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町年寄まちどしより

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

町年寄まちどしより(まちどしより)は、江戸えど時代じだいまちせいつかさど町役人まちやくにん筆頭ひっとう位置いちするものである。地域ちいきによってその名称めいしょうことなり、江戸えど長崎ながさき京都きょうと甲府こうふ福井ふくい鳥取とっとり敦賀つるが小浜おばま尾道おのみち酒田さかたなどでは町年寄まちどしよりだが、大坂おおさか岡山おかやま高知こうちさかい今井いまい平野へいや鹿児島かごしまではそう年寄としよりそう年寄としより)、名古屋なごやそうまちだい姫路ひめじ和歌山わかやま松江まつえ松坂まつさかではまちだい年寄としより岡崎おかざきではそう町年寄まちどしよりあたま青森あおもりでは町頭まちがしら新潟にいがたではけんだんんだ[1]選任せんにん方法ほうほうは、世襲せしゅうせい場合ばあい選挙せんきょめられる場合ばあいとがあった[1]

江戸えど町年寄まちどしより

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江戸えど町人ちょうにん支配しはい町奉行まちぶぎょうおこない、町奉行まちぶぎょうしたに3にん町年寄まちどしよりがいた。かくまちには町名ちょうめいぬしがいて、町年寄まちどしより支配しはいけた。また、町年寄まちどしよりしたには江戸えどまち区画くかく整理せいり地所じしょ受渡うけわたしにたずさわる地割じわりやく付随ふずいした。3にん町年寄まちどしよりは、いずれも江戸えど草創そうそう以来いらい旧家きゅうかで、奈良屋ならや樽屋たるや喜多村きたむらさんいえ代々だいだい世襲せしゅうつとめた[2][3][4]。この3いえ家格かかく奈良屋ならや樽屋たるや喜多村きたむらじゅんとなる。

奈良屋ならや

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とおる10ねん1725ねん)8がつ提出ていしゅつされた由緒ゆいしょしょによると、三河みかわ時代じだい徳川とくがわ家康いえやすつかえていたとしるされ、また奈良屋ならや先祖せんぞ大和やまとこく奈良ならんでいた大館おおだて一族いちぞくで、これが「奈良屋ならや」という屋号やごうもととなった[2]天正てんしょう10ねん1582ねん)に本能寺ほんのうじへん織田おだ信長のぶなが明智あけち光秀みつひでたれたさい家康いえやす伊賀越いがごえのがれようとしたときしたがった人物じんぶつなか奈良屋ならや先祖せんぞである小笠原おがさわら小太郎こたろうがいたという記録きろくのこっている。

当主とうしゅ代々だいだいみぎ衛門えもん名乗なのっていた[2]。7だいみぎ衛門えもんとおる改革かいかく問屋とんや仲間なかま結成けっせい事務じむ中心ちゅうしんになって担当たんとうし、8だいみぎ衛門えもんさる町会ちょうかいしょにおいて札差ふださし仕法しほう改正かいせい業務ぎょうむつとめ、さる町会ちょうかいしょ勤務きんむちゅう帯刀たいとうゆるされる[2]

10代みぎ衛門えもん文政ぶんせい4ねん1821ねん)にさる町会ちょうかいしょ業務ぎょうむによくつとめたとして白銀はくぎん10まいあたえられ、どう7ねん1824ねん)にいちだいかぎりの帯刀たいとうゆるされ、天保てんぽう5ねん1834ねん)に苗字みょうじゆるされかんしょうすることになる[2]など、その活躍かつやくがもっとも目立めだ人物じんぶつである。

樽屋たるや

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樽屋たるや先祖せんぞ刈谷かりやしろ城主じょうしゅ水野みずの忠政ただまさで、そのまごであるたるさんよんろうかんただし徳川とくがわ家康いえやす従兄弟いとこにあたり、天正てんしょう18ねん1590ねん)の家康いえやす江戸えどりにもさんよんろうしたがった[3]町年寄まちどしよりへの就任しゅうにん同年どうねん8がつ15にちであるが、由緒ゆいしょしょによれば初代しょだいさんよんろう藤左衛門とうざえもんちゅうもとである。当主とうしゅ代々だいだい藤左衛門とうざえもん名乗なの[3]が、後見こうけんやくとして町年寄まちどしより就任しゅうにんしたもの与左衛門よざえもん名乗なのっている[3]

12代目だいめ樽屋たるや与左衛門よざえもんは、郷士ごうしいえ養子ようしった樽屋たるやたけ左衛門さえもん家系かけいで、40さいとき江戸えどばれて後見人こうけんにんとなった。寛政かんせい改革かいかくにおいて札差ふださし仕法しほう改革かいかく貢献こうけんし、さる町会ちょうかいしょ勤務きんむちゅう帯刀たいとう奈良屋ならやみぎ衛門えもんともゆるされた[3]退役たいえきかぶ仲間なかま政策せいさく推進すいしん従事じゅうじした。

たるはか蔵前くらまえ浄土宗じょうどしゅう西福寺さいふくじにある[3]町年寄まちどしより2いえ墓所はかしょ不明ふめいである。

喜多村きたむら

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喜多村きたむらは、その先祖せんぞ家康いえやすしたがって江戸えどりし武士ぶしとして奉公ほうこうしていたが、初代しょだい文五郎ぶんごろう町人ちょうにんになりたいとねがったため「御馬おんま飼料しりょう御用ごよう」と「江戸えど町年寄まちどしよりやくせきはちしゅう町人ちょうにん連雀れんじゃく[5]しょうさつ長崎ながさきいと割符わりふさんヶ条かじょう役儀やくぎ」をめいぜられたという。また、喜多村きたむら明智あけち光秀みつひで子孫しそんであるとする伝承でんしょうがある[6]が、裏付うらづけはできていない[7]文五郎ぶんごろう隠居いんきょするさい家督かとく二分にぶんし、婿むこの彦右衛門えもん町年寄まちどしよりやくゆずり、実子じっし文五郎ぶんごろう相続そうぞくさせたと由緒ゆいしょしょにある。この2代目だいめ彦右衛門えもん金沢かなざわ町年寄まちどしよりからの入婿いりむこである。

当初とうしょは、喜多村きたむらまち支配しはいほかに、うま飼料しりょう補給ほきゅうする役割やくわり連雀れんじゃくしょうさつ特権とっけんあたえられていたことになる。

初代しょだい弥兵衛やへえのちは、彦右衛門えもんまたは彦兵衛ひこべえ名乗なのものおおかった。最後さいご当主とうしゅ又四郎またしろう名乗なのった[4]

町年寄まちどしより将軍しょうぐん

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江戸えど時代じだい初期しょきには、町年寄まちどしよりをはじめとした江戸えど町人ちょうにんたちと将軍しょうぐんとの接触せっしょくがあった。

寛永かんえい11ねん1634ねん)7がつ徳川とくがわ家光いえみつ上洛じょうらくしたさいに、江戸えど町年寄まちどしよりたちが「祝儀しゅうぎ」としてきょうをし、樽屋たるや藤左衛門とうざえもん御目見得おめみえおおけられたことが記録きろくされている。

喜多村きたむら由緒ゆいしょしょにも、町年寄まちどしより2代目だいめの彦右衛門えもんいえこう水泳すいえいつづみ稽古けいこをつけており、上洛じょうらくとき徳川とくがわ家光いえみつ富士川ふじかわわたさい先導せんどうをつとめたという記述きじゅつのこされている[8]

このような将軍しょうぐんとの交流こうりゅうは、時代じだいるにれてくなっていったが、将軍しょうぐん代替だいがわりにともな御礼おれい出頭しゅっとう正月しょうがつ年頭ねんとう御礼おれい毎回まいかいおこなわれた。

元和がんわ年間ねんかん(1615 - 24)から定例ていれいになったとわれる正月しょうがつさんにち御目見得おめみえでは、大坂おおさかそう年寄としよりさかい京都きょうと町年寄まちどしよりなど他国たこく町人ちょうにんたちとも拝謁はいえつするが、そのさい江戸えど町年寄まちどしより全国ぜんこく町人ちょうにん筆頭ひっとうとして列席れっせきした。また、拝謁はいえつ江戸城えどじょうみかどかんあいだおこなわれるが、敷居しきいないすすめるのは町年寄まちどしよりのみで、御用達ごようたし町人ちょうにん敷居しきいがいでの拝謁はいえつとされた[9]

将軍しょうぐん正月しょうがつ上野うえのひがし叡山えいざん寛永寺かんえいじしばさんえんやま増上寺ぞうじょうじへの墓参ぼさんおこなうが、そのさい御目見得おめみえ定式ていしきされたものであった。ほかにも法事ほうじのための市中しちゅうへの御成おなり日光にっこうしゃさんときにも、町年寄まちどしよりたちは道筋みちすじ目通めどおりすることがゆるされていた[10]

町年寄まちどしより職務しょくむ

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町年寄まちどしより町役人まちやくにん筆頭ひっとうであり、その業務ぎょうむ多岐たきにわたった。

町年寄まちどしより屋敷やしき幕府ばくふから拝領はいりょうされたものであり、奈良屋ならや樽屋たるや喜多きたむらでそれぞれ本町ほんまちいち丁目ちょうめ丁目ちょうめさん丁目ちょうめ本町ほんちょうどおりにめんした角地かどちにあった。武家ぶけ同様どうよう住居じゅうきょ役宅やくたくねており、これを町年寄まちどしより役所やくしょび、様々さまざま執務しつむおこなった。

まち統制とうせい

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とおる以前いぜん町奉行まちぶぎょうしょ職制しょくせいがまだととのっていない時期じきには、奉行ぶぎょうしょには民政みんせいかんする職掌しょくしょう存在そんざいせず、まちさわつうじて統制とうせいおこな程度ていどで、具体ぐたいてき業務ぎょうむかんしては町年寄まちどしより町奉行まちぶぎょうけて担当たんとうしていた[11]

元禄げんろくのころには問屋とんや仲間なかま結成けっせいおこなわれるようになり、それらの組合くみあい結成けっせい事務じむ町年寄まちどしより仕事しごとであった。とおる8ねん1723ねん)4がつには、質屋しちや古着ふるぎなど紛失ふんしつぶつ調査ちょうさ関係かんけいする商売人しょうばいにんたいし、組合くみあい帳面ちょうめんを3さつ作成さくせいさせ、2さつ印鑑いんかんさず南北なんぼく町奉行まちぶぎょうしょ提出ていしゅつし、のこる1さつ印形いんぎょうして町年寄まちどしより提出ていしゅつせよとめいじている。これらの組合くみあい帳簿ちょうぼ保管ほかん町年寄まちどしより業務ぎょうむであった。また、組合くみあいへの新規しんき加入かにゅう相続そうぞく改名かいめいかぶ譲渡じょうとなどは、かならとどることが義務ぎむづけられた[11]

