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たにぶんあきら

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たにぶんあきら自画じがぞう(40さいごろ
たにぶんあきらぞうさい晩年ばんねん)、遠坂とおさかぶん

たに ぶんあきら(たに ぶんちょう、たかられき13ねん9月9にち1763ねん10月15にち) - 天保てんぽう11ねん12月14にち1841ねん1がつ6にち))は、江戸えど時代じだい後期こうき日本にっぽん南画なんが文人ぶんじん

いみな正安まさやす。はじめごうぶんあさりょうのちぶんあきらとしねた。通称つうしょう文五郎ぶんごろうまたは直右衛門すぐえもんべつごうにはうつしやまろうがくときいちじょ薙髪ちはつして法眼ほうげんくらいじょされてからはぶん阿弥あみごうした。江戸えど下谷しもたに根岸ねぎしまれ。贋作がんさくおおいことでも有名ゆうめいで、100のうち99は偽物にせものわれた[1]

生涯しょうがい

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出自しゅつじ

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石山寺縁起絵巻 第6巻(部分)
石山寺いしやまでら縁起えんぎ絵巻えまき だい6かん部分ぶぶん
石山寺縁起絵巻 第7巻(部分)
石山寺いしやまでら縁起えんぎ絵巻えまき だい7かん部分ぶぶん

祖父そふ谷本たにもときょうははじめ下役したやくじんであったが、経済けいざいてき手腕しゅわんすぐれていたため立身りっしんし、民政みんせいとしてこえ、田安たやす抜擢ばってきされ治績ちせきのこした。ちちたにふもとたに田安たやす家臣かしんとなり、漢詩かんしじんとしてられた。このような文雅ぶんが家系かけいそだったぶんあきら文才ぶんさいわせ、和歌わか漢詩かんし狂歌きょうかなどもよくした。菊池きくち五山ごさんの『五山ごさんどう詩話しわまき3にぶんあきら漢詩かんし掲載けいさいされている。

画業がぎょう

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木村きむら蒹葭どうぞう

12さいころちち友人ゆうじん狩野かの加藤かとうぶんうらら[2]まなび、18さいころ中山なかやまだか弟子でし渡辺わたなべげんたい師事しじした。20さいのときぶんうららが歿したので北山きたやまかんいわおにつき、きたそうおさめた。鈴木すずき芙蓉ふようにもまなんだとされるがたしかではない[3]。その狩野かのひかりじょうから狩野かのまなび、大和絵やまとえでは土佐とさ琳派円山まるやま四条しじょうなどを、さらに朝鮮ちょうせん西洋せいよう[4]まなんだ。26さいとき長崎ながさき旅行りょこうくわだてて、大坂おおさか木村兼葭堂きむらけんかどうり、釧雲いずみより正式せいしき南画なんが指南しなんけた[5]木村きむら蒹葭どう死後しご、そのいたみ、遺族いぞく肖像しょうぞうおくっている。長崎ながさきいてからはちょうあきこくほうならい、1かげつあま滞在たいざいした[6]いにしえ模写もしゃ写生しゃせい基礎きそにし、諸派しょは折衷せっちゅう南北なんぼく合体がったい画風がふう目指めざした。そのいき山水さんすい花鳥かちょう人物じんぶつ仏画ぶつがにまでおよび、さまはばひろく、「八宗兼学はっしゅうけんがく」とまでいわれる独自どくじ画風がふう確立かくりつし、のち関東かんとう南画なんがだん泰斗たいととなった。

仕官しかん

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26さい田安たやすおくつめ見習みならいとしてつかえ、近習きんじゅ番頭ばんがしら取次とりつぎせきおくつめ絵師えし出世しゅっせした。30さいのとき、田安たやす宗武むねたけ白河しらかわはんあるじ松平まつだいらじょうくに養子ようしとなった松平まつだいら定信さだのぶみとめられ、その近習きんじゅとなり、定信さだのぶ隠居いんきょする文化ぶんか9ねん(1812ねん)まで定信さだのぶづけとしてつかえた。寛政かんせい5ねん(1793ねん)には定信さだのぶ江戸えどわん巡航じゅんこう随行ずいこうし、『おおやけあまり探勝たんしょう[7]制作せいさくする。また定信さだのぶいのちけ、文化財ぶんかざい調査ちょうさし、図録ずろくしゅうだかじゅうしゅ』や『いにしえ類聚るいじゅう』の編纂へんさん従事じゅうじし、古書こしょ宝物ほうもつ写生しゃせいおこなった。また「石山寺いしやまでら縁起えんぎ絵巻えまき」の補作ほさくおこなっている。 小峰こみねしろさんまるにアトリエ「小峰こみねさんぼう」をかまえた。白河しらかわだるまだるまぶんあきらえがいた図案ずあんをモデルにしたとされている。

