久我くがとおるめい

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久我くが とおるめい
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 正保まさやす4ねん1647ねん
死没しぼつ とおる8ねん8がつ27にち1723ねん9月26にち
官位かんい したがえさんけん中納言ちゅうなごん
主君しゅくん れいもと天皇てんのう東山ひがしやま天皇てんのう
氏族しぞく 久我くが
父母ちちはは ちち久我くが広通ひろみちははいえ女房にょうぼう
兄弟きょうだい つうめいつうまこと四辻よつつじしつ
つま 正室せいしつ西園寺さいおんじこうみつるむすめ
側室そくしつ松向しょうこう殿でん
ゆたかただし堀川ほりかわひろえき櫛笥くしげ隆兼たかかねしつ長松ながまついんあつしくん伊達だてむらたねしつ
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久我くが とおるめい(こが みちな)は、江戸えど時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけての公卿くぎょう内大臣ないだいじん久我くが広通ひろみち官位かんいしたがえさんけん中納言ちゅうなごん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

久我くが広通ひろみちの庶長子ちょうしとして誕生たんじょうあかりれき3ねん1657ねん)にしたがえよん叙爵じょしゃくし、寛文ひろふみ2ねん1662ねん)に元服げんぷく以降いこう累進るいしんし、侍従じじゅうひだり近衛このえ中将ちゅうじょう踏歌とうかぶしかいそとべんなどをつと寛文ひろふみ6ねん1666ねん)に19さいにしてけん中納言ちゅうなごんとなった。寛文ひろふみ10ねん1670ねん)4がつ男色なんしょくのことで高倉たかくら兵部ひょうぶしょう輔を殺害さつがいけん中納言ちゅうなごん罷免ひめんのべたから元年がんねん1673ねん)に出家しゅっけして療養りょうようした。

つうめい長男ちょうなんゆたかただしつうめいけん中納言ちゅうなごん辞任じにんする前年ぜんねん寛文ひろふみ9ねん1669ねん)におな清華せいか広幡ひろはたいでいたために久我くが名跡みょうせきおとうとつうまこといだ。出家しゅっけ元禄げんろく7ねん1694ねん)にもうけた次男じなん堀川ほりかわひろえき江戸えどくだって幕府ばくふつかえ、高家こうか旗本はたもとれつしている。なお、病気びょうき辞職じしょくしながら77さいまで生存せいぞんしている。なお、のち長男ちょうなんゆたかちゅうまご信通のぶみち久我くがいでいる。

出家しゅっけ理由りゆう[編集へんしゅう]

国立こくりつ公文書こうぶんしょかん内閣ないかく文庫ぶんこの『諸家しょか』のおおくの写本しゃほんでは『ちょうやまい』(なが病気びょうきにより)となっており、これが通説つうせつとなっている。しかし、『諸家しょか』の文化ぶんか年間ねんかん成立せいりつ史料しりょうでは出家しゅっけ記事きじしゅ注釈ちゅうしゃくがあり、『きゅうじょうほん此』とし、出家しゅっけしたのはじつのべたから2ねん1674ねん)4がつ17にちで、『ゆう子細しさい近年きんねん蟄居ちっきょ』(ある事情じじょうにより近年きんねん蟄居ちっきょした)と付記ふきしており、病気びょうきはあくまで表向おもてむきにぎなかったとしている。

出家しゅっけもうけており、堀川ほりかわひろえきほかに、牧野まきのただし寿ことぶき正室せいしつあつひめ婚礼こんれい正徳まさのり6ねん1716ねん)なので、出家しゅっけ推察すいさつされている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ つうけいおおやけ
  2. ^ 柳営りゅうえい日次にちじ』では広幡ひろはたゆたかちゅうむすめ、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』では久我くがとおるめいむすめ、『牧野まきの家家いえいえ』では広幡ひろはたゆたかちゅういもうと、と史料しりょうにより記載きさい表現ひょうげん相違そういがある。
  3. ^ むらたね吉村よしむらおい

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 済海寺さいかいじ遺跡いせき調査ちょうさだん団長だんちょう鈴木すずき公雄きみお)「みなと三田みた済海寺さいかいじ 長岡ながおか藩主はんしゅ牧野ぼくや墓所はかしょ発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょ」(1986ねん東京とうきょうみなと教育きょういく委員いいんかい
  • 系図けいず纂要
  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか
  • しょ家伝かでん