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篠原しのはら長房ながふさ

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篠原しのはら 長房ながふさ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ もとかめ4ねん7がつ16にち1573ねん8がつ13にち
改名かいめい 長房ながふさ→岫雲斎うんさいいかほお法名ほうみょう[1]
別名べつめい まごよんろう通称つうしょう)、みぎきょうすすむ官途かんとめい)、紫雲しうん
墓所はかしょ 徳島とくしまけん阿波あわ阿波あわまち野神のがみ伊沢いさわ神社じんじゃ境内けいだい
主君しゅくん 三好みよしみのるきゅう長治ながはる
氏族しぞく 阿波あわ篠原しのはら
父母ちちはは ちち篠原しのはら長政ながまさ
兄弟きょうだい 長房ながふさ吉兵衛きちべえ
つま 継室けいしつけんかいむすめ
長重ながしげむすめ安富やすとみもりじょうしつ)、ほか
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篠原しのはら 長房ながふさ(しのはら ながふさ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう三好みよし家臣かしんで、阿波あわこく麻植おえぐん上桜うえざくらじょうおも篠原しのはら長政ながまさ

三好みよし長慶ちょうけいおとうと三好みよしみのるきゅう重臣じゅうしんであり、じつきゅう討死うちじにのち遺児いじ三好みよし長治ながはる補佐ほさして阿波あわにおいて三好みよしちゅうをまとめた。三好みよしぶん国法こくほうであるしん制式せいしき編纂へんさんにあたるなど、能吏のうりとしてられる一方いっぽうで、阿波あわ讃岐さぬき両国りょうこく軍勢ぐんぜいひきいてしばしば畿内きない出兵しゅっぺいした。

生涯しょうがい

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三好みよしみのるきゅう重臣じゅうしん

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三好みよしせんまんじつきゅうないしゃ」とばれる篠原しのはら[2][注釈ちゅうしゃく 1]。の筆頭ひっとうかくであり、天文てんもん22ねん1553ねん)、三好みよしみのるきゅう阿波あわこく守護しゅご細川ほそかわもちたかし殺害さつがい下剋上げこくじょうするとこれにしたがい、じつきゅう指揮しきにあって天文てんもん23ねん1554ねん)11月から弘治こうじ元年がんねん1555ねん)2がつ播磨はりまこくへ、えいろく元年がんねん1558ねん)8がつから12がつまで摂津せっつ山城やましろへ、えいろく年中ねんじゅう讃岐さぬきこく香川かがわけいめるなど、各地かくち転戦てんせんした。

えいろく2ねん1559ねん)に蓮如れんにょまごにあたる摂津せっつ富田とみたきょうぎょうてらけんかいじつちかい)のむすめしつとする[4]

えいろく4ねん1561ねん)7がつはじまるたいはたけ山高やまたかまさし根来寺ねごろじせんではじつきゅうしたがって和泉いずみこく出陣しゅつじんし、よくえいろく5ねん1562ねん)3がつ久米田くめたたたかにおいて先陣せんじんまかされ勇戦ゆうせんするが、手薄てうすとなった本陣ほんじんおそわれ、主君しゅくんじつきゅううしなう。長房ながふさへいをまとめ戦場せんじょうから退却たいきゃくし、じつきゅうあに三好みよし長慶ちょうけい指揮しきのもと同年どうねん5がつ教興寺きょうこうじたたかこうせいやぶった。久米田くめたたたかいののち長房ながふさ木津きづしろおも篠原しのはらちょう)やいた西城さいじょうおも赤沢あかざわそうつたえととともに剃髪ていはつし、岫雲斎うんさいいかほおごうした[5]

三好みよし内紛ないふん信貴山しぎさんじょうたたか

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じつきゅう死後しご阿波あわ国主こくしゅ長男ちょうなんであった三好みよし長治ながはるいだ。しかし、長治ながはる当時とうじ8さいであったため、長房ながふさ一族いちぞく遁、赤沢あかざわはじめつてらととも長治ながはる補佐ほさした。えいろく7ねん1564ねん)12月、長慶ちょうけいって上洛じょうらくし、三好みよし長逸ちょういつ松永まつなが久秀ひさひでらと後事こうじはかって帰国きこくする。

