チンドン屋 や
チンドン屋 や ( チンドンや ) は、チンドン太鼓 たいこ と呼 よ ばれる楽器 がっき を『チンチン・ドンドン・チンドンドン』と鳴 な らすなどして人目 ひとめ を集 あつ め、その地域 ちいき の商品 しょうひん や店舗 てんぽ などの宣伝 せんでん を行 おこな う日本 にっぽん の請負 うけおい 広告 こうこく 業 ぎょう の一類 いちるい 型 がた である[† 1] 。披露 ひろう 目 め 屋 や ・広目屋 ひろめや ( ひろめや ) ・東西屋 とうざいや ( とうざいや ) [2] と呼 よ ぶ地域 ちいき もある。またカラフルな衣装 いしょう を纏 まと う人 ひと のことをチンドン屋 や と呼 よ ぶ地域 ちいき もある。
お祭 まつ り 会場 かいじょう のちんどん屋 や (チンドン太鼓 たいこ )
締 しめ 太鼓 たいこ と鉦 かね (当 あ たり鉦 かね ) を組 く み合 あ わせたチンドン太鼓 たいこ などの演奏 えんそう 、および諸 しょ 芸 げい や奇抜 きばつ な衣装 いしょう ・仮装 かそう によって街 まち を廻 まわ りながら、依頼 いらい 者 しゃ の指定 してい した地域 ちいき ・店舗 てんぽ へ人 ひと を呼 よ び込 こ む[3] 。
また集客 しゅうきゃく した上 うえ で宣伝 せんでん の口上 こうじょう やビラ まきなどで商品 しょうひん の購入 こうにゅう を促 うなが す。
街 まち を廻 まわ りながら行 おこな う宣伝 せんでん を「街 まち 廻 まわ り」、移動 いどう せず店頭 てんとう で行 おこな う宣伝 せんでん を「居 きょ 付 つ き」という[4] 。
3人 にん から5人 にん ほどの編成 へんせい が一般 いっぱん 的 てき で、チンドン太鼓 たいこ 、楽士 がくし 、ゴロス(大 だい 太鼓 たいこ )を中心 ちゅうしん に旗持 はたもち 、ビラまきらが加 くわ わる。
チンドン太鼓 たいこ は、事業 じぎょう 主 おも である親方 おやかた が担当 たんとう することが多 おお く、口上 こうじょう も兼任 けんにん する[5] 。
楽士 がくし は、クラリネット 、サックス などの管楽器 かんがっき のほか、アコーディオン で旋律 せんりつ を演奏 えんそう する。
特定 とくてい の親方 おやかた と雇用 こよう 関係 かんけい を結 むす ばず、フリーで活動 かつどう する楽士 がくし も多 おお い。
旗持 はたもち は、幟 のぼり を持 も ち、先頭 せんとう を歩 ある く役割 やくわり で、「ビラまき」は、チラシ 、ティッシュ などを配布 はいふ し、「背負 せお いビラ」と呼 よ ばれる店名 てんめい やサービス内容 ないよう が書 か かれたポスター のようなものを各人 かくじん が背中 せなか に背負 せお い、あるいはチンドン太鼓 たいこ の前 まえ に取 と りつける[6] 。
関西 かんさい では幟 のぼり ではなくプラカード を持 も つことが多 おお く、ビラまきを「チラシ配 くば り」と呼 よ ぶ。
店舗 てんぽ の近隣 きんりん を巡 めぐ る「街 まち 廻 まわ り」の仕事 しごと を基本 きほん とするが、大 だい 規模 きぼ 店舗 てんぽ や催 もよお し物 もの の会場 かいじょう 内 ない を廻 まわ ることや、店 みせ の前 まえ やステージなどでの演奏 えんそう を依頼 いらい されることもある。
仕事 しごと の始 はじ めと終 お わりや、雨天 うてん 時 じ などに、留 とど まって演奏 えんそう することを「居 きょ 付 つ き」と言 い う[7] 。
宣伝 せんでん 活動 かつどう を営利 えいり で行 おこな う点 てん で、路上 ろじょう において芸 げい を演 えん じる大道芸 だいどうげい 人 じん とは明確 めいかく に区別 くべつ される[8] 。宣伝 せんでん の仕事 しごと を元請 もとう けで行 おこな う、つまりクライアントから直接 ちょくせつ 仕事 しごと を請 う け負 お う業者 ぎょうしゃ を親方 おやかた といい、屋号 やごう をもつ。一方 いっぽう 、元請 もとう けで仕事 しごと を行 おこな わない業者 ぎょうしゃ はフリーと呼 よ ばれる[9] 。
日本 にっぽん 国外 こくがい からは、日本 にっぽん におけるストリートミュージック の例 れい として取 と り上 あ げられる場合 ばあい もある[10] 。
