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はらざいあきら

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はら ざいあきら(はら ざいしょう、文化ぶんか10ねん1813ねん) - 明治めいじ4ねん12月21にち1872ねん1がつ30にち))は、日本にっぽん江戸えど時代じだい末期まっき活躍かつやくした絵師えしはら在中ざいちゅうはらざいあきらつづはらの3代目だいめうつしざいあきらごうで、べつごう瀾、みなみ荊、ゆう鸞(ゆうらん)。

略伝りゃくでん

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山科やましなざつてのひら小林こばやし出身しゅっしんざいあかり実子じっしざいけんけん)は地下ちかかんじんみぎりょう大島おおしましまぎ、大島おおしまともしゅうわったため(ただしのちはら復縁ふくえん)、ざいあかりむすめさいわい(こう)の婿養子むこようしとなってはらぐ。ざいあかり活動かつどうにより、天保てんぽう5ねん1834ねん春日かすが絵所えどころだった勝山かつやまみがくぶんから、宝田たからだおさむ兵衛ひょうえ絵所えどころ仲間なかま春日かすが絵所えどころかぶかね45りょう入手にゅうしゅする[1]天保てんぽう8ねん1837ねん)25さいせいろくうち舎人とねり近江おうみかいひろし2ねん1845ねん)33さいせいろくじょう内匠たくみしょうまこと。なお住所じゅうしょちゅう立売たちうり室町むろまちひがし

翌年よくねんつね御殿ごてん修復しゅうふく孝明天皇こうめいてんのう即位そくいともな屏風びょうぶ制作せいさくおこなう。なおこのときざいあきらは、多忙たぼう御用ごようもうけられてもわないとつね御殿ごてん修復しゅうふくだけ出願しゅつがんした。しかし後日ごじつ造営ぞうえい御用ごようかけから、なぜさんだいわたって御用ごようつとめているのに今回こんかい提出ていしゅつがないのかとめられ、ざいあきら急遽きゅうきょ即位そくい御用ごよう出願しゅつがん期限きげんはとっくにれていたにもかかわらずみとめられた。同様どうようれい寛政かんせい5ねん1793ねん)の円山まるやま応挙おうきょにもあり、ひろし3ねん時点じてんはらえん山家やまがかたならべる存在そんざいになったとえる[2]

安政あんせい2ねん1855ねん)からの安政あんせい御所ごしょ造営ぞうえいでは、しょ大夫たいふあいだはいどう廊下ろうかしょう御所ごしょつね御殿ごてんなどのふすま杉戸すぎと彩管さいかんるう。万延まんえん元年がんねん1860ねん)からの和宮かずのみや降嫁こうかさいには屏風びょうぶえがき、慶応けいおう3ねん1867ねん明治天皇めいじてんのう即位そくいではきょくすいうたげ屏風びょうぶえがく。はら在中ざいちゅう以来いらい有職故実ゆうそくこじつくわしいけいだとみなされており、ざいあきらころになると有識ゆうしき調査ちょうさ儀礼ぎれい記録きろくする仕事しごとさらえていった。そのため終生しゅうせい禁裏きんり御用ごようばかり手掛てがけたため、そのながれることはおおくなかったとわれる[3]明治めいじ4ねん(1871ねんぼつ享年きょうねん59。墓所はかしょ中京ちゅうきょう天性寺てんしょうじあと養子ようしはらざいいずみいだ。

