蔵前くらまえ

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蔵前くらまえ
蔵前駅 (浅草線出入口)
蔵前くらのまええき (浅草線あさくさせん出入口でいりぐち
蔵前の位置(東京23区内)
蔵前
蔵前くらまえ
蔵前くらまえ位置いち
北緯ほくい3542ふん11.48びょう 東経とうけい13947ふん26.55びょう / 北緯ほくい35.7031889 東経とうけい139.7907083 / 35.7031889; 139.7907083
くに 日本の旗 日本にっぽん
都道府県とどうふけん 東京とうきょう
特別とくべつ 台東たいとう
地域ちいき 浅草あさくさ地域ちいき
人口じんこう
2020ねんれい2ねん12月1にち現在げんざい[1]
 • 合計ごうけい 7,399にん
ひとしときおび UTC+9 (日本にっぽん標準時ひょうじゅんじ)
郵便ゆうびん番号ばんごう
111-0051[2]
市外しがい局番きょくばん 03[3]
ナンバープレート 足立あだち

蔵前くらまえ(くらまえ)は、東京とうきょう台東たいとう町名ちょうめい現行げんこう行政ぎょうせい地名ちめい蔵前くらまえいち丁目ちょうめから蔵前くらまえよん丁目ちょうめ郵便ゆうびん番号ばんごうは111-0051[2]

地理ちり[編集へんしゅう]

台東たいとう南東なんとう位置いちする。まちいき東部とうぶ隅田川すみだがわさかい墨田すみだ本所ほんじょ横網よこあみにそれぞれせっする。南部なんぶ台東たいとう柳橋やなぎはしせっする。南西なんせい台東たいとう浅草橋あさくさばしせっする。西部せいぶ新堀しんぼりどおりにせっし、これをさかい台東たいとうさんすじ台東たいとう鳥越とりこしにそれぞれせっする。北部ほくぶ春日しゅんじつどおせっし、これをさかい台東たいとう寿ことぶき台東たいとう駒形こまがたにそれぞれせっする。まち域内いきない商業しょうぎょう住宅じゅうたく混在こんざいしている。江戸えどどお沿付近ふきん中心ちゅうしんおもちゃ問屋とんやならんでいることでもられ、隣接りんせつする駒形こまがたには玩具おもちゃ大手おおてバンダイエポック社えぽっくしゃ本社ほんしゃかまえている。付近ふきんには厩橋うまやばし蔵前橋くらまえばし隅田川すみだがわかる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいまで[編集へんしゅう]

江戸えどきり絵図えず」のうち「東都とうと浅草あさくさ」より浅草あさくさ御蔵おぐら部分ぶぶん

蔵前くらまえという地名ちめいはこの江戸えど幕府ばくふ米蔵よねぞう浅草あさくさ御蔵おぐら)があったことに由来ゆらいする。

このぞう幕府ばくふ天領てんりょうからあつめたこめ収蔵しゅうぞうするためのもので、元和がんわ6ねん1620ねん)に鳥越とりこし神社じんじゃおか鳥越山とりごえやま)にあったさん神社じんじゃのうちしゃ移転いてんさせ、おかくずしによって隅田川すみだがわててつくられた。そのそう敷地しきち面積めんせきは36646つぼ(ただし『御府内ごふない備考びこう』は27900つぼとする)、ひがし隅田川すみだがわみなみ北西ほくせいさんぽうほりかこみ、67むねぞうがあった。

このぞうべい旗本はたもと御家人ごけにんたちにとっての扶持ふちまいすなわちいまでいう給料きゅうりょうとなり、これを管理かんり出納すいとうする勘定かんじょう奉行ぶぎょう配下はいかぞう奉行ぶぎょうをはじめ大勢おおぜい役人やくにん敷地しきちないや、あらたに鳥越山とりごえやま北側きたがわ西側にしがわひろがる湿地しっちたいだったひめなどもてて武家ぶけ屋敷やしき整備せいびし、役宅やくたくあたえられんでいた。

名所めいしょ江戸えどひゃくけい」にえがかれた「浅草あさくさがわ首尾しゅびまつ御厩みまや河岸かわぎし」。歌川うたがわ広重ひろしげふで

浅草あさくさ御蔵おぐらは、隅田川すみだがわ右岸うがん上流じょうりゅうから一番いちばんばんかぞえる8ほんほりつくり、それにめんしたおおくのべいぞうつらなった。よんばんほりばんほりあいだには、「首尾しゅびまつ」というえだ川面かわもしだれたまつがあった。この名前なまえ由来ゆらいには諸説しょせつがある[4]首尾しゅびまつ江戸えど中期ちゅうき安永やすなが年間ねんかん大風おおふうたおれ、そのなんこころみたが明治めいじまでにれてしまった。