積極 せっきょく 的 てき に宣伝 せんでん 行為 こうい をすること、派手 はで な衣装 いしょう で人目 ひとめ を引 ひ く行為 こうい ・人物 じんぶつ への比喩 ひゆ として「チンドン屋 や 」が用 もち いられることも多 おお い[† 2] 。
当 あ たり鉦 かね と太鼓 たいこ を組 く み合 あ わせて一人 ひとり で歩 ある きながら演奏 えんそう 出来 でき るようにした一種 いっしゅ のドラムセットをチンドンまたはチンドン太鼓 たいこ と呼 よ び、チンドン太鼓 たいこ を用 もち いて路上 ろじょう で宣伝 せんでん する職業 しょくぎょう を「チンドン屋 や 」または単 たん に「チンドン」と称 しょう する。
「チンドン」は、鉦 かね の「チン」という音 おと と胴 どう 太鼓 たいこ の「ドン」という音 おと を組 く み合 あ わせた擬音 ぎおん から成立 せいりつ したと考 かんが えられるが、十分 じゅうぶん な用例 ようれい が確認 かくにん されておらず語 かたり の成立 せいりつ 過程 かてい は明 あき らかではない[11] 。
「チンドン屋 や 」という言葉 ことば は、1878年 ねん 12月11日 にち の『郵便 ゆうびん 報知 ほうち 新聞 しんぶん 』見出 みだ し「チンドン屋 や よろしく大道 だいどう 飴 あめ 売 うり 」や、1889年 ねん 10月6日 にち の『東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん 』見出 みだ し「条約 じょうやく 改正 かいせい 論戦 ろんせん 、チンドン屋 や 総出 そうで の形 かたち 」などに見 み られるように、明治 めいじ 初期 しょき から存在 そんざい したが、用例 ようれい が少 すく なく、その語 かたり が意味 いみ する対象 たいしょう は明 あき らかではない[12] 。
現代 げんだい (21世紀 せいき )のチンドン屋 や に繋 つな がるものとして「チンドン屋 や 」の呼称 こしょう が普及 ふきゅう しはじめたのは、大正 たいしょう 末 すえ から昭和 しょうわ 初期 しょき と考 かんが えられ、確認 かくにん できる用例 ようれい は、1930年 ねん 頃 ころ からある[† 3] 。当初 とうしょ は、単独 たんどく で華美 かび な衣装 いしょう を身 み につけ、口上 こうじょう を行 おこな うことに対 たい して「チンドン屋 や 」の呼称 こしょう が用 もち いられており、必 かなら ずしも三味線 しゃみせん 、管楽器 かんがっき の演奏 えんそう を伴 ともな わない形態 けいたい であったと推察 すいさつ される[† 4] 。
チンドン屋 や を指 さ して、披露 ひろう 目 め 屋 や ・広目屋 ひろめや という表現 ひょうげん が用 もち いられることがある。
披露 ひろう 目 め 屋 や は、開店 かいてん 披露 ひろう の仕事 しごと をすることが多 おお かったため、あるいは芝居 しばい の口上 こうじょう に由来 ゆらい するとされる。
広目屋 ひろめや は、広告 こうこく 宣伝 せんでん 、装飾 そうしょく 、興行 こうぎょう などを手掛 てが けた秋田 あきた 柳 やなぎ 吉 きち が起 お こした会社 かいしゃ の名 な で、依頼 いらい に応 おう じて楽隊 がくたい を派遣 はけん したことで楽隊 がくたい 広告 こうこく の代名詞 だいめいし として用 もち いられるようになった[15] 。
関西 かんさい では東西屋 とうざいや という表現 ひょうげん が用 もち いられることがある。東西屋 とうざいや は、大阪 おおさか の勇 いさむ 亀 ひさし (いさみかめ)が芝居 しばい の口上 こうじょう である「東西 とうざい 、東西 とうざい (とざい、とうざい)」を流用 りゅうよう して寄席 よせ の宣伝 せんでん 請負 うけおい を行 おこな ったことから広 ひろ まった[16] 。
現代 げんだい (21世紀 せいき )、これらの語 かたり を使 つか い分 わ ける場合 ばあい は、広目屋 ひろめや は楽隊 がくたい の存在 そんざい を重視 じゅうし し、東西屋 とうざいや は口上 こうじょう を主体 しゅたい とする意味合 いみあ いを含 ふく む。
この呼称 こしょう は明治 めいじ 期 き から用 もち いられ、昭和 しょうわ 初期 しょき にチンドン屋 や へと変化 へんか したと思 おも われるが[17] 、歴史 れきし 的 てき 経緯 けいい については、次節 じせつ を参照 さんしょう のこと。