ほかにも、安永やすなが2ねん1773ねん)9がつ薪炭しんたん仲買なかがい組合くみあいさだめでは、かぶ仲間なかまへの加入かにゅうかぶ譲渡じょうと休業きゅうぎょうなど、組合くみあい運営うんえいかかわる事柄ことがらすべ樽屋たるやとどることが義務ぎむづけられている。そして18世紀せいき初頭しょとうには、当時とうじ1800ていもあったとわれるまちかごを600てい制限せいげんし、焼印やきいんさせて樽屋たるや管理かんりするようにめいじた[11]

こうしたまち商人しょうにん職人しょくにん統制とうせいかかわる多様たよう業務ぎょうむすべ町年寄まちどしより職務しょくむとなっていた。

また、江戸えど南北なんぼく町奉行まちぶぎょうしょは2つにかれていてもあつか業務ぎょうむおなじだったが、書物しょもつさけ廻船かいせん材木ざいもく問屋とんや北町きたまち奉行ぶぎょうしょ呉服ごふく木綿ゆう薬種やくしゅ問屋とんやかんすることはみなみ町奉行まちぶぎょうしょあつかうというように窓口まどぐちかれていた。そして前者ぜんしゃかけ樽屋たるやが、後者こうしゃ奈良屋ならやかけとして業務ぎょうむあつかうというように、その役割やくわり分担ぶんたんした[12]

代官だいかん兼務けんむ

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3にん町年寄まちどしより豊島としまぐん関口せきぐちむら小日向おびなたむら金杉かなすぎむら代官だいかんつとめていた。神田かんだ上水じょうすい玉川上水たまがわじょうすい支配しはいかれらの仕事しごとであり、玉川上水たまがわじょうすい完成かんせいしたときにも、上水じょうすいりょう脇見わきみぶん御用ごように4めい代官だいかん手代てだい1人ひとりずつと町年寄まちどしより1にん出張しゅっちょうした[13]

寛文ひろふみ6ねん1666ねん)になり、神田かんだ上水じょうすい本所ほんじょ上水じょうすい玉川上水たまがわじょうすい上水じょうすい奉行ぶぎょうもうけられ、管理かんりかく奉行ぶぎょうあつかいとなるが、神田かんだのぼる水取みずとり入口いりくち地域ちいきにある関口せきぐちむら小日向おびなたむら金杉かなすぎむら町年寄まちどしよりによる代官だいかん支配しはい継続けいぞくしている[13]

寛文ひろふみ10ねん1670ねん)には、上水じょうすい管理かんり問題もんだいじょうからふたた上水じょうすい奉行ぶぎょうから町年寄まちどしより管理かんりうつされた。このとき水源すいげん羽村はむらから府内ふないまでの13さと水路すいろ両側りょうがわ3あいだ町年寄まちどしより所管しょかんとし、上水じょうすい南側みなみがわ喜多村きたむら彦兵衛ひこべえ町年寄まちどしより3代目だいめ)、北側きたがわ奈良屋ならやみぎ衛門えもん担当たんとうした。このさいに、上水じょうすい請負人うけおいにんである(玉川たまがわ)とむら々とのあいだ紛争ふんそうをおこさないためと、水道すいどう不浄ふじょうぶつ投入とうにゅうされないために、自己じこ負担ふたんまつすぎ苗木なえぎえたという[13]

寛文ひろふみ12ねん1672ねん)に、神田かんだ上水じょうすい大洗おおあらいせき付近ふきん町方まちかた支配しはいをのぞいた在方ざいかたぶん代官だいかん支配しはいとされた[13]

元禄げんろく6ねん1693ねん)には神田かんだ玉川たまがわりょう上水じょうすいみち奉行ぶぎょう管理かんりとなり、町奉行まちぶぎょう上水じょうすい管理かんり廃止はいしによって、町年寄まちどしより代官だいかん業務ぎょうむおよび水道すいどう管理かんり業務ぎょうむ廃止はいしとなった。

地所じしょわた

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まちわたしにさいしては、町人ちょうにん管理かんりする町奉行まちぶぎょうしょ与力よりき同心どうしんとともに町年寄まちどしより3にん立合たちあうことが通例つうれいであった。この立合たてあい町年寄まちどしより義務ぎむとなっていたが、まち支配しはい事務じむ多忙たぼうであるため、町年寄まちどしより本人ほんにん出張しゅっちょうすることはまれで、手代てだいたちがかわりに出向でむいていたという。また、このわたしには、町方まちかた地割じわりやく立会たちあうことになっていた。この地割じわりやくは、宝永ほうえい7ねん1710ねん以後いご町年寄まちどしより樽屋たるや分家ぶんけ代々だいだいその職務しょくむおこなった[14]

武家ぶけ寺社じしゃ町人ちょうにん周辺しゅうへん代官だいかん支配しはいといった土地とち支配しはいえには、地割じわり奉行ぶぎょうによる面積めんせき測定そくていのち町奉行まちぶぎょう支配しはいとなる場合ばあいには、これを確認かくにんする証文しょうもん住民じゅうみんから提出ていしゅつさせ、町年寄まちどしより役所やくしょ保管ほかんすることになっていた。そしてかくまちから名主なぬし支配しはいかんする願書がんしょ提出ていしゅつして、支配しはい名主なぬし決定けっていされた。またまち絵図えず作成さくせい町名ちょうめい決定けってい上水じょうすい井戸いど新設しんせつ沽券こけんじょう作成さくせいもの揚場あげば(ものあげば)など付属ふぞく施設しせつ見分けんぶん要請ようせいなど、まちかかわるおおくの事務じむ町年寄まちどしより指導しどうしたのである[15]

まちさわ

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江戸えどまちにだされるさわは、「そうさわ(そうぶれ)」と「まちさわ」のふたつにわけられる[16]。このうち、まちさわ町奉行まちぶぎょう自己じこ権限けんげん町中まちなかはっするものである[16]

さわ伝達でんたつは、町奉行まちぶぎょう町年寄まちどしよりとしばん(としばん)名主なぬし町名ちょうめいぬし月行事つきぎょうじ家主やぬし) → 町人ちょうにんという順序じゅんじょおこなわれる[16]重要じゅうようまちさわ申渡もうしわたしにさいしては、ぜん名主なぬし町奉行まちぶぎょうしょ町年寄まちどしより役所やくしょしたが、まちすう増加ぞうかするうちとしばん名主なぬしんでもうわた場合ばあいおおくなった。また、町年寄まちどしより町奉行まちぶぎょうしょわってまちさわはっすることもあった[16]さわけた名主なぬし支配しはいまちごとに連判れんばん証文しょうもんって町年寄まちどしより役所やくしょおさめた。これは、とおる6ねん1721ねん)からは、支配しはいごとに1さつにまとめるよう簡素かんそされた。

調査ちょうさ調停ちょうてい事務じむ

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幕府ばくふ法令ほうれい政策せいさく基本きほんてき前例ぜんれい主義しゅぎであるため、事業じぎょう計画けいかくがなされるたび前例ぜんれい調査ちょうさおこなわれた。町方まちかたにおいては、町奉行まちぶぎょうしょ計画けいかく願書がんしょされると、町年寄まちどしよりつうじて前例ぜんれい調査ちょうさまち々で支障ししょうがあるかどうかの調査ちょうさをするという手順てじゅんまれた。それ以外いがいにも、江戸えどまち一般いっぱんてき状況じょうきょうかんする調査ちょうさ町年寄まちどしよりめいじられることもあった。

また、町奉行まちぶぎょうしょ提訴ていそされた民事みんじ関係かんけい訴訟そしょうまかされて内済ないさい示談じだん)で解決かいけつするようにと申渡もうしわたされることもあった。元々もともと民事みんじ訴訟そしょう町役人まちやくにんたちによって調停ちょうていされるものだったのが、次第しだい町奉行まちぶぎょうしょ訴訟そしょうまれるようになった。とく金銀きんぎん出入でいり(きむ公事こうじ)にかんする訴訟そしょう倍増ばいぞうし、奉行ぶぎょうしょ機能きのう停滞ていたいさせるまでになった[17]。そのため、処理しょりしきれなくなった奉行ぶぎょうしょから町年寄まちどしよりへとうったえをわたされるかたちになったのである。

とおる6ねん(1721ねん)5がつ喜多村きたむら役所やくしょとしばん名主なぬしばれ、町年寄まちどしより3にん列席れっせきのもとで訴訟そしょうなどについてもうわたされた。町奉行まちぶぎょうから訴訟そしょう呼出よびだしじょう雛形ひながたしめされ、訴訟そしょうさいしての家主やぬし名主なぬし人組にんぐみ出頭しゅっとう形式けいしきめられ、願書がんしょ処理しょりについても形式けいしきさだめられた。文面ぶんめんにも、訴訟そしょう双方そうほうはなしあい内済ないさいとすることがしるされ、はないでらちかないとき町奉行まちぶぎょうしょ裁許さいきょすると規定きていされた。

人別にんべつちょうその管理かんり

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江戸えどでは切支丹きりしたん宗門しゅうもんあらため毎年まいとしおこなわれており連判れんばん証文しょうもん提出ていしゅつされていたが、町奉行まちぶぎょうしょ人別にんべつちょう掌握しょうあくしたことは[18]人別にんべつあらため恒常こうじょうてきおこなわれるようになるのは、とおる改革かいかく以後いごのことである。

とおる6ねん(1721ねん)6がつれいで、諸国しょこく田畑たはた反別たんべつ人口じんこう領主りょうしゅごとにしょげさせた。10月には奈良屋ならやからかく町名ちょうめいぬしたい人別にんべつちょう作成さくせい徹底てっていしていなかったことをもうつたえさせ、以後いご町年寄まちどしよりのもとに人別にんべつちょうあつめ、毎月まいつき提出ていしゅつさせるよう町奉行まちぶぎょうしょからめいじられた。しかし、町年寄まちどしよりとしてはすべてのまちから提出ていしゅつさせるのはおおごとなので、従来じゅうらいどお人別にんべつちょう名主なぬし保管ほかんとし、人数にんずうのみを4がつと9がつの2かい報告ほうこくすることにしたいと答申とうしんし、そのようにめられた。これにより、町年寄まちどしよりかくまちそう人数にんずう男女だんじょべつ人数にんずう家持いえもち差配さはいじんてん区別くべつ父母ちちはは妻子さいし居候いそうろうべつ出稼でかせぎじん召使めしつかいなどの事項じこう把握はあくすることとなった。寛政かんせい3ねん1791ねん)のまちほう改正かいせいでは、この人別にんべつしょじょう提出ていしゅつは4がつのみで、9月には変動へんどうしたかずだけ訂正ていせいすればよいとされている[15]

