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みや将軍しょうぐん

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みや将軍しょうぐん(みやしょうぐん)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられた宗尊親王むねかたしんのうおもんみかん親王しんのう久明ひさあき親王しんのうまもりくに親王しんのうの4親王しんのう歴史れきし用語ようご現代げんだいでは皇族こうぞく将軍しょうぐん(こうぞくしょうぐん)、親王しんのう将軍しょうぐん(しんのうしょうぐん)ともぶ。またかれらを総称そうしょうして鎌倉かまくら宮家みやけ(かまくらのみやけ)と表現ひょうげんすることもある。

なお、たてたけし新政しんせい後醍醐天皇ごだいごてんのうよりにんじられた護良親王もりよししんのう成良親王なりながしんのうみや将軍しょうぐんぶことがある。しかし前者ぜんしゃの4親王しんのう鎌倉かまくら政権せいけん形式けいしきじょうちょう実権じっけんたないのにたいし、後者こうしゃの2親王しんのうたてたけし政権せいけんにおいて短期間たんきかんではありながら重要じゅうようなその一翼いちよくになった実務じつむしゃだったことが根本こんぽんてきことなる。

概要がいよう

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鎌倉かまくら幕府ばくふ基本きほんてき主従しゅうじゅうせい構造こうぞうは、武家ぶけ棟梁とうりょうである鎌倉かまくら殿どの(≒征夷大将軍せいいたいしょうぐん)と御家人ごけにんとのおん奉公ほうこう関係かんけいによりっていた。しかし、鎌倉かまくら殿どの後継こうけいであった源実朝みなもとのさねともほかみなもと頼朝よりとも直系ちょっけい源氏げんじ嫡流ちゃくりゅう子孫しそんがいないことや、じつあさ自身じしんがないことから源氏げんじ将軍しょうぐんえ、「皇族こうぞくから武家ぶけ棟梁とうりょうを」とかんがえたじつあさはは北条ほうじょう政子まさこやそのおとうと北条ほうじょうよしときらにより1218ねん時点じてんいち朝廷ちょうていがわ提案ていあんされた。しかし、よく1219ねんきたじつあさ暗殺あんさつにより後鳥羽上皇ごとばじょうこう拒否きょひ頓挫とんざし、みなもと頼朝よりとも血縁けつえん関係かんけいにあった2さい九条くじょうよりゆきけい鎌倉かまくら下向げこうすることでようやく将軍しょうぐんしょく相続そうぞくすることとした(摂家せっけ将軍しょうぐん)。だがよりゆきけい成長せいちょうすると独自どくじ政権せいけん運営うんえい指向しこうし、執権しっけん反抗はんこうてき態度たいどったために追放ついほうされる(みや騒動そうどう)。

そのよりゆきけいよりゆき将軍しょうぐんしょく継承けいしょうするが、1252ねん北条ほうじょうよりゆきらの奏請そうせいにより、こう嵯峨天皇さがてんのうだい1庶皇子おうじである宗尊親王むねかたしんのう将軍しょうぐんとして鎌倉かまくらむかれられることとなる。しかし、すでに幕府ばくふ権力けんりょく執権しっけん地位ちいにあった北条ほうじょう保持ほじしていたため、将軍しょうぐんといえども名目めいもくとなっていた。そのため、就任しゅうにんは10さい前半ぜんはんまでにおこない、ながじても20さいだいまでに将軍しょうぐんしょく辞任じにんして京都きょうとかえされ、中務なかつかさきょう式部しきぶきょうなどににんぜられることが通例つうれいであった。ただし、宗尊親王むねかたしんのうつぎおもんみかん親王しんのうについては両統りょうとう迭立問題もんだいとの関連かんれん指摘してきするせつもある(後述こうじゅつ)。最後さいご将軍しょうぐんであったまもりくに親王しんのう幕府ばくふ滅亡めつぼう鎌倉かまくら出家しゅっけしている(まもりくに鎌倉かまくらまれているため、親王しんのう宣下せんげけた皇族こうぞくでありながら生涯しょうがい京都きょうとんだことはなかった)。