アラスカ・ユーコン太平洋 たいへいよう 博覧 はくらん 会 かい (en:Alaska–Yukon–Pacific Exposition )に参加 さんか した日本 にっぽん の東西屋 とうざいや (ちんどんや) 1909年 ねん
チンドン屋 や の起源 きげん については、諸説 しょせつ あるが
[† 5] 、
本節 ほんぶし では、街頭 がいとう 宣伝 せんでん 業 ぎょう である東西屋 とうざいや ・広目屋 ひろめや の始 はじ まりから記述 きじゅつ する。
元来 がんらい は、大 だい 歌舞伎 かぶき と同 おな じく出雲阿国 いずものおくに のややこ踊 おど り 、かぶき踊 おど り を起源 きげん とする。
江戸 えど 末期 まっき から明治 めいじ 初期 しょき :ルーツとしての飴 あめ 売 うり と大道芸 だいどうげい [ 編集 へんしゅう ]
楽器 がっき を用 もち いたり口上 こうじょう を述 の べたりして物 もの を売 う り歩 ある く職業 しょくぎょう としては、江戸 えど 中期 ちゅうき より「飴 あめ 売 うり 」という存在 そんざい があり[18] 、
文久 ぶんきゅう 年間 ねんかん には日本橋 にほんばし の薬店 やくてん の店主 てんしゅ が緋 ひ ビロード の巾着 きんちゃく を下 さ げ、赤 あか い頭巾 ずきん をかぶって市中 しちゅう を歩 ある き広告 こうこく をしたという記録 きろく があるが
[19] 、
これは自身 じしん の売 う り物 もの を宣伝 せんでん するためであり、広告 こうこく 請負 うけおい であるチンドン屋 や とは異 こと なる[19] 。
また、芝居 しばい 小屋 こや では鳴物 なりもの の囃子 はやし が客寄 きゃくよ せのために使 つか われていた。
本 ほん 項 こう では、東西屋 とうざいや の祖 そ として「飴 あめ 勝 かち 」という飴 あめ 売 うり と、大道芸 だいどうげい の「紅 べに かん」という江戸 えど 期 き の人物 じんぶつ から始 はじ める。
飴 あめ 勝 しょう は、大坂 おおさか ・千日前 せんにちまえ の法善寺 ほうぜんじ を拠点 きょてん として、弘 ひろし 化 か 期 き に活動 かつどう していた飴 あめ 売 うり で、その口上 こうじょう の見事 みごと さから寄席 よせ の宣伝 せんでん を請 う け負 お うようになった[20] 。短 みじか い法被 はっぴ に大 おお きな笠 かさ 脚 あし 袢にわらじ という出立 しゅったつ で、竹 たけ 製 せい の鳴物 なりもの 、拍子木 ひょうしぎ を用 もち い、「今日 きょう は松屋 まつや 町 まち の何 なに 々亭 ちん …」と呼 よ び込 こ みを行 おこな ったとされる[21] [22] 。飴 あめ 勝 しょう の仕事 しごと を引 ひ き継 つ いだ勇 いさむ 亀 ひさし (いさみかめ)が、明治 めいじ 10年代 ねんだい に芝居 しばい の口上 こうじょう である「東西 とうざい 、東西 とうざい (とざい、とうざい)」を用 もち いて寄席 よせ の宣伝 せんでん を行 おこな っていたことから、1880 - 81年 ねん 頃 ころ に東西屋 とうざいや と呼 よ ばれるようになった[16] 。やがて、東西屋 とうざいや は街頭 がいとう 宣伝 せんでん 業 ぎょう の一般 いっぱん 名詞 めいし へと転 てん じた[16] 。勇 いさむ 亀 ひさし のほかには、豆 まめ 友 とも という東西屋 とうざいや が知 し られていた[16] 。豆 まめ 友 とも は1891年 ねん に他界 たかい 、弟 おとうと が跡 あと を継 つ いで二 に 代目 だいめ を名乗 なの り、初代 しょだい の長男 ちょうなん と次女 じじょ を伴 ともな って活動 かつどう を始 はじ めるが、1893年 ねん に感電 かんでん 死 し した[23] [24] 。
紅 べに かんは、安政 あんせい 期 き から明治 めいじ 初期 しょき にかけて活動 かつどう していた大道芸 だいどうげい 人 じん で、仁 ひとし 輪 はなわ 加 か の百 ひゃく 眼 め を付 つ け、大黒 おおくろ 傘 かさ を背負 せお い、「七 なな 輪 りん の金網 かなあみ を打 だ 鉦 かね に小太鼓 こだいこ を腰 こし に柳 やなぎ のどう(胴 どう )に竹 たけ の棹 ざお に天神 てんじん はお玉 たま という三味線 しゃみせん 」で演奏 えんそう し、下町 したまち で人気 にんき を得 え ていたとされる。