その畿内きない三好みよし宗家そうけ内訌ないこうこると、えいろく9ねん1566ねん)6がつ足利あしかが義栄よしひで擁立ようりつ三好みよし長治ながはる細川ほそかわ真之まさゆき細川ほそかわもちたかし長治ながはる父兄ふけい)をほうじて四国しこくぜい動員どういん畿内きない上陸じょうりくした。長房ながふさ三好みよし一門いちもん有力ゆうりょくしゃ三好みよしさんにんしゅ協調きょうちょう路線ろせんをとり、松永まつなが久秀ひさひで敵対てきたい同年どうねん9がつには、松永まつながかた瓦林かわらばやし三河みかわまもるより摂津せっつこし水城みずきうばい、ここを拠点きょてんとして大和やまとこくほか各地かくち転戦てんせんした。

えいろく11ねん1568ねん)2がつには14だい将軍しょうぐん足利あしかが義栄よしひで将軍しょうぐん就任しゅうにん祝賀会しゅくがかいかんがえられるだい宴会えんかい出席しゅっせきしており、さんにんしゅとも松永まつながかた細川ほそかわふじけんまも大和やまと信貴しぎ山城やましろおとすなど(信貴山しぎさんじょうたたか)、宗家そうけ当主とうしゅ三好みよし義継よしつぎ離反りはんがあったものの久秀ひさひでとのたたかいを優勢ゆうせいすすめている。

この時期じき長房ながぶさは、『フロイス日本にっぽん』に「このころかれら(三好みよしさんにんしゅ以上いじょう勢力せいりょくゆうし、かれらを管轄かんかつせんばかりであったのは篠原しのはら殿どので、かれ阿波あわこくにおいて絶対ぜったいてき権力けんりょくゆうする)執政しっせいであった」としるされるほどであった[6]阿波あわ讃岐さぬき両国りょうこくをよくまとめて長慶ちょうけい死後しご退勢たいせいかう三好みよしささえたといえる。

織田おだ信長のぶなが上洛じょうらく野田城のだじょう福島ふくしまじょうたたか

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しかし同年どうねん、15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき擁立ようりつした織田おだ信長のぶなが9月7にち岐阜ぎふじょう出立しゅったつ12にち六角ろっかく義賢よしかた近江おうみ観音寺かんおんじじょう陥落かんらく観音寺かんおんじじょうたたか)、25にち大津おおつまで進軍しんぐんすると、篠原しのはら長房ながふささんにんしゅぐん崩壊ほうかいする。さら29にち山城やましろ勝龍寺しょうりゅうじじょう退却たいきゃくしたいわ成友しげともどおり降伏ごうぶく30にち摂津せっつ芥川あくたがわ山城やましろ退却たいきゃくした細川ほそかわあきらもと三好みよし長逸ちょういつしろ放棄ほうき10月2にちには長房ながふさ越水こしみずしろ放棄ほうきし、阿波あわこくびた。そのうえ10がつ20日はつか足利あしかが義栄よしひで阿波あわこく病死びょうし松永まつなが久秀ひさひで三好みよし義継よしつぎ信長のぶなが臣従しんじゅう11月10にちには長房ながぶさ暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんきている。

長房ながぶさらは阿波あわ信長のぶながへの反撃はんげきへの体制たいせいととのえ、えいろく12ねん1569ねん)1がつ三好みよしさんにんしゅ和泉いずみこく上陸じょうりく本圀寺ほんごくじ義昭よしあき襲撃しゅうげきした。しかし、細川ほそかわ藤孝ふじたか三好みよし義継よしつぎ摂津せっつこくしゅ伊丹いたみちかしきょう池田いけだ勝正かつまさ荒木あらき村重むらしげらの援軍えんぐんやぶれ、再度さいど阿波あわこくのがれている(本圀寺ほんごくじへん)。

もとかめ元年がんねん1570ねん)6がつ三好みよし長逸ちょういつつうじた荒木あらき村重むらしげ池田いけだ勝正かつまさ追放ついほうすると、同年どうねん7がつ21にち三好みよし康長やすながさんにんしゅ摂津せっつ中嶋なかじま再度さいど上陸じょうりく野田城のだじょう福島ふくしまじょう築城ちくじょうした。8月にはいり、信長のぶながさんにんしゅつため摂津せっつ遠征えんせいし、26にち野田城のだじょう福島ふくしまじょうめるも、9月13にち石山いしやま本願寺ほんがんじ参戦さんせんもあり、さんにんしゅ信長のぶなが攻勢こうせいたいちこたえる。