たびやま

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ぶんあきら自他じたどもみとめるたびきで、30さいになるまで日本にっぽん全国ぜんこくをさかんにたびし、おこなったことのないくには4、5かこくぎなかったという。たび途次とじ各地かくちやま写生しゃせいし、名著めいちょ日本にっぽん名山めいざん図絵ずえ』として刊行かんこうした。文化ぶんか9ねん(1812ねん)にあらわした『日本にっぽん名山めいざん図会ずえ』は、日本にっぽん代表だいひょうてき山岳さんがく89風景ふうけいを90ようあらわしたものであり、当時とうじひろしたしまれ、後世こうせいやま見方みかた影響えいきょうあたえたという[8]山岳さんがくなかではもっと富士山ふじさんこのみ、富士ふじほう芙蓉ふようなどの名品めいひん多数たすうのこしている。

じゅくうつしやまろう

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じゅくうつしやまろうにはおおくの弟子でし入門にゅうもんし、渡辺わたなべ崋山かざん立原たちはらあんずしょなどのちの大家たいか輩出はいしゅつした。うつしやまろう由来ゆらいは、下谷しもたに長町ながまち位置いちし、ろうじょうからの富士山ふじさん眺望ちょうぼうかったことによる。なお、このうつしやまろうは2かいて・20じょうであった[9]弟子でしたいしてつね写生しゃせいいにしえ模写もしゃ大切たいせつさをき、沈南蘋模写もしゃ中心ちゅうしん講義こうぎおこなわれた。しかし、狩野かののような粉本ふんぽん主義しゅぎ形式けいしき主義しゅぎおちいることなく、弟子でし個性こせい主体性しゅたいせい尊重そんちょうする教育きょういく姿勢しせいだった。弟子でしおもいのとして有名ゆうめいであるが、権威けんい主義しゅぎてきであるとの批判ひはんのこされる。

定信さだのぶ隠居いんきょぶんあきら長年ながねん功績こうせきにより恩給おんきゅうけ、格式かくしきおくつめのままうつしやまろうにて画業がぎょう専念せんねんした。つまたにみきはやし)、いもうとしゅんべにあいらも女流じょりゅう画家がかとしてられる。実弟じってい島田しまだ元旦がんたん得意とくいとしており、養子ようしたに文一ぶんいち実子じっしたに文二ぶんじわざすぐれ、たに一門いちもん隆盛りゅうせいした。しかし、後継こうけいしゃされた文一ぶんいち文二ぶんじがともに夭折ようせつしたため、うつしやまろうはその零落れいらくした。

晩年ばんねん

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亀田かめだ鵬斎ほうさい酒井さかい抱一ほういつとは「下谷しもたに三幅対さんぶくつい」とひょうされ、享楽きょうらくふけあそびにきょうじたが、最期さいごまで矍鑠かくしゃくとしてふでをふるった。文政ぶんせい12ねん(1829ねん)に定信さだのぶが歿し、67さいになったぶんあきら絵師えし待遇たいぐう剃髪ていはつした。75さいとき法眼ほうげんくらいじょされ、ぶん阿弥あみごうする。

天保てんぽう11ねん(1841ねん)歿。享年きょうねん79。墓所はかしょ浅草あさくさみなもとそらてら法名ほうみょう本立ほんたて院生いんせいほまれ一如法眼文阿文晁居士」。辞世じせいは「ながきけおほせたる 古狸ふるだぬき さきなみせそ やまつき」。

作品さくひん

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ひだり寛政かんせいぶんあきら 落款らっかん
なかがらすぶんあきら 落款らっかん
みぎおおやけあまり探勝たんしょう 下田しもだ
熊野舟行図 上巻(部分)
熊野くまの舟行しゅうこう 上巻じょうかん部分ぶぶん
熊野舟行図 下巻(部分)
熊野くまの舟行しゅうこう 下巻げかん部分ぶぶん

