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はら在中ざいちゅう

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一品いっぴんとうちょうニューオータニ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう

はら 在中ざいちゅう(はら ざいちゅう、寛延かんえい3ねん1750ねん) - 天保てんぽう8ねん11月15にち1837ねん12月12にち))は、江戸えど時代じだい後期こうき絵師えしは致遠、じゅうざいちゅうごうで、べつごうゆうはら

伝記でんき[編集へんしゅう]

けい[編集へんしゅう]

京都きょうと出身しゅっしん先祖せんぞ若狭わかさこく小浜おばま出身しゅっしんで、生家せいか医師いしだったが、在中ざいちゅう絵師えしとなったことで、はら家業かぎょうとするようになった。石田いしだかそけなぎさ[1]、あるいは円山まるやま応挙おうきょ[2]とも、両者りょうしゃ折衷せっちゅうしてはじかそけなぎさまなび、一時いちじ兄弟子あにでしおうきょについたとするせつもある。『いにしえ備考びこう』によると、おうきょぼつ在中ざいちゅう自分じぶんおうきょ弟子でしではないと し、これにはらをたてたきしこまおうきょ円山まるやまおうみずのところにって門人もんじんちょう調しらべると、在中ざいちゅう自筆じひつ入門にゅうもん名簿めいぼいてあったという。実際じっさい大乗寺だいじょうじのこ円山まるやま門人もんじん名簿めいぼには、「はら在中ざいちゅう」や「きしこま」のしるされている[3]

反面はんめん在中ざいちゅう画風がふうおうきょ影響えいきょうつよくはみとめられず、応挙おうきょ一門いちもん総力そうりょくをあげた2にわたる大乗寺だいじょうじ障壁しょうへき制作せいさくにも在中ざいちゅう参加さんかしていない。今日きょうにもおおくの大作たいさくのこ在中ざいちゅうおうきょ弟子でしならば、当然とうぜん師弟してい関係かんけいしめ資料しりょうがもっとおお見出みだせるはずで、おうきょじゅうあきら一人ひとりにもかぞえられたであろうことをまえると、どちらともだんかたい。また、仏画ぶつが山本やまもとさがせふちまなんだという。

れき[編集へんしゅう]

在中ざいちゅう26さいたる安永やすなが4ねん1775ねんばん平安へいあん人物じんぶつ』には、応挙おうきょ伊藤いとう若冲じゃくちゅう池大雅いけのたいが与謝よさ蕪村ぶそん望月もちづきたませんはる曾我そがしょうしろなどにしてせられており、当時とうじすでに一家いっかとしてみとめられていた。寛政かんせい2ねん1790ねん)の禁裏きんり造営ぞうえいにも、狩野かの土佐とさ絵師えしや、応挙おうきょみなもと長沢ながさわあしゆききしこま田中たなか訥言らととも障壁しょうへき制作せいさく参加さんかしている。文化ぶんか10ねん1813ねんごろ出版しゅっぱんされた『平安へいあん画工がこう相撲すもう』では、一方いっぽう大関おおぜききしこまつづいて関脇せきわけしるされており、当時とうじ京都きょうと画壇がだん中心ちゅうしんてき存在そんざいだったことがかる。文化ぶんか文政ぶんせいには、だい寺社じしゃ障壁しょうへきおお揮毫きごうしており、それらのおおくは中国ちゅうごく日本にっぽんいにしえならっている。晩年ばんねん作品さくひんのこっているが、それらは細密さいみつ筆致ひっちあかりうらら彩色さいしきがなされており、いても筆力ひつりょく渋滞じゅうたいおとろえはかんじさせない。天保てんぽう8ねん1837ねん死去しきょ墓所はかしょ中京ちゅうきょう寺町てらまちどおり三条さんじょうあが天性寺てんしょうじ

画風がふう[編集へんしゅう]

江戸えど後期こうきおおくの絵師えしがそうであるように、てら々をたずねてもとあきらいにしえや、狩野かの元信もとのぶえいいさおらの名画めいが独学どくがくし、また土佐とさ細密さいみつ色彩しきさいどう時代じだいおうきょ写実しゃじつてき表現ひょうげんれ、はらばれる一派いっぱ形成けいせいした。長寿ちょうじゅだったこともあって作品さくひんがよくのこり、いきひろい。山水さんすい人物じんぶつ花鳥かちょうはしししなどを、かん大和絵やまとえなど多彩たさいほうえがきこなした。仏画ぶつが神像しんぞう肖像しょうぞう絵馬えまなどもたくみで、障壁しょうへき大作たいさくでも画面がめん破綻はたんなくまとめている。また、有職故実ゆうそくこじつ研究けんきゅうし、心学しんがくもの手島てじま堵庵とあん交流こうりゅうしたという。