さらに、浅井あさい長政ながまさ朝倉あさくら義景よしかげぐん琵琶湖びわこ西岸せいがん南下なんか信長のぶなが重臣じゅうしんもりなりおとうと織田おだ信治しんじ討死うちじにさせると(宇佐うさ山城やましろたたか)、信長のぶなが浅井あさい朝倉あさくらぐん京都きょうと侵入しんにゅうすることをおそれ、9月23にちさんにんしゅ討伐とうばつあきらめ、摂津せっつこくからの撤退てったい開始かいし野田城のだじょう福島ふくしまじょうたたか)、近江おうみこくまで退しりぞ比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ陣取じんど浅井あさい朝倉あさくらぐんとのちょう滞陣たいじんとなった(志賀しがじん)。

一方いっぽう長房ながぶさは、9月19にち本願寺ほんがんじ法主ほっしゅ顕如けんにょから盟約めいやくむす書状しょじょうり、27にち阿波あわ讃岐さぬき軍勢ぐんぜいひきいて兵庫ひょうごうら上陸じょうりく瓦林かわらばやししろおよび越水うてみじょう城主じょうしゅ瓦林かわらばやし三河みかわまもるり、10月1にち野田城のだじょう福島ふくしまじょう入城にゅうじょうさら山城やましろけて進軍しんぐんした。しかし、11月21にち織田おだかた松永まつなが久秀ひさひで仲介ちゅうかいにより長房ながふさ久秀ひさひであいだ人質ひとじち交換こうかんおこなわれ和睦わぼく成立せいりつしている。

本太もとぶとじょうこう屋城やしろ高槻たかつきじょうたたか

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長房ながふさ四国しこくにおいてもとかめ元年がんねん(1570ねん)にむすめ安富やすとみもりじょうとつがせており、もとかめ2ねん1571ねん前半ぜんはんごろ寒川さむかわもととなりから大内おおうちぐん4さと安富やすとみもりじょう譲渡ゆずりわたさせて讃岐さぬき東部とうぶでの地盤じばん強化きょうかしている[7]同年どうねん5がつには、信長のぶながむす毛利もうり圧迫あっぱくけていた浦上うらかみ宗景むねかげもとめにおう備前びぜんこく児島こじま上陸じょうりく小早川こばやかわ隆景たかかげ配下はいか粟屋あわや就方へいやぶっている(本太もとぶとじょう合戦かっせん[8]

同年どうねん6月11にちには、長房ながぶさひきいる阿波あわ讃岐さぬき軍勢ぐんぜい畿内きないさい上陸じょうりくしており、河内かわうち高屋たかやしろおも畠山はたけやまあきらだか信長のぶながいもうと婿むこ)をめており[9]、8がつまつには摂津せっつ荒木あらき村重むらしげ池田いけだ知正ともまさ義昭よしあきかた茨木いばらぎ重朝しげとも摂津せっつさん守護しゅご伊丹いたみおやきょうおなじく和田わだ惟政これまさめ、重朝しげとも惟政これまさっている。いきおいにった池田いけだぜい茨木いばらぎじょう郡山こおりやましろとし、惟政これまさ和田わだおもんみちょうこも高槻たかつきじょう攻囲こういした。これに松永まつなが久秀ひさひで久通ひさみち父子ふし三好みよし義継よしつぎ攻囲こういぐんくわわり、『フロイス日本にっぽん』によると、高槻たかつきじょう城下町じょうかまちを2にち2ばんかけてすべてはら破壊はかいしたとされる。信長のぶなが9月9にち佐久間さくましんもりを、義昭よしあき9月24にち明智あけち光秀みつひで講和こうわため派遣はけんし、村重むらしげらはへいげている(白井しらい河原かわはらたたか)。

姿すがたなき阿波あわ古城こじょう』によると、長房ながふさは「三好みよしちゅうなかでも長房ながぶさはもっとも堅実けんじつで、しかも軍事ぐんじ政治せいじ両面りょうめんつうじていたので、ときにはそれがしょしんたちのあいだでねたみをうけるほどの才能さいのうがあった」と評価ひょうかされている。

上桜うえざくらじょうたたかいと篠原しのはら滅亡めつぼう

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三好みよし』によるとしょう少将しょうしょう絶世ぜっせい美女びじょひょうされている。しょう少将しょうしょう細川ほそかわもちたかし側室そくしつであったが、もちたかし生存せいぞんより三好みよしじつきゅう不義ふぎ関係かんけいにあり、のちじつきゅうつまとなり三好みよし長治ながはる十河そごうそんの2をもうけた。長房ながぶさ阿波あわ帰国きこくした前後ぜんごより、しょう少将しょうしょう三好みよしささえていた篠原しのはら遁とあいつうじあうなかとなり、長房ながぶさうとんじるようになった。政務せいむただし、しょう少将しょうしょう不義ふぎいさめたため、いかりをかったとわれている。長房ながふさはこのような状況じょうきょうにうんざりしたのか、上桜うえざくらじょうこもるようになった。しかし、このことぎゃく裏切うらぎり、反撃はんげきにでるとおもわれたのか、長治ながはる長房ながぶさ討伐とうばつへいをあげることとなる。