なお、みや将軍しょうぐんとして2代目だいめとなるおもんみやすしおう将軍しょうぐん在任ざいにんちゅう臣籍しんせき降下こうかし、みなもとせいたまものあずかされげんおもんみやすしとして源氏げんじ将軍しょうぐんとなっているが、最終さいしゅうてきには皇族こうぞくおもんみかん親王しんのう)に復帰ふっきみや将軍しょうぐんいている。おもんみやすし源氏げんじたまものせいは、当時とうじこうむ襲来しゅうらいもと)というゆう事態じたいたいする、北条ほうじょう時宗じしゅうによる政策せいさく一環いっかんであったとするせつがある。時宗じしゅうはかつてのうけたまわ寿ことぶきひさしらんあるいは承久じょうきゅうらん先例せんれいとして、おもんみやすし頼朝よりともになぞらえ、時宗じしゅう自身じしん高祖父こうそふよしときになぞらえることで、御家人ごけにん武士ぶし階級かいきゅうちから結集けっしゅうして、もと勝利しょうりすることを祈願きがんしたのだという。1279ねんおもんみやすしせいへの昇叙しょうじょ1287ねんみぎ近衛このえ大将たいしょうへの任官にんかんはいずれも頼朝よりとも意識いしきしてのものであり、北条ほうじょうがその後見こうけんとして幕政ばくせい主導しゅどうすることによって、同氏どうしによるとくむね専制せんせい正統せいとうせいささえる論理ろんりとしても機能きのうしていた。とく源氏げんじたまものせいせい昇叙しょうじょはいずれも時宗じしゅう政権せいけんおこなわれており、時宗じしゅう源氏げんじ将軍しょうぐん復活ふっかつつよのぞんでいたことがうかがえる。また親王しんのう宣下せんげについては、将軍しょうぐん親王しんのう目指めざうち管領かんりょう平頼綱たいらのよりつな意向いこうによるもので、執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき成人せいじんしたおもんみやすし長期ちょうき在任ざいにんきらい、こう深草ふかくさ上皇じょうこう皇子おうじである久明ひさあき親王しんのう就任しゅうにんのぞみ、おもんみかん追放ついほうしも準備じゅんび意図いとしたものであったとしている[1]

みや将軍しょうぐん鎌倉かまくら幕府ばくふたした役割やくわり

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そもそも、鎌倉かまくら幕府ばくふ朝廷ちょうてい律令りつりょう制度せいど巧妙こうみょう利用りようして成立せいりつした統治とうち機構きこうであった。幕府ばくふ政治せいじ機構きこうである政所まんどころ開設かいせつしたがえさん以上いじょう貴人きじんゆるされる特権とっけんであり、政所まんどころ職員しょくいん朝廷ちょうていから叙位じょい官吏かんりとしての処遇しょぐうける。幕府ばくふ統治とうちささえた守護しゅご地頭じとうせいだいはんさん箇条かじょう朝廷ちょうてい勅許ちょっきょ勅命ちょくめいによるものであった。そのため、源氏げんじ将軍しょうぐんであれ摂家せっけ将軍しょうぐんであれ、代々だいだい将軍しょうぐん位階いかいさんたっしない段階だんかいでは政所まんどころ開設かいせつできず、また幕府ばくふ命令めいれいしょ将軍しょうぐんさんのぼるまではそでばんしもぶんさん以上いじょうとなった段階だんかい政所まんどころぶんとその格式かくしき採用さいようすることができた。みや将軍しょうぐん擁立ようりつ以降いこう統治とうち機構きこう政所まんどころとなり、また、その命令めいれいしょ政所まんどころぶんとなることがつねとなった。鎌倉かまくら幕府ばくふ法的ほうてき正当せいとうせい常時じょうじたもたれることとなったのである。まして、親王しんのうともなれば、その命令めいれいしょ令旨れいしとして法的ほうてき効果こうかゆうするものである。

また、名目めいもくじょう存在そんざいであっても、将軍しょうぐんはあくまでも幕府ばくふ首長しゅちょうであり、すべての御家人ごけにん主君しゅくんであることから、御家人ごけにんたちにたいして一定いってい求心力きゅうしんりょく要求ようきゅうされた。そのため、もとは伊豆いず地方ちほう豪族ごうぞくぎない出自しゅつじひくさから、北条ほうじょう将軍しょうぐんしょくくことはできなかった。

