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久我くがさとしどおり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
久我くがさとしどおり
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん とおる20ねん1がつ27にち1735ねん2がつ19にち
死没しぼつ たかられき6ねん2がつ25にち1756ねん3月25にち
官位かんい せいさんけん大納言だいなごんおくせい
主君しゅくん さくらまち天皇てんのう桃園ももぞの天皇てんのう
氏族しぞく 久我くが
父母ちちはは ちち久我くがとおるけいははいえ女房にょうぼう
兄弟きょうだい さとしどおりつう細川ほそかわ重賢しげかたしつ千種ちくさゆうせいしつ酒井さかいただしぬきしつ
つま しょう
養子ようし信通のぶみち
テンプレートを表示ひょうじ

久我くが さとしどおり(こが としみち)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき公卿くぎょうおもさくらまち天皇てんのう(114だい)・桃園ももぞの天皇てんのう(115だい)のみかどにわたり、つかえ、官位かんいせいさんけん大納言だいなごん薨去こうきょせい追贈ついぞう)。この信通のぶみちさとしどおり祖父そふ久我くがとおるめいである。

経歴けいれき

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もとぶん2ねん1737ねん)に叙爵じょしゃくし、清華せいか当主とうしゅとしてはやいスピードで昇進しょうしんし、侍従じじゅうひだり近衛このえ少将しょうしょうひだり近衛このえ中将ちゅうじょうなどをて、寛延かんえい元年がんねん1748ねん)にしたがえさんとなり、公卿くぎょうれっする。たかられき3ねん1753ねん)にけん大納言だいなごん就任しゅうにん。しかしかれちちとともに竹内たけうちたかし門下生もんかせいであったため、たかられき6ねん(1756ねん)にけん大納言だいなごん辞職じしょくいやられる。またこのとし薨去こうきょした。享年きょうねん22。

徳川とくがわ幕府ばくふ崩壊ほうかい明治めいじ24ねん1891ねん)、れて名誉めいよ回復かいふくし、せい追贈ついぞうされた。

系譜けいふ

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関連かんれん項目こうもく

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