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けんだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

けんだん(けんだん)とは、中世ちゅうせい日本にっぽんにおいては警察けいさつ治安ちあん維持いじ刑事けいじ裁判さいばんかかわる行為こうい権限けんげん職務しょくむ総称そうしょうしたかたりで、罪科つみとが認定にんていされた行為こういについて犯人はんにん捜査そうさつい逮捕たいほ)、その取調とりしらべ裁判さいばん判決はんけつ執行しっこうまでの一貫いっかんしたプロセスをす。

もとは、「検察けんさつ」と「断獄だんごく」をわせたかたりで、非違ひい不法ふほう行為こうい)を検察けんさつしてその不法ふほう糾弾きゅうだんするなどして断獄だんごくつみさばくこと)をおこなうことを意味いみしている。

けんだんおこな権限けんげんけんだんけん(けんだんけん)、けんだんけんもとづく訴訟そしょうけんだん沙汰さた(けんだんさた)、けんだんけん行使こうしするしょくけんだんしょく(けんだんしき)、けんだんけん公使こうし結果けっか没収ぼっしゅうされた財物ざいぶつけんだんぶつ(けんだんぶつ)としょうする。さら中世ちゅうせい後期こうきはいるとけんだんけんものあるいはその使節しせつとしてけんだん実務じつむおこなものして、“けんだん”としょうする事例じれい(『にち葡辞しょ』には“けんだん”を「統治とうちをし、裁判さいばんをするしょく」と定義ていぎされている)もあらわれ、その名残なごりとして江戸えど時代じだいには村役人むらやくにんけんだんもしくはけんだん肝煎きもいりしょうした地域ちいきもあった。

概要がいよう

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けんだん」とは

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平安へいあん時代じだいには朝廷ちょうてい検非違使けびいしちょう京都きょうと)・国衙こくが諸国しょこく)にあたえられた権限けんげん[注釈ちゅうしゃく 1]であり、重科じゅうか重犯じゅうはん謀叛ぼうほん殺害さつがい盗賊とうぞくなどの重大じゅうだい犯罪はんざいおよびその犯人はんにん)の場合ばあいには、とくつい使つかい設置せっちする場合ばあいもあった。だが、12世紀せいきはいると、荘園しょうえん不入ふにゅうけん根拠こんきょ国衙こくが介入かいにゅう排除はいじょして独自どくじそうないにおけるけんだんけん行使こうしするようになり、また寺社じしゃみずからの内部ないぶ自治じちもとづくけんだんけん行使こうしした。さらどう末期まっきたいら政権せいけん成立せいりつする過程かてい平家ひらか一門いちもん唯一ゆいいつ軍事ぐんじ貴族きぞくとして諸国しょこく守護しゅごけん[1]みとめられてけんだんけん行使こうし[2]つづいてたてひさ新制しんせいによって鎌倉かまくら殿どのであるみなもと頼朝よりとも諸国しょこく守護しゅごけんあたえられてけんだんけん行使こうしした。頼朝よりともおよびその後継こうけいしゃ鎌倉かまくら幕府ばくふ組織そしきしてそのなが将軍しょうぐん)となり、みずからの家人かじんである御家人ごけにんさむらいしょおよび守護しゅご地頭じとうにんじて、かれらは武家ぶけやく一環いっかんとしてそれぞれの権限けんげんもとづきけんだん実務じつむおこなった。朝廷ちょうていすべてのけんだんけん放棄ほうきしたわけではなかった[注釈ちゅうしゃく 2]が、けんだんけん実行じっこうするための軍事ぐんじりょく警察けいさつりょくけていた。そのため、細分さいぶんされたけんだんけん幕府ばくふ寺社じしゃなどの権門けんもんたいして違勅いちょくおかしたものついめいじる宣旨せんじはっした。これをふすま宣旨せんじぶ。鎌倉かまくら幕府ばくふ当初とうしょ鎌倉かまくら殿どのあたえられていた諸国しょこく守護しゅごけんおよびそれを根拠こんきょとするけんだんけんもとづいてけんだん実施じっしし、守護しゅご地頭じとうはその家人かじんとしてけんだん実務じつむにあたる存在そんざいぎなかったが、鎌倉かまくら殿どの継承けいしょうしてきた源氏げんじ将軍しょうぐん断絶だんぜつとその直後ちょくご承久じょうきゅうらんにおける朝廷ちょうていによるけんだんけん回収かいしゅう再編さいへん失敗しっぱい失墜しっついによって、守護しゅご地頭じとうであった御家人ごけにん諸国しょこく守護しゅごけん行使こうし主体しゅたいとして浮上ふじょうすることになった[3]