後鳥羽上皇ごとばじょうこうによる承久じょうきゅうらん鎌倉かまくら幕府ばくふ勝利しょうりわったものの、鎌倉かまくら幕府ばくふ朝廷ちょうていより征夷大将軍せいいたいしょうぐんとしての任命にんめいけて成立せいりつしている以上いじょう朝敵ちょうてきとされれば政権せいけんとしての正当せいとうせいうしないかねず、摂家せっけ将軍しょうぐん安定あんていせいいていた。実際じっさいよりゆきけい傀儡かいらいであることをきら幕府ばくふ実権じっけん北条ほうじょうから奪取だっしゅしようとしたことは、幕府ばくふおよ北条ほうじょう摂家せっけ将軍しょうぐん見切みきりをつけるおおきな要因よういんとなった。そのてんみや将軍しょうぐん鎌倉かまくら幕府ばくふ朝廷ちょうていむすびつける役割やくわりたし、幕府ばくふ存在そんざい自体じたい正当せいとうさせるじょう非常ひじょうおおきな意義いぎった。

かんはじめ2ねん1257ねん2がつ26にち北条ほうじょう時宗じしゅう(のちだい8だい執権しっけん)は宗尊親王むねかたしんのう烏帽子えぼしおやとして元服げんぷくし(『吾妻あづまきょう同日どうじつじょう)、そのへんいみな(「むね」の)をたまわった。そのとくむね専制せんせい」がはじまると、時宗じしゅう貞時さだときとそのたかときおもんみかん親王しんのうまもりくに親王しんのうへんいみなけなかった[2][3]が、鎌倉かまくら時代じだい末期まっきもととく3ねん/元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)に元服げんぷくしたこう嫡子ちゃくしは、将軍しょうぐんまもりくに親王しんのうへんいみなたまわって「くにとき」と名乗なのっている[4]。そのだい6だい執権しっけんながとき系統けいとうにしてとくむねいでたか家格かかくほこ赤橋あかばしりゅう北条ほうじょう歴代れきだい当主とうしゅ義宗よしむねひさしとき守時もりとき)も宗尊親王むねかたしんのう久明ひさあき親王しんのうまもりくに親王しんのうへんいみなけている[4]。のちに執権しっけんとなる人物じんぶつみや将軍しょうぐんへんいみなけたのは、だい8だい執権しっけん時宗じしゅうだい16だい執権しっけん守時もりときの2めいであった。

みや将軍しょうぐん両統りょうとう迭立問題もんだい

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一方いっぽうで、こう嵯峨天皇さがてんのう段階だんかいになってみや将軍しょうぐん成立せいりつした背景はいけいには朝廷ちょうていがわ事情じじょう存在そんざいしていた事実じじつ近年きんねん指摘してきされている。

これまでみや騒動そうどうおよ摂家せっけ将軍しょうぐんせい終焉しゅうえんについて、九条くじょうよりゆきけい北条ほうじょう対立たいりつという幕府ばくふがわ問題もんだいだけでかたられる傾向けいこうがあったが、近年きんねんになって同時どうじ並行へいこうてき承久じょうきゅうらん佐渡さどこくながされた順徳じゅんとく上皇じょうこう[注釈ちゅうしゃく 1]関係かんけいしゃ生母せいぼ修明のぶあきもんいん皇子おうじちゅうなりおうら)がこう嵯峨天皇さがてんのう排除はいじょして皇位こうい自己じこ系統けいとう奪還だっかんするためによりゆきけいちちであるもと関白かんぱく九条くじょう道家どうか接近せっきんしており、土御門つちみかど上皇じょうこうけい皇統こうとうこう嵯峨天皇さがてんのう)・西園寺さいおんじ順徳じゅんとく上皇じょうこうけい皇統こうとうちゅうなりおう)・九条くじょう対立たいりつ発展はってんしていた朝廷ちょうてい内部ないぶ事情じじょうあきらかにされている。こうした状況じょうきょうのち嵯峨さが上皇じょうこう幕府ばくふとの連携れんけい強化きょうかすることで、順徳じゅんとく上皇じょうこうけいたいする牽制けんせいはかろうとしたとかんがえられ、幕府ばくふがわからもうれられたみや将軍しょうぐん構想こうそうわたりにふねであったとえる[5]