作品さくひん

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作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 落款らっかん印章いんしょう 備考びこう
花鳥かちょう かみほんちょしょく金砂子きんすなご しょうふすま4めん 21.9x68.2(かく 二条城にじょうじょう 1847ねんひろし4ねん もとかつらみや御殿ごてん所在しょざい現在げんざい本丸ほんまる御殿ごてん書院しょいんいちこれあいだ東面とうめん北側きたがわ天袋てんぶくろにあるしょうふすま[4]
冷泉れいせんためそくぞう かみほんちょしょく 1ぶく 88.2x42.0 冷泉れいせん時雨しぐれてい文庫ぶんこ 1848ねんよしみなが元年がんねん以前いぜん 寿像じゅぞう[5]
うめらんりょうおうさくらおさめ 杉戸すぎと 二条城にじょうじょう 1847ねんひろし4ねん もとかつらみや御殿ごてん所在しょざい
たけろう かみほんちょしょく金砂子きんすなご ふすま16めん 168.8~177.7x109.1~116.2 宮内庁くないちょう京都きょうと事務所じむしょ 1855ねん安政あんせい2ねん 学問がくもんしょ下段げだんあいだ所在しょざい[6]
にわとり屏風びょうぶ かみほんちょしょく きょくいちせき 181.3x188.0 冷泉れいせん時雨しぐれてい文庫ぶんこ 1855ねん安政あんせい2ねん もと安政あんせい御所ごしょ造営ぞうえいさい御寝ぎょしんあいだ障壁しょうへきぐんにわとりちくかご」の一部いちぶ御寝ぎょしんあいだ代替だいがわりのたび障壁しょうへきえており、明治天皇めいじてんのう代替だいがわりしたさい屏風びょうぶ改装かいそうされ冷泉れいせん下賜かしされた(現在げんざい御寝ぎょしんあいだ障壁しょうへき土佐とさひかりぶんふでたけとら」)[5][7]
にわとりあい蹴鞠けまり きょく一双いっそう さんおんてら
鶺鴒せきれいもも ろくきょく一双いっそう 霊鑑寺れいかんじ
動植物どうしょくぶつ 霊鑑寺れいかんじ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 福田ふくだ(2001)。
  2. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 武田たけだ庸二郎ようじろう 江口えぐち恒明つねあき天皇てんのう美術びじゅつ 5 朝廷ちょうてい権威けんい復興ふっこう京都きょうと画壇がだん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2017ねん4がつ20日はつか、pp.100-101。
  3. ^ 審美しんび書院しょいんへん東洋とうよう美術びじゅつ大観たいかん ろく審美しんび書院しょいん、1908ねん
  4. ^ きょう(みやこ)の絵師えし百花繚乱ひゃっかりょうらん』p.230。
  5. ^ a b (財)ざいだんほうじん冷泉れいせん時雨しぐれてい文庫ぶんこ・NHK編集へんしゅうきょうみやび和歌わか(うた)のこころ 冷泉れいせん至宝しほうてん』 NHK NHKプロモーション、1997ねんだい35,203
  6. ^ 京都きょうと御所ごしょ障壁しょうへきつね御殿ごてん学問がくもんしょ─』だい25
  7. ^ 施設しせつべつの《京都きょうと御所ごしょ離宮りきゅうしおり つね御殿ごてん”. 宮内庁くないちょう. 2024ねん5がつ9にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 京都きょうと文化ぶんか観光かんこうきょく文化ぶんか文化財ぶんかざい保護ほご編集へんしゅう発行はっこう京都きょうと文化財ぶんかざいブックスだい7しゅう 近世きんせい京都きょうと画壇がだん画家がか作品さくひんー』 1992ねん3がつ、p.80
  • 福田ふくだみちひろし近世きんせい後期こうき春日かすが絵所えどころこう天保てんぽうねんはらざいあきらへの「絵所えどころしょくかぶ譲渡じょうとをめぐって─」『美術びじゅつ研究けんきゅうだい39さつ早稲田大学わせだだいがく美術びじゅつ学会がっかい、2001ねん12月15にち、pp.41-64
展覧てんらんかい図録ずろく
  • 京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん学芸がくげいだいいち編集へんしゅう京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん開館かいかん10周年しゅうねん記念きねん特別とくべつてん きょう(みやこ)の絵師えし百花繚乱ひゃっかりょうらん平安へいあん人物じんぶつこころざし」にみる江戸えど時代じだい京都きょうと画壇がだん京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん、1998ねん10がつ2にち
  • 敦賀つるが市立しりつ博物館はくぶつかん編集へんしゅう発行はっこう特別とくべつてん 京都きょうと画壇がだん ばら展開てんかい』 2001ねん10がつ26にち、pp.76-77
  • 京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん 宮内庁くないちょう京都きょうと事務所じむしょ 京都新聞社きょうとしんぶんしゃ編集へんしゅう京都きょうと御所ごしょ障壁しょうへきつね御殿ごてん学問がくもんしょ─』 京都新聞社きょうとしんぶんしゃ、2007ねん1がつ6にち