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久我くがあつしどおり

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久我くがあつしどおり
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいろく8ねん8がつ21にち1565ねん9月15にち
死没しぼつ 寛永かんえい元年がんねん11月22にち1625ねん1がつ1にち
改名かいめい 吉通よしみちはつ)→どおりあつしどおり
別名べつめい たちばないちめい
諡号しごう 円徳院えんとくいん
官位かんい せいけん大納言だいなごん
主君しゅくん 正親町おおぎまち天皇てんのうこう陽成ようぜい天皇てんのう
氏族しぞく 久我くが
父母ちちはは ちち久我くがとおるけんはは佐々木ささき
兄弟きょうだい あつしどおり下津しもつ俸庵俊子としこ
つま 久我くがはるどおりむすめ
通世みちよつうまえつうしき
テンプレートを表示ひょうじ

久我くが あつしどおり(こが あつみち)は、室町むろまち時代ときよ後期こうきから安土あづち桃山ももやま時代じだい公卿くぎょうおも正親町おおぎまち天皇てんのう(106だい)・こう陽成ようぜい天皇てんのう(107だい)のだいにわたり朝廷ちょうていつかえ、官位かんいせいけん大納言だいなごんまでのぼった。ちち久我くがとおるけんはは佐々木ささきはつ吉通よしみちどおりいちめいたちばなごう円徳院えんとくいん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

えいろく9ねん1566ねん)に叙爵じょしゃく

えいろく11ねん1568ねん)にちち典侍てんじとの密通みっつう風聞ふうぶんがたったことで正親町おおぎまち天皇てんのう勅勘ちょっかんこうむり、京都きょうとから追放ついほうされ、もとかめ4ねん1573ねん)には祖父そふはれとおる将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき京都きょうと追放ついほう同行どうこうしてしまう。

その天正てんしょう3ねん1575ねん)3がつ祖父そふが、よく4がつにはちち客死かくししてしまうが、織田おだ信長のぶなが配慮はいりょ家督かとく継承けいしょうみとめられて、11月には信長のぶながから所領しょりょう安堵あんどけた[1]

以降いこう累進るいしんし、天正てんしょう6ねん1578ねん)にしたがえさんたっして公卿くぎょうれつした。

天正てんしょう10ねん1582ねん)にけん大納言だいなごん天正てんしょう15ねん1587ねん)にしたがえとなる。

ぶんろく4ねん(1595ねん)より武家ぶけ伝奏てんそうとなり、朝廷ちょうてい豊臣とよとみとのぎに活躍かつやく豊臣とよとみからも信頼しんらいけて、しばしば加増かぞうけている。

慶長けいちょう4ねん1599ねん)、長橋ながはしきょくとの密通みっつう風聞ふうぶんがたったことで、通世みちよとともにこう陽成ようぜい天皇てんのう勅勘ちょっかんこうむり、京都きょうとから追放ついほうされている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 金子かねこたく久我くがはるどおり生涯しょうがい室町むろまち幕府ばくふ」(初出しょしゅつ:『東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ附属ふぞく画像がぞう史料しりょう解析かいせきセンター通信つうしん』66(2014ねん)/所収しょしゅう金子かねこ織田おだ信長のぶなが権力けんりょくろん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねんISBN 978-4-642-02925-4)2015ねん、P72-73.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]