(Translated by https://www.hiragana.jp/)
稲葉典通 - Wikipedia コンテンツにスキップ

稲葉いなばのりどおり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
稲葉いなばのりどおり
稲葉いなばのりどおりぞう臼杵きゅうしょ月桂寺げっけいじ所蔵しょぞう
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん えいろく9ねん1566ねん
死没しぼつ 寛永かんえい3ねん11月9にち1626ねん12月27にち
官位かんい したがえよん侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀勝ひでかつ秀次しゅうじ徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ家光いえみつ
はん 豊後ぶんご臼杵きゅうしょはんあるじ
氏族しぞく 稲葉いなば
父母ちちはは ちち稲葉いなば貞通さだみちはは斎藤さいとう道三どうさんむすめ
兄弟きょうだい てんどおりあかわたるすけしつちゅうぼう秀政ひでまさ正室せいしつしゅうかた通孝みちたか大学だいがくたまくもいん柴田しばたかつゆたか正室せいしつ
つま 正室せいしつ丹羽にわ長秀ながひでむすめ定光じょうこういん
いちつう本多ほんださだとらしつ諏訪すわただしつね正室せいしつ吉田よしだ浄元じょうげんしつ
テンプレートを表示ひょうじ

稲葉いなば のりどおり(いなば のりみち)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう大名だいみょう豊後ぶんごこく臼杵きゅうしょはんだい2だい藩主はんしゅ

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

祖父そふ稲葉いなばりょうどおりちち貞通さだみちとも織田おだ信長のぶながつかえていたが、天正てんしょう10ねん1582ねん)の本能寺ほんのうじへん信長のぶながぬと羽柴はしば秀吉ひでよしくみした。このとき、ちちから家督かとくゆずられている。天正てんしょう13ねん1585ねん)に官位かんい豊臣とよとみせい下賜かしされたが、天正てんしょう15ねん1587ねん)の九州きゅうしゅう平定へいてい秀吉ひでよしいかりをって伊勢いせこく朝熊あさま蟄居ちっきょした。このため、稲葉いなば家督かとくちち貞通さだみちふたたまましいだという。

ぶんろく元年がんねん1592ねん)、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいはじまると豊臣とよとみ秀勝ひでかつ秀吉ひでよし養子ようし)にされて朝鮮ちょうせん渡海とかいし、戦功せんこうげた。秀勝ひでかつ死後しご豊臣とよとみ秀次しゅうじつかえたが、ぶんろく4ねん1595ねん)の秀次しゅうじ事件じけん連座れんざにより処罰しょばつされる。そのしばらくして、ふたた秀吉ひでよしつかえた。年代ねんだい不明ふめいだが、豊臣とよとみせい下賜かしされている。慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかではちち行動こうどうともにし、慶長けいちょう8ねん1603ねん)のちちによりふたた家督かとくいだ。慶長けいちょう19ねん1614ねん)からの大坂おおさかふゆじんでは徳川とくがわかたくみして参戦さんせんし、翌年よくねん大坂おおさかなつじんでは遅参ちさんした。

寛永かんえい3ねん(1626ねん)、江戸えど幕府ばくふだい3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ上洛じょうらく随行ずいこうしたが、直後ちょくご発病はつびょうして、11月9にち臼杵きゅうしょにて病死びょうしした。享年きょうねん61。死後しご家督かとく長男ちょうなんいちつういだ。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ


先代せんだい
稲葉いなば貞通さだみち
稲葉いなば貞通さだみち
美濃みの稲葉いなば当主とうしゅ
1585ねん
1603ねん - 1626ねん
次代じだい
稲葉いなば貞通さだみち
稲葉いなばいちつう