跡式あとしき跡目あとめ相続そうぞく)は、親類しんるい名主なぬし人組にんぐみ立合たちあいのもとで生前せいぜん遺言ゆいごんじょう作成さくせいし、町年寄まちどしよりの「遺跡いせきちょう」に記入きにゅうしておくようにといのちされた。さらに、病人びょうにんなどが遺言ゆいごんじょう作成さくせいこばんでも親類しんるいなどがいいきかせてかせること、遺言ゆいごんがあっても町年寄まちどしよりとばり記入きにゅうされていない場合ばあい裁判さいばんになれば親類しんるい名主なぬし人組にんぐみ過料かりょうめいじること、相続そうぞくじん頓死とんししたとき筋目すじめただして相続そうぞくさせるようにとめられている。寛文ひろふみ2ねん1662ねん)のさわでは相続そうぞくじん死後しご跡式あとしき問題もんだい発生はっせいした場合ばあい遺言ゆいごんじょうがあっても町年寄まちどしより確認かくにん記帳きちょうをしないとしている。しかし、このようなめがなされても、町年寄まちどしより遺跡いせきちょうへの記帳きちょう公事こうじとなるれいもあったという[19]

また、まち々での切支丹きりしたん宗門しゅうもんあらためかかわるてら手形てがたてら請状)は、町中まちなか連判れんばん手形てがた町年寄まちどしより提出ていしゅつすることとなっていた。その内容ないようは、町名ちょうめいぬし町内ちょうない年寄としより月行事つきぎょうじ確認かくにんけて、別途べっと町年寄まちどしより手形てがた提出ていしゅつし、家持いえもち名主なぬしへ、借家しゃくやてんひと家主やぬしへ、奉公人ほうこうにん主人しゅじん提出ていしゅつし、それぞれに保管ほかんする仕組しくみであった[20]

日傭ひよう

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あかりれき大火たいか寛文ひろふみ5ねん1665ねん)に日傭ひよう(ひようざ)が設置せっちされ、日雇ひやとい人足ひとあしには鑑札かんさつ交付こうふしてさつやくぜに徴収ちょうしゅうした。しかし、人足ひとあしたちにはさつしゃおお効果こうかかったため、宝永ほうえい5ねん1708ねん)にまち々の家主やぬし日雇ひやといじん把握はあくし、名主なぬし人別にんべつちょう作成さくせいしてからさつわた体制たいせいつくられた。のべとおる4ねん1747ねん)には、さつやくぜに徴収ちょうしゅう家主やぬしがおこない、名主なぬしとおして町年寄まちどしより奈良屋ならや役所やくしょ納入のうにゅうする方式ほうしきとなった。たかられき年間ねんかんには数次すうじにわたり、日雇ひやとい奈良屋ならや役所やくしょやくぜに事務じむ交替こうたいあつかったが、たかられき10ねん1760ねん)に奈良屋ならや徴収ちょうしゅう固定こていした。この日雇ひやといは、寛政かんせい9ねん1797ねん)に廃止はいしとなった[21]

その

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町名ちょうめいぬし退役たいえきするときには、支配しはいまち家主やぬし一同いちどうれんしるしした退役たいえきねがいと、家主やぬし一同いちどうからされるあと名主なぬしねがいを、町年寄まちどしより提出ていしゅつする必要ひつようがあった[22]

また、町年寄まちどしより住居じゅうきょ以外いがいにも拝領はいりょうあたえられており、その地主じぬしとして地所じしょ施設しせつ木戸きど井戸いど雪隠せっちんとう)の修復しゅうふく責任せきにんっていた。ほかにも、町奉行まちぶぎょう交替こうたいしたときには、町名ちょうめいぬしとも新任しんにん町奉行まちぶぎょうもと挨拶あいさつ出頭しゅっとうした[23]

慶長けいちょう7ねん1602ねん)の伝馬てんま制度せいど改正かいせいたって、奈良屋ならや樽屋たるや東海道とうかいどう中山道なかせんどう交通こうつう運賃うんちん決定けってい参与さんよし、慶長けいちょう9ねん1604ねん)には一里塚いちりづか建設けんせつにもかかわった。元和がんわ6ねん1620ねん)、2代目だいめ樽屋たるや藤左衛門とうざえもん元次もとつぐ)は、浅草あさくさ蔵前くらまえ米蔵よねぞう浅草あさくさ御蔵おぐら)の設計せっけい従事じゅうじした。さらに、寛政かんせい元年がんねん1789ねん)、札差ふださし仕法しほう改革かいかくあんに12代目だいめ樽屋たるや与左衛門よざえもん参画さんかくし、棄捐れい発令はつれいされたときつくられた札差ふださしへの資金しきんける会所かいしょ事務じむの引けも与左衛門よざえもんまかされることとなった。そのさい樽屋たるや役宅やくたくはそのまま札差ふださし仕法しほうのための役所やくしょとして使つかわれ、さるまち貸金かしきん会所かいしょができるまでそこで札差ふださしたいする様々さまざま事務じむおこなった。天保てんぽう13ねん1842ねん)3がつには10代目だいめ奈良屋ならやみぎ衛門えもんが「市中しちゅう取締とりしまりすじさわかたかけ」をめいぜられるなど、様々さまざま職務しょくむかけとして町年寄まちどしより登用とうようされることがあった[24]

町年寄まちどしより苗字みょうじ帯刀たいとう熨斗目のしめ着用ちゃくよう

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町年寄まちどしより身分みぶん町人ちょうにんである。しかし、特権とっけん町人ちょうにん同様どうよう町人ちょうにんさい上位じょういにあって武士ぶし同等どうとう権威けんいあたえられていたため、代々だいだい帯刀たいとう熨斗目のしめ着用ちゃくようゆるされてきた。町人ちょうにんたち帯刀たいとう禁止きんしされるなか町年寄まちどしよりとも若党わかとうにもかたなすことがゆるされたと『重宝ちょうほうろく』にもしるされている。天和てんわ3ねん1683ねん)2がつ、これらの特権とっけん剥奪はくだつされ、熨斗目のしめ着用ちゃくようどう時期じき禁止きんしになったとおもわれる[25]

町年寄まちどしより帯刀たいとう禁止きんしは、寛政かんせい2ねん1790ねん)に樽屋たるや与左衛門よざえもんが、札差ふださし仕法しほう改正かいせい事務じむ従事じゅうじするさいさる町会ちょうかいしょ勤務きんむちゅう帯刀たいとう許可きょかされるまで、100年間ねんかんつづくこととなる。奈良屋ならやみぎ衛門えもん奈良屋ならや8代目だいめ)もさる町会ちょうかいしょ勤務きんむちゅう帯刀たいとうゆるされたほか文政ぶんせい7ねん(1824ねん)12月に「用向ようむき品々しなじな取扱とりあつか出精しゅっせい骨折こっせつこう」という理由りゆう町年寄まちどしより3めいともいちだいかぎりの帯刀たいとう許可きょかされた。ただし、このとき許可きょか評定ひょうじょうしょ町奉行まちぶぎょう役宅やくたくへの出頭しゅっとうわたし、受取うけとりのためのまわりつとむのみに限定げんていされ、町奉行まちぶぎょうしょ玄関げんかんないへのかたな持込もちこみや登城とじょう他行たこう一般いっぱんさい帯刀たいとう許可きょかされていない。

また、苗字みょうじかんしては、樽屋たるや奈良屋ならや屋号やごうであって苗字みょうじとはみとめられていない。喜多村きたむらは、とおる18ねん1733ねん)の町奉行まちぶぎょうしょしょじょうによれば、町奉行まちぶぎょう支配しはいものとして苗字みょうじゆるされていたとある。ただし、町奉行まちぶぎょう支配しはい町人ちょうにんなかで、ほかにも苗字みょうじ使用しようしているものおおいが、「いずれも自分じぶん内証ないしょうにてうたえ」ているものとして、公式こうしきにはみとめられていない。樽屋たるやは12代目だいめ与左衛門よざえもん札差ふださし仕法しほう改正かいせい尽力じんりょくしたことにより、樽屋たるや以後いごたる」という苗字みょうじしょうすることを許可きょかされた。奈良屋ならやは、文政ぶんせい12ねん1829ねん)10がつ苗字みょうじ名乗なのりれるよう願書がんしょ提出ていしゅつしたがみとめられず、のちに10代目だいめ奈良屋ならやみぎ衛門えもん天保てんぽう5ねん(1834ねん)3がつ上申じょうしんしょ提出ていしゅつ町奉行まちぶぎょう老中ろうじゅう上申じょうしんしたため、同年どうねん12がつに「たて(たち)」というせい名乗なのることがゆるされた。

もとぶん2ねん1737ねん)9がつ将軍しょうぐん宮参みやまいりにさいし、町年寄まちどしより熨斗目のしめしろ帷子かたびら着用ちゃくよう許可きょかねがい町奉行まちぶぎょうから老中ろうじゅう提出ていしゅつするが、これは許可きょかとなる。安永やすなが3ねん1774ねん正月しょうがつ銀座ぎんざ年寄としよりが、天明てんめい3ねん1783ねん)12月に銀座ぎんざつね大黒おおくろちょう左衛門さえもん熨斗目のしめ着用ちゃくようゆるされたため、町年寄まちどしよりたちも許可きょかるためになん請願せいがんし、天明てんめい4ねん1784ねん)の12月27にちにようやく許可きょかりることとなった[26]

町年寄まちどしより家督かとく相続そうぞく

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町年寄まちどしより家督かとく相続そうぞくするときや、子供こども見習みなら業務ぎょうむをさせるときには、そのたび町奉行まちぶぎょう許可きょかて、その相続そうぞく正式せいしき確認かくにんしてもらわなければならなかった。

町年寄まちどしより本人ほんにん死亡しぼうした場合ばあい親類しんるいたちから2人ふたり町年寄まちどしより願書がんしょ提出ていしゅつし、町奉行まちぶぎょうとどける。願書がんしょ受理じゅりした南北なんぼくりょう町奉行まちぶぎょう上申じょうしんしょ作成さくせいして関係かんけい書類しょるい添付てんぷ老中ろうじゅう上申じょうしんし、許可きょかりると関係かんけいしゃ町奉行まちぶぎょうしょびだすこととなった[27]