御蔵おぐら随伴ずいはん施設しせつうまや北側きたがわにあり、対岸たいがんにはべいぞう匹敵ひってきするひろさの幕府ばくふ建築けんちく資材しざい貯蔵ちょぞうする竹蔵たけぞうかれ、御蔵おぐらから隅田川すみだがわ対岸たいがんわたる「御厩みまや河岸かわぎしわたし」があった。また南側みなみがわにもわたしがあり「御蔵おぐらわたし」のがあったが、こちらは富士山ふじさん見渡みわたせたため「富士見ふじみわたし」ともばれた。御厩みまや河岸かわぎしわたしは転覆てんぷく事故じこおおく、「さんわたし」ともいわれたことがある。

御蔵おぐら西側にしがわにあるまち江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう蔵前くらまえばれるようになり、おおくのべい問屋とんや札差ふださしみせならべ、札差ふださし武士ぶしわって御蔵おぐらからべいりや運搬うんぱん売却ばいきゃく代行だいこうした。札差ふださしがこの地域ちいきむようになったのは寛文ひろふみころにさかのぼるという。札差ふださしあずかったべいから手数料てすうりょういてべい現金げんきん武士ぶしわたし、現物げんぶつ手元てもとのこったぶんまい小売こうり米屋こめやたちに手数料てすうりょうけてるほかに、大名だいみょう旗本はたもと御家人ごけにんかねけて莫大ばくだい利益りえき吉原よしはら遊廓ゆうかく江戸えどさんりにするなどして豪遊ごうゆうした(くわしくは札差ふださし参照さんしょう)。

なお、とおる年間ねんかんに、対岸たいがん竹蔵たけぞう貯木機能きのう猿江さるえ現在げんざい猿江さるえ恩賜おんし公園こうえん)にうつし、竹蔵たけぞうべいくらとして使つかわれた。

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

明治めいじ元年がんねん1868ねん):浅草あさくさ御蔵おぐらぞう奉行ぶぎょう以下いか役宅やくたく明治めいじ政府せいふ管理かんりすることになり「政府せいふ御蔵おぐら」としょうされ、南側みなみがわのう商務省しょうむしょうが、北側きたがわ大蔵省おおくらしょう管理かんりした。以降いこう官公庁かんこうちょう関連かんれん施設しせつおおあつまるようになる。

明治めいじ7ねん1874ねん):政府せいふ大成たいせい殿どのだい講堂こうどう会議かいぎじょうとするため、ここにかれていた書籍しょせきかん蔵書ぞうしょ浅草あさくさ御蔵おぐらうつし、閲覧えつらんしょ新築しんちくしてよく明治めいじ8ねん1875ねん)に内務省ないむしょう管理かんり浅草あさくさ文庫ぶんことして開館かいかんした。直後ちょくご湯島ゆしま聖堂せいどう博物館はくぶつかん併設へいせつ東京書籍とうきょうしょせきかんかれたが蔵書ぞうしょつづかれて蔵前くらまえ閲覧えつらんしょとされた。この前々まえまえねん御厩みまやわたしで花見はなみきゃく転覆てんぷくする事故じこきてわたはいされることになり、このとし民間みんかんうまやきょう架橋かきょう

明治めいじ14ねん1881ねん):上野公園うえのこうえん博物館はくぶつかん新築しんちくされ、構内こうないの「書籍しょせき借覧しゃくらんじょう」に浅草あさくさ文庫ぶんこ蔵書ぞうしょうつされ、東京とうきょう職工しょっこう学校がっこうかれた。隣接りんせつする南元みなみもとまち敷地しきちくわえられ、その広大こうだい土地とちは「蔵前くらまえ工業こうぎょう学園がくえん)」としょうされていた。大正たいしょう11ねん1922ねん)にはノーベルしょう授賞じゅしょう直後ちょくごアルベルト・アインシュタイン来校らいこうしている。

