつりしたのは有名ゆうめいで、のちにこう野山のやま荒廃こうはいしたさいにも僧俗そうぞくによって庫裡くりにこのじゅん胝観おん安置あんちまもつづけられた。それゆえ、じゅん胝堂の補修ほしゅうおこなわれた昭和しょうわ時代じだいになるまで、高野たかのさんではじゅん胝堂で僧侶そうりょとなるための得度とくど儀式ぎしきおこなわれていた[20]。また、真言宗しんごんしゅう醍醐だいご開祖かいそせいたから尊師そんしがこれにならって醍醐寺だいごじ開基かいきなぞらえ胝観おん勧請かんじょうし、その孫弟子まごでし仁海にんかい六観音ろくかんのんなぞらえ胝観おんくわえ、そのなが民衆みんしゅう信仰しんこうあつめている。

真言しんごん三昧ざんまい耶形・しるし

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真言しんごん

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真言しんごんたんのろいの「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(Oṃ cale cule cunde svāhā [21] [15][ちゅう 4]などがよくられている。

ちょう咒は「ナモサッタナン・サンミャクサンモダクチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」。[よう出典しゅってん]

三昧ざんまい耶形

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三昧ざんまい耶形は「たからびん」(方便ほうべん[ちゅう 5]、「きむつよしきね」(智慧ちえ[ちゅう 6]、「甲冑かっちゅう」(慈悲じひ)。

種子しゅし

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種子しゅしはबु(ボ、bu

じゅん胝観おん功徳くどく

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  • ぜんかしこ三蔵さんぞうわけによる『七仏倶胝仏母心大准提陀羅尼法』(大正たいしょうぞう№1078)には、「ふついわく、このじゅん胝仏はは真言しんごんしるしちぎりみつほうによって、十悪じゅうあくざい五逆ごぎゃくざいひとし一切いっさいおもつみほろぼして、よく一切いっさいぜんほう成就じょうじゅし、さらには戒律かいりつ具足ぐそくし、清廉せいれん潔白けっぱくとなって、すみやかにしん清浄せいじょうる。もし、在家ありいえ行人こうじんがいて飲酒いんしゅ肉食にくしょくつことなく、たとえ妻子さいしがあったとしても、ただ、このじゅん胝仏はは本尊ほんぞんとすることで、あらゆる仏法ぶっぽうみつほう成就じょうじゅすることができる」とかれている。
  • ばば訶羅三藏さんぞうわけによる『仏説ぶっせつ七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』(大正たいしょうぞう№1077)には、「もし、在家ありいえ善男善女ぜんなんぜんにょらが『じゅん真言しんごん』をとなえ、これを日々ひびたもつことがあれば、そのひといえには災難さいなん事故じこ病気びょうきとうによるくるしみがく、あらゆるおこないにはちがいやのぞみがたせないということもく、そのひと言葉ことばみな信用しんようして、よくいてくれるようになる。また、幸福こうふくめぐまれず、才能さいのうにもめぐまれないひとがあって、密教みっきょう才覚さいかくもなく、そう侶の修行しゅぎょうである『さんじゅうなな菩提ぼだいぶんほう』という釈迦しゃかおしえにまわりあうことができないひとがいたとしても、このじゅん胝観おんの『陀羅尼だらにほう』の伝授でんじゅけることができたならば、すみやかに無上むじょうさとりをることができる。さらには、『じゅん真言しんごん』をつね記憶きおくにとどめ、よくこの真言しんごんとなえて善行ぜんこうとなる戒律かいりつまもることができれば、あらゆるねがいも成就じょうじゅする」とかれている。[23]

曹洞宗そうとうしゅうで「りゅういつき菩薩ぼさつたたえじゅんひさげ大明だいめい陀羅尼だらに」としてよくとなえられ、真言宗しんごんしゅうでは、醍醐寺だいごじ在家ざいけよう勤行ごんぎょう次第しだいじゅんひさげ観音かんのん念誦ねんじゅ次第しだい」にもげられている『じゅんひさげ功徳くどく頌』はりゅういつき菩薩ぼさつさくとされる。