安永やすなが7ねん1778ねん)8がつに、10代目だいめ藤左衛門とうざえもん息子むすこ吉五郎きちごろう樽屋たるや13代目だいめ)に家督かとく相続そうぞくするさいには、後見こうけんやくとして9代目だいめ与左衛門よざえもんはやしすけ(11代目だいめ与左衛門よざえもん)に後見こうけんやく依頼いらいしたが、そのときにも町奉行まちぶぎょうしょとの書状しょじょうりや奉行ぶぎょうしょへの出頭しゅっとうなどの手続てつづきがあったのちみとめられている。出頭しゅっとうさいには、奈良屋ならや喜多村きたむらりょう同道どうどうするようにという通知つうちされた[28]

町年寄まちどしより収入しゅうにゅう拝借はいしゃくきん

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町年寄まちどしよりそうまち支配しはいおこなうにあたり、拝領はいりょうした屋敷やしき表側おもてがわ町人ちょうにんし、その地代じだい収入しゅうにゅう職務しょくむ使つか経費けいひとしていた。また、古町ふるまち町人ちょうにんから「晦日みそかぜに[29]」とばれるかね受取うけとっている。これらの収入しゅうにゅう寛政かんせい元年がんねん(1789ねん)では、かくいえ600りょう前後ぜんこうけい1840りょうほどとなっている。本町ほんまち以外いがいにも3いえでそれぞれ拝領はいりょうたまわり、そこの地代じだい収入しゅうにゅうていた[30]

そのつくられた蔵屋敷くらやしき倉庫そうことしてしていたが、とおる改革かいかくによってまち土蔵どぞうつくりがえたために利用りようしゃり、またとおる14ねん1729ねん)の地代じだい引下ひきさげのまちさわされるなど、時代じだいによって収入しゅうにゅうることもあり、また火災かさいのため拝領はいりょう経営けいえい順調じゅんちょうにいかないこともおおかった[31]

このほかに、樽屋たるやますねており、ます販売はんばい代金だいきん収入しゅうにゅうとしてている。また、神田かんだ玉川たまがわりょう上水じょうすい事務じむ担当たんとうしていた時期じきにはかく100ひょうずつの扶持ふちまいを、寛政かんせい以後いごには札差ふださし仕法しほう改正かいせい御用ごようかけとして100ひょう扶持ふちまい支給しきゅうされていた[30]

業務ぎょうむのための経費けいひ不足ふそくしたとき町年寄まちどしより幕府ばくふに「拝借はいしゃくまいきん(べいきん)」をねがた。初期しょきは「拝領はいりょうきん」であって返済へんさいする必要ひつようく、寛永かんえい14ねん1637ねん)、あかりれき3ねん1657ねん)、のべたから元年がんねん1673ねん)にはそれぞれかく500りょうずつが下賜かしされた。とくあかりれき3ねん(1657ねん)はあかりれき大火たいかのちのことでもあり、500りょうほかぎん20貫目かんめやく333りょうあまり)ずつが支給しきゅうされた。しかし、宝永ほうえい7ねん(1710ねん)に喜多村きたむらねがときこめ1せんひょうの「拝借はいしゃく」であった。さらに、とおる6ねん(1721ねん)には、それ以前いぜん拝借はいしゃくまい返納へんのうされていないことを理由りゆうに、拝借はいしゃくまい100ひょうのみとなった。以後いご天明てんめい6ねん1786ねん)までの65年間ねんかんほどは、100ひょうべい恒例こうれいとなった。文政ぶんせい年間ねんかん以後いごについては、拝借はいしゃくまい拝借はいしゃくきんわっている。町年寄まちどしよりたち拝領はいりょう屋敷やしき経営けいえい順調じゅんちょうにいかないことがおおかったためか、拝借はいしゃくきん返済へんさいもそのおおくがとどこおっていた[32]

維新いしん政府せいふにおける町年寄まちどしより

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慶応けいおう4ねん1868ねん)4がつ江戸城えどじょう官軍かんぐんわたされたのちも、町年寄まちどしより旧来きゅうらいどおりの職務しょくむつづけていた。しかし、明治めいじ元年がんねん(1868ねん)9がつ15にちれいで、町年寄まちどしよりへのとど東京とうきょうもうることになり、町年寄まちどしより東京とうきょうの「市政しせいきょく庶務しょむかた」へ配属はいぞくさせられている。このためまちへのさわたち世話せわかけ名主なぬし業務ぎょうむとなった。そして、明治めいじ2ねん1869ねん正月しょうがつ町年寄まちどしよりと「町年寄まちどしよりなみ(なみ)」として職務しょくむ補佐ほさたっていた地割じわりやくたる三右衛門さんえもん免職めんしょくとなった[33]

拝領はいりょう地代じだい明治めいじ元年がんねん(1686ねん)9がつからかれらの手元てもとはいらなくなったらしく、生計せいけい困難こんなんのため嘆願たんがんして、一定いってい地代じだいおさめてきゅう拝領はいりょう借地しゃくちしていたようである[33]

免職めんしょくかれらの様子ようすははっきりしないが、樽屋たるや16代目だいめたる俊之としゆきすけ明治めいじ5ねん(1872ねん)10がつから算術さんじゅつ私塾しじゅくひらき、たてきょうけい奈良屋ならや)はのち日本橋にほんばしちょうとなったことがかっている[33]

京都きょうと町年寄まちどしより

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3代目だいめ京都きょうと所司代しょしだい牧野まきのちかしなりは、まち自治じち行政ぎょうせい基礎きそにおくため、京都きょうと住民じゅうみんつくげたまち(ちょう)やまち連合れんごう組織そしきである町組まちくみ(ちょうぐみ)の編成へんせい企図きとした政策せいさくすすめ、あかりれき2ねん1656ねん)にぜんまちに1めいずつ町内ちょうない年寄としよりやくくことをめいじた。この時期じきに、まちての通達つうたつまちさわ)によって政策せいさく周知しゅうち徹底てっていはか方式ほうしき定着ていちゃくした。

とおる8ねん(1723ねん)に京都きょうとまち奉行ぶぎょうにより、町年寄まちどしよりは1まち1人ひとり任期にんきは3ねんさだめられた。同時どうじに、年寄としより補佐ほさやくである人組にんぐみ定員ていいんを3めい任期にんきを2ねんさだめた。町年寄まちどしより交代こうたいは、その都度つど奉行ぶぎょうしょからの認可にんか必要ひつようとした[34]

選任せんにん方法ほうほう順番じゅんばんであったり投票とうひょうだったりと時期じきによって方法ほうほうわった[35]町年寄まちどしよりえらばれたものは、家持いえもち町人ちょうにん義務ぎむとして本来ほんらい家業かぎょうのかたわらつとめることとなった[34]

まちせい制度せいど整備せいびされるにつれ、次第しだい権限けんげんしてきたまちだい自治じち中心ちゅうしんとなっていき、町年寄まちどしよりまちさわ伝達でんたつ犯科はんかじん取締とりしまりなど支配しはいまつはしとしての性格せいかくつよくなった。

大坂おおさか町年寄まちどしより

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17世紀せいきちゅうごろまでに成立せいりつした大坂おおさか三郷みさとまち行政ぎょうせい担当たんとうしたのが、町人ちょうにんなかからえらばれた三郷みさとそう年寄としよりとそのしたぞくする町年寄まちどしよりであった。

大坂おおさか城代じょうだいであった松平まつだいら忠明ただあき元和がんわ2ねん1616ねん)に大坂おおさか城下町じょうかまち開発かいはつたずさわった町人ちょうにんたち元締もとじめしゅとしてまちわりをさせた。元和がんわ5ねん1619ねん)に大坂おおさか町奉行まちぶぎょう設置せっちされたとき元締もとじめしゅそう年寄としより改称かいしょうされ、そのさいかくまち有力ゆうりょく町人ちょうにん町年寄まちどしよりとした。

大坂おおさか三郷みさと統治とうちは、大坂おおさか城代じょうだい-大坂おおさか町奉行まちぶぎょう-そう年寄としより-町年寄まちどしより-町民ちょうみん町人ちょうにん借家しゃくやじん)という体制たいせいとなっており、町年寄まちどしよりそう年寄としよりしたぞくして、かくまちまちせい担当たんとうするかたちになっている[36]名誉めいよしょくであり、公役こうえき町役まちやく免除めんじょされ、若干じゃっかん祝儀しゅうぎけた[37]公役こうえきというのは大坂おおさかまち奉行ぶぎょうしょそう会所かいしょ経費けいひ消防しょうぼうなどのしょ費用ひよう負担ふたんで、町役まちやくはそれぞれのまち町会ちょうかいしょ費用ひようはし普請ふしん費用ひようなどまち運営うんえい負担ふたんのことである。そう年寄としより世襲せしゅうだったが、町年寄まちどしより町人ちょうにんたちによる入札にゅうさつえらばれた[37]。そして選挙せんきょえらばれた町年寄まちどしより候補こうほを、そう年寄としより検分けんぶんして決定けっていするという手順てじゅんんだ[37]大坂おおさか町年寄まちどしより家業かぎょういとなむことはゆるされたが、じょうきゅうはなく、わりにはかますりりょう(はかまずれりょう)[38]というかねまちからけることをみとめられていた。町奉行まちぶぎょうしょ隠密おんみつまわり役人やくにん内偵ないていし、適格てきかくしゃ罷免ひめんしたれいもあった。

そう年寄としよりしたかくまちごとにかれた町年寄まちどしよりは、触書ふれがき口達こうたつ町中まちなかへの通達つうたつ人別にんべつあらため、火元ひもとまりと用心ようじん用水ようすいき、訴訟そしょう事件じけん調停ちょうてい和解わかい家屋かおくじき買受かいうけ譲渡じょうと売買ばいばい譲渡じょうと証文しょうもんへの奥書おくがきばん地子じしやくぎん徴収ちょうしゅうみずちょう絵図えずなどの書類しょるい簿さつ作成さくせい保管ほかん町内ちょうない式目しきもく管理かんり請願せいがんしょ捺印なついんまち清掃せいそうはしはまさき掃除そうじ借家しゃくや貸付かしつけかた吟味ぎんみなど様々さまざま職務しょくむおこなった[36]城代じょうだい大坂おおさかまち奉行ぶぎょうしょからされたまちさわそう年寄としよりたちにつたえられ、町年寄まちどしよりはそれぞれのそう会所かいしょそう年寄としよりから伝達でんたつされることになっていた。

まち々の町人ちょうにんちゅうから毎月まいつきつき行司ぎょうじを2にんして町年寄まちどしより補佐ほさし、かくまち町会ちょうかいしょにはまちだい下役したやく木戸きどばん垣内かきうちばん(かいとばん)・ものしょ会所かいしょもりかれた。町年寄まちどしよりたすけてまちせい事務じむったのがまちだいで、町人ちょうにん公事こうじ訴訟そしょう代書だいしょおこなった。かくまちまちだいが1にんというわけではなく、規模きぼちいさいまちなどではすうまち1人ひとりまちだい兼務けんむすることもあった。

