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石田いしだかそけなぎさ

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石田いしだ かそけなぎさ(いしだ ゆうてい、とおる6ねん1721ねん) - 天明てんめい6ねん5月25にち1786ねん6月21にち))は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき鶴澤つるさわ狩野かの一派いっぱ)の絵師えしかそけなぎさごうで、まもりじき円山まるやま応挙おうきょ田中たなか訥言はら在中ざいちゅうらのとしてられる。

略伝りゃくでん[編集へんしゅう]

播磨はりまこく明石あかしぐん西浦にしうらあたりぐみ西岡にしおかむら現在げんざい兵庫ひょうごけん明石あかし魚住うおずみまち西岡にしおか)にたちばな七衛しちえもんとしてまれる[1]兄弟きょうだいおおかったため、京都きょうと石田いしだはんみぎ衛門えもん養子ようしとなる。はんみぎ衛門えもん家業かぎょうあきらかではないが、町年寄まちどしよりつとめる有力ゆうりょくしゃだった。はんみぎ衛門えもん養子ようしをとった理由りゆう不明ふめいだが、菩提寺ぼだいじ過去かこちょう石田いしだ夫妻ふさい実子じっしかんする記述きじゅつがないことから、夫妻ふさい子供こども出来できなかったからだと推測すいそくされる。

狩野かのさがせかそけ系譜けいふ鶴沢つるさわさがせくじらまなんで禁裏きんり御用ごよう絵師えしとなり、たかられき7ねん1757ねん)7がつ5にちに37さい法橋ほっきょう、さらに安永やすなが6ねん1777ねん)9がつ28にち法眼ほうげんじょせられている[2]天明てんめい6ねん(1786ねん)郷里きょうり明石あかしぼっした。享年きょうねん66。はか京都きょうと中京ちゅうきょう錦大宮にしきおおみやまち豐藏とよぞうやまきゅうつとむてら淨土宗じょうどしゅう西山にしやま禪林寺ぜんりんじ

鶴沢つるさわ技法ぎほう基礎きそに、きょう狩野かの琳派ふうゆたかな装飾そうしょくせい写生しゃせいてき描写びょうしゃくわえた、いろどり緻密ちみつ画風がふう展開てんかいした。いえ石田いしだゆうなぎさまもりぜん)がまましいだが早世そうせいし、門人もんじんだったかしわ半兵衛はんべえ養子ようしりして石田いしだともなぎさ(叔明)と改名かいめい石田いしだいだ[3]。しかし、歴史れきしてき重要じゅうようなのは円山まるやま応挙おうきょ田中たなか訥言、はら在中ざいちゅう江村えむらはるはじめ金工きんこう一宮いちのみや長常ながつねらのというてんである。江戸えど初期しょき流行りゅうこうした江戸えど狩野かのと、写生しゃせい装飾そうしょく大和絵やまとえ復古ふっこといった多様たよう展開てんかいをみせる江戸えど中期ちゅうき以降いこう京都きょうと画壇がだんあいだをつなぐ絵師えしとして注目ちゅうもくされる。

代表だいひょうさく[編集へんしゅう]

作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 落款らっかん印章いんしょう 備考びこう
ぐんづる かみ本金ほんきんちょしょく ろくきょく一双いっそう 156.0x362.6〈かく 静岡しずおか県立けんりつ美術館びじゅつかん 法橋ほっきょう時代ときよ 款記「法橋ほっきょうかそけなぎさひつ
ぐんづるみぎせきひだりせき かみ本金ほんきんちょしょく ろくきょく一双いっそう 156.5x355.0〈かく ミネアポリス美術館びじゅつかん 法橋ほっきょう時代ときよ 款記「法橋ほっきょうかそけみぎわひとし[4]
四季しき花卉かき かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 166.5x358.5〈かく さんおんてら 法橋ほっきょう時代ときよ 款記「石田いしだ法橋ほっきょうかそけなぎさひつ」/「まもり直之なおゆきしるし白文はくぶんかたしるし
伊勢物語いせものがたり屏風びょうぶひだりせきみぎせき かみ本金ほんきんちょしょく ろくきょく一双いっそう 166.4x366.0〈かく ボストン美術館びじゅつかん 法橋ほっきょう時代ときよ 款記「法橋ほっきょうかそけなぎさひつ
須磨すま四季しき海浜かいひん かみ本金ほんきんちょしょく ろくきょく一双いっそう 166.5x359.5〈かく 聖護院しょうごいん 法眼ほうげん時代じだい かくせきに款記「法眼ほうげんかそけなぎさひつ」/みぎせき:「まもりじきしゅぶんかたしるしひだりせき:「かそけなぎさ白文はくぶんかたしるし
醍醐寺だいごじ三宝さんぼういんふすま葵祭あおいまつり》《蘇鉄そてつ 醍醐寺だいごじ 法眼ほうげん時代じだい
御所車ごしょぐるままつ白鷹しらたか かみほんちょしょく 衝立ついたて1 185.5x284.0 醍醐寺だいごじ 法眼ほうげん時代じだい みぎにそれぞれ款記「法眼ほうげんかそけなぎさひつ」/しるしぶん不明ふめい白文はくぶんかたしるししるしぶん不明ふめいしゅぶんかたしるし[5]
花卉かきふすま かみほんちょしょく しょうふすま4めん 薬師院やくしいん (明石あかし) 法眼ほうげん時代じだい まもり直之なおゆきしるししゅぶんかたしるし 書院しょいん違棚ちがいだなじょう所在しょざい薬師院やくしいんかそけなぎさ生家せいかたちばな菩提寺ぼだいじ
渓流けいりゅう鹿しか かみほん金地きんじ墨画ぼくが きょくいちせき 164.0x176.8 だいえい博物館はくぶつかん 法眼ほうげん時代じだい 款記「法眼ほうげんかそけなぎさひつ
月次げつじ風俗ふうぞく屏風びょうぶ 兵庫ひょうご県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ かそけなぎさ子孫しそん証言しょうげん土居どい(1970))。白井しらい華陽かようの『じょう要略ようりゃく』や、古筆こひつりょうなかの『扶桑ふそう人伝ひとづて』では「京都きょうと出身しゅっしん」としるされているが、こちらがただしいとかんがえられる。
  2. ^ 野口のぐちつよし絵師えし僧位そうい叙任じょにんをめぐる断章だんしょう --『画工がこうにん法橋ほっきょう法眼ほうげん年月としつきとめ』の紹介しょうかいをかねて--」(京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん紀要きよう朱雀すじゃくだい13しゅう、2001ねん)。
  3. ^ 江口えぐち恒明つねあき寛政かんせいねん以降いこう京都きょうと画壇がだんにおける絵師えし身分みぶん秩序ちつじょ」『美術びじゅつ論集ろんしゅう だい17ごう神戸大学こうべだいがく美術びじゅつ研究けんきゅうかい、2017ねん2がつ20日はつか、pp.68-69。
  4. ^ 平成へいせい8ねん春季しゅんき企画きかくてん図録ずろく 江戸えどきょう画壇がだん --鶴沢つるさわ中心ちゅうしんにして』pp.10-11。
  5. ^ 総本山そうほんざん醍醐寺だいごじ 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ編集へんしゅういのりと伝承でんしょう 醍醐寺だいごじてん 秀吉ひでよし醍醐だいご花見はなみよん〇〇ねん日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1998ねんp5がつ20日はつか、p.142-143,194。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]