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久我くがけんどおり

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久我くがけんどおり
久我くがけんどおり
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文化ぶんか12ねん2がつ1にち1815ねん3月11にち
死没しぼつ 明治めいじ36ねん1903ねん9月26にち
別名べつめい ごうみどりくん素堂そどう
官位かんい したがえいち内大臣ないだいじん
主君しゅくん 仁孝天皇にんこうてんのう孝明天皇こうめいてんのう明治天皇めいじてんのう
氏族しぞく 一条いちじょう久我くが
父母ちちはは ちち一条いちじょう忠良ただよしはは細川ほそかわ富子とみこ細川ほそかわひとしむすめ
養父ようふ久我くが通明みちあき
兄弟きょうだい 一条いちじょうみのるどおり一条いちじょうただしたてとおる一条いちじょう秀子ひでこともくん通子みちこ崇子たかこなど
やしなえ兄弟きょうだいこころざしどおり
つま 正室せいしつ鷹司たかつかさ麗子れいこ鷹司たかつかさまさしどおりむすめ
松島まつしま後藤ごとうげんちゅうむすめ
つうひさし愛宕あたごどおりあさひはんひめ北畠きたばたけとおるじょうこうひめ野宮のみや定美さだみひがし久世くせどおりあきら
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久我くが けんどおり(こが たけみち、きゅう字体じたい久我くが けん󠄁どおり󠄁)は、江戸えど時代じだい後期こうき公卿くぎょう関白かんぱく一条いちじょう忠良ただよし内大臣ないだいじん久我くが通明みちあき養子ようし官位かんいせい内大臣ないだいじん維新いしんしたがえいち勲一等くんいっとう久我くが34だい当主とうしゅみどりくん素堂そどうごうした。

経歴けいれき

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京都きょうと誕生たんじょうする。文政ぶんせい5ねん1822ねん)に叙爵じょしゃくし、文政ぶんせい9ねん1826ねん)にしたがえさん天保てんぽう5ねん1834ねん)にせいよしみひさし5ねん1852ねん)に大納言だいなごん昇進しょうしんかさねる。安政あんせい元年がんねん1854ねん)にそうとなり、以後いごあさ幕間まくあい調停ちょうていつとめ、条約じょうやく勅許ちょっきょ問題もんだい和宮かずのみや降嫁こうか問題もんだいなどに関与かんよした。当時とうじ内裏だいり掌握しょうあくしていたのは、摂政せっしょう関白かんぱくでも武家ぶけ伝奏てんそうでもなくこのけんどおりかんがあったことから、ぞくに「けん関白かんぱく」とばれた。

安政あんせい5ねん1858ねん)にみぎ近衛このえ大将たいしょう文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)に内大臣ないだいじん国事こくじ御用ごようかけなど要職ようしょくつとめた。しかし攘夷じょういうらまれ、もなく弾劾だんがいけて失脚しっきゃく蟄居ちっきょ落飾らくしょく処分しょぶんとなった。

明治めいじ元年がんねん1868ねん)に赦免しゃめんされ、みや内省ないせい麝香じゃこうあいだ祗候しこう加茂かもしゃつかさだい教正のりまさすめらぎてん講究こうきゅうしょふく総裁そうさいなどをつとめた。明治めいじ22ねん1889ねん)、したがえいち勲一等くんいっとうじょせられた。

なお明治めいじになってからけんどおりは、廷臣ていしんはちじゅうはちきょうれつ参事さんじけんでは自分じぶん中心ちゅうしんてき役割やくわりたしたと述懐じゅっかいしているが(『孝明天皇こうめいてんのう』)、『岩倉いわくらこう実記じっき』では中心ちゅうしん岩倉いわくら具視ともみとしており、解決かいけつをみない。

系譜けいふ

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栄典えいてん授章じゅしょう授賞じゅしょう

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位階いかい
勲章くんしょう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 官報かんぽうだい1351ごう叙任じょにん及辞れい」1887ねん12月28にち
  2. ^ 官報かんぽうだい1952ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月28にち
  3. ^ 官報かんぽうだい6074ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん9がつ29にち

外部がいぶリンク

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