町会ちょうかいしょには宗旨しゅうしまき(しゅうしのまき)や人別にんべつちょうみずちょうみずちょう絵図えずなどが保管ほかんされていた。宗旨しゅうしまきとは、大坂おおさか三郷みさとまちごとの宗門しゅうもん人別にんべつちょう簡単かんたんにして戸主こしゅめいのみをいたもので、一部いちぶ大坂おおさかまち奉行ぶぎょうしょおさめ、一部いちぶ町会ちょうかいしょ保管ほかんした。みずちょう屋敷やしき台帳だいちょうであり、いちまち全体ぜんたい屋敷やしきみずちょう絵図えずという。みずちょう絵図えず登録とうろくされたものが町内ちょうない家屋かおくじき所有しょゆう居住きょじゅうする町人ちょうにんとして、そのまち自治じち参加さんかできた。まち家屋かおくじきちながらまち居住きょじゅうする町人ちょうにん代理人だいりにん家守かもりといい、町人ちょうにん同様どうよう公役こうえき町役まちやく負担ふたんする義務ぎむがあった。町年寄まちどしより選挙せんきょけん被選挙権ひせんきょけんつのは、町人ちょうにん家守かもりたちだけで、借家しゃくやじん町年寄まちどしより選挙せんきょふくまちせいには一切いっさい参画さんかくできなかった。

明治めいじ2ねん1869ねん)6がつ2にち大坂おおさか三郷みさと東南とうなん西北せいほく四大しだいぐみけられ、そのときそう年寄としより廃止はいしされ、かくだいぐみだい年寄としより1人ひとりかくまちぐみにはちゅう年寄としよりもうけられた。

甲府こうふ町年寄まちどしより

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甲斐かいこくではとおる9ねん1724ねん)、甲府こうふはんおも柳沢やなぎさわ大和郡山やまとこおりやまてんふうされ、甲府こうふはんはいはんとなり甲斐かい国一くにいちこく幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうされる。これにより甲府こうふ町方まちかた町奉行まちぶぎょうにかわって2人ふたり甲府こうふ勤番きんばん支配しはいつかさどるようになり、勤番きんばん支配しはい役宅やくたくもうけられた町方まちかた役所やくしょ隔月かくげつ交代こうたいでそのにんにあたった[39]

まちせい執行しっこう甲府こうふ町年寄まちどしよりにない、坂田さかた与一よいち左衛門さえもん山本やまもときむ左衛門さえもん2人ふたりが、同年どうねん町年寄まちどしより任命にんめいされ、町方まちかた最高さいこう責任せきにんしゃとなった[39]坂田さかた山本やまもと両氏りょうし武田たけだ時代じだいけんだんやくつとめた由緒ゆいしょをもつ有力ゆうりょく町人ちょうにんで、甲府こうふ草分くさわけ町人ちょうにんでもある。町年寄まちどしより職務しょくむ月番つきばんせいで、明治めいじ5ねん1872ねん)に廃止はいしされるまで両家りょうけ世襲せしゅうせいつとめた[39]

坂田さかた与一よいち左衛門さえもんは5にん扶持ふちやくさむらい屋敷やしき600つぼきゅうされた。4代目だいめ山本やまもときむ左衛門さえもんは、春日かすがあきらあずか国学こくがく和歌わかしたしんだことでられる。

長崎ながさき町年寄まちどしより

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町年寄まちどしよりこりと推移すいい

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鎖国さこく以前いぜん長崎ながさきにおいて、朱印船しゅいんせん貿易ぼうえきたずさわり、長崎ながさきまち富裕ふゆうそうでもあったリーダーてき集団しゅうだんあたまじん(とうにん)とんでいた。あたまじん発祥はっしょう流浪るろう武士ぶしとも長崎ながさき甚左衛門えもんいえともわれている。あたまじんは、腕力わんりょくつよく、リーダーとしての資質ししつがあり、また商才しょうさいのあるものたちが、長崎ながさき頭角とうかくあらわし、イエズスかいりょう豊臣とよとみ秀吉ひでよし直轄ちょっかつりょう徳川とくがわ幕府ばくふ天領てんりょう時代じだい変化へんか対応たいおうしながら、長崎ながさき地下ちかじん(じげにん)たちのリーダーかくとなって長崎ながさきおさめてきた。このあたまじんたちが、町年寄まちどしより先祖せんぞである[40]

豊臣とよとみ秀吉ひでよしによって長崎ながさき奉行ぶぎょうにんぜられた唐津からつじょうあるじ寺沢てらさわ志摩しままもる広高ひろたかが、有力ゆうりょく貿易ぼうえきしょうであり町衆まちしゅう指導しどうそうでもあった高木たかぎかんみぎ衛門えもんりょう高嶋たかしま高島たかしまりょうえつ後藤ごとうそう太郎たろうむねしるし町田まちだ宗賀そうがあたまじんたてて、まちせい実務じつむまかせた[40]

あたまじん町年寄まちどしよりあらためられたのはぶんろく元年がんねん1592ねん)のことであった。そして、地租ちそめんじられたうちまち町年寄まちどしよりおさめ、それ以外いがいそとまち長崎ながさき代官だいかん村山むらやま等安とうあん支配しはいした[40]

慶長けいちょう8ねん1603ねん正月しょうがつ家康いえやす新年しんねん慶賀けいがのため上京じょうきょうした村山むらやまひとしやすとイエズスかいジョアン・ロドリゲス神父しんぷたいして、等安とうあん町年寄まちどしより4にんあらためて長崎ながさき首長しゅちょうにんじて長崎ながさき統治とうちゆだね、ロドリゲスにも長崎ながさき支配しはい管理かんりのために市政しせい参与さんよすることをもとめたという。これにより、秀吉ひでよし没後ぼつご長崎ながさきないまち町年寄まちどしよりが、そでまち代官だいかん村山むらやまおさめる運営うんえい方式ほうしきがれることとなった[40]

当初とうしょあたまじん出身しゅっしん高木たかぎ高嶋たかしま後藤ごとう町田まちだの4にん体制たいせいだった。寛永かんえい年間ねんかん町田まちだ没落ぼつらくしたのち高木たかぎ彦右衛門えもんえいさだ町年寄まちどしより就任しゅうにんし、元禄げんろく10ねん1697ねん)に高木たかぎ彦右衛門えもんさだおやかららん商売しょうばい元締もとじめ任命にんめいされると、そでまち常行つねゆき薬師寺やくしじまた三郎さぶろうしゅせい町年寄まちどしよりにんぜられた。元禄げんろく12ねん1699ねん)にうちまちそでまち区別くべつ廃止はいしされたときそとまち常行つねゆき福田ふくだ伝兵衛でんべえ重好しげよし久松ひさまつよし兵衛ひょうえちゅうたつくわえられて6にんせいとなった。さらに文政ぶんせい5ねん1822ねん以降いこうは、高木たかぎ高島たかしま(2いえ)・後藤ごとう薬師寺やくしじ福田ふくだ(2いえ)・久松ひさまつ(2いえ)の9にんせいとなった[41]

かれらの受用じゅようだかは70ひょう5にん扶持ふち受容じゅようぎんは12 - 29貫目かんめ)で、大村おおむらまち高島たかしま西浜にしのはままち久松ひさまつなどは、1000つぼ以上いじょうだい邸宅ていたくであった。また、長崎ながさき会所かいしょ調ちょうやくつとめる場合ばあいに5にん扶持ふちを、としばんとなった場合ばあい受用じゅようぎんを25貫目かんめ、添年ばん受用じゅようぎん10貫目かんめ支給しきゅうされた。

キリシタン禁令きんれい

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町年寄まちどしより取立とりたてられた高島たかしまりょうえつ高木たかぎかんみぎ衛門えもん後藤ごとうはじめしるし町田まちだ宗賀そうがら4にんはいずれも有力ゆうりょくキリシタンでもあった。しかし、寛永かんえい3ねん1626ねん)に長崎ながさき住人じゅうにんたいしてキリシタン棄教命令めいれいされ、長崎ながさき奉行ぶぎょう水野みずのまもるしんは、キリシタンからてんむねした長崎ながさき代官だいかん末次すえつぐ平蔵へいぞう町年寄まちどしより高木たかぎさくみぎ衛門えもん協力きょうりょくにより、キリシタン取締とりしまりにした。この棄教れいしたがうことを拒否きょひした町年寄まちどしより町田まちだ宗賀そうがジョアンと後藤ごとうはじめしるしトメ(洗礼せんれいめいのぼりあきら。トマスとむことも)は長崎ながさきまちたという。

出島でじま築造ちくぞう

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長崎ながさき出島でじま幕府ばくふいのちにより、長崎ながさき有力ゆうりょく町人ちょうにんたち25にん出資しゅっしによって寛永かんえい11ねん(1634ねん)につくられた。かれらは出島でじま町人ちょうにんばれ、高島たかしま四郎しろう兵衛ひょうえ後藤ごとうしょう左衛門さえもん高木たかぎさくみぎ衛門えもん高木たかぎ彦右衛門えもんなどの町年寄まちどしよりいと割符わりふ年寄としよりふくまれていた。

出島でじま支配しはい長崎ながさき奉行ぶぎょう管轄かんかつだが、出島でじまおつめいやオランダ通詞つうじなどの運営うんえいかかわる地役ちえきじん町年寄まちどしより支配しはいだった。

長崎ながさき代官だいかん業務ぎょうむ

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長崎ながさきうちまちそでまち周囲しゅういには、長崎ながさき代官だいかん支配しはいさと3かそんと、その外側そとがわ天領てんりょう7かそんがあった(総計そうけいやく3000せき)。これらのは、初代しょだい長崎ながさき代官だいかん村山むらやまひとしやすと、等安とうあん処刑しょけいされたのち代官だいかんとなった末次すえつぐによりのべたから4ねん1676ねん)まで支配しはいされた。末次すえつぐ改易かいえき、しばらく代官だいかん事務じむ町年寄まちどしより代行だいこうした。もとぶん4ねん(1739ねん)に町年寄まちどしより高木たかぎさくみぎ衛門えもんちゅうあずか代官だいかん任命にんめいされ、以後いご幕末ばくまつまで高木たかぎ代々だいだい世襲せしゅうとなった[42]

高木たかぎさくみぎ衛門えもんは、ふるくから長崎ながさき町年寄まちどしよりつとめており、御用ごようぶつやくでもあった。ちゅうあずか長崎ながさき代官だいかん任命にんめいされて以降いこう高木たかぎ幕臣ばくしんとなった[43]