大正 たいしょう 期 き にも通称 つうしょう 、紅屋 べにや の勘 かん ちゃんという男 おとこ がいて、両手 りょうて に三味線 しゃみせん 、腰 こし に小 ちい さな太鼓 たいこ をくくりつけて、バチ で三味線 しゃみせん と太鼓 たいこ を一緒 いっしょ に鳴 な らして街 まち を歩 ある いたことがヒントとなってチンドンが作 つく られたという。「紅 べに かん」と「紅 べに 勘 かん 」の繋 つな がりは明 あき らかではないが、演奏 えんそう 芸 げい の様態 ようたい としては、チンドンの原型 げんけい と言 い えるだろう[25] 。
広目 ひろめ 家 か の広告 こうこく 鈴木 すずき 春風 はるか (1851 - 1913)の写本 しゃほん 『世 よ 渡 わたり 風俗 ふうぞく 図会 ずえ 』[26]
明治 めいじ 20年代 ねんだい になると、大阪 おおさか では、丹波屋 たんばや 九 きゅう 里 さと 丸 まる (息子 むすこ が漫談 まんだん 家 か で売 う った花月 かげつ 亭 てい 九 きゅう 里 さと 丸 まる )、さつまやいも助 すけ が中心 ちゅうしん 的 てき な存在 そんざい となり[27] 、東京 とうきょう では秋田 あきた 柳 やなぎ 吉 きち の広目屋 ひろめや が楽隊 がくたい 広告 こうこく を始 はじ める[28] 。1874年 ねん に木村 きむら 屋 や が売 う り出 だ したアンパン は文明開化 ぶんめいかいか の象徴 しょうちょう 的 てき 食 た べ物 もの として明治天皇 めいじてんのう のお墨付 すみつ きを得 え 、初 はじ めて宣伝 せんでん 用 よう にチンドン屋 や を用 もち いたとされている[29] 。
丹波屋 たんばや 九 きゅう 里 さと 丸 まる は、1887年 ねん 頃 ごろ から豆 まめ や栗 ぐり を売 う りはじめ、売 う り声 ごえ が評判 ひょうばん となり、東西屋 とうざいや に転 てん じた[30] 。九里 くのり 丸 まる は東西屋 とうざいや 開業 かいぎょう 前 まえ から囃子方 はやしかた を加 くわ え、開業 かいぎょう 後 ご は自身 じしん が拍子木 ひょうしぎ 、相棒 あいぼう に太鼓 たいこ を叩 たた かせて街 まち を歩 ある いた[30] 。柏屋 かしわや 開店 かいてん の仕事 しごと の際 さい に、松 まつ に羽衣 はごろも をあしらった長襦袢 ながじばん を纏 まと い、忠臣蔵 ちゅうしんぐら になぞらえた音曲 おんぎょく 入 い りの口上 こうじょう が評判 ひょうばん となり、人気 にんき を博 はく した[31] 。
他方 たほう 、広目屋 ひろめや は、大阪 おおさか 出身 しゅっしん の秋田 あきた 柳 やなぎ 吉 きち が上京 じょうきょう した1888年 ねん に八重洲 やえす で起業 きぎょう した会社 かいしゃ の屋号 やごう で[32] [33] [34] [35] 、仮名垣魯文 かながきろぶん の命名 めいめい による[36] [37] [38] 。広目屋 ひろめや は広告 こうこく 代理 だいり 店 てん 、装飾 そうしょく 宣伝 せんでん 業 ぎょう の先駆 さきが けとなるほか、新聞 しんぶん を発行 はっこう したり、活動 かつどう 写真 しゃしん [39] や川上 かわかみ 音二郎 おとじろう の芝居 しばい など興行 こうぎょう 全般 ぜんぱん に手 て を広 ひろ げた[40] 。
その一環 いっかん として、宣伝 せんでん のための楽隊 がくたい を組織 そしき したため、楽隊 がくたい を用 もち いた路上 ろじょう 広告 こうこく を一般 いっぱん に広目屋 ひろめや と呼 よ ぶようになった[41] 。
西洋 せいよう 楽器 がっき による街頭 がいとう 演奏 えんそう は、軍楽隊 ぐんがくたい による行事 ぎょうじ ・式典 しきてん での演奏 えんそう の他 ほか 、1887年 ねん 前後 ぜんこう から民間 みんかん にも興 おこ り、明治 めいじ 20年 ねん に結成 けっせい された東京 とうきょう 市 し 中 ちゅう 音楽 おんがく 隊 たい が最初 さいしょ の民間 みんかん 吹奏楽 すいそうがく 団 だん とされるが、1885年 ねん のチェリネ曲馬 きょくば 団 だん の来日 らいにち など外国 がいこく の楽隊 がくたい の宣伝 せんでん 演奏 えんそう 、1886年 ねん に喇叭 らっぱ を用 もち いた用品 ようひん 店 てん の広告 こうこく などの例 れい がある。
