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十河そごう一存いちぞん

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十河そごう 一存いちぞん
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい[1]
死没しぼつ えいろく4ねん3月18にち1561ねん4がつ2にち
別名べつめい まごろくろう通称つうしょう[2]おに十河そごう渾名あだな[3][4][5]
戒名かいみょう うつぼおうはじめかつこう禅定ぜんじょうもんうつぼおうかつこう禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 大阪おおさかさかいみなみはじめてら
官位かんい みん大夫たいふ[6]
主君しゅくん 三好みよし長慶ちょうけい
氏族しぞく 三好みよし十河そごう
父母ちちはは ちち三好みよし元長もとなが養父ようふ十河そごうけいしげるそんはる
兄弟きょうだい 三好みよし長慶ちょうけい三好みよしみのるきゅう安宅あたかふゆやすし一存いちぞん野口のぐちふゆちょう?
つま 正室せいしつ九条くじょう稙通むすめ
三好みよし義継よしつぎ三好みよし長慶ちょうけい養子ようこ)、松浦まつうら孫八まごはちろう[7]そん?
養子ようしそん三好みよしみのるきゅう
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十河そごう 一存いちぞん(そごう かずまさ /かずなが)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう三好みよし家臣かしん三好みよし元長もとながよんなん

生涯しょうがい

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三好みよし元長もとながよんおとことしてまれ、讃岐さぬきこく十河そごうしろおも十河そごうけいしげる養子ようしになったという[8]

天文てんもん18ねん1549ねん)6がつにはちちかたきである三好みよし政長まさながとの摂津せっつ江口えぐちたたか勝利しょうり貢献こうけんした。これにより細川ほそかわはるもと政権せいけん崩壊ほうかいし、あに長慶ちょうけい政権せいけん確立かくりつする。

天文てんもん19ねん1550ねん)の東山ひがしやまたたか京都きょうと復帰ふっきねらはれもと阻止そしし、天文てんもん22ねん1553ねん)6がつ阿波あわ見性けんしょうてら事件じけんさい次兄じけいじつきゅうたすけて細川ほそかわもちたかし殺害さつがい協力きょうりょくした[9]

えいろく元年がんねん1558ねん)の北白川きたしらかわたたか参戦さんせんえいろく3ねん1560ねん)にははたけ山高やまたかまさしとのたたかいで大勝たいしょうし、長慶ちょうけいから岸和田きしわだじょうおもにんじられた。その畿内きない各地かくち転戦てんせんしてこうげ、あに軍事ぐんじてきによく補佐ほさした。

えいろく4ねん1561ねん)4がつ23にち[10][注釈ちゅうしゃく 1]やまいわずらったことにより、松浦まつうらまんまんまご八郎はちろう[7])の後見こうけんのために在住ざいじゅうしていた和泉いずみこく死去しきょした。

実子じっし義継よしつぎ長慶ちょうけいられて、のちにその家督かとくいだため、おいじつきゅう次男じなん)のそん養子ようしとなって十河そごう家督かとくいだ。

死因しいん

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一存いちぞん死因しいんは、かさによる病死びょうしといわれる。しかし一存いちぞんんだときに、不仲ふなかであった松永まつなが久秀ひさひではたにいたことから、当時とうじから京都きょうとでは久秀ひさひでによる暗殺あんさつせつ伝聞でんぶんとしてながれた。以下いかのような逸話いつわがある。

足利あしかが』ならびに『ぞく応仁おうにん後記こうき』は、一存いちぞん死去しきょについて以下いかのようにつたえる。えいろく3ねん(1560ねんごろ一存いちぞんやまいにかかった。そこで摂津せっつ有馬ありま温泉おんせん一存いちぞん久秀ひさひで湯治とうじちゅうのとき、久秀ひさひで一存いちぞん乗馬じょうばである葦毛あしげうまて、「有馬ありま権現ごんげん葦毛あしげこのまないため、そのうまにはらないほうがいい」と忠告ちゅうこくした。しかし久秀ひさひできら一存いちぞん忠告ちゅうこく無視むしして乗馬じょうばし、そして落馬らくばして絶命ぜつめいしたというものである[12]

このはなしについて、歴史れきし研究けんきゅうである長江ながえ正一しょういちは、やまいていた一存いちぞんがわざわざ乗馬じょうばをするだろうか、武勇ぶゆう乗馬じょうばにも習熟しゅうじゅくしていたとおもわれる一存いちぞんがはたして落馬らくばするものだろうかという疑問ぎもんていしている[11]