町年寄まちどしより職務しょくむ

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長崎ながさき町年寄まちどしより役務えきむは、長崎ながさき奉行ぶぎょう補佐ほさと、長崎ながさき町役人まちやくにんとして市政しせい貿易ぼうえき業務ぎょうむ専業せんぎょうとするおつめい選任せんにん、そしておつめい以下いか地役ちえきじん監督かんとくしてまちせい外交がいこう貿易ぼうえき実務じつむ処理しょりすることであった。おつめいもとかめ2ねん1571ねん)、長崎ながさきまちりをはじめたころに、あたまじんないしはあたまじん配下はいかであったものが、かくまちごとに1にんずつ任命にんめいされた役職やくしょくである[44]

長崎ながさき地役ちえきじんたち貿易ぼうえき業務ぎょうむおもとした仕事しごと専従せんじゅうしており、これが商売しょうばいをしているかたわらでまちせい業務ぎょうむおこなっていたほかまち町役人まちやくにんとのおおきなちがいである。かつては朱印船しゅいんせん貿易ぼうえきいえだった町年寄まちどしよりも、商人しょうにんという側面そくめん縮小しゅくしょうし、役人やくにんとしての役割やくわり拡大かくだいするようになって長崎ながさき独自どくじ地役ちえきじんとなっていった。

当初とうしょは、町年寄まちどしよりなかの1めいとしばんとなってそのとし業務ぎょうむ中心ちゅうしんてき役割やくわりたし、添年ばんがその補佐ほさにあたったが、元禄げんろくとしばん2人ふたりせいになり、1人ひとり貿易ぼうえき商売しょうばいを、もう1人ひとり地方ちほう寺社じしゃかた支配しはいおこない、町年寄まちどしより普請ふしんかたどうかたぜにたわらぶつ諸色しょしき支配しはい分掌ぶんしょうするようになった[45]

それ以外いがいには、年頭ねんとう江戸えど参府さんぷ白書はくしょいんでの将軍しょうぐんへの拝謁はいえつ奉行ぶぎょう市中しちゅう巡検じゅんけんさい供奉ぐぶオランダふね出入でいりの見届みとどけ、その献上けんじょうぶつ選定せんていなどであり、このほか全員ぜんいんおこなうものとして、長崎ながさき会所かいしょぎ、出火しゅっか諏訪すわ神社じんじゃ神事しんじさいしての供奉ぐぶなどがあった[46]

また、長崎ながさきでは寛永かんえい5 - 6ねん(1628 - 1629ねん)ごろから、毎年まいとし正月しょうがつ3にちおこなわれた。この正月しょうがつ行事ぎょうじで、かく町年寄まちどしより屋敷やしきおこなわれた。4にちからは市中しちゅうでの開始かいしされ、9にちまでの6日間にちかん出島でじままちのぞく79まちおこなわれた[47]は、町年寄まちどしよりから借家しゃくやじん、さらには遊女ゆうじょいたるまで、長崎ながさき住民じゅうみんすべてにたいしておこなわれた。この行事ぎょうじは、安政あんせい5ねん1858ねん)に廃止はいしになるまで、継続けいぞくされた。

長崎ながさき会所かいしょでの業務ぎょうむは、としばん町年寄まちどしより上席じょうせき福田ふくだ毎日まいにちやっ午後ごご2)、町年寄まちどしより正午しょうごまでの勤務きんむであった。のちになって追加ついかされた職務しょくむには、奉行ぶぎょうしょからの命令めいれい伝達でんたつしょ役人やくにん退役たいえき養子ようしねがい審査しんさとその上申じょうしん長崎ながさきへの新規しんき移住いじゅうしゃ踏絵ふみえ執行しっこうそうまち戸数こすう人口じんこう宗旨しゅうしその奉行ぶぎょうしょへの報告ほうこくなど、長崎ながさきまちせい貿易ぼうえき業務ぎょうむかんする種々しゅじゅ業務ぎょうむがあった。

出島でじまオランダ商館しょうかんにも公用こうよう出入でいりし、長崎ながさきではオランダ正月しょうがつばれた西暦せいれき1がつ1にちには、通詞つうじ出島でじまおつめいなどととも商館しょうかんまねかれた。

ほかにも、他所よそ人間にんげん長崎ながさきつみおかしたなどの場合ばあいに、その吟味ぎんみのため盗賊とうぞくかたかかりのおつめいやその手付てつきりょうおもむさいには、町年寄まちどしより印鑑いんかんもらい、相手あいて村役人むらやくにんにもあらかじめそれをせて、身分みぶんあきらかにしておく仕来しきたりがあった。また、かわまち部落ぶらく指導しどう監督かんとくする組頭くみがしら任免にんめんさいには、そのごとにろう守役もりやくあたものとしばん町年寄まちどしよりとどけて了解りょうかいることになっていた。

町年寄まちどしより末席まっせき

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町年寄まちどしより末席まっせきは、うみ舶互市新いちしんれい以後いごもうけられた役職やくしょくである。とおる20ねん1735ねん)に薬師寺やくしじ与三よぞうみぎ衛門えもんはじめて任命にんめいされたが、もとぶん5ねん1740ねん)に薬師寺やくしじ病死びょうししたのちは、空席くうせきのままであった。それが、のべとおる3ねん1746ねん)に町年寄まちどしより高島たかしま作兵衛さくべえ死去しきょしたさいにそのである高島たかしま八郎はちろう兵衛ひょうえが、寛延かんえい元年がんねん1748ねん)に町年寄まちどしより福田ふくだろく左衛門さえもん死去しきょしたのちせがれ福田ふくだろくすすむがそれぞれ町年寄まちどしより末席まっせき補任ほにんされた[48]

しかし、役人やくにん人員じんいん削減さくげんのため、長崎ながさき奉行ぶぎょう松浦まつうら信正のぶまさ (河内かわうちまもる)によりこの役職やくしょく廃止はいしされることとなった。ただし、両人りょうにん父親ちちおや本家ほんけ後見こうけんやくつとめたこともあるので、いちだいかぎりにおいて町年寄まちどしより末席まっせき許可きょかし、その子孫しそん出島でじまおつめい唐人とうじん屋敷やしきおつめいになるようにとめいじられた。

長崎ながさき奉行ぶぎょうとのかかわり

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長崎ながさき奉行ぶぎょうは、在任ざいにん期間きかんはそのおおくはすうねんであり、長崎ながさき在勤ざいきん期間きかん隔年かくねんで1ねんずつ。しかも奉行ぶぎょう配下はいかとしてはたら与力よりき同心どうしんなどはすうじゅうにんにすぎないため、奉行ぶぎょう単独たんどく長崎ながさきまち現状げんじょう貿易ぼうえき仕組しくみを理解りかいして任務にんむ遂行すいこうするのは、困難こんなんであった。そのため、長崎ながさき土着どちゃく役人やくにんであり貿易ぼうえき業務ぎょうむくしている町年寄まちどしよりたち協力きょうりょく不可欠ふかけつであった。町年寄まちどしより専断せんだんゆるされず、その職務しょくむには奉行ぶぎょうしょ許可きょか必要ひつようだったが、許可きょかりないということはほとんどなかった[49]

また、長崎ながさき新任しんにん奉行ぶぎょう着任ちゃくにんするさいには、としばん町年寄まちどしより地役ちえきじん代表だいひょうとして日見ひみとうげ出向でむき、奉行ぶぎょういちぎょうとうげ小憩しょうけいときにその到着とうちゃくいわ[50]

随筆ずいひつ翁草おきなぐさ』には、長崎ながさき奉行ぶぎょう交易こうえきのことのみで、そののことは枝葉えだはごとかんがえ、町方まちかた行政ぎょうせい町年寄まちどしよりすべてをまかせたため、町年寄まちどしより専横せんおうおおかったとかれている[51]。しかし、貿易ぼうえき業務ぎょうむ行政ぎょうせいだけでなく、長崎ながさき見舞みま問題もんだいにも奉行ぶぎょう町年寄まちどしより連携れんけいして対処たいしょしてきた。島原しまばららん勃発ぼっぱつしたとき長崎ながさき警固けいご大村おおむらはん要請ようせいしたのは町年寄まちどしよりであった。また、とおる17ねん1732ねん)のいなごがいによる西国さいこくだい飢饉ききんさいして、当時とうじ長崎ながさき奉行ぶぎょう大森おおもり山城やましろ守時もりときちょうは、商人しょうにんめているこめ調しらべてそれを確保かくほし、また大坂おおさか下関しものせきひとし諸国しょこく飛脚ひきゃくおく長崎ながさき米穀べいこく廻送かいそうするように町年寄まちどしよりめいじた。このとき大森おおもり山城やましろまもる措置そちにより、長崎ながさき十分じゅうぶん食料しょくりょう確保かくほ出来でき餓死がししゃ1人ひとりなかったという[52]

しかし、長崎ながさきにおける海外かいがい貿易ぼうえき重要じゅうようせいすにつれ、長崎ながさきまち行政ぎょうせい不可欠ふかけつ町年寄まちどしより以下いか町役人まちやくにん幕府ばくふ機構きこうれるための様々さまざま改革かいかくおこなわれるようになった。長崎ながさきにおける地下ちかじん司法しほうけんが、町年寄まちどしよりから長崎ながさき奉行ぶぎょう移管いかんされたのは、うみ舶互市新いちしんれい発布はっぷされた正徳まさのり5ねん1715ねん)からであった[53]

萩原はぎはら伯耆ほうきもりみやびは、長崎ながさき会所かいしょなか素行そこうわるもの怠慢たいまんもの免職めんしょくにして役人やくにん削減さくげんし、また経費けいひ削減さくげん役人やくにん不正ふせい防止ぼうしするようにという指示しじしている。その目的もくてきは、町年寄まちどしより統率とうそつりょく強化きょうかし、地下ちか役人やくにん腐敗ふはい怠慢たいまんくして貿易ぼうえき業務ぎょうむ円滑えんかつし、不正ふせい資金しきん地下ちかじんたちながれることをめて利益りえき確保かくほし、運上うんじょうきん貿易ぼうえきのための資金しきん捻出ねんしゅつすることにあった[54]

