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久我くがとおるけん

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久我くがとおるけん
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん10ねん1541ねん
死没しぼつ 天正てんしょう3ねん4がつ6にち1575ねん5月15にち
別名べつめい つうきょうはつ)→どおりしゅんつうけん
官位かんい せいけん大納言だいなごん
主君しゅくん こう奈良なら天皇てんのう正親町おおぎまち天皇てんのう
氏族しぞく 久我くが
父母ちちはは ちち久我くがはるどおりはは武田たけだもとひかりむすめ
兄弟きょうだい つうけんそらたつとうじゅんさんきゅう岩倉いわくら近衛このえぜんひさしつ瑞光ずいこういん西園寺さいおんじ実益じつえきしつ)、きょうはるいん久我くがあつしどおり小倉おぐらふじしつ
つま 佐々木ささき
あつしどおり下津しもつ俸庵久我くが俊子としころくじょうゆうひろしつ、のちしん大納言だいなごんきょく
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久我くが とおるけん(こが みちかた)は、戦国せんごく時代じだい公卿くぎょう

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

天文てんもん11ねん1542ねん)に叙爵じょしゃくし、侍従じじゅうれっする。その備前びぜんけんかいひだり近衛このえ中将ちゅうじょう備前びぜん権守ごんもりけん中納言ちゅうなごんなどを歴任れきにんし、弘治こうじ2ねん1556ねん)に源氏げんじ長者ちょうじゃとなる。

弘治こうじ3ねん1557ねん)、けん大納言だいなごんにんじられる。

えいろく元年がんねん1558ねん)、みぎ近衛このえ大将たいしょうえいろく3ねん1560ねん)にはせいとなったが、まもなく勅勘ちょっかんこうむり、えいろく8ねん1565ねん)にしたがえとされた。

えいろく11ねん1568ねん)、正親町おおぎまち天皇てんのう寵愛ちょうあいする典侍てんじ飛鳥井あすかいまさつなむすめ)との密通みっつう疑惑ぎわくりただされると、ふたた勅勘ちょっかんけてかいかんされた。ちちはれどおり織田おだ信長のぶなが三条西さんじょうにしみのるきよし万里小路まりこうじおもんみぼうかいして赦免しゃめんようとしたが、天皇てんのういかりがおさまらずゆるされなかった。

もとかめ元年がんねん(1570ねん)3がつ10日とおかつうけんみずからが逼塞ひっそくさきさかいから京都きょうと潜入せんにゅうしてもうかみやであるまことじん親王しんのう会談かいだんして取成とりなしを依頼いらいする(げんつぎきょう)が、それでも天皇てんのういかりがおさまることはなかった[1]

もとかめ4ねん1573ねん)、従兄じゅうけいにあたる将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき織田おだ信長のぶながによって京都きょうとから追放ついほうされると、ちちはれどおりもこれにしたがって京都きょうとてしまう。金子かねこたく追放ついほうされた義昭よしあきさかい滞在たいざいした時期じきもあることから、このときつうけんちち従弟じゅうてい合流ごうりゅうした可能かのうせいたかいと指摘してきしている[2]

天正てんしょう3ねん3がつ13にち久我くがはるどおり薨去こうきょすると、4がつ6にちにはつうけんうようにさかいにて薨去こうきょした[2]享年きょうねん35。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 金子かねこたくまことじん親王しんのう立場たちば」(初出しょしゅつ:『ゆたか研究けんきゅう』15(2013ねん)/所収しょしゅう金子かねこ織田おだ信長のぶなが権力けんりょくろん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねんISBN 978-4-642-02925-4)2015ねん、P383-384.
  2. ^ a b 金子かねこたく久我くがはるどおり生涯しょうがい室町むろまち幕府ばくふ」(初出しょしゅつ:『東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ附属ふぞく画像がぞう史料しりょう解析かいせきセンター通信つうしん』66(2014ねん)/所収しょしゅう金子かねこ織田おだ信長のぶなが権力けんりょくろん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねんISBN 978-4-642-02925-4)2015ねん、P72-73.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]