もとかめ4ねん(1573ねん)5がつ長房ながふさ長治ながはる真之まさゆきにより居城きょじょう上桜うえざくらじょう攻撃こうげきされ、抗戦こうせんのち、7がつ16にち長重ながしげとともに戦死せんしした(上桜うえざくらじょうたたか[注釈ちゅうしゃく 2]篠原しのはら遁の讒言ざんげんのためという。ただし、同年どうねん4がつ十河そごうそんさかい織田おだ信長のぶなが接触せっしょくしており、柴田しばた勝家かついえにあてて、「十河そごうよりかわ内国ないこく若江わかえじょう攻撃こうげき後援こうえん要請ようせいけたことを通知つうち河内かわちこく若江わかえじょう即時そくじ攻略こうりゃくすれば十河そごう三好みよし義継よしつぎ知行ちぎょうぶん河内かわうちなかばこく摂津せっつこくかけぐん約束やくそくし、もしいち攻撃こうげき陥落かんらくしなくても攻略こうりゃく成功せいこうすれば河内かわうちなかばこくあたえるとやくしたので、いそ出陣しゅつじんするように」という信長のぶなが指示しじされている[11]。これと連動れんどうして、たい織田おだせん主導しゅどうしてきた長房ながふさ阿波あわ三好みよしから排除はいじょされたとの見方みかたもある[12]ただ和泉いずみ岸和田きしわだ城主じょうしゅ松浦まつうら松浦まつうら孫八まごはちろう十河そごう一存いちぞん実子じっしであり[13]さき書状しょじょう十河そごうぼうは、十河そごうそんとはべつ畿内きない勢力せいりょく可能かのうせいもある)。

長房ながぶさつま次男じなん新次郎しんじろう三男さんなんよしぼう子供こどもたちつまさとであったきょうぎょうてらけんかいたよったのち紀伊きいこくびた。のち豊臣とよとみ秀吉ひでよし用人ようにんとしてつかえたともわれている。新次郎しんじろうのち帰国きこくし、ちちあに供養くようてている。

豊臣とよとみ秀吉ひでよし用人ようにんになった子孫しそん大阪城おおさかじょうのすぐちかくに屋敷やしきかまえていた佐竹さたけつかえ、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい大阪おおさかふゆじん参加さんかした。佐竹さたけ秀吉ひでよしくなったのち関ヶ原せきがはらたたかいのさい西にしぐんがわについたことで常陸ひたちから出羽いずは秋田あきたてんふうになった。すうねん下野げやかやきょうげん栃木とちぎけん小山おやま)に陣屋じんやができ、さらにすうねん下野げやこく薬師寺やくしじげん栃木とちぎけん下野したの)にうつった。その仁良川にらがわげん栃木とちぎけん下野したの)に陣屋じんやができ、明治維新めいじいしんまでつづいた。周辺しゅうへんには佐竹さたけ家臣かしん子孫しそんいまでも多数たすうんでおり、篠原しのはら名字みょうじえる。

天正てんしょう10ねん1582ねん)に18さいそんつかえたとされるおに島道しまみちさとしによる『むかし阿波あわ物語ものがたり』には、てても5ねん長治ながはるさま阿波あわたもつであろう、5ねんのち他人たにんくにとなるだろうと長房ながふさがいいのこしたとする。また長房ながふさたかかったので、自害じがいのちも、讃岐さぬき伊予いよこくでその姿すがたたというものがあったという。長房ながぶさ死後しご上桜うえざくらじょうはいされ、長房ながぶさ討伐とうばつ功績こうせきげた川島かわしまおもんみただし川島かわしましろ築城ちくじょうした。

信仰しんこう宗教しゅうきょう

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ルイス・フロイス著書ちょしょ日本にっぽん』において、長房ながぶさキリスト教きりすときょう理解りかいのある人物じんぶつひょうしているほか[14]かれ権力けんりょく非常ひじょう強力きょうりょくなものとみており、「阿波あわこく絶大ぜつだい領主りょうしゅ[14]偉大いだいにして強力きょうりょく武士ぶし[15]しょうしている。フロイスによれば、長房ながぶさ権威けんい権力けんりょく三好みよしさんにんしゅさえ凌駕りょうがし、かれらをうごかすほどの立場たちばにあったとつたえる[14][16]