松浦まつうら河内かわうちまもる信正のぶまさは、貿易ぼうえき利益りえきぎん確保かくほ長崎ながさき町年寄まちどしよりはじめとする長崎ながさき地下ちか役人やくにん人員じんいん削減さくげんによる経費けいひ節減せつげん老中ろうじゅうよりめいぜられ、大幅おおはば改革かいかく実施じっしした。松浦まつうら地下ちかへの申渡もうしわたしは、としばん町年寄まちどしより長崎ながさき会所かいしょ業務ぎょうむ遂行すいこうし、商人しょうにん役人やくにんとは会所かいしょ接見せっけん自宅じたく業務ぎょうむおこなうことを禁止きんし地下ちか役人やくにん申請しんせい願書がんしょとうは、としばん町年寄まちどしより出勤しゅっきん時間じかんわせて提出ていしゅつし、それを町年寄まちどしより受理じゅり町年寄まちどしより家来けらい長崎ながさき地下ちかかんすることを処理しょりすることを厳禁げんきんし、長崎ながさき会所かいしょ役人やくにん吟味ぎんみして町年寄まちどしより裁断さいだんすること。町年寄まちどしより月番つきばん取扱とりあつかっている業務ぎょうむ金銀きんぎん勘定かんじょう会所かいしょ移譲いじょうし、自宅じたく会所かいしょ役人やくにんぶことはきんじ、問題もんだいがあれば町年寄まちどしより会所かいしょ出向でむくこと。としばん町年寄まちどしよりやその町年寄まちどしより取扱とりあつかっていたひかえしょ帳面ちょうめんは、今後こんご会所かいしょぐこと。ほかにも町年寄まちどしより会所かいしょへの出勤しゅっきん退出たいしゅつ時間じかん規定きていや、職務しょくむ怠慢たいまんものへの処罰しょばつとう多岐たきにわたった[55]

これは、町年寄まちどしより頂点ちょうてんとした地下ちかじんたちの組織そしき長崎ながさき会所かいしょによる組織そしきじゅう構造こうぞうとなっていた長崎ながさきを、としばん町年寄まちどしより長崎ながさき会所かいしょ上席じょうせきえることで会所かいしょみ、そのした諸事しょじすべてにわたり掌握しょうあくする組織そしきさい構築こうちくすることを目的もくてきとしていた。これ以後いご町年寄まちどしより担当たんとうしていた勘定かんじょう関係かんけい業務ぎょうむ長崎ながさき会所かいしょ移管いかんされ、貿易ぼうえきかんするさまざまな帳面ちょうめん作成さくせい会所かいしょ担当たんとうし、町年寄まちどしより裁決さいけつすることとなった。このほかにもほん興善こうぜんまちいとぞう保管ほかんされていた江戸えどへの調進ちょうしん薬種やくしゅあつかいを会所かいしょうつひとし貿易ぼうえき業務ぎょうむ会所かいしょ中心ちゅうしんとしたシステムにえていった[55]

そして、先述せんじゅつのように町年寄まちどしより末席まっせき廃止はいしし、怠慢たいまん役人やくにんかずらし、地下ちか役人やくにん受容じゅようするぎんがくらすひとし経費けいひ削減さくげんにも着手ちゃくしゅした。奢侈しゃし厳禁げんきん禁令きんれい遵守じゅんしゅなどをめいじ、町年寄まちどしよりには地下ちかじんたいする十分じゅうぶん世話せわ教育きょういくをするようにめいじた。そのうえ町年寄まちどしよりから筆者ひっしゃしょうやく女性じょせいいたるまでの衣服いふく規定きていをし、町年寄まちどしよりたいしては婚姻こんいん結納ゆいのうにおける接待せったい簡素かんそまでめいじた[56]

このように松浦まつうら信正のぶまさ改革かいかく町年寄まちどしよりふくめた地下ちか役人やくにんすべてを統制とうせいし、会所かいしょ権力けんりょく集中しゅうちゅうさせて貿易ぼうえき業務ぎょうむ管理かんりするものであった。この改革かいかくにおいて、かれ会所かいしょ役人やくにん村山むらやましょう左衛門さえもんもり弥次やじろうたち改革かいかく必要ひつよう協力きょうりょくしゃとして取立とりたてたのだが、ようぎょうぐみばれるかれらは松浦まつうら長崎ながさき奉行ぶぎょう退しりぞいたのち権勢けんせいるい、長崎ながさき奉行ぶぎょう町年寄まちどしより支配しはい無視むししたいがおおく、長崎ながさき奉行ぶぎょうしたのち勘定かんじょう奉行ぶぎょうやくとして長崎ながさきかけめいじられた松浦まつうらとの癒着ゆちゃくつづいた。しかし、たかられき3ねん1753ねん)に松浦まつうら失脚しっきゃくすると、寛延かんえい元年がんねん(1748ねん)に「商売しょうばいかた会所かいしょ取締とりしまり」をにんぜられた村山むらやましょう左衛門さえもんはじようぎょうぐみ面々めんめん厳罰げんばつしょせられることとなり(ようぎょうぐみ事件じけん)、松浦まつうらにより様々さまざま制限せいげんをされた町年寄まちどしより権限けんげん復活ふっかつした[53]

石谷いしがや備前びぜんもりせいあきらは、後藤ごとうそう左衛門さえもんさださかえ町年寄まちどしより上席じょうせき長崎ながさき会所かいしょ調ちょうやく任命にんめいし、いちだいかぎりの帯刀たいとう許可きょかした。その理由りゆうは、後藤ごとうそう左衛門さえもん長崎ながさき地下ちかじんちが金銀きんぎん海外かいがいへの流出りゅうしゅつ禁止きんし国益こくえきまもることをこころがけているからだとべている[57]。その一方いっぽうで、たかられき13ねん1763ねん)3がつには、長崎ながさき下人げにんたちたいしてその生活せいかつかんする触書ふれがき通達つうたつした。これはおも倹約けんやくについてべられており、役人やくにん同士どうし談合だんごうなどのさい酒食しゅしょくりょうにまで言及げんきゅうしているほか、役人やくにん同士どうし贈答ぞうとう禁止きんし親戚しんせき以外いがい結納ゆいのう祝儀しゅうぎ禁止きんし衣服いふく制限せいげん冠婚葬祭かんこんそうさい仏事ぶつじ簡素かんそなど、きびしいものであった。これは町年寄まちどしより例外れいがいではなく、町年寄まちどしよりから奉行ぶぎょうへの贈答ぞうとうや、役人やくにんから町年寄まちどしよりへの贈答ぞうとう禁止きんしし、町年寄まちどしより衣服いふくきぬつむぎ羽二重はぶたえまでといったことがさだめられた[58]

長崎ながさきまち由緒ゆいしょある家柄いえがら後藤ごとうそう左衛門さえもん会所かいしょ最高さいこう責任せきにんしゃとすることで、長崎ながさき地下ちかじん不満ふまんおさえ、それまでたびたび町年寄まちどしよりたちねがっていた帯刀たいとう許可きょかすることで、町年寄まちどしよりたちにも自分じぶんたちがいずれはおなじように帯刀たいとうゆるされるのではないかという希望きぼうたせるという、長崎ながさき下人げにんたちとの宥和ゆうわはか一方いっぽう倹約けんやくむねとして奉行ぶぎょうによる統制とうせい強化きょうかすることで石谷いしがや海外かいがい貿易ぼうえき業務ぎょうむまちせい改革かいかくはかったのである[58]

町年寄まちどしより武士ぶしとのかかわり

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町年寄まちどしよりたち祖先そせん長崎ながさきまち発展はってんさせてきた貿易ぼうえき商人しょうにん浪人ろうにんであり、町年寄まちどしよりおつめいなど上層じょうそう町人ちょうにんには長崎ながさき城下町じょうかまちちがみずからのちからつくげたまちという意識いしきつよかった。長崎ながさきにおける町年寄まちどしより権勢けんせいつよく、幕末ばくまつ長崎ながさきおとずれた川路かわじ聖謨としあきらは「町年寄まちどしよりどもたくまえとおるに大名だいみょうごとし、だいおどろく」とかたった[45]

一方いっぽうで、長崎ながさき奉行ぶぎょう以下いか幕府ばくふ役人やくにんや、長崎ながさき警備けいびのために駐留ちゅうりゅうする佐賀さがはん福岡ふくおかはんはんへい西日本にしにほんしょはんからおくられてくる「聞役ききやく」とばれる藩士はんしたちなど、長崎ながさきにはおおくの武士ぶし居住きょじゅうしていた。しかし、幕府ばくふ機構きこうじょう武士ぶし自分じぶんたちより上位じょういであるが、長崎ながさき自分じぶんたちまちであるという町年寄まちどしよりたち自負じふつよいものであり、これがのち長崎ながさき喧嘩げんかともばれる深堀ふかほり事件じけん原因げんいんの1つでもあった。この事件じけん一方いっぽう当事とうじしゃである町年寄まちどしより筆頭ひっとう高木たかぎ彦右衛門えもんさだこんは、元禄げんろく10ねん(1697ねん)に長崎ながさきどう代物しろものがえ貿易ぼうえき経営けいえいすることになり代物しろものがえ会所かいしょ設立せつりつされたさいに、から阿蘭陀おらんだ商売しょうばい吟味ぎんみじょうやく任命にんめいされ、よく元禄げんろく11ねん1698ねん)には異国いこく商売しょうばい吟味ぎんみじょうやくならびに運上うんじょうぎんおさめかたやくという勘定かんじょう奉行ぶぎょう直属ちょくぞく幕吏ばくり身分みぶんとなった[59]元禄げんろく13ねん1700ねん)に代物しろものがえあたまじん(しろものがえとうにん)と長崎ながさきひょう御船みふね武具ぶぐあずかやくという役職やくしょくにんじられ、やくりょう80ひょう給付きゅうふ帯刀たいとうみとめられ、多数たすう家来けらいかこまれて大名だいみょうのようならしをしていたとわれる[59]。しかし、事件じけんにより彦右衛門えもん殺害さつがいされ、さばきで高木たかぎ家財かざい没収ぼっしゅううえ追放ついほう判決はんけつけた。

その一方いっぽう天保てんぽう9ねん1838ねん)5がつ町年寄まちどしより一同いちどう幕府ばくふ諸国しょこく巡見じゅんけん使むか挨拶あいさつをしたさい上使じょうし1人ひとりから「何故なぜ土下座どげざしてむかえないのか」との譴責けんせきけた事件じけんがあった。このとき上使じょうしの「将軍しょうぐんからの朱印しゅいんじょうあずかっている巡見じゅんけん使たいしては、さん江戸えど大坂おおさか京都きょうと)の町年寄まちどしよりでさえ土下座どげざをするのに、長崎ながさき町年寄まちどしより何故なぜできないのか」という問責もんせきたいして、「長崎ながさき町年寄まちどしより元来がんらいあたまじんい、いままでの260年間ねんかん仕来しきたりにしたがってやってきている。これまで、長崎ながさき奉行ぶぎょうへも朱印しゅいんじょう幕府ばくふ目付めつけなどにたいしても土下座どげざをした前例ぜんれいはなく、ここで土下座どげざおこなうのはふるくからの仕来しきたりにはんする」とかえした。上使じょうしたちもこれ以上いじょう問題もんだいおおきくしないようにとがることにした。深堀ふかほり事件じけんとはぎゃくに、ここでは町年寄まちどしより武士ぶしたいし、伝統でんとう格式かくしきをもって自分じぶんたち自負じふとおすことが出来できたのである[45]

