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ふか井城いぎ

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ふか井城いぎ
大阪おおさか
深井城の推定地
深井ふかいじょう推定すいてい
城郭じょうかく構造こうぞう おかじょう
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 細川ほそかわまさしけん
築城ちくじょうねん えいただし8ねん1511ねん
おも改修かいしゅうしゃ 不明ふめい
おも城主じょうしゅ 細川ほそかわまさしけん
はいじょうねん 不明ふめい
遺構いこう なし
指定してい文化財ぶんかざい なし
再建さいけん造物ぞうぶつ なし
位置いち 北緯ほくい3432ふん2.725びょう 東経とうけい13529ふん14.68びょう / 北緯ほくい34.53409028 東経とうけい135.4874111 / 34.53409028; 135.4874111
地図ちず
深井城の位置(大阪府内)
深井城
ふか井城いぎ
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ふか井城いぎ(ふかいじょう)は、大阪おおさかさかいにあった日本にっぽんしろ遺構いこうなどは存在そんざいせず、推定すいていとしてちゅう深井中ふかいなかまちにあった観音山かんのんやま古墳こふん城跡じょうせきとして有力ゆうりょくである。

ほんこうでは深井ふかい合戦かっせんについても記述きじゅつする。

概要がいよう

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宅地たくちされた深井ふかいしろ推定すいてい

深井ふかいじょう遺構いこう正確せいかく場所ばしょ明記めいきされている文献ぶんけんがなく推定すいていについては議論ぎろんされ、正確せいかく城郭じょうかく不明ふめいである。また恒久こうきゅうてきしろではなく、臨戦りんせんようとりでだった可能かのうせいもある。

さかいには大仙だいせんりょう古墳こふんをはじめとする百舌鳥もず古墳こふんぐんがあり、この周辺しゅうへん高屋たかやしろ誉田ほんだしろのように古墳こふんあと築城ちくじょうされていたケースが見受みうけられる。これにより、深井ふかいじょう推定すいていとして、深井中ふかいなかまちにあった観音山かんのんやま古墳こふんあとがベースとなり、そこに築城ちくじょうしたとおもわれている。しかし、その古墳こふん全壊ぜんかいしており伝承でんしょうレベルでしかない。1970年代ねんだいにはわずかにるい台地だいちなどの遺構いこうもあったようだが、現在げんざい宅地たくち農地のうちすすんでその遺構いこう消滅しょうめつしたようである。

西村にしむらとりで東村あずまむらとりで

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東村あずまむらとりでじょうやま古墳こふん
国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

深井ふかいじょう古文書こもんじょ記載きさいされているのが、深井ふかい合戦かっせんのみで細川ほそかわまさしけんかた本拠地ほんきょちとした。これにたいして細川ほそかわだかこくかた本拠地ほんきょちとしたのが、西村にしむらとりで東村あずまむらとりでである。

西村にしむらとりで

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西村にしむらとりで古墳こふんあととりで建設けんせつしたとおもわれており、しろやま古墳こふんあと有力ゆうりょくである。現在げんざい古墳こふんとりであととも消滅しょうめつし、宅地たくちされている。

東村あずまむらとりで

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東村あずまむらとりで古墳こふんあととりで建設けんせつしたとおもわれており、じょうやま古墳こふんあと有力ゆうりょくである。区画くかく整理せいり事業じぎょうにより、古墳こふん変形へんけいしたが現在げんざい復元ふくげんされ、公園こうえんとして整備せいびされている。このじょうやま古墳こふん復元ふくげん古墳こふんであるため、山頂さんちょう登頂とうちょうすることが可能かのうである。

深井ふかい合戦かっせん

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深井ふかい合戦かっせん
戦争せんそうりょう細川ほそかわらん
年月日ねんがっぴえいただし8ねん1511ねん7がつ13にち
場所ばしょ深井ふかいじょう
結果けっか細川ほそかわきよしもとぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
細川ほそかわきよしもとぐん 細川ほそかわだかこくぐん
摂津せっつ国人くにびとしゅう
指導しどうしゃ指揮しきかん
細川ほそかわまさしけん
細川ほそかわもとつね
山中さんちゅうためしゅん
畠山はたけやまだかこく
遊佐ゆさじゅんもり
不明ふめい
戦力せんりょく
7,000へい - 8,000へい 20,000へい
損害そんがい
不明ふめい 300へい
りょう細川ほそかわらん