最初さいしょみや将軍しょうぐんには後深草天皇ごふかくさてんのう異母いぼけいである宗尊親王むねかたしんのう同母どうぼおとうとである恒仁つねひと親王しんのう亀山天皇かめやまてんのう)が候補こうほがったが、えらばれたのは生母せいぼ身分みぶん問題もんだいにより皇位こうい継承けいしょう可能かのうせいひくかった宗尊むねかたであった。とはえ、宗尊むねかた曾祖母そうそぼであるうけたまわあかりもんいん土御門つちみかど上皇じょうこう生母せいぼ)にそだてられ、断絶だんぜつしたこう高倉たかくらいん皇統こうとうのこされていた所領しょりょう室町むろまちいんりょうしきいぬいもんいんりょう)の未来みらい領主りょうしゅ指定していされるなど、こう深草ふかくさ亀山かめやまりょう天皇てんのう存在そんざいとしてあつかわれていた。それは将軍しょうぐん就任しゅうにんわらず、正室せいしつ摂関せっかん近衛このえからえらばれ、将軍しょうぐん在任ざいにんちゅう一品いっぴん親王しんのう中務なかつかさきょうにんじられるなど、その立場たちば変化へんかはなかった。鎌倉かまくら幕府ばくふ宗尊むねかた皇族こうぞくとしての立場たちば重要じゅうようしており、京都きょうとへの送還そうかん直後ちょくご武藤むとうけいよりゆき派遣はけんしてこう嵯峨さが上皇じょうこう宗尊むねかた関係かんけいち、さら宗尊むねかた当人とうにんにも所領しょりょう5かしょ献上けんじょうするなど、宗尊むねかたとの関係かんけい維持いじつとめている[6]

宗尊親王むねかたしんのうのちいだ息子むすこおもんみかん親王しんのう正確せいかくにはおもんみやすしおうみなもとおもんみやすしおもんみかん親王しんのう)の就任しゅうにんにあたっては、幕府ばくふ二階堂にかいどう行忠ゆきただ安達あだちもり使者ししゃとして上洛じょうらくさせておもんみやすしおう次期じき将軍しょうぐん就任しゅうにん奏請そうせいおこない(『そと日記にっきぶんなが3ねん7がつ21にちじょう)、これをけるかたちてんきみであるのち嵯峨さが上皇じょうこうがわずか3さいしたがえよん征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじており、依然いぜんとしててんまごおうとしての礼遇れいぐうけている。しかし、その4ねんにはしたがえさんひだり近衛このえ中将ちゅうじょうにんぜられて臣籍しんせき降下こうかした。この問題もんだい幕府ばくふ内部ないぶ問題もんだいだけではろんじることが出来できず、おもんみやすし将軍しょうぐん就任しゅうにんから2ねんあにであるのち深草ふかくさ上皇じょうこう皇子おうじしりぞけておとうとである亀山天皇かめやまてんのう皇子おうじじん親王しんのうこう宇多天皇うだてんのう)が立太子りったいしされたことがかかわっている。亀山天皇かめやまてんのう子孫しそんによる皇位こうい継承けいしょう方針ほうしんされたことで宗尊親王むねかたしんのうけい皇位こうい継承けいしょうかかわる可能かのうせいうしなわれ、朝廷ちょうていからもみなもとへの臣籍しんせき降下こうかもとめられたのである。ところがこう嵯峨さが法皇ほうおうくなったのちこう深草ふかくさ上皇じょうこうかえしに成功せいこうし、ひろしじん親王しんのう伏見天皇ふしみてんのう)の立太子りったいし、そして即位そくい実現じつげんする。しかし、伏見天皇ふしみてんのう践祚せんその1かげつまえ亀山かめやま院政いんせいこう宇多天皇うだてんのう最後さいご決定けっていの1つとしておもんみやすし皇族こうぞく復帰ふっき親王しんのう宣下せんげ決定けっていされたのである。猶子ゆうし関係かんけいもないままにまごおうであるおもんみやすし親王しんのう宣下せんげみとめられた背景はいけいには、こう深草ふかくさ上皇じょうこう系統けいとう復権ふっけん確実かくじつになったなか亀山かめやま上皇じょうこうけい大覚寺だいかくじみつるがそれまで皇位こうい継承けいしょうから排除はいじょするために臣籍しんせき降下こうかもとめていた宗尊親王むねかたしんのうけい自己じこ皇統こうとう方針ほうしん転換てんかんしたためとかんがえられている(そのおもんみやすし2人ふたりいもうとである掄子女王じょおう瑞子みずこ女王じょおうとも宇多うた上皇じょうこうになっている)[7]。しかし、2ねん伏見天皇ふしみてんのう皇子おうじたねじん親王しんのうこう伏見天皇ふしみてんのう)の立太子りったいし幕府ばくふからみとめられる。その結果けっかこう深草ふかくさ上皇じょうこうけい持明院じみょういんみつる皇位こうい継承けいしょうけん確立かくりつされ、両統りょうとう迭立成立せいりつすることになる。そして、こう深草ふかくさ上皇じょうこう大覚寺だいかくじみつる密着みっちゃくした宗尊親王むねかたしんのうけいわって自己じこ皇子おうじ将軍しょうぐんけるように幕府ばくふもとめるようになり、たねじん立太子りったいしから5かげつおもんみかん親王しんのう京都きょうと送還そうかんされることになった[8]将軍しょうぐんとしてのおもんみやすし立場たちば両統りょうとう迭立の成立せいりつ過程かてい密接みっせつかかわっていたとえよう。