さらに、実際じっさいには一存いちぞんぼっしたのはよくえいろく4ねんの4がつであり[13]、このはなしは、死去しきょした時期じきにも誤謬ごびゅうしょうじている。

人物じんぶつ逸話いつわなど

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  • あるとき、一存いちぞん合戦かっせんちゅう左腕さわん負傷ふしょうした。普通ふつうならば養生ようじょうするであろうが、一存いちぞん傷口きずぐちしおをすりんで消毒しょうどくし、ふじづる包帯ほうたいわりにして傷口きずぐちいて、ふたた戦場せんじょう猛然もうぜんやりるったという。このため、一存いちぞんは「おにじゅうかわ」(おにじゅうがわ)とばれててきおそれられたという。その武勇ぶゆうから家臣かしんたちからも信望しんぼうあつく、一存いちぞん髪型かみがたは「十河そごうがく」とばれて、真似まねする家臣かしんおおかったという(『平島ひらしま殿どの先祖せんぞなみ細川ほそかわ三好みよし覚書おぼえがき』『おもねしゅう戦記せんき』)[14]
  • 戴恩』では松永まつなが貞徳さだのり俳句はいく世界せかい師匠ししょうにあたる九条くじょう稙通いた言葉ことばとして、「婿むこ十川とおかわ武勇ぶゆうである」としてその武勇ぶゆうたかかったことをひょうしたとしている[14]
  • 松永まつなが久秀ひさひでとはなかわるかった[15]
  • 現代げんだいにおいて、一存いちぞん子孫しそんつたえる十河そごうつづいている[16]

家臣かしん

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十河そごうほかに、三谷みたに久保くぼおかなどがいる。おおくは四国しこく国人くにびと武士ぶしだが、松田まつだまもるきょう畿内きない登用とうようした[17]

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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  • さんにちじん三好みよし長慶ちょうけい遺命いめい篠原しのはら長房ながふさ士魂しこんろく-』(いくともしゃ、2021ねん10がつISBN 978-4-87302-744-9
  • さんにちじん『われはおになり十河そごう一存いちぞんでん』(いくともしゃ、2022ねん9がつISBN 978-4-87302-769-2

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ぼつ墓所はかしょとうによると4がつ23にちとされている。『伊勢いせ貞助さだすけ』では5月1にちには「死去しきょのため出仕しゅっしなし」とあるため、それ以前いぜんには死去しきょしていたようである[11]

出典しゅってん

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  1. ^ 天野あまの忠幸ただゆき三好みよし長慶ちょうけい関係かんけい人物じんぶつ略伝りゃくでん」『三好長慶四百五十年遠忌記念論文集 さんこう長慶ちょうけい 室町むろまち幕府ばくふわる中央ちゅうおう政権せいけん目指めざした織田おだ信長のぶなが先駆せんくしゃ今谷いまたにあきら天野あまの忠幸ただゆき 監修かんしゅうみやたい出版しゅっぱんしゃ、2013ねん、315ぺーじISBN 978-4-86366-902-4 
  2. ^ 阿部あべ 2023, p. 248; 川島かわしま 2023, p. 241.
  3. ^ 南海なんかい治乱ちらん』(『南海なんかい治乱ちらん香川かがわ新報しんぽうしゃ、1913ねん、4かん12、22ぺーじ)。
  4. ^ 南海なんかいどおり』(『史料しりょう叢書そうしょ 南海なんかいどおりひろしなりしゃ、1926ねん、231、251ぺーじ)。
  5. ^ 阿部あべ 2023, p. 247; 川島かわしま 2023, p. 233–235.
  6. ^ 阿部あべ 2023, p. 250; 川島かわしま 2023, p. 241.
  7. ^ a b うま隆弘たかひろ信長のぶなが上洛じょうらく前夜ぜんや畿内きない情勢じょうせい九条くじょう稙通と三好みよし一族いちぞく関係かんけい中心ちゅうしんに―」『日本にっぽん歴史れきし』736ごう、2009ねん 
  8. ^ 長江ちょうこう 1989, p. 196; 川島かわしま 2023, p. 233.
  9. ^ 長江ちょうこう 1989, p. 196.
  10. ^ 天野あまの 2021, p. 105.
  11. ^ a b 長江ちょうこう 1989, p. 198.
  12. ^ 長江ちょうこう 1989, pp. 197–198.
  13. ^ 今谷いまたに 2007, p. 228.
  14. ^ a b 長江ちょうこう 1989, p. 197.
  15. ^ 長江ちょうこう 1989, p. 230.
  16. ^ 【アントレプレナー】十河そごうひろし輔/IT武将ぶしょう アジアでじんる『日経にっけい産業さんぎょう新聞しんぶん』2018ねん3がつ28にち(26めん
  17. ^ 天野あまの 2014, pp. 147–148.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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