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しょう藤田ふじた正一しょういち

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こふじた しょういち
しょう藤田ふじた 正一しょういち
小藤田 正一
歌舞伎かぶき出版しゅっぱん歌舞伎かぶき だい2ねんだい4ごう臨時りんじ増刊ぞうかん(1926)より
本名ほんみょう 藤田ふじた 眞砂まさごせい (ふじた まさお)
生年月日せいねんがっぴ (1916-12-02) 1916ねん12月2にち
ぼつ年月日ねんがっぴ しょうねん
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう湯島ゆしま現在げんざい東京とうきょう文京ぶんきょう
身長しんちょう 160.5cm
職業しょくぎょう 俳優はいゆうもと子役こやく
ジャンル 新派しんぱ劇映画げきえいが時代じだいげき現代げんだいげきサイレント映画えいがトーキー)、テレビドラマ
活動かつどう期間きかん 1920ねん - 1964ねん
配偶はいぐうしゃ ゆう
おも作品さくひん
がまぐち
ただしちゃんの蒲田かまた訪問ほうもん
大人おとな繪本えほん うまれてはみたけれど
テンプレートを表示ひょうじ

しょう藤田ふじた 正一しょういち(こふじた しょういち、1916ねん12月2にち - 没年ぼつねんしょう)は、日本にっぽん俳優はいゆうもと子役こやくである[1][2][3][4][5][6]本名ほんみょう藤田ふじた 眞砂まさごせい(ふじた まさお)[1][2][3][4][5][6]武田たけだ正憲まさのり一座いちざ河合かわい武雄たけお一座いちざなど、様々さまざま新派しんぱげき出演しゅつえんて、大正たいしょう後期こうきには井上いのうえ正夫まさおとも松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ活躍かつやくした名子なごやくとしてられる[1]

来歴らいれき人物じんぶつ

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1916ねん大正たいしょう5ねん12月2にち東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう湯島ゆしま現在げんざい東京とうきょう文京ぶんきょう湯島ゆしま)にまれる[1][2][3][4][5][6]。1955ねん昭和しょうわ30ねん)3がつ発行はっこうされた『キネマ旬報きねまじゅんぽう』には、生年せいねんは「大正たいしょうねんいちがついちにち」(1916ねん12月15にち)であるむねしるされている[7]

1920ねん大正たいしょう9ねん)、まん4さいとき子役こやくとして新劇しんげき俳優はいゆう武田たけだ正憲まさのり一座いちざはいり、同年どうねん9がつ辰巳たつみ劇場げきじょう上演じょうえんされた舞台ぶたい嬰児えいじごろし』で初舞台はつぶたい[1][2][3][4][5][6]つづいて新派しんぱ俳優はいゆう木下きのした吉之助よしのすけ一座いちざくわわり、中央ちゅうおう劇場げきじょうなどかく出演しゅつえんはやくも名子なごやく評判ひょうばんをとる[1][2][3][4][5][6]。1922ねん大正たいしょう11ねん)、当時とうじ国際こくさいかつうつかくはず撮影さつえいしょ所属しょぞくしていた新派しんぱ俳優はいゆう井上いのうえ正夫まさお見出みいだされ、同年どうねん4がつ井上いのうえとも松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ入社にゅうしゃし、同年どうねん4がつ30にち公開こうかいされた野村のむらかおるてい監督かんとく映画えいが地獄じごくせん』で映画えいがデビューをたす[1][2][3][4][5][6]。この作品さくひんは、1921ねん大正たいしょう10ねん)1がつ21にち公開こうかいされたチャールズ・チャップリン主演しゅえん映画えいがキッド』を映画えいが監督かんとく伊藤いとう大輔だいすけ翻案ほんあんしたものであり、これによりしょう藤田ふじたは「日本にっぽんジャッキー・クーガン "天才てんさい子役こやく"」とうたわれる[1]。また、同年どうねん5がつ1にち公開こうかいされた牛原うしはらきょ監督かんとく映画えいが孝女こうじょよしこ』では、7さい年上としうえ子役こやく久保田くぼた久雄ひさお共演きょうえんしている[1]同年どうねん6がつ井上いのうえとも喜多村きたむら緑郎ろくろう一座いちざ合流ごうりゅう明治めいじ上演じょうえんされた舞台ぶたい悪魔あくまむち』に出演しゅつえん[1][2][3][4][5][6]。1923ねん大正たいしょう12ねん)3がつには河合かわい武雄たけお一座いちざくわわり、御国みくに上演じょうえんされた舞台ぶたい陸奥みちのく物語ものがたり』に出演しゅつえんし、その九州きゅうしゅう地方ちほう中心ちゅうしん各地かくち巡業じゅんぎょうるが、このあいだにも松竹しょうちく映画えいが蒲田かまた撮影さつえいしょ製作せいさくのサイレント映画えいがすうほん出演しゅつえんしている[1][2][3][4][5][6]同年どうねん発行はっこうされた『現代げんだい俳優はいゆう名鑑めいかん』によれば、この当時とうじ東京とうきょう東京とうきょう深川ふかがわ深川ふかがわ亀住かめずみまち現在げんざい江東こうとう深川ふかがわ)にみ、この当時とうじ身長しんちょうは2しゃく8すんやく84.8センチメートル)であった[3]