けんだん対象たいしょうとしては、謀叛ぼうほん夜討ようち強盗ごうとう山賊さんぞく海賊かいぞく殺害さつがい刃傷にんじょう放火ほうかなど(『沙汰さた未練みれんしょ』)の犯罪はんざい行為こういしたが、けんだんけん行使こうししゃによってけんだん対象たいしょう範囲はんいことなる場合ばあいもある。たとえば、鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅごけんだんけん対象たいしょうとしたのは当初とうしょは「関東かんとう下知げじさんヶ条かじょう」(ぞくう「だいはんさん箇条かじょう」)に該当がいとうする大番おおばん催促さいそく大番おおばんやくおうじないものたいする処分しょぶん)・謀叛ぼうほん殺害さつがいかんするつい裁判さいばん限定げんていされ、『成敗せいばい式目しきもく』によって夜討ようち強盗ごうとう山賊さんぞく海賊かいぞく対象たいしょうとされたものの、それ以外いがいけんだんけん行使こうし検非違使けびいし荘園しょうえん本所ほんじょそうかん)との衝突しょうとつおそれて消極しょうきょくてきであった[4]。また、寺社じしゃ本所ほんじょりょういちえん荘園しょうえんである「本所ほんじょいちえんりょう」は事実じじつじょう守護しゅご入地いれじであり、守護しゅごけんだんけん拒絶きょぜつされていた。一方いっぽう地頭じとうにはそうかんとしての側面そくめんゆうしており、守護しゅごけんだんけん対象たいしょうとしていない事件じけんおも軽微けいび事案じあん)にたいしてそうかん一員いちいんとしてけんだんけん行使こうしすることができた。もっとも前述ぜんじゅつ本所ほんじょいちえんりょう場合ばあいには、そもそも地頭じとう設置せっち自体じたい本所ほんじょによって拒否きょひされていたことから、地頭じとうけんだんけん存在そんざいしなかった(守護しゅご荘園しょうえんへの入部にゅうぶ地頭じとう荘園しょうえんへの設置せっち対応たいおう関係かんけいにあったとえる)。さらけんだんには没収ぼっしゅうなどの財産ざいさんけい付随ふずいし、けんだん実施じっししたもの得分とくぶんとして犯人はんにん所領しょりょう資材しざい獲得かくとくすることができた。たとえば、鎌倉かまくら時代じだい国衙こくがりょう荘園しょうえん現地げんち地頭じとうけんだんおこなって犯人はんにんついした場合ばあい犯人はんにんから没収ぼっしゅうした財産ざいさん国司こくしりょうが2/3、地頭じとうが1/3の割合わりあい配分はいぶんされた。