ぜんじゅん胝観おん

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もんせきだいさんのり倶胝たてゆび】(ぐていじゅし)より[24]
  • 倶胝和尚おしょう(ぐていおしょう)はぜんにおけるうま法嗣ほうし大梅おおめぜんほうつねさんせいほうまごにあたる。このひと正確せいかく名前なまえつたわっていないが、じゅん胝観おん一心いっしん信仰しんこう修行しゅぎょうまえも、修行しゅぎょうをなしえてからもなぞらえ胝観おん真言しんごんくちずさむのがつねであったため、じゅん胝観おん別名べつめいである「なな倶胝ふつはは」から名前なまえり、倶胝和尚おしょうばれた。このひとてらかまえてそこの住職じゅうしょくをしていたところ、尼僧にそうたび姿すがたのまま土足どそくがりんで問答もんどういどみ、「あなたがさとりにかなった言葉ことばえばかさりましょう」とせまったが、倶胝和尚おしょうなにこたえられずにいると、尼僧にそうてるようにしてそではらってってしまった。倶胝和尚おしょう一山ひとやま住職じゅうしょくがこれではとなさけなくなりくやしさのあまりなみだしてたところ、「じゅん胝法」の特徴とくちょうひとつでもあるゆめつげによってゆめ神人しんじんあらわれて、もうすぐこのてらきた菩薩ぼさつあらわれるとげられた。そのじゅうにち天龍てんりゅう老師ろうしというひとあらわれて、そのひとにわけをはなしておしえをうたところ、天龍てんりゅう老師ろうしはただだまってゆび一本いっぽんてられた。そのゆびたとたんに、倶胝和尚おしょう落雷らくらいたれたようになってしまい、瞬時しゅんじ執着しゅうちゃくかたまっていたしんそこけ、無上むじょうさとりをることが出来できた。
  • それ以来いらい、倶胝和尚おしょう生涯しょうがいにわたってじゅん胝観おん真言しんごんとなえるかたわら、ただゆびてるだけで弟子でし信徒しんとらを教化きょうかしたとされている。このだいさんのり物語ものがたり編集へんしゅうしゃかどとしひらくは、「さとりは指先ゆびさきのことではない、しかし、そこがかればみな釈迦牟尼しゃかむにふつとなることができる」と批評ひひょうしている。いわゆる中国ちゅうごくでは、説法せっぽうしるし正面しょうめんむすんでゆびてる姿すがたじゅん胝観おん仏像ぶつぞうこのまれる理由りゆうひとつでもある。

また、明代あきよには浙江せっこうしょうよしみぜん镸の出身しゅっしんである袁黄(1533-1606)という人物じんぶつが、当時とうじうらないの名人めいじんとされたあな先生せんせいに「さんしき[ちゅう 7][25]という運命うんめいがくまなび、あな先生せんせいより科挙かきょけることをすすめられて合格ごうかくするとともに、その番号ばんごうまでをいいあてられた。そのうらないもいちいちあな先生せんせいとおりであり、すっかり宿命しゅくめいろんしゃとなっていた。自身じしん一生いっしょううらなってもらったところ相応そうおう出世しゅっせはするが前世ぜんせいごう(カルマ)により壽命じゅみょうは53さい[ちゅう 8]で、結婚けっこんはするが子供こどもく、うすきいさおしょうぶく失意しついのうちにその一生いっしょうえると予言よげんされていた。やがて、仏縁ぶつえんによりぜんみつそうおさむ禅僧ぜんそう雲谷うんこく禅師ぜんじ出会であ自身じしん運命うんめいかたったところ、『七佛倶胝佛母心准提陀羅尼法』の呪法じゅほうさずかり、まさしく戒律かいりつまも善行ぜんこうむための『功過こうかかく』による指導しどうけたことによって運命うんめい呪縛じゅばくだっした。壽命じゅみょうきるとされた53さいとき袁了凡(えんりょうぼん)と改名かいめいし、さら出世しゅっせして高官こうかんとなって交易こうえき漁民ぎょみん被害ひがいをなすやまと平定へいていし、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいぐん退しりぞけた。じゅん胝観おんへの信仰しんこうによりねがわずして子供こどもにもめぐまれ、その寿命じゅみょうなぞらえひさげ観音かんのん延命えんめい功徳くどくと、『功過こうかかく』の積善せきぜん効果こうかにより74さいまで長生ながいきすることができた。