1924ねん大正たいしょう13ねん)からは、松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ子役こやく専念せんねんするようになり、同年どうねん3がつ14にち公開こうかいされた小澤おざわ得二とくじ監督かんとく映画えいがとらくま』など、おも喜劇きげき映画えいが中心ちゅうしんおおくの作品さくひん出演しゅつえん[1][2][3][4][5][6]新派しんぱ調ちょうまずしいいえ子供こどもやくおおえんじ、同所どうしょ子役こやく高尾たかお光子みつことも子供こどものアイドルとなる[1]。また、10代後半こうはんになってからは、1929ねん昭和しょうわ4ねん)4がつ13にち公開こうかいされた小津おつあん二郎じろう監督かんとく映画えいが学生がくせいロマンス わか』や1932ねん昭和しょうわ7ねん)6がつ3にち公開こうかいされたおなじく小津おつやすろう監督かんとく映画えいが大人おとな繪本えほん うまれてはみたけれど』などで元気げんき小学生しょうがくせいやく餓鬼大将がきだいしょうやくえんじたほか、松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょ製作せいさくした時代じだい劇映画げきえいがにも積極せっきょくてき助演じょえんした[1][2][5][6]。1928ねん昭和しょうわ3ねん)に発行はっこうされた『日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう名鑑めいかん 昭和しょうわよん年版ねんばん』(映画えいが世界せかいしゃ)など一部いちぶ資料しりょうによれば、東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう本郷ほんごう真砂まさごまち15番地ばんち現在げんざい東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごう)、のち東京とうきょう東京とうきょう蒲田かまた新宿しんじゅくまち101番地ばんち東京とうきょう大田おおた新宿しんじゅくまち現在げんざい東京とうきょう大田おおた蒲田かまたあたり)、神奈川かながわけん鎌倉かまくら材木座ざいもくざ747番地ばんちみ、身長しんちょうは4しゃく1すん2ふんやく125.1センチメートル)、のちに5しゃく1すんやく154.8センチメートル)となり、体重たいじゅうは9かん300もんめやく34.9キログラム)、のちに11かん300もんめやく42.4キログラム)となる[2][4][5][6]が、戦後せんご身長しんちょう160.5センチメートル、体重たいじゅう54キログラムであったという[7]。また、同書どうしょによると、趣味しゅみ映画えいが鑑賞かんしょうスポーツで、菓子かし洋食ようしょく嗜好しこうであるというむねしるされている[5][6][7]