中世ちゅうせい日本にっぽんにおいてけんだん国家こっかあるいは領主りょうしゅ領域りょういきおよ住民じゅうみん支配しはいするためのもっと重要じゅうよう要素ようそであり、さら財産ざいさんけいともな得分とくぶん発生はっせいがあったために、犯罪はんざい軽重けいちょう発生はっせい場所ばしょ犯人はんにん身分みぶんさらついのち得分とくぶん配分はいぶんめぐって、けんだんけん複数ふくすう権力けんりょくしょく)の所持しょじしゃ衝突しょうとつすることもめずらしくはなかったのである。さら守護しゅご地頭じとうけんだん得分とくぶんによる所領しょりょう獲得かくとく目指めざうごきがしょうじたために『成敗せいばい式目しきもく』では重科じゅうかあと恣意しいてき没収ぼっしゅう禁止きんしすることや、犯人はんにんたく妻子さいし資材しざい没収ぼっしゅうすることをきんじる規定きていもうけている。それでもけんだん権限けんげん得分とくぶんめぐ訴訟そしょうえず、13世紀せいきすえには鎌倉かまくら幕府ばくふところつとむ沙汰さた雑務ざつむ沙汰さたならんであらたにけんだん沙汰ざたばれる訴訟そしょう制度せいど整備せいびせざるをなくなったのである。

武家ぶけによるけんだん

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前述ぜんじゅつのように、鎌倉かまくら幕府ばくふにおけるけんだん実務じつむ中核ちゅうかくさむらいしょ守護しゅご地頭じとうである。さむらいしょ鎌倉かまくらちゅう警察けいさつおよ広域こういきあるいは全国ぜんこくてき刑事けいじ事件じけん裁判さいばんおよび御家人ごけにん関連かんれんした刑事けいじ裁判さいばん担当たんとうした(なお、鎌倉かまくらちゅう軽微けいび事件じけんかんしては政所まんどころ裁判さいばんおこなうこともあった)。守護しゅご平安へいあん時代じだいつい使つかい性格せいかくいで、前述ぜんじゅつのように担当たんとうする国内こくないにおいて発生はっせいした大番おおばん催促さいそく謀叛ぼうほん殺害さつがい、『成敗せいばい式目しきもく』によって追加ついかされた夜討ようち強盗ごうとう山賊さんぞく海賊かいぞくかんするつい裁判さいばんおこない、必要ひつようおうじて守護しゅご派遣はけんした使節しせつついおこなった。ただし、前述ぜんじゅつのように本所ほんじょいちえんりょうにはけんだんけんおよばす、またおな御家人ごけにん(「自称じしょう」であるケースもふくむ)にたいするけんだんには制約せいやくがあり、つい事実じじつ審理しんりのみをおこなって最終さいしゅうてき処分しょぶんさむらいしょゆだねられた。もっとも、遠隔えんかくである九州きゅうしゅう守護しゅごたいしては御家人ごけにんたいする刑事けいじ裁判さいばん最終さいしゅう処分しょぶん全面ぜんめんてきみとめられ、鎌倉かまくら時代じだい末期まっきには尾張おわりこく美濃みのこく以西いせい九州きゅうしゅうのぞく)の御家人ごけにんけんだん担当たんとうする「けんだんかた」が京都きょうとろく探題たんだい設置せっちされた。また、ろく探題たんだい大番おおばんやくとして上洛じょうらくした大番おおばんしゅ在京ざいきょう御家人ごけにんひきいて治安ちあん維持いじ活動かつどうおこなうこともみとめられるようになった。一方いっぽう賭博とばく窃盗せっとう放火ほうかなど守護しゅごけんだんけん範疇はんちゅうからはずれる犯罪はんざい荘園しょうえんない発生はっせいした場合ばあいには地頭じとうけんだんおこない、地頭じとうついしたのが重科じゅうか場合ばあいには守護しゅごやその使節しせつへのわたしをおこなった(ただし、有力ゆうりょく地頭じとうなかには地頭じとう自身じしん守護しゅご不入ふにゅうけんって、守護しゅごけんだんけんみずかおこなうことがみとめられたものがいた。また、後述こうじゅつのように地頭じとう以外いがいそうかんけんだんけんゆうしていた)。とはいえ、依然いぜんとして本所ほんじょいちえんりょうなど幕府ばくふけんだんけんおよばない地域ちいきもあり、もとやその悪党あくとう社会しゃかい問題もんだいなどをきっかけとして、幕府ばくふ本所ほんじょいちえんりょうへのけんだんけん拡充かくじゅうはかったが、本所ほんじょがわ抵抗ていこう御家人ごけにん疲弊ひへいによって幕府ばくふ滅亡めつぼうまでその目標もくひょうたっすることは出来できなかった[5]