楽隊 がくたい は軍歌 ぐんか の流行 りゅうこう や出征 しゅっせい 軍人 ぐんじん を送 おく る機会 きかい の増大 ぞうだい のため日 にち 清 しん 戦争 せんそう を境 さかい に流行 りゅうこう し、以後 いご 、活動 かつどう 写真 しゃしん やサーカス の巡業 じゅんぎょう 、煙草 たばこ や歯磨 はみが き などの大 だい 規模 きぼ な楽隊 がくたい 広告 こうこく が行 おこな われ、地方 ちほう にも楽隊 がくたい 広告 こうこく は広 ひろ まっていった[42] 。1911年 ねん にライオン歯磨 はみがき を宣伝 せんでん した小林商店 こばやししょうてん は、100本 ほん 以上 いじょう の幟 のぼり を掲 かか げて東海 とうかい ・北陸 ほくりく 地方 ちほう へ広告 こうこく 隊 たい を送 おく り出 だ している[29] 。
楽隊 がくたい 広告 こうこく は、1889年 ねん 、広目屋 ひろめや がキリンビール の宣伝 せんでん を請 う け負 お い、大阪 おおさか ・中之島 なかのしま のホテル自由 じゆう 亭 てい の音楽 おんがく 隊 たい を派遣 はけん したのをきっかけに大阪 おおさか でも取 と り入 い れられるようになる[40] [43] 。1890年 ねん には九里 くのり 丸 まる も「滑稽 こっけい 鳴 な り物入 ものい り路傍 ろぼう 広告 こうこく 業 ぎょう 」と称 しょう して古 ふる い着物 きもの を軍服 ぐんぷく 風 ふう に仕立 した て直 なお し、喇叭 らっぱ 、太鼓 たいこ 、鉦 かね などを用 もち いて宣伝 せんでん を行 おこな うようになった[44] 。九里 くのり 丸 まる は、日 にち 清 しん 戦争 せんそう では「大 だい 日本 にっぽん 大勝 たいしょう 栗 ぐり 」と幟 のぼり を立 た てて栗 ぐり 型 がた のカンパン を売 う り、売上 うりあげ の一部 いちぶ を軍資金 ぐんしきん として寄付 きふ [45] 、1899年 ねん には半井 なからい 桃水 とうすい の新聞 しんぶん 小説 しょうせつ 『根上 ねあ がり松 まつ 』を片岡 かたおか 我 わが 当 とう が芝居 しばい 化 か する際 さい に、無償 むしょう で宣伝 せんでん するかわりに譲 ゆず り受 う けた羽織 はおり を纏 まつわ って10人 にん の囃子 はやし を引 ひ き連 つ れて仁 ひとし 輪 はなわ 加 か を演 えん じるなどして評判 ひょうばん を呼 よ んだ[46] 。
広目屋 ひろめや の秋田 あきた の誘 さそ いに応 おう じて上京 じょうきょう し、広告 こうこく 行列 ぎょうれつ の中 なか で忠臣蔵 ちゅうしんぐら を披露 ひろう したこともある[47] 。
また一方 いっぽう で、広目屋 ひろめや から独立 どくりつ した福徳 ふくとく 組 ぐみ の高坂 こうさか 金次郎 きんじろう は、大阪 おおさか で人気 にんき があった浪花 なにわ 囃子 ばやし を取 と り入 い れ、東 ひがし 囃子 ばやし を編成 へんせい した[48] 。
九里 くのり 丸 まる が鳴物 なりもの ・楽隊 がくたい の導入 どうにゅう を進 すす める一方 いっぽう で、先達 せんだつ となる勇 いさむ 亀 ひさし は太鼓 たいこ や楽隊 がくたい には否定 ひてい 的 てき であり[49] 、また九里 くのり 丸 まる と並 なら び称 しょう されたさつま屋 や いも助 すけ も[50] 、三味線 しゃみせん 、太鼓 たいこ を鳴 な らすにとどまり、口上 こうじょう を重 おも んじる東西屋 とうざいや の流 なが れも存在 そんざい した[51] 。
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "チンドン屋 や " – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2021年 ねん 3月 がつ )
大正 たいしょう 期 き の低迷 ていめい と戦前 せんぜん ・昭和 しょうわ 期 き の繁栄 はんえい [ 編集 へんしゅう ]