長男ちょうなんはらざいせい次男じなんはらざいあきら三男さんなんはらざいぜん四男よつおはらざいおや梅戸うめどざいおや)。長男ちょうなんざいせい勘当かんどうされたため次男じなんざいあかり(33さいぼつ)が家督かとくぎ、はらはらざいあきらはらざいいずみつづく。弟子でし高倉たかくらざいこうなど。

代表だいひょうさく[編集へんしゅう]

作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 落款らっかん落款らっかん 備考びこう
百鬼夜行ひゃっきやこう屏風びょうぶ かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 72.0x227.0(かく 大倉おおくらしゅう古館ふるたて 1778ねん安永やすなが7ねん 款記「平安へいあんげん致遠」/「はら」「なかしゅぶんれんしるし 大徳寺だいとくじ塔頭たっちゅう真珠しんじゅあん所蔵しょぞう百鬼夜行ひゃっきやこう絵巻えまき」をいろかたちまで忠実ちゅうじつになぞりつつも、行列ぎょうれつ順序じゅんじょ屏風びょうぶ構成こうせいなおした作品さくひん[4]
慈雲じうん尊者そんじゃいわおじょう坐禅ざぜんぞう 1ぶく 高貴こうきてら 1783ねん天明てんめい3ねん 慈雲じうんさん
楊貴妃ようきひ骨相こっそう 1ぶく 高貴こうきてら 1783ねん天明てんめい3ねん 慈雲じうんさん
覇王はおうべつひめ 1ぶく さんまるなお蔵館くらだて 1785ねん天明てんめい5ねん
御蔭おかげさいまき かみほんちょしょく 1かん 38.5x707.2 香雪こうせつ美術館びじゅつかん寄託きたく 1785ねん天明てんめい5ねん 款記「おつふゆ 在中ざいちゅう[5]
やなぎょ かみほん淡彩たんさい ふすま10めん さんおんてら書院しょいん 1790ねん寛政かんせい2ねん
りょうさかい種子しゅし曼荼羅まんだら 2ぶく 高貴こうきてら 1791ねん寛政かんせい3ねん
神馬しんめ絵馬えま いたちょしょく 絵馬えま1めん 176x206.5 今宮いまみや神社じんじゃ 1796ねん寛政かんせい8ねん
東山ひがしやまさんじゅうろくみねまき かみほん淡彩たんさい 1かん 京都きょうと府立ふりつ総合そうごう資料しりょうかん京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん管理かんり 1803ねんとおる3ねん 款記「とおるさんねんみずのとはるさんがつ はら在中ざいちゅう寫真しゃしん けい
きゅう西明寺さいみょうじふすま ふすま4めん 大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかん 1808ねん文化ぶんか5ねん
冷泉れいせんためやすし 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 75.1x36.6 冷泉れいせん 1815ねん文化ぶんか12ねんごろ[6]
相国寺しょうこくじ方丈ほうじょう障壁しょうへき かみほん淡彩たんさい ふすま64めん 相国寺しょうこくじ 1819ねん文政ぶんせい2ねん 内訳うちわけは、「普陀落ふだらく」24めん、「きん棋書画図えず」20めん、「ぐんせん」20めん
三玄院客殿障壁画 ふすま31めん 大徳寺だいとくじ塔頭たっちゅうさんげんいん 1820ねん文政ぶんせい3ねん 内訳うちわけは「猿猴えんこう」5めん、「花鳥かちょう」8めん、「なみとらふすま14めん、「あしかり」8めん、「雪景せっけい山水さんすい」6めん
旭日きょくじつ濤の 壁画へきが4めん 2めん:210x281
2めん:31x281
高野山こうのやま西室にしむろいん 1821-22ねん文政ぶんせい4-5ねん
高野たかのさん常喜じょうぎいんふすま
渓流けいりゅう菊花きっか ろくきょく一双いっそう 149x210(かく 醍醐寺だいごじ 1822ねん文政ぶんせい5ねん
冷泉れいせんためあきら かみほんちょしょく 1ぶく 89.4x41.8 冷泉れいせん 1822ねん文政ぶんせい5ねん以前いぜん ためしょう寿像じゅぞう[7]