室町むろまち幕府ばくふ成立せいりつすると、拠点きょてん鎌倉かまくらから京都きょうとうつったために、さむらいしょ京都きょうとちゅう警察けいさつおこなうようになった。これにたいして平安へいあん時代じだい以来いらい京都きょうとけんだん担当たんとうしていた朝廷ちょうてい検非違使けびいし組織そしきそのものの形骸けいがいもあってその権限けんげんうしなっていき、室町むろまち幕府ばくふはその職掌しょくしょう代行だいこうするようになっていった。一方いっぽう守護しゅご地頭じとう鎌倉かまくら幕府ばくふけんだんけん基本きほんてきには継承けいしょうしていったが、守護しゅごけんだん対象たいしょう刈田かりた狼藉ろうぜきくわえられたのが特徴とくちょうてきである。また、地域ちいきにおいてちからばしてきた国人くにびとおよびその連合体れんごうたいである一揆いっき独自どくじけんだんけん行使こうしするようになり、戦国せんごく時代じだいになると、ちからうしなった幕府ばくふ守護しゅごわって戦国せんごく大名だいみょう国人くにびと領主りょうしゅけんだんけん主体しゅたいとなっていった。

本所ほんじょ在地ざいちけんだん

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一方いっぽう寺社じしゃ公家くげ境内けいだい屋敷やしき所領しょりょうにおいてけんだんけんち、京都きょうとではいちてきには内部ないぶにおける処分しょぶん懲戒ちょうかい拘禁こうきんなど)がおこなわれ、重大じゅうだい犯罪はんざい場合ばあいには検非違使けびいしちょうわたして犯人はんにん財産ざいさん没収ぼっしゅうけん確保かくほしていた[注釈ちゅうしゃく 3]地方ちほう所領しょりょう荘園しょうえんではあずかしょ下司げす公文こうぶんなどのそうかんけんだんけん行使こうしし、荘園しょうえん領主りょうしゅである本所ほんじょそうおい使つかいにんじている場合ばあい幕府ばくふ地頭じとう設置せっちしている場合ばあいにはかれらがしゅとしてけんだんおこなった。その裁判さいばん本所ほんじょおこなわれるが、政所まんどころ集会しゅうかいなど裁判さいばんおこな機関きかん本所ほんじょによってことなっていた。本所ほんじょいちえんりょう場合ばあいは、本所ほんじょけんだんけんすべてを行使こうしできるが、それ以外いがい所領しょりょう場合ばあい武家ぶけけんだんけん関与かんよけ、地頭じとうあるいは守護しゅごおよびその使節しせつ荘園しょうえんないはいった。重科じゅうか本所ほんじょいちえんりょうんだ場合ばあいには守護しゅご本所ほんじょ犯人はんにんわたしを要求ようきゅうし、境界きょうかいにてわたしをおこなうことになっていたが、本所ほんじょがわわたしにおうじる義務ぎむをなかった。たとえば、伊賀いがこく黒田くろだそうでは、悪党あくとうどうそうんだのにたいして、守護しゅごだい守護しゅご使節しせつ)が本所ほんじょである東大寺とうだいじわたしをもとめたところ、東大寺とうだいじ表向おもてむきにはわたしに同意どういしたものの実際じっさいにはあずかところめいじてわたしを拒絶きょぜつさせるという事件じけんきている[6]鎌倉かまくら時代じだい後半こうはんになると、悪党あくとう対応たいおうしきれなくなった本所ほんじょがわじょうして守護しゅごいれ一時いちじてき解除かいじょするなどの措置そちによって守護しゅごおよびその使節しせつ立入たちいりみとめ、あるいは地頭じとう設置せっち容認ようにんして武家ぶけ支援しえんあお場合ばあいもあった。