作風さくふう

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  • 寛政かんせいぶんあきら - 寛政かんせい年間ねんかん(1789ねん - 1801ねん、27さい-38さい)の作品さくひんとく評価ひょうかたかい。
  • がらすぶんあきら落款らっかんがらす足跡あしあとていることから。蝶々ちょうちょうぶんあきらともいう) - 文化ぶんか中期ちゅうきから天保てんぽう(1811ねん - 1840ねん)の作品さくひん濫作らんさくともいわれるが優品ゆうひんおおい。

代表だいひょうさく

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鑑定かんてい

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ぶんあきら鷹揚おうよう性格せいかくであり、弟子でしなどにもとめられると自分じぶん作品さくひんでなくとも落款らっかんみとめた。またじゅくうつしやまろうでは講義こうぎちゅう本物ほんものぶんあきらしるしだれもが利用りようできる状況じょうきょうにあり、自作じさくぶんあきら作品さくひんだといつわってり、糊口ここうをしのぐ弟子でし相当そうとうすういた。購入こうにゅうしたものから苦情くじょうけても「自分じぶん落款らっかんがあるのだから本物ほんものでしょう」と、かいさなかったという。これらのことから、おびただしいかず偽物にせもの当時とうじから市中しちゅう出回でまわっていたと推察すいさつできる。したがって、鑑定かんていたっては落款らっかん印章いんしょう真偽しんぎだけでは充分じゅうぶんではなく、テレビ番組ばんぐみの『開運かいうん!なんでも鑑定かんていだん』では本物ほんものにくい鑑定かんていひんのひとつとしてられている。

刊行かんこうぶつ

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  • 日本にっぽん名山めいざん図譜ずふ
  • 歴代れきだいめいおおやけ』 あきらだいの『顧氏』の模写もしゃ
  • 本朝ほんちょう纂』
  • がく大全たいぜん
  • うつしやまろうほん
  • ぶんあきらだん
  • 近世きんせい名家めいか肖像しょうぞうまき監修かんしゅう
  • 『漂客しょう翻刻ほんこく
  • 歴朝れきちょうめいおおやけ款譜』鑑定かんてい

交友こうゆう

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ひだりはち仙人せんにん              (みぎあおみどり山水さんすい

門弟もんてい

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 古物ふるものだい部分ぶぶん贋作がんさく『バクダン』内田魯庵うちだろあん ちょ (春秋しゅんじゅうしゃ, 1926)
  2. ^ ぶんあきらというごうぶんうららにちなんだと推察すいさつされている。事実じじつぶんあきら文政ぶんせい4ねん(1821ねん)の伝来でんらいしょみずかぶんうらら門下もんかしょうしている。(河野こうの、1987ねん
  3. ^ 渡辺わたなべげんたい北山きたやまかんいわお鈴木すずき芙蓉ふようぶんあきらとの関係かんけい師弟してい関係かんけいとはがたく、相互そうご影響えいきょう切磋琢磨せっさたくました関係かんけいとしている。(まきむら、1999ねん
  4. ^ 石川いしかわ大浪おおなみを「泰西たいせいほう」のとし、大浪おおなみとそのおとうと石川いしかわはじめだか合作がっさく模写もしゃしたファン・ロイエンの花鳥かちょうをさらに模写もしゃしている。
  5. ^ 高梨たかなし光司こうじちょ『蒹葭どう小伝しょうでん』にはこのようになっているが、『蒹葭どう日記にっき』の解釈かいしゃくから、蒹葭どうぶんあきらがはじめてりあったのは『顧氏』の善本ぜんぽんりた寛政かんせい8ねん(1796ねんごろ推定すいていされる。したがって釧雲いずみにも大坂おおさかではあっていないことになる。(中村なかむら、2000ねん、485 - 486ぺーじ
  6. ^ ぶんあきら長崎ながさききはたしかな証拠しょうこがなく、疑問ぎもんもされている。(渥美あつみ、2002ねん、15ページ)
  7. ^ 西にし洋画ようがほう加味かみしたしん様式ようしき絵図えずめんとして評価ひょうかたかい。
  8. ^ 新海しんかいほり油井ゆい(1992ねん)、49ぺーじ
  9. ^ もり銑三せんぞう
  10. ^ 通信つうしん教育きょういくちか方法ほうほうだったという。

出典しゅってん

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関連かんれん文献ぶんけん

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