こう深草ふかくさ上皇じょうこう皇子おうじである久明ひさあき親王しんのう持明院じみょういんみつる鎌倉かまくら幕府ばくふ関係かんけい強化きょうかのために将軍しょうぐんしょくけられたが、その一方いっぽう正室せいしつとしておもんみかん親王しんのうむすめむかえた。これによって義理ぎりとはえ、おもんみやすし久明ひさあき父子ふし関係かんけいむすばれることになり、宗尊親王むねかたしんのう以来いらい世襲せしゅう維持いじされるかたちになった。そして、おもんみかん親王しんのうむすめ後継こうけいしゃとなるまもりくに親王しんのうんだことで、宗尊むねかたおもんみやすし久明ひさあきもりくにという継承けいしょう成立せいりつすることになる。久明ひさあき親王しんのう送還そうかんされた直後ちょくご大覚寺だいかくじみつるこう二条天皇にじょうてんのう崩御ほうぎょして持明院じみょういんみつる花園天皇はなぞのてんのう即位そくいしているものの、2つの出来事できごと相関そうかん関係かんけい見出みいだすことが出来できず、完全かんぜん幕府ばくふがわ事情じじょうによるものなのか、それとも朝廷ちょうていがわべつ事情じじょうがあったのかは不明ふめいである[8]

最後さいご将軍しょうぐんとなった久明ひさあき親王しんのう息子むすこまもりくに親王しんのうは、こう深草ふかくさ上皇じょうこうまごおうにあたるため、本来ほんらいであれば「まもりくにおう」であるはずであるが、将軍しょうぐん宣下せんげ翌日よくじつ親王しんのう宣下せんげけている。天皇てんのういんとの猶子ゆうし関係かんけいまごおう親王しんのう宣下せんげけることはおもんみかん親王しんのう先例せんれいによるものとおもわれるが、まもりくに場合ばあいまごおう身分みぶんのまま親王しんのう宣下せんげけており、きわめて特殊とくしゅ事例じれいであった。また、まごおうでありながら鎌倉かまくらまれ、幕府ばくふ滅亡めつぼうおそらく鎌倉かまくらぼっしたと推定すいていされ、京都きょうといちあしれることなく生涯しょうがいえたというてんでもきわめて特殊とくしゅ存在そんざいであった[9]

前述ぜんじゅつのようにおもんみやすし久明ひさあき婚姻こんいんかいした義理ぎり父子ふし理解りかいした場合ばあい宗尊親王むねかたしんのうからまもりくに親王しんのうまで父子ふしによる将軍しょうぐんしょく親王しんのう品位ひんい世襲せしゅう実現じつげんしていたことになり、宗尊親王むねかたしんのうとする「親王しんのう将軍家しょうぐんけ」という家系かけい存在そんざい認識にんしき可能かのうとなる。親王しんのう将軍しょうぐんしょく不可分ふかぶんで、猶子ゆうし関係かんけいのないまごおうであっても親王しんのう宣下せんげけられたというてんでは後世こうせい宮家みやけとは性質せいしつことなるものの、その先駆せんくてき性格せいかくっていたとえる。また、最後さいご将軍しょうぐんとなったまもりくに例外れいがいとして、歴代れきだいみや将軍しょうぐん鎌倉かまくら幕府ばくふによって一方いっぽうてき将軍しょうぐんしょく解任かいにんされて京都きょうと送還そうかんされているが、いずれも帰洛きらく親王しんのう身分みぶん剥奪はくだつされることもなく、皇室こうしつ成員せいいん1人ひとりとしてぐうされているてんでも特別とくべつ待遇たいぐうけていたとえる[10]