明治めいじ26ねん1893ねん):東京とうきょう電燈でんとう株式会社かぶしきがいしゃ御蔵おぐら北側きたがわ浅草あさくさ火力かりょく発電はつでんしょ建設けんせつ開始かいし、2ねん明治めいじ28ねん(1895ねん)9がつ部分ぶぶん送電そうでん開始かいし

同年どうねんうまやきょうえ。

明治めいじ37ねん1904ねん):浅草あさくさ警察けいさつしょ南元みなみもとまち分署ぶんしょ開設かいせつげん蔵前くらまえ警察けいさつしょ)。同年どうねん浅草あさくさ御蔵おぐらない大蔵省おおくらしょう専売せんばいきょくだい煙草たばこ製造せいぞうしょ開所かいしょのちしば三田みた移転いてん)。

大正たいしょう8ねんうまや橋西きょうせいつめ梅若うめわか能楽堂のうがくどう建立こんりゅう震災しんさいから再建さいけんしたものの、東京とうきょうだい空襲くうしゅう焼失しょうしつした)。

大正たいしょう12ねん1923ねん)の関東大震災かんとうだいしんさいにより浅草あさくさ御蔵おぐら東京とうきょう職工しょっこう学校がっこう浅草あさくさ火力かりょく発電はつでんしょともに被災ひさい壊滅かいめつした。学校がっこう翌年よくねん大岡山おおおかやま移転いてんした(東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく。このきゅうこう由来ゆらいして学校がっこう同窓会どうそうかい蔵前くらまえ工業こうぎょうかいんでいる。)。発電はつでんしょ当地とうちでの再建さいけん断念だんねん機能きのう千住せんじゅ移転いてんする。

このころ、日本橋にほんばしじゅうけんてんげん日本橋にほんばし室町むろまち付近ふきん)から被災ひさいした人形にんぎょう職人しょくにん南側みなみがわ須賀すかまちから浅草橋あさくさばし周辺しゅうへん移転いてん周辺しゅうへん玩具おもちゃ問屋とんやがいとして発展はってんはじめる。

大正たいしょう13ねん1924ねん):きゅうこうあと東京とうきょう市立しりつ浅草あさくさ専修せんしゅう学校がっこう創立そうりつげん東京とうきょう都立とりつ蔵前くらのまえ工科こうか高等こうとう学校がっこう)。

同年どうねん蔵前橋くらまえばし架橋かきょう

昭和しょうわ3ねん1928ねん):かつての学校がっこう正門せいもん付近ふきん敷地しきちに、鳥越とりこしから移転いてんしてきていただいろくてんさかき神社じんじゃ移転いてん

昭和しょうわ8ねん1933ねん):発電はつでんしょ跡地あとち蔵前くらまえ変電へんでんしょ建設けんせつされた。

昭和しょうわ9ねん1934ねん):御蔵おぐらぜん片町かたまち福富ふくとみまちしん旅籠はたごまちなど周辺しゅうへんここのつのまち整理せいり統合とうごう蔵前くらまえはじめ - さん丁目ちょうめとなり、蔵前くらまえ正式せいしき町名ちょうめいとして使つかわれるようになる。

昭和しょうわ22ねん1947ねん):台東たいとう成立せいりつ。このときに町名ちょうめいに「浅草あさくさ」をかんし、「浅草あさくさ蔵前くらのまえ」となった。昭和しょうわ24ねん1949ねん)、日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいだいろくてんさかき神社じんじゃよこ蔵前くらまえ国技こくぎかん建設けんせつ開始かいしし、翌年よくねん仮設かせつ」のまま興行こうぎょう開始かいし昭和しょうわ29ねん1954ねん)に完成かんせい以降いこう大相撲おおずもうのほか柔道じゅうどうプロレスリングなど興行こうぎょうにぎわった。

昭和しょうわ39ねん1964ねん):住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっしさいして浅草あさくさかつらまち統合とうごうし、現在げんざい蔵前くらまえはじめ - よん丁目ちょうめとなる。

昭和しょうわ42ねん1967ねん):東京とうきょう電気でんき通信つうしんきょく水道局すいどうきょく建設けんせつ主体しゅたいとなって蔵前くらまえ専用せんようきょう隅田川すみだがわ架橋かきょうされた。