幕府ばくふ瓦解がかいまちせい

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慶応けいおう4ねん(1868ねん)、鳥羽とば伏見ふしみたたか幕府ばくふぐんやぶれたとらされた長崎ながさき奉行ぶぎょう河津かわづ伊豆いずまもるゆうくには、1がつ14にちよるイギリスふね江戸えど脱出だっしゅつしてしまった。河津かわづこうたくされた福岡ふくおかはん聞役ききやく粟田あわたみつぐは、当時とうじ長崎ながさきにいたしょはんもの長崎ながさき地役ちえきじん薬師寺やくしじ久左衛門きゅうざえもんたち協議きょうぎし、しん政府せいふからの沙汰さたくだるまでこれまでとおりに諸事しょじはかることをめる。しょはんはんへい地役ちえきじん子弟してい地元じもと剣客けんかく組織そしきされたどおたい治安ちあん維持いじたり、薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんとう16はんによる協議きょうぎたい長崎ながさき政務せいむ合議ごうぎおこなうこととなった。長崎ながさき奉行ぶぎょうしょ西にし役所やくしょ長崎ながさき会議かいぎしょ設置せっちし、町方まちかたがかりもうけ、そのした従来じゅうらいおつめい肝煎きもいり行事ぎょうじあらため、町方まちかた行政ぎょうせいになわせた[60]

同年どうねん2がつ15にちさわ宣嘉のぶよし長崎ながさきおくまれ、長崎ながさき裁判所さいばんしょ総督そうとく着任ちゃくにん即日そくじつ長崎ながさき市政しせいたいするしん政府せいふ方針ほうしんしめされた。その通達つうたつは、地役ちえきじん異常いじょうおおさを指摘してきし、代々だいだいいえろく廃止はいしするとともに、当面とうめん外交がいこう貿易ぼうえき事務じむ維持いじのための暫定ざんていてき体制たいせいをとるというものであった。肝煎きもいり行事ぎょうじ肝煎きもいりあらため(のちおつめい改称かいしょう)、公選こうせんせいとし、肝煎きもいりからえらばれたとしばん5にん町方まちかた行政ぎょうせい事務じむたった[60]

明治めいじ2ねん(1869ねん)、おつめい官選かんせんとなり41めい選任せんにん(そのうち頭取とうどりが1めいねんろうが4めい)、1めいが2 - 3まち分担ぶんたんした。どう3ねん1870ねん)に町会ちょうかいしょきょう会所かいしょ改称かいしょう明治めいじ4ねん1871ねんおつめい廃止はいしされ、官選かんせん町年寄まちどしより17めいかれる。よく明治めいじ5ねん(1872ねん)に長崎ながさきまちを17けて管轄かんかつさせた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 国史こくしだい辞典じてん』13かん 吉川弘文館よしかわこうぶんかん町年寄まちどしより」(同書どうしょ77ぺーじ)。
  2. ^ a b c d e 国史こくしだい辞典じてん』10かん 吉川弘文館よしかわこうぶんかん奈良屋ならやみぎ衛門えもん」(同書どうしょ756ぺーじ)。
  3. ^ a b c d e f 国史こくしだい辞典じてん』9かん 吉川弘文館よしかわこうぶんかん樽屋たるや藤左衛門とうざえもん」(同書どうしょ320ぺーじ)。
  4. ^ a b 国史こくしだい辞典じてん』4かん 吉川弘文館よしかわこうぶんかん喜多村きたむら弥兵衛やへえ」(同書どうしょ138-139ぺーじ)。
  5. ^ 連雀れんじゃくとは荷物にもつ背負せおうための背負子しょいこで、のち行商ぎょうしょうじんのことをすようにもなった。
  6. ^ つづけぐんしょ類従るいじゅうまきだいひゃくじゅうはち収録しゅうろく明智あけち系図けいず奥書おくがき
  7. ^ しば裕之ひろゆき図説ずせつ 明智あけち光秀みつひで』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2018ねんISBN 978-4-86403-305-3 P130.
  8. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (35 - 36ぺーじ
  9. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (131 - 132ぺーじ
  10. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (134ぺーじ
  11. ^ a b c 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (152 - 154ぺーじ
  12. ^ 将軍しょうぐん大奥おおおく 江戸城えどじょうの「事件じけんらし」』 山本やまもと博文ひろぶみちょ 小学しょうがくかん (176ぺーじ)。
  13. ^ a b c d 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん代官だいかん兼務けんむ」(47 - 49ぺーじ
  14. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん地割じわりやく樽屋たるや」(56 - 57ぺーじ
  15. ^ a b 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (57 - 59ぺーじ
  16. ^ a b c d 国史こくしだい辞典じてん』13かん 吉川弘文館よしかわこうぶんかんまちさわ」(同書どうしょ85ぺーじ)。
  17. ^ とおる3ねん1718ねん)の町奉行まちぶぎょう取扱とりあつかいの公事こうじ訴訟そしょうやく48,000けんのうち、90パーセント以上いじょうきむ公事こうじであり、全体ぜんたいの3ぶんの2が処理しょりしきれずに翌年よくねんされている(『吉宗よしむねとおる改革かいかく 江戸えどをリストラした将軍しょうぐん大石おおいしまき三郎さぶろうちょ 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ 同書どうしょ143-145ぺーじ)。
  18. ^ 元禄げんろく6ねん(1693ねん)に江戸えどまち人別にんべつ調査ちょうさおこなわれたが、これは市中しちゅう流言りゅうげんしゃ調査ちょうさ目的もくてきである。
  19. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (108 - 110ぺーじ
  20. ^ 元禄げんろく元年がんねん1688ねん)11月の町年寄まちどしよりからの申渡もうしわたしより。
  21. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (170 - 171ぺーじ
  22. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (159 - 160ぺーじ
  23. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (135 - 136ぺーじ
  24. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (189 - 191ぺーじ
  25. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (130 - 131ぺーじ
  26. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (150 - 152ぺーじ
  27. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (149ぺーじ
  28. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (148ぺーじ
  29. ^ 晦日みそかぜには、古町ふるまち町人ちょうにんばれる人達ひとたちが、自分じぶんたちなかから事務じむ担当たんとうしゃわりに町年寄まちどしより役所やくしょで「手代てだい」をやと給料きゅうりょうとしておさめたかねのこと。
  30. ^ a b 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (136 - 138ぺーじ
  31. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (142ぺーじ
  32. ^ 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (142 - 145ぺーじ)。
  33. ^ a b c 江戸えど町役人まちやくにん吉原よしはら健一郎けんいちろうちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん (195ぺーじ)。
  34. ^ a b 京都きょうと事典じてん村井むらい康彦やすひこへん 東京とうきょうどう出版しゅっぱん町年寄まちどしより」(同書どうしょ321ぺーじ)。
  35. ^ 町内ちょうない家持いえもち順番じゅんばん町年寄まちどしより就任しゅうにんする慣習かんしゅうを「まわり年寄としより(まわりどしより)」とんだ(『京都大きょうとだい事典じてんあわ交社)。
  36. ^ a b 国史こくしだい辞典じてん』8かん 吉川弘文館よしかわこうぶんかんそう年寄としより」(同書どうしょ575ぺーじ)。
  37. ^ a b c 大阪おおさか歴史れきしりょく社団しゃだん法人ほうじんのうやま漁村ぎょそん文化ぶんか協会きょうかい (235ぺーじ)。
  38. ^ はかまいたむための損料そんりょうのこと。
  39. ^ a b c 山梨やまなしけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ (178ぺーじ)。
  40. ^ a b c d 長崎ながさきけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ同書どうしょ146 - 147ぺーじ)。
  41. ^ 『「株式会社かぶしきがいしゃ長崎ながさき出島でじま赤瀬あかせひろし 講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ 「伝統でんとう格式かくしきほこる『長崎ながさき町年寄まちどしより』」(同書どうしょ121 - 123ぺーじ)。
  42. ^ 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん (210 - 211ぺーじ)。
  43. ^ しんてい寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかだいいちかん(56ぺーじ)、「長崎ながさきかくいえ略譜りゃくふ」『増補ぞうほ長崎ながさきりゃく上巻じょうかん長崎ながさき叢書そうしょさん(584ぺーじ)。
  44. ^ 長崎ながさきけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ同書どうしょ131 - 132ぺーじ)。
  45. ^ a b c 『「株式会社かぶしきがいしゃ長崎ながさき出島でじま赤瀬あかせひろし 講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ 「伝統でんとう格式かくしきほこる『長崎ながさき町年寄まちどしより』」(121- 123ぺーじ)。
  46. ^ 『「株式会社かぶしきがいしゃ長崎ながさき出島でじま赤瀬あかせひろし 講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ 「伝統でんとう格式かくしきほこる『長崎ながさき町年寄まちどしより』」(同書どうしょ123 - 128ぺーじ)。
  47. ^ 長崎ながさきけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ同書どうしょ188 - 189ぺーじ)。
  48. ^ 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん (209 - 212ぺーじ)。
  49. ^ 『「株式会社かぶしきがいしゃ長崎ながさき出島でじま赤瀬あかせひろし 講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ (123 - 128ぺーじ)。
  50. ^ 長崎ながさき 歴史れきしたび外山とやま幹夫みきお 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ (209 - 212ぺーじ)。
  51. ^ 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん(241 - 242ぺーじ)。
  52. ^ 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん(89 - 93ぺーじ)。
  53. ^ a b 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん(239 - 241ぺーじ)。
  54. ^ 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん(136 - 137ぺーじ)。
  55. ^ a b 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん(186- 188ぺーじ)。
  56. ^ 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん(212ぺーじ)。
  57. ^ 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん(273ぺーじ)。
  58. ^ a b 長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう鈴木すずき康子やすこちょ 思文閣出版しぶんかくしゅっぱん(290 - 291ぺーじ)。
  59. ^ a b 『「株式会社かぶしきがいしゃ長崎ながさき出島でじま赤瀬あかせひろし 講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ 「高木たかぎ彦右衛門えもん」(191ぺーじ)。
  60. ^ a b 長崎ながさき奉行ぶぎょう 江戸えど幕府ばくふみみ外山とやま幹夫みきおちょ 中公新書ちゅうこうしんしょ長崎ながさき奉行ぶぎょうしょ崩壊ほうかい」(180 - 183ぺーじ)。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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