南北なんぼくあさ時代じだいになると、村落そんらくにおいてはそうむら形成けいせいされるようになるが、かれらも荘園しょうえんにおける守護しゅご不入ふにゅう特権とっけん継承けいしょうなどを主張しゅちょうしてそうおきてばれる成文法せいぶんほうさだめ、それにもとづいてむらないおよびむら成員せいいんたいするけんだんけん行使こうしした。これをけんだんしょうする。その背景はいけいとして中世ちゅうせいにおいてはすべての人々ひとびと武装ぶそうしている状況じょうきょうってもよく、村落そんらく独自どくじけんだんけん行使こうしするという条件じょうけんととのっていう側面そくめんおおきかった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ うけたまわ元年がんねん1179ねん)に因幡いなばこく新興寺しんごうじ寺領じりょうよんいたりたいする国司こくしけんだん使いれみとめた事例じれい文治ぶんじ2ねん1186ねん)に諸国しょこく地頭じとう不法ふほうけんだんおこなうことをきんじた太政官だじょうかんが“けんだん”のかたり登場とうじょうするはや事例じれいとされる。参照さんしょう:羽下はねしたけんだん」『日本にっぽんだい事典じてん』。
  2. ^ たてひさ新制しんせいにおいても「ぜんみぎ近衛このえ大将たいしょうげん朝臣あそん(=みなもと頼朝よりとも)」と「京畿けいき諸国しょこく所部ところぶかんとう」がついおこなものとしてなみしるされており、鎌倉かまくら幕府ばくふ諸国しょこく守護しゅごけんみとめた反面はんめん朝廷ちょうてい幕府ばくふあいだ諸国しょこく守護しゅごけん分裂ぶんれつをももたらした。参照さんしょう:西田にしだ、2011ねん、P215-217。
  3. ^ かん場合ばあいにも内部ないぶ秩序ちつじょ維持いじのために、上官じょうかん配下はいかたいしてけんだんけん同様どうよう行政ぎょうせいてき処分しょぶんすることができた。参照さんしょう:新田にったけんだん」『歴史れきしがく事典じてん』。

出典しゅってん

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  1. ^ ひらはんじんやす2ねん5がつ10日とおかじょう所収しょしゅう同日どうじつづけろくじょう天皇てんのう宣旨せんじ
  2. ^ 西田にしだ、2011ねん、P211-212。
  3. ^ 西田にしだ、2011ねん、P29・218-221・227-231。
  4. ^ 西田にしだ、2011ねん、P18-24。
  5. ^ 西田にしだ、2011ねん、P35-47。
  6. ^ ぶんなが2ねん6がつたいら政氏まさうじじゅう訴状そじょう」(「内閣ないかく文庫ぶんこ所蔵しょぞう伊賀いがこく古文書こもんじょ」『鎌倉かまくら遺文いぶん』13-9305ごう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 石川いしかわあきらかんけんだん」(『国史こくしだい辞典じてん 5』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1985ねんISBN 978-4-642-00505-0
  • 羽下はねした徳彦とくひこけんだん」(『日本にっぽんだい事典じてん 2』(平凡社へいぼんしゃ、1993ねんISBN 978-4-582-13102-4
  • 義江よしえ彰夫あきおけんだん」(『日本にっぽん歴史れきしだい事典じてん 1』(小学館しょうがくかん、2000ねんISBN 978-4-09-523001-6
  • 新田にった一郎いちろうけんだん」(『歴史れきしがく事典じてん 9 ほう秩序ちつじょ』(弘文こうぶんどう、2002ねんISBN 978-4-335-21039-6
  • 西田にしだ友広ともひろ鎌倉かまくら幕府ばくふけんだんくにせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねんISBN 978-4-642-02902-5