昭和しょうわ50ねん1975ねん):東京とうきょう水道局すいどうきょく蔵前くらまえポンプしょ設置せっち

昭和しょうわ59ねん1984ねん):蔵前くらまえ国技こくぎかん両国りょうこく移転いてん跡地あとち東京とうきょう売却ばいきゃくされて蔵前くらまえポンプしょ東京とうきょう下水道げすいどうきょく北部ほくぶ下水道げすいどう事務所じむしょ造成ぞうせいされた。幹線かんせん工事こうじ現場げんばあとには蔵前くらのまえすいかん立地りっちしている。

平成へいせい12ねん2000ねん):東京とうきょう貯金ちょきん事務じむセンターさいたま新都しんとこころ郵政ゆうせい庁舎ちょうしゃげん日本にっぽん郵政ゆうせいグループさいたまビル)に移転いてん

世帯せたいすう人口じんこう[編集へんしゅう]

2020ねんれい2ねん12月1にち現在げんざい世帯せたいすう人口じんこう以下いかとおりである[1]

ひのと 世帯せたいすう 人口じんこう
蔵前くらまえいち丁目ちょうめ 642世帯せたい 1,002にん
蔵前くらまえ丁目ちょうめ 1,136世帯せたい 1,889にん
蔵前くらまえさん丁目ちょうめ 868世帯せたい 1,375にん
蔵前くらまえよん丁目ちょうめ 1,873世帯せたい 3,133にん
けい 4,519世帯せたい 7,399にん

小・中学校しょうちゅうがっこう学区がっく[編集へんしゅう]

区立くりつ小・中学校しょうちゅうがっこうかよ場合ばあい学区がっく以下いかとおりとなる[5]

ひのと 番地ばんち 小学校しょうがっこう 中学校ちゅうがっこう
蔵前くらまえいち丁目ちょうめ 全域ぜんいき 台東たいとう区立くりつ台東たいとう育英いくえい小学校しょうがっこう 台東たいとう区立くりつ浅草あさくさ中学校ちゅうがっこう
蔵前くらまえ丁目ちょうめ 全域ぜんいき 台東たいとう区立くりつ蔵前くらのまえ小学校しょうがっこう
蔵前くらまえさん丁目ちょうめ 全域ぜんいき
蔵前くらまえよん丁目ちょうめ 1〜10ばん
12〜15ばん
19〜23ばん
28〜35ばん
その 台東たいとう区立くりつ御徒おかちまち台東たいとう中学校ちゅうがっこう

交通こうつう[編集へんしゅう]

鉄道てつどう[編集へんしゅう]

道路どうろ[編集へんしゅう]

施設しせつ[編集へんしゅう]

かつて存在そんざいした施設しせつ

出身しゅっしん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b まちひのとめいべつ世帯せたい人口じんこうすう”. 台東たいとう (2020ねん12月8にち). 2021ねん1がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 郵便ゆうびん番号ばんごう”. 日本にっぽん郵便ゆうびん. 2019ねん8がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ 市外しがい局番きょくばん一覧いちらん”. 総務そうむしょう. 2017ねん12月29にち閲覧えつらん
  4. ^ 首尾しゅびまつ由来ゆらいとして、
    • 寛永かんえい年間ねんかん(1624ねん -1642ねん)に隅田川すみだがわ氾濫はんらんしたさい陣頭じんとう指揮しきにあたっていた徳川とくがわ家光いえみつ面前めんぜんで、謹慎きんしんちゅう老中ろうじゅう阿部あべ忠秋ただあきがさっそうと人馬じんばともどもしてかわみ、見事みごと対岸たいがん辿たどいた。これをいえこう賞賛しょうさんして勘気かんきいたという。これにちなんでかたわらにあったまつを「首尾しゅびまつ」としょうしたというせつ
    • 吉原よしはら遊廓ゆうかくかよきゃくが、山谷さんやほりへの隅田川すみだがわ船上せんじょうで、このまつかげによって「首尾しゅび」をかたったからというせつ
    • 海苔のり養殖ようしょくに「ひび」とばれるくい隅田川すみだがわ対岸たいがん横網よこあみまちにたくさんならび「ひゃくほんくい」ともばれていた。この「ひび」が江戸えどなまりで「首尾しゅび」となり、ちかくにあったまつを「首尾しゅびまつ」とんだとするせつ
    などがある。
  5. ^ 区立くりつ小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこう通学つうがく区域くいき”. 台東たいとう (2016ねん9がつ5にち). 2017ねん12月29にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい13 東京とうきょう地名ちめい平凡社へいぼんしゃ2002ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]