稲葉いなばひさしどおり

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稲葉いなばひさしどおり
稲葉いなばひさしどおりぞう臼杵きゅうしょ月桂寺げっけいじ所蔵しょぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 元禄げんろく3ねん2がつ11にち1690ねん3月21にち[1]
死没しぼつ とおる5ねん6月25にち1720ねん7がつ30にち[1]
改名かいめい 彦六、つねどおり
戒名かいみょう ほんいん殿どのいちはな宗厳むねよしだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょうみなと高輪たかなわ東禅寺とうぜんでら
官位かんい したがえ飛騨ひだもり伊予いよもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ綱吉つなよし家宣いえのぶ家継いえつぐよしはじめ
はん 豊後ぶんご臼杵きゅうしょはんあるじ
氏族しぞく 稲葉いなば
父母ちちはは ちち稲葉いなばともどおりはは溝口みぞぐち重雄しげおの3じょ
兄弟きょうだい つねどおりつうだい
つま 正室せいしつ松平まつだいら直明なおあきむすめ
側室そくしつ玉井たまい
ただしどおり朽木くちきいさおつなつういにしえ山高やまたかしん柳生やぎゅう俊平しゅんぺい正室せいしつ勧修寺かんしゅうじあきらどうしつ
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稲葉いなば ひさしどおり(いなば つねみち)は、豊後ぶんごこく臼杵きゅうしょはんだい7だい藩主はんしゅ[1]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

稲葉いなばともどおり次男じなん[1]宝永ほうえい3ねん1706ねん)、ちち死去しきょによりあとぐ。しかし幕命ばくめいによる普請ふしん手伝てつだいが相次あいついだため、はん財政ざいせい窮乏きゅうぼうした。このためつねどおり倹約けんやくれい[1]用金ようきん[1]、さらに運上うんじょうきん制度せいどうわ制度せいど制定せいていすることではん財政ざいせい再建さいけんしようとしたが、とおる5ねん(1720ねん)6がつ25にちに31さい死去しきょしたこともあって、改革かいかく失敗しっぱいわった。あと長男ちょうなんただしどおりいだ。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

側室そくしつ

  • 玉井たまい

子女しじょ


曾孫そうそん勧修寺かんしゅうじ婧子仁孝天皇にんこうてんのう生母せいぼであるため、つねどおり仁孝天皇にんこうてんのう高祖父こうそふたる。また織田おだ信長のぶなが明智あけち光秀みつひで斎藤さいとう道三どうさんらの子孫しそんでもある。(稲葉いなばともどおり#系譜けいふ参照さんしょう

また正室せいしつ松平まつだいら直明なおあきむすめむかえているが、直明なおあき祖父そふ結城ゆうき秀康ひでやすであるため、徳川とくがわ家康いえやす玄孫げんそんつまとしていることになる。

世継よつ騒動そうどう[2][編集へんしゅう]

つねどおり正室せいしつとのあいだはなく、わらわ2にんとのあいだにそれぞれ男子だんしがあり、あにであるのちただしどおり正室せいしつとなっていた。

つねどおりおとうと母親ははおやであるわらわ寵愛ちょうあいするあまり、「つう」のくだして「おつう」と名乗なのらせる。武家ぶけにおいてわらわいち拝領はいりょうすることはきわめて異例いれいのことであった。このおつう嫉妬しっと悪女あくじょにして驕奢きょうしゃながじていたという。

正徳まさのり4ねん(1714ねん)、おつう讒言ざんげんによって正室せいしつ松平まつだいら直明なおあきむすめ明石あかしへと別離べつり直明なおあきむすめものにて臼杵きゅうしょから明石あかしへとかう途中とちゅう明石あかし屋敷やしきちかくのものないにて自害じがい

この事態じたいに、はん重役じゅうやくであった家老がろう稲葉いなば弥七やしち兵衛ひょうえなりただし家老がろう山田やまだぬい殿どの豊後ぶんご用人ようにん稲葉いなばしゅうま重秀しげひでつねどおりを諫めるが、つねどおりはかえってその重役じゅうやくたちをみな罷免ひめんした。

また、おつうはわが世継よつぎにするため、ただしどおり毒殺どくさつしようとどくりの饅頭まんじゅうべさせようとするが、つねどおりらずにべてしまい、それによって病気びょうきとなり、31さい死去しきょしてしまう。

ただしどおり正室せいしつとなっていたため家督かとくぐには松平まつだいら直明なおあき承認しょうにん必要ひつようであり、家老がろうである加納かのうそとえんじ也が切腹せっぷく覚悟かくご松平まつだいら直明なおあきゆるしをいにくが、直明なおあきは「稲葉いなばによしみはいが忠義ちゅうぎ家老がろう犬死いぬじににさせるのもあわれ」と「こちらのまご相違そういなし」とみとめ、ただしどおりあとぐ。そと隠居いんきょしてかんけいごうす。

これ以後いご稲葉いなばでは正室せいしつ早世そうせいするなどあとぐことはなく、世継よつぎはすべわらわからているのは、この明石あかし奥様おくさまいちじょうによる、とうわさされた。また、このだいよりはん財政ざいせい窮乏きゅうぼう借入かりいれがかさんだとあん批判ひはんされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 稲葉いなばひさしどおり』 - コトバンク
  2. ^ 加島かしま英国えいこく せんちょ[]『さくらおう雑録ざつろく佐野さの武夫たけお、1983ねん4がつdoi:10.11501/9774665 
仁孝天皇にんこうてんのう系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.113だい天皇てんのう
東山ひがしやま天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
8.ちょくじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.櫛笥くしげ賀子かこ
 
 
 
 
 
 
 
4.てんじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9.讃岐さぬきいえ女房にょうぼう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2.119だい天皇てんのう
ひかりかく天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10.岩室いわむろそうけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5.大江おおえいわおだい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11.おりん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.120だい天皇てんのう
仁孝天皇にんこうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24.勧修寺かんしゅうじだかあらわ
 
 
 
 
 
 
 
12.勧修寺かんしゅうじあきらどう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25.万里小路まりこうじなおぼうむすめ
 
 
 
 
 
 
 
6.勧修寺かんしゅうじけいいっ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26.稲葉いなばひさしどおり
 
 
 
 
 
 
 
13.稲葉いなばひさしどおりおんな
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.勧修寺かんしゅうじ婧子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7.池田いけだすうけいあるいはいえ女房にょうぼう