舟行しゅうこうおとずれかくれ かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい ふすま4めん 仁和寺にんなじおく座敷ざしき 1824ねん文政ぶんせい7ねん 落款らっかんななじゅうさいおうげん在中ざいちゅう」/「はら致遠じゅう白文はくぶんかたしるし・「在中ざいちゅうしゅぶんかたしるし 京都きょうと指定してい登録とうろく文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげい)。仁和寺にわじおく座敷ざしきぜん20めん在中ざいちゅうほか、たにぶんあきらひがし東洋とうようもりとおるさんきしこまらが4めんずつ制作せいさく
四季しき花鳥かちょう屏風びょうぶ はちきょくいちせき 仁和寺にんなじ 1829ねん文政ぶんせい12ねん
花鳥かちょう屏風びょうぶ かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 109x304.5(かく 聖護院しょうごいん 1829ねん文政ぶんせい12ねん)1829ねん
なみづるたけづる きょく一双いっそう 168.5x183.5(かく 真珠しんじゅあん 1829ねん文政ぶんせい12ねん
こう山彦やまびこ久郎ひさお画像がぞう 1ぶく 82.4x28.4 センチュリー文化ぶんか財団ざいだん 1835ねん天保てんぽう8ねん 款記「なかなわおきなぞう はちじゅうろくおうげん在中ざいちゅう」/「ゆうしゅぶん長方おさかたしるし
建仁寺けんにんじ開山かいさんどう方丈ほうじょう障壁しょうへき 建仁寺けんにんじ 内訳うちわけは「まつづる」16めん、「花鳥かちょう」14めん、「山水さんすい」10めん
真如寺しんにょうじ客殿きゃくでん障壁しょうへき かみほん墨画ぼくがちょしょく ふすま29めんかべ貼付ちょうふ1めん 真如寺しんにょうじ 内訳うちわけは、「四季しき花卉かきちょしょくふすま7めん、「西にしえびす墨画ぼくがふすま12めん、「すずめ朝顔あさがおちょしょくふすま6面壁めんぺき貼付ちょうふ1めん、「まつ猿猴えんこうふすま4めん
観音かんのんさんじゅう三身みつみ 145x54(かく むくいおんあん
百鬼夜行ひゃっきやこう絵巻えまき 1かん 大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかん 望月もちづき信成のぶなり寄贈きぞう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ はら梅戸うめど在中ざいちゅうさんなんざいおや花山院かさんのいん沙汰さたにより梅戸うめど養子ようしりした)など在中ざいちゅう子孫しそんいえのいいつたえ。
  2. ^ 寛政かんせいづくり内裏だいりともな在中ざいちゅう願書がんしょ
  3. ^ 開館かいかん20周年しゅうねん記念きねん 円山まるやま応挙おうきょてん 江戸えど時代じだい絵画かいが 実力じつりょくしゃ』(愛知あいちけん美術館びじゅつかん 中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ編集へんしゅう、2013ねん)176ぺーじ
  4. ^ 九州きゅうしゅう国立こくりつ博物館はくぶつかん編集へんしゅう 『オークラコレクション』 西日本新聞社にしにっぽんしんぶんしゃ TVQ九州きゅうしゅう放送ほうそう、2018ねん10がつ2にちだい34
  5. ^ 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん 香雪こうせつ美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう中之島なかのしま香雪こうせつ美術館びじゅつかん 開館かいかん記念きねんてん珠玉しゅぎょく村山むらやまコレクション」~あいし、まもり、つたえた~』 2018ねん3がつ21にちだい177
  6. ^ (財)ざいだんほうじん冷泉れいせん時雨しぐれてい文庫ぶんこ・NHK編集へんしゅうきょうみやび和歌わか(うた)のこころ 冷泉れいせん至宝しほうてん』 NHK NHKプロモーション、1997ねんだい199
  7. ^ (財)ざいだんほうじん冷泉れいせん時雨しぐれてい文庫ぶんこ・NHK編集へんしゅうきょうみやび和歌わか(うた)のこころ 冷泉れいせん至宝しほうてん』 NHK NHKプロモーション、1997ねんだい201

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

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