深井ふかいじょう歴史れきしは、この深井ふかい合戦かっせんのみで、そのどのような経緯けいいをたどったか、いつはいじょうになったかはまった不明ふめいである。

開戦かいせんまでの経緯けいい

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えいただし6ねん1509ねん)の如意ヶ嶽にょいがだけたたか阿波あわ帰国きこくした細川ほそかわきよしもとは、なんとかして京都きょうともど足利あしかが義澄よしずみ将軍しょうぐん復権ふっけんするべく武略ぶりゃくをめぐらしていた。そこでまずえいただし8ねん1511ねん7がつ7にちそう大将たいしょう同族どうぞく細川ほそかわまさしけん和泉いずみ守護しゅご細川ほそかわもとつねとし、ぐん和泉いずみさかいはま上陸じょうりくさせた。『陰徳いんとく太平たいへい』によると、まずは天王寺てんのうじじょうめようとしていたようである。これに山中さんちゅうためしゅん畠山はたけやまだかこく遊佐ゆさじゅんもり浪人ろうにんしゅ合流ごうりゅう深井ふかいじょうじんいた。このとき瓦林かわらばやしただしよりゆき』によると、せいけん軍勢ぐんぜいは7、8せんであったと記載きさいされている。

このほういたきよしもと反対はんたい勢力せいりょくである細川ほそかわだかこくは「追討ついとうせよ」と摂津せっつくにしゅめいじ、ただちに行動こうどう開始かいし。これにおうじた池田いけだ伊丹いたみ三宅みやけ茨木いばらぎあんたけし福井ふくい太田おおた入江いりえ高槻たかつきの2まん摂津せっつ国人くにびとしゅうぜい集結しゅうけつ西村にしむらとりで東村あずまむらとりで布陣ふじんした。

たたかいの状況じょうきょう

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7がつ13にち合戦かっせんはじまり、細川ほそかわだか国軍こくぐん先陣せんじんって深井ふかいじょうせた。

細川ほそかわ両家りょうけ』によると、こう国軍こくぐんしろ突入とつにゅうしたところ、城中じょうちゅうにはだれもいなかった。そこへ出口でぐちめられ包囲ほういされてしまった。すかさず脱出だっしゅつしようと出口でぐち集中しゅうちゅうしたところへせいけんぐんあらわれ、そこからてきたところへかってきた。こう国軍こくぐん防戦ぼうせんしたが結局けっきょくけて、大将たいしょうかたみな雑兵ぞうひょうも300めい以上いじょうられ敗退はいたいしてしまった。

戦後せんご状況じょうきょう

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こう国軍こくぐんざんへいさかい逃亡とうぼう、これを好機こうきとみたせいけんぐんはそののうちに中嶋なかじましろまでのぼり、ふね岡山おかやま合戦かっせんつながっていく。

べつせつ

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このときたたかいの状況じょうきょうは『細川ほそかわ両家りょうけ』には、「かごなかとり」という記載きさい見受みうけられるが、文献ぶんけんではべつたたかいの状況じょうきょう見受みうけられる。

  • 瓦林かわらばやしただしよりゆき
    • こう国軍こくぐんはあまりにも大勢おおぜい連携れんけいがうまくいっていなかったのか大方おおかた討死うちじにした
  • 陰徳いんとく太平たいへい
    • 多勢たぜいまれたせいけんぐんは、おのおのがじゅう一生いっしょう覚悟かくごきめ、一文字ひともじりて出撃しゅつげきした

深井ふかい合戦かっせん状況じょうきょう文献ぶんけんによっては諸説しょせつある。

どう時期じききよしもと鷹尾たかおじょうこしたたたかいは芦屋あしや河原かわら合戦かっせん参照さんしょう

城跡じょうせきへのアクセス

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じょうやま古墳こふん頭頂とうちょうさくら

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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