フロイスがこのようにつたえるように、長房ながふさ宣教師せんきょうしたちから好意こういてきられていた。長房ながふさは、キリストきょう入信にゅうしんこそしなかったが[17]ふか理解りかいし、その庇護ひご尽力じんりょくした。キリシタン武士ぶし三箇さんが頼照よりてる(サンチョ)が、キリシタンの庇護ひご三好みよしさんにんしゅ長房ながぶさまえもとめたとき長房ながふさはこれに理解りかいしめし、「三箇さんがっていることは道理どうりかよっている」とべたとされる[18]

長房ながふさは、松永まつなが久秀ひさひでらによって京都きょうとから追放ついほうされていたフロイスが、京都きょうとふたたりがゆるされるように尽力じんりょくした。長房ながふさ度々たびたび主君しゅくん宗家そうけ当主とうしゅ三好みよし義継よしつぎにフロイスの京都きょうと復帰ふっきについて請願せいがんしているほかさんにんしゅうともそのことについていくはないをしていた[19]長房ながぶさ部下ぶか武士ぶし武田たけだ太夫たゆうばれるキリシタンの武士ぶしがいたが、長房ながぶさキリスト教きりすときょう寛容かんよう姿勢しせいかれ影響えいきょうけたことが要因よういんである[17]長房ながふさかれはなしをききい理解りかいし、宣教師せんきょうしたちたいして、「幾多いくた敬意けいいおやじょうもって」[14]せっし、また武田たけだ太夫たゆうかいして朝廷ちょうていたいしてもキリシタンの庇護ひご請願せいがんする書状しょじょうなん提出ていしゅつしていた[19]。また、『御湯おゆ殿上てんじょう日記にっき』には、長房ながぶさ三好みよし長逸ちょういつ三好みよしまさしやすしの3にんが、宣教師せんきょうし当該とうがい史料しりょうでは「はてれい」としるされている)についてのことで朝廷ちょうてい請願せいがんしたが、これがれられることはなかったという趣旨しゅし記述きじゅつがある[20]

一方いっぽう長房ながぶさ後室こうしつ摂津せっつ富田とみたきょうぎょうてらじつちかいけんかい)のむすめであった。じつちかい本願寺ほんがんじ8だい法主ほっしゅ蓮如れんにょはちなんであるはちすげい長子ちょうしであり、本願寺ほんがんじともつよ関係かんけいっていた。だが、上桜うえざくらじょうたたかいでは、雑賀さいかしゅう三好みよし長治ながはるがわについて長房ながふさ攻撃こうげきしている一方いっぽうじつちかいむすめとその所生しょせい男子だんしきたまま雑賀さいかしゅうられている(『むかし阿波あわ物語ものがたり』および天正てんしょう3ねん6がつ1にちづけ篠原しのはらいちとう起請文きしょうもん本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ所蔵しょぞう))。雑賀さいかしゅう傭兵ようへいてき性格せいかくもあるが、雑賀さいかしゅうすべてが浄土真宗じょうどしんしゅう門徒もんとではなくほか宗派しゅうはものふくまれており、雑賀さいかしゅう全体ぜんたい決定けってい浄土真宗じょうどしんしゅう門徒もんとにとって不利益ふりえき判断はんだんくだされる事例じれいもありることをしめし、その内実ないじつ複雑ふくざつさもうかがえる[21][22]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 三好みよしせんまんじつきゅうないしゃ」という表現ひょうげんそのものが誤認ごにんで、実際じっさい阿波あわ守護しゅご家臣かしん三好みよし配下はいかけられたものとするせつもある[3]
  2. ^ 上桜うえざくらじょうたたかいについてはもとかめ3ねん(1572ねんせつもあるが、若松わかまつ和三郎わさぶろうせつでは「右京うきょう進入しんにゅうどう」によるもとかめ3ねん12がつづけ淡路あわじ国三くにぞう立崎たちざきしょうあて禁制きんせい」(みょうしょうてらぞう)を天正てんしょう元年がんねんもとかめ4ねん7がつ改元かいげん)とする[10]