江戸えど時代じだいみや将軍しょうぐん擁立ようりつせつ

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江戸えど時代じだいのべたから8ねん1680ねん)に江戸えど幕府ばくふ4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつな嗣子ししなくして死去しきょしたのち大老たいろう酒井さかい忠清ただきよつぎ将軍しょうぐん有栖川ありすがわみやいえ[注釈ちゅうしゃく 2]よりさいわいひとし親王しんのうむかえるよう提案ていあんし、堀田ほった正俊まさとしらの反対はんたいい、実現じつげんしなかったとするみや将軍しょうぐん擁立ようりつせつがある。これは『徳川とくがわ実紀みき』をはじめとした史料しりょうられ通説つうせつとしてあつかわれてきたが、近年きんねんでは歴史れきしつじ達也たつやさい評価ひょうかがあり、忠清ただきよ失脚しっきゃく風説ふうせつから流布るふしたものであるとする指摘してきもある[11][12]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 順徳じゅんとく上皇じょうこう中宮ちゅうぐう九条くじょう立子たつこ東一条ひがしいちじょういん)は道家どうかあねで、生母せいぼ身分みぶんひくちゅうなりおう即位そくいした場合ばあいにはちち正妃せいひである立子たつこじゅんははとなることが想定そうていされていた。
  2. ^ 有栖川ありすがわみやであるこうじん親王しんのう徳川とくがわ家康いえやす曾孫そうそんにあたる寧子やすこ越前えちぜん松平まつへい出身しゅっしん)をとしていたからとされる。ただし、こうじん親王しんのう寧子やすこさいわいひとし親王しんのうには直接ちょくせつ血縁けつえん関係かんけいはない。

出典しゅってん

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  1. ^ 細川ほそかわ重男しげおみぎ近衛このえ大将たいしょうげんおもんみやすしとくむね専制せんせい政治せいじ論理ろんり―」『年報ねんぽう 三田みた中世ちゅうせい研究けんきゅう』9ごう、2002ねん。/所収しょしゅう:細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら北条ほうじょう神話しんわ歴史れきし権威けんい権力けんりょく―』日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい研究けんきゅう選書せんしょ1〉、2007ねん
  2. ^ 角田つのだ朋彦ともひこへんいみなはなし」『だんかづら』さんよん再興さいこう中世ちゅうせい前期ぜんき勉強べんきょうかい、2004ねん、20-21ぺーじ 
  3. ^ 水野みずの智之としゆき名前なまえ権力けんりょく中世ちゅうせい 室町むろまち将軍しょうぐん朝廷ちょうてい戦略せんりゃく吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー388〉、2014ねん、48ぺーじ 
  4. ^ a b 山野やまの龍太郎りゅうたろう ちょ鎌倉かまくら武士ぶし社会しゃかいにおける烏帽子えぼし親子おやこ関係かんけい」、山本やまもと隆志たかし へん日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ文化ぶんかろん射程しゃてい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねん、182ぺーじ 
  5. ^ 曽我部そがべ、2021ねん、P199-208・218-231.
  6. ^ 曽我部そがべ、2021ねん、P206-208・237-238.
  7. ^ 曽我部そがべ、2021ねん、P238-241.
  8. ^ a b 曽我部そがべ、2021ねん、P241-242.
  9. ^ 曽我部そがべ、2021ねん、P243.
  10. ^ 曽我部そがべ、2021ねん、P243-245.
  11. ^ 福田ふくだ千鶴ちづる酒井さかい忠清ただきよ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2000ねん
  12. ^ 山本やまもと博文ひろぶみ徳川とくがわ将軍しょうぐん天皇てんのう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、p124-141「みや将軍しょうぐん擁立ようりつせつ綱吉つなよし」、2004ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 曽我部そがべあい中世ちゅうせい王家おうけ政治せいじ構造こうぞう』(どうなりしゃ、2021ねんISBN 978-4-88621-879-7
    • だいだいろくしょう鎌倉かまくら王家おうけ構造こうぞう変容へんよう」(はら論文ろんぶん:『ヒストリア』だい277ごう、2019ねん
    • だいだいななしょう「〈宮家みやけ成立せいりつしょ前提ぜんてい」(しん稿こう

関連かんれん項目こうもく

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