仏像ぶつぞう作例さくれい

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経典きょうてん軌にはひじよんひじろくひじじゅうはちひじじゅうよんひじはちじゅうよんひじくが、日本にっぽんでは『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』(とう不空ふくう わけ)がひろまり、そこで詳述しょうじゅつされたぞうよういちめんさんもくじゅうはちひじとするものがもっとおおい。『仏説ぶっせつあかりぞう瑜伽ゆがだいきょうみこと菩薩ぼさつ大明だいめい成就じょうじゅ軌経』(そうほうけん わけ)には、よんひじ赤色あかいろ蓮華れんげ)、ろくひじ黄色おうしょく宝生ほうしょう)、じゅうはちひじ白色はくしょくふつ)とべられている。また、その本数ほんすうおおいことから、その尊像そんぞうとき千手観音せんじゅかんのん混同こんどうされる場合ばあいもあるが、正面しょうめん左右さゆうが「説法せっぽうしるし[ちゅう 9]むすんでいるのがじゅん胝観おんで、「合掌がっしょう」をしているのが千手観音せんじゅかんのんである。なお、醍醐寺だいごじじゅん胝観おん坐像ざぞうのように、蓮華れんげしたなん陀・ばつなん陀の眷属けんぞくだい龍王りゅうおうがいるみやつこれいおおい。

じゅん胝観おん日本にっぽんでも禅宗ぜんしゅうでよくおがまれ、黄檗宗おうばくしゅう曹洞宗そうとうしゅう臨済宗りんざいしゅうひとし僧堂そうどうにその尊像そんぞうまつられているのをることができ、また、真言宗しんごんしゅう泉涌寺せんにゅうじ皇族こうぞくおがまれた秘仏ひぶつられているが、いずれも江戸えど時代じだい以降いこうさくであり、奈良なら時代じだい平安へいあん時代じだい密教みっきょうにおける単独たんどくみやつこぞうれいはあまりおおくない。真言宗しんごんしゅうさとしやまてらである、京都きょうとだい報恩寺ほうおんじ千本せんぼん釈迦堂しゃかどう)の六観音ろくかんのんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざいちゅうにはじゅん胝観おんぞうがある。奈良ならしん薬師寺やくしじきゅうぞうつて千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい文化庁ぶんかちょう保管ほかん)は、そのぞうようから本来ほんらいじゅん胝観音像おんぞうかんがえられている。

寺院じいん

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日本にっぽんにおけるじゅん胝観おん歴史れきしふるく、観音かんのん信仰しんこうひろまりによる札所ふだしょとう江戸えど時代じだいぜん復興ふっこうともない、本尊ほんぞん守護しゅごぼとけとしてじゅん胝観おんをおまつりする寺院じいんおおい。