出典しゅってん

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  1. ^ 若松わかまつ和三郎わさぶろう篠原しのはら長房ながふさ雑考ざっこう じょう」『ふるさと阿波あわ 』74ごう
  2. ^ 天野あまの忠幸ただゆき三好みよし権力けんりょく基盤きばん阿波あわ国人くにびと」(どう戦国せんごくさんこう政権せいけん研究けんきゅう清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2010ねん
  3. ^ うま隆弘たかひろ細川ほそかわはるもと取次とりつぎうちしゅ対立たいりつ構造こうぞう」『ヒストリア』だい258ごう、2016ねん。/所収しょしゅう:うま戦国せんごく細川ほそかわ権力けんりょく研究けんきゅう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2018ねん、432-434ぺーじISBN 978-4-642-02950-6
  4. ^ 私心ししんえいろくねんろくがつはちにちじょう(『石山いしやま本願寺ほんがんじ日記にっき 下巻げかん清文せいぶんどう出版しゅっぱん、1966ねん
  5. ^ 三好みよし
  6. ^ 訳文やくぶん松田まつだ毅一きいち川崎かわさきももたいやく日本にっぽん 4』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1978ねん)による。
  7. ^ 南海なんかいどおり」(『改定かいてい史籍しせきしゅうらん だい7さつ』)
  8. ^ 若松わかまつ和三郎わさぶろう篠原しのはら長房ながふさ雑考ざっこう(5)」『ふるさと阿波あわ』81ごう
  9. ^ 若松わかまつ 2013, p. 152.
  10. ^ 若松わかまつ和三郎わさぶろう篠原しのはら長房ながふさ雑考ざっこう(6)」『ふるさと阿波あわ』82ごう
  11. ^ 山崎やまざき文書ぶんしょ』「織田おだ信長のぶなが朱印しゅいんじょう」(もとかめよんねんよんがつじゅうきゅうにちづけ奥野おくの高広たかひろ増補ぞうほ織田おだ信長のぶなが文書ぶんしょ研究けんきゅう じょう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1988ねん。)。
  12. ^ 天野あまの忠幸ただゆき三好みよし政権せいけんひがし瀬戸内せとうち地方ちほう研究けんきゅう協議きょうぎかい へん歴史れきし四国しこく―そのうちそとと』雄山閣ゆうざんかく、2008ねん
  13. ^ 隆弘たかひろ信長のぶなが上洛じょうらく前夜ぜんや畿内きない情勢じょうせい」『日本にっぽん歴史れきし』2009ねん9がつごう
  14. ^ a b c d 若松わかまつ 2013, p. 109.
  15. ^ 若松わかまつ 2013, p. 110.
  16. ^ 若松わかまつ 2013, p. 114.
  17. ^ a b 今谷いまたに 2007, p. 248.
  18. ^ 若松わかまつ 2013, p. 111.
  19. ^ a b 若松わかまつ 2013, p. 113.
  20. ^ 若松わかまつ 2013, pp. 113–114.
  21. ^ 川端かわばた泰幸やすゆき大坂本願寺おおさかほんがんじ戦争せんそうをめぐる一揆いっき地域ちいき社会しゃかい大阪おおさか真宗しんしゅう研究けんきゅうかい へん真宗しんしゅう教団きょうだん構造こうぞう地域ちいき社会しゃかい清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねん、271-277ぺーじISBN 4-7924-0589-0
  22. ^ 武内たけうち善信よしのぶ雑賀さいか一揆いっき雑賀さいか一向いっこう一揆いっき大阪おおさか真宗しんしゅう研究けんきゅうかい へん真宗しんしゅう教団きょうだん構造こうぞう地域ちいき社会しゃかい清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねん、318ぺーじISBN 4-7924-0589-0

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 今谷いまたにあきら戦国せんごくさんこう一族いちぞくよういずみしゃ、2007ねん 
  • 若松わかまつ和三郎わさぶろう篠原しのはら長房ながふさ雑考ざっこう」(『ふるさと阿波あわ』74ごうから82ごう収録しゅうろく
  • 若松わかまつ和三郎わさぶろう戦国せんごく三好みよし篠原しのはら長房ながふさ戒光さち出版しゅっぱん中世ちゅうせい武士ぶし選書せんしょシリーズ17〉、2013ねんISBN 978-4-86403-086-1 

関連かんれん作品さくひん

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  • さんにちじん三好みよし長慶ちょうけい遺命いめい篠原しのはら長房ながふさ士魂しこんろくー』(いくともしゃ、2021ねん10がつISBN 978-4-87302-744-9

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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