しかし、1930年代ねんだい後半こうはんになると、1929ねん昭和しょうわ4ねん)に映画えいがデビューした突貫とっかん小僧こぞう才気さいき煥発かんぱつ演技えんぎ人気にんきかげかくれがちとなり、1933ねん昭和しょうわ8ねん)4がつ1にち公開こうかいされた成瀬なるせ巳喜男みきお監督かんとく映画えいがきみわかれて』など、以後いご脇役わきやく端役はやくまわった[1][2][6]。1943ねん昭和しょうわ18ねん)、戦局せんきょく悪化あっかのため松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょ一時いちじ退社たいしゃして松竹しょうちく演芸えんげい移籍いせきするが、だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつの1946ねん昭和しょうわ21ねん)に復帰ふっき[1][2][7]戦中せんちゅうわらず脇役わきやく端役はやくつとめたのち、1953ねん昭和しょうわ28ねん)12月29にち公開こうかいされた川島かわしま雄三ゆうぞう監督かんとく映画えいがじょうさん社長しゃちょう』に出演しゅつえんしたのを最後さいご松竹しょうちく退社たいしゃした[1][2][7]

1954ねん昭和しょうわ29ねん)4がつ7にちまん37さいのとき、映画えいが関係かんけいかおくのを利用りようして、撮影さつえいしょ巡回じゅんかい使用しようするのを目的もくてき自動車じどうしゃブローカーからけていたシボレーを、他者たしゃに40まんえん売却ばいきゃくしていたほか、同等どうとう自動車じどうしゃ詐欺さぎを3けんおかし、およそ150まんえんだまったとして、同年どうねん5がつ8にち共犯きょうはん無職むしょく男性だんせいとも逮捕たいほされる[8]。そのしょう藤田ふじた芸能げいのうかい復帰ふっきしており、共同きょうどう芸術げいじゅつ協会きょうかい加入かにゅうしている[7]。ところが、1964ねん昭和しょうわ39ねん)3がつ29にちTBSテレビ放映ほうえいしたテレビドラマ隠密おんみつ剣士けんしだい6だい13忍者にんじゃふう小太郎こたろう」に出演しゅつえんして以降いこう出演しゅつえん作品さくひん見当みあたらず、以後いご消息しょうそくあきらかになっていない[1][2]没年ぼつねんしょう

出演しゅつえん作品さくひん

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松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ

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1923ねん写真しゃしんまん7さい

特筆とくひつ以外いがいすべ製作せいさくは「松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ」、配給はいきゅうは「松竹しょうちく」、特筆とくひつ以外いがいすべサイレント映画えいがである。

松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょ

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特筆とくひつ以外いがいすべ製作せいさくは「松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょ」、配給はいきゅうは「松竹しょうちく」、以降いこうすべトーキーである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう全集ぜんしゅう 男優だんゆうへんキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1979ねん、223-224ぺーじ 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 芸能人げいのうじんぶつ事典じてん 明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ日外にちがいアソシエーツ、1998ねん、235ぺーじ 
  3. ^ a b c d e f g h i j 現代げんだい俳優はいゆう名鑑めいかん揚幕あげまくしゃ、1923ねん、29ぺーじ 
  4. ^ a b c d e f g h i j 日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう名鑑めいかん 昭和しょうわよん年版ねんばん映画えいが世界せかいしゃ、1928ねん、92ぺーじ 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう名鑑めいかん 昭和しょうわ年版ねんばん映画えいが世界せかいしゃ、1929ねん、119ぺーじ 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本にっぽん映画えいが俳優はいゆう名鑑めいかん 昭和しょうわきゅう年版ねんばん映画えいが世界せかいしゃ、1934ねん、111-112ぺーじ 
  7. ^ a b c d e f キネマ旬報きねまじゅんぽうキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1955ねん、73ぺーじ 
  8. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1954ねん5がつ9にちづけ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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