じゅん胝観おん本尊ほんぞんとする寺院じいん

そのじゅん胝観おんまつ代表だいひょうてき寺院じいん

美術館びじゅつかんとう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ダーラニー(Dhāranī)は女性じょせい名詞めいし
  2. ^ チュンダー陀羅尼だらにじゅん陀羅尼だらに):「ななせんまんせいとうさとししゃ帰命きみょうする。オーム・チャレー・チュレー・チュンデー・スワーハー。」[15]
  3. ^ セイロンとうタイインドネシアはじめとする東南とうなんアジア一帯いったいは、今日きょうでは上座かみざ仏教ぶっきょうイスラム教いすらむきょうなどでられるが、もともとは大乗だいじょう仏教ぶっきょうと、その伝播でんぱした密教みっきょうヒンドゥーきょう文化ぶんかけんでもあった。インドネシアには、さまざまな密教みっきょう遺跡いせきやヒンドゥーきょう遺跡いせきのこるが、東端ひがしばたバリ島ばりとうは、唯一ゆいいつのヒンドゥーきょうけんとして有名ゆうめいであり、現在げんざい土着どちゃく文化ぶんかとなった「ケチャ」は有力ゆうりょく観光かんこう資源しげんとなっている。
  4. ^ 梵文ぼんぶんOṃ cale cūle cundi svāhā とし、中間ちゅうかんさんを「遊行ゆぎょうとうとよ、いただきたぶさとうとよ、清浄せいじょうとうとよ」とするものもある[22]
  5. ^ ここでいう「たからびん」(ほうびょう)は、じゅん胝観おん持物もちものである「如意にょいびん」をしている。「如意にょいびん」は、「じゅん胝法」において道場みちば荘厳しょうごんよう重要じゅうようほうでもあり、三昧ざんまい耶形においては衆生しゅじょううるお方便ほうべんつかさどる。
  6. ^ きむつよしきね」(こんごうしょ)は「鈷杵」(ごこしょ)ともばれる。「じゅん胝法」においては菩提心ぼだいしん意味いみし、鈷杵の中心ちゅうしん部分ぶぶんさとりとしての種子しゅし(しゅじ:密教みっきょう用語ようご)である梵字ぼんじの唵(オン)おもね(ア)うん(フーム)現出げんしゅつするので、三昧ざんまい耶形においては智慧ちえつかさどる。
  7. ^ さんしき」(さんしき)はふとおつしんすうもん遁甲ろくみずのえかみみっつからなる古代こだい中国ちゅうごく運命うんめいがくひとつで、ずいからとう時代じだい完成かんせいされたといわれていて、日本にっぽんにも飛鳥あすか時代ときよから平安へいあん時代じだい渡来とらいしたとされている。袁了凡が「さんしき」をまなんだかどうかの史実しじつ確認かくにんしがたいが、現在げんざい中国ちゅうごく資料しりょうにそのような伝説でんせつせられている。これは「さんしき」のなかもん遁甲が中国ちゅうごくでは軍学ぐんがくへいじゅつにもかぞえられ、袁了凡やまと寇を平定へいていし、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい退しりぞけたという史実しじつたいしてうらないじゅつむすびつけて仮託かたくされたものともかんがえられる。また、袁了凡がまなんだのは「さんしき」ではなく、『かげ騭録』には「えき大家たいかである邵康ぶし先生せんせい秘伝ひでんいだあな先生せんせい」とあるところから、『すめらぎごくかみすう』(こうきょくしんすう;『邵子すめらぎごく経世けいせい』のこと)や、『てつばんかみすう』(てっぱんしんすう)であるとするせつもある。『鉄板てっぱんかみすう』はしんだい中国ちゅうごく流行りゅうこうした易学えきがくであるが、日本にっぽんではまだあまりられていない。その『鉄板てっぱんかみすう』のなかでも、「中州なかす」とばれる古流こりゅう邵康ぶしつてとされ、江戸えど時代じだい日本にっぽんには『ぜんていえきすう』の別名べつめい明代あきよ版本はんぽん中国ちゅうごく密教みっきょうともつたわっていた。
  8. ^ ここではかぞどしなので、52さいとする見方みかたもある。
  9. ^ 説法せっぽういんには2種類しゅるいある。日本にっぽんしき尊像そんぞう両手りょうてひらいた、如来にょらいもしくは菩薩ぼさつがた説法せっぽうしるし中国ちゅうごくしき尊像そんぞう両手りょうてゆびんだ「じゅん胝根ほんしるし」ともばれる説法せっぽうしるしむすぶ。
  10. ^ 京都きょうとにある仁和寺にんなじではない。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 西澤にしざわ嘉朗よしろう ちょ東洋とうよう庶民しょみん道徳どうとく - 『かげ騭録』の研究けんきゅう - 」、明徳めいとく出版しゅっぱんしゃ平成へいせい27年刊ねんかん
  • 長谷ながたにたからしげる へん大師だいし請来しょうらい 梵字ぼんじ真言しんごんしゅう』、国書刊行会こくしょかんこうかい昭和しょうわ51ねん(1976ねんかん

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