株 かぶ の暴落 ぼうらく や広告 こうこく 取締 とりしまり 法 ほう の施行 しこう などで、大 だい 規模 きぼ な広告 こうこく 楽隊 がくたい ・広告 こうこく 行列 ぎょうれつ は明治 めいじ 40年代 ねんだい に入 はい って低迷 ていめい し、かわって新聞 しんぶん ・雑誌 ざっし などの広告 こうこく が盛 さか んとなり、大正 たいしょう 期 き には飛行機 ひこうき を使 つか った宣伝 せんでん やネオンサイン も登場 とうじょう した[52] 。この事 こと から、明治 めいじ 末 まつ から大正 たいしょう 期 き にかけてを「暗黒 あんこく 期 き 」とする意見 いけん もある。 [誰 だれ ? ]
代表 だいひょう 的 てき な娯楽 ごらく となった活動 かつどう 写真 しゃしん では、映画 えいが 館 かん が楽士 がくし を抱 かか えてオーケストラ や和洋 わよう 合奏 がっそう 団 だん を結成 けっせい し、呼 よ び込 こ みのための楽隊 がくたい を雇 やと った。
活動 かつどう 写真 しゃしん や芝居 しばい 、サーカス の巡業 じゅんぎょう では、楽隊 がくたい が先頭 せんとう を切 き って登場 とうじょう し、また宣伝 せんでん のために街 まち を廻 まわ った。
大正 たいしょう 初 はじ め頃 ごろ に囃子 はやし 隊 たい を結成 けっせい して、寄席 よせ などで演奏 えんそう しつつ、宣伝 せんでん 業 ぎょう を手掛 てが ける者 もの が現 あらわ れ、1917年 ねん には「一人 ひとり で太鼓 たいこ と鐘 かね を叩 たた いて背 せ に広告 こうこく の旗 はた を立 た てて囃 はや し立 た てて居 い る広告 こうこく や」があったという記録 きろく がある[54] 。ひとりで複数 ふくすう の打楽器 だがっき を演奏 えんそう するためにチンドン太鼓 たいこ が考案 こうあん されたのは大正 たいしょう 中期 ちゅうき だとされる。遅 おそ くとも1925年 ねん には鉦 かね ・太鼓 たいこ ・銅鑼 どら を組 く み合 あ わせ、花 はな 柄 がら の衣装 いしょう を纏 まつわ った「東西屋 とうざいや 」が存在 そんざい したことが写真 しゃしん によって明 あき らかとなっている[56] 。チンドン太鼓 たいこ は、1937年 ねん 頃 ごろ に大阪 おおさか にも登場 とうじょう した[57] 。
大正 たいしょう 期 き のチンドン屋 や は口上 こうじょう を主体 しゅたい とし、寄席 よせ の芸人 げいにん からの流入 りゅうにゅう 、また、その周辺 しゅうへん に位置 いち した三味線 しゃみせん 弾 び きによって形成 けいせい され[58] [59] 、関東大震災 かんとうだいしんさい 後 のち には物売 ものうり 業 ぎょう からの流入 りゅうにゅう があったと推察 すいさつ される[60] 。
商店 しょうてん 開店 かいてん 祝 いわ いでのチンドン屋 や 。1935年 ねん 頃 ごろ 。現 げん 山梨 やまなし 県 けん 都留 つる 市 し 。
この時期 じき には、旗持 はたもち が独特 どくとく の踊 おど りをしながら歩 ある くこともあった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
やや遅 おく れて、衰退 すいたい に向 む かったジンタ の管楽器 かんがっき 奏者 そうしゃ を加 くわ えた形態 けいたい が大正 たいしょう 末 まつ 頃 ごろ から増 ふ え始 はじ め、トーキー の登場 とうじょう を機 き に失職 しっしょく した映画 えいが 館 かん 楽士 がくし が流入 りゅうにゅう し[61] [62] 、管楽器 かんがっき 入 はい り編成 へんせい が定着 ていちゃく する[63] 。
この他 ほか 、紙芝居 かみしばい や村芝居 むらしばい などからの流入 りゅうにゅう があり
[64] 、
前者 ぜんしゃ はゴロス、後者 こうしゃ は鬘 かずら などの導入 どうにゅう に繋 つな がったと思 おも われる[65] 。
こうした転身 てんしん 者 しゃ 、とりわけ役者 やくしゃ や芸人 げいにん からの転身 てんしん 者 しゃ はチンドン屋 や として生計 せいけい を立 た てることに執着 しゅうちゃく せず、他 た に条件 じょうけん のよい職業 しょくぎょう があれば廃業 はいぎょう しても構 かま わないと考 かんが えており、芸 げい への執着 しゅうちゃく が希薄 きはく であった。したがってこの時期 じき のチンドン屋 や がみせたパフォーマンスは素人 しろうと 芸 げい の水準 すいじゅん にとどまる場合 ばあい も多 おお かったとされる。
文明開化 ぶんめいかいか の時代 じだい においては、東京 とうきょう の商店 しょうてん 主 ぬし が西洋 せいよう 音楽 おんがく と軍楽隊 ぐんがくたい 退役 たいえき 者 しゃ を結 むす び付 つ け、小 ちい さなブラスバンド 「市中 しちゅう 音楽 おんがく 隊 たい 」を作 つく り(「楽隊 がくたい 」、「ジンタ」とも呼 よ ばれた)、運動会 うんどうかい など祭事 さいじ の宣伝 せんでん を行 おこな いはじめた。当時 とうじ は芸術 げいじゅつ としての音楽 おんがく に重 おも きを置 お いたものであったが、これに目 め を付 つ けた秋田 あきた 柳 やなぎ 吉 きち が、本格 ほんかく 的 てき な宣伝 せんでん 業者 ぎょうしゃ に高 たか めていった[67] 。
戦前 せんぜん の全盛期 ぜんせいき は1933年 ねん から38年 ねん 頃 ころ とされる。1936年 ねん 、鳩山 はとやま 一郎 いちろう (戦後 せんご 、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん )とテキ屋 や 出身 しゅっしん の市議会 しぎかい 議員 ぎいん 倉持 くらもち 忠助 ちゅうすけ が選挙 せんきょ における票 ひょう の取 と りまとめに利用 りよう しようとチンドン屋 や の組合 くみあい (帝都 ていと 音楽 おんがく 囃子 ばやし 広告 こうこく 業 ぎょう 組合 くみあい )を作 つく ったが、その会員 かいいん 数 すう は3000人 にん に及 およ んだという[69] [† 6] 。
1941年 ねん になると、チンドン屋 や および各種 かくしゅ 大道芸 だいどうげい は禁止 きんし された[71] 。
戦後 せんご 復興 ふっこう 期 き の流行 りゅうこう と高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き の衰退 すいたい [ 編集 へんしゅう ]
戦後 せんご の復興 ふっこう の中 なか で、チンドン屋 や は勢 いきお いを取 と り戻 もど した[72] 。大 だい 規模 きぼ な広告 こうこく 展開 てんかい が困難 こんなん な状況 じょうきょう であった中 なか で、少 しょう 人数 にんずう ・小規模 しょうきぼ で小回 こまわ りが利 き くチンドン屋 や の営業 えいぎょう 形態 けいたい が時代 じだい に合 あ っていたこと[73] 、陽気 ようき な音楽 おんがく や派手 はで な衣装 いしょう が求 もと められたことなどが理由 りゆう として挙 あ げられる。特 とく に関東 かんとう ではパチンコ店 てん からの仕事 しごと が多 おお かった[74] 。
1950年 ねん にはチンドン屋 や 人口 じんこう は2500人 にん に及 およ んだとされる[74] 。
昭和 しょうわ 20年代 ねんだい 後半 こうはん には、もともと忙 いそが しい時期 じき が異 こと なるために人的 じんてき 交流 こうりゅう があったサーカス関係 かんけい 者 しゃ や[75] 、映画 えいが におされて芝居 しばい 小屋 こや が縮小 しゅくしょう したため、旅役者 たびやくしゃ もチンドン界 かい に流入 りゅうにゅう した[72] 。
チンドンのコンクール も開催 かいさい されるようになった。東京 とうきょう の新橋 しんばし で1950年 ねん に行 おこな われたのが最初 さいしょ で、昭和 しょうわ 30年代 ねんだい には、東京 とうきょう 都内 とない 、前橋 まえばし 、沼津 ぬまづ 、姫路 ひめじ 、伊勢 いせ 、函館 はこだて 、彦根 ひこね など、全国 ぜんこく 各地 かくち でチンドンコンクールが開催 かいさい された。多 おお くのコンクールは継続 けいぞく しなかったが、1955年 ねん に始 はじ まった[76] 富山 とやま での「全国 ぜんこく チンドンコンクール(1965年 ねん に全日本 ぜんにほん チンドンコンクール に改称 かいしょう )」は、2019年 ねん まで継続 けいぞく して開催 かいさい された(2011年 ねん は東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい のため、2020年 ねん から2022年 ねん までは新型 しんがた コロナウイルス のため中止 ちゅうし )。このコンクールは、全体 ぜんたい を統括 とうかつ する組織 そしき がない中 なか で、業界 ぎょうかい を「緩 ゆる やかにつなぐ」役割 やくわり を果 は たしている[77] 。
前年 ぜんねん に富山 とやま 産業 さんぎょう 大 だい 博覧 はくらん 会 かい を終 お え、一時 いちじ 的 てき に消費 しょうひ が冷 ひ え込 こ んだ地元 じもと 商店 しょうてん 街 がい の活性 かっせい 化 か と、観光 かんこう 客 きゃく を招 まね くため富山 とやま の宣伝 せんでん を企図 きと して、富山 とやま 市 し と富山 とやま 商工 しょうこう 会議 かいぎ 所 しょ が主催 しゅさい の「桜 さくら まつり」の催 もよお しとして始 はじ まり、42のチンドン屋 や が参加 さんか 、平日 へいじつ 昼間 ひるま に行 おこな われたパレードには8万 まん 人 にん が集 あつ まった[78] 。
「全日本 ぜんにほん チンドンコンクール」の記録 きろく では、1955年 ねん の第 だい 1回 かい に42団体 だんたい が参加 さんか 、以後 いご 団体 だんたい 数 すう は50前後 ぜんこう を推移 すいい するが1972年 ねん から下降 かこう を始 はじ め、1981年 ねん には18団体 だんたい まで減少 げんしょう する。その一方 いっぽう で、素人 しろうと チンドンコンクールも始 はじ まり、そこからプロのチンドンマンに転進 てんしん するものもみられ、その後 ご プロ部門 ぶもん では30組 くみ 前後 ぜんこう の団体 だんたい が出場 しゅつじょう している。
1960年 ねん 半 なか ば頃 ごろ からは、テレビ の普及 ふきゅう などもあり、チンドン屋 や は「古 ふる くさい」ものとなってしまう[79] 。
さらに昭和 しょうわ 30年代 ねんだい 頃 ごろ からスピーカー を通 とお した宣伝 せんでん 広告 こうこく が音響 おんきょう 上 じょう の脅威 きょうい となり、加 くわ えて自動車 じどうしゃ の交通 こうつう 量 りょう が増加 ぞうか し商店 しょうてん 街 がい や横丁 よこちょう をも通行 つうこう するようになったことで、都市 とし においてチンドン屋 や が活動 かつどう できる空間 くうかん は狭 せば まった。
昭和 しょうわ 40年 ねん 頃 ごろ から衰退 すいたい を見 み せはじめ、1973年 ねん の石油 せきゆ ショック以後 いご 急激 きゅうげき に数 かず を減 へ らし、数 すう 百 ひゃく 人 にん 程度 ていど にまで落 お ち込 こ んだが、
仕事 しごと 自体 じたい は減 へ っていなかったという証言 しょうげん も多 おお い[82] 。
大阪 おおさか のちんどん通信 つうしん 社 しゃ と『東京 とうきょう チンドン』[ 編集 へんしゅう ]
(ビデオ) チンドン屋 や 、早稲田大学 わせだだいがく の卒業 そつぎょう 式 しき で(2015年 ねん )
1989年 ねん の昭和 しょうわ 天皇 てんのう 崩御 ほうぎょ による自粛 じしゅく ムードは、ほぼ1年間 ねんかん チンドン屋 や の営業 えいぎょう を不可能 ふかのう にさせたという[79] [83] 。
しかし、1980年代 ねんだい 後半 こうはん から、「古 ふる くさいもの」「懐 なつ かしいもの」ではないチンドン屋 や へのアプローチが始 はじ まった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
大阪 おおさか では、1984年 ねん に林 はやし 幸治 こうじ 郎 ろう がリーダーとして個人 こじん 商店 しょうてん 「ちんどん通信 つうしん 社 しゃ 」を旗揚 はたあ げ[84] [85] 。林 はやし は立命館大学 りつめいかんだいがく 出身 しゅっしん であり、マスコミから「学士 がくし ちんどん屋 や 」と取 と り上 あ げられた[86] 。なお、1995年 ねん には法人 ほうじん 化 か して有限 ゆうげん 会社 かいしゃ 東西屋 とうざいや となったが、引 ひ き続 つづ き「ちんどん通信 つうしん 社 しゃ 」名 めい で活動 かつどう を継続 けいぞく している[87] 。
東京 とうきょう では、じゃがたら などで活動 かつどう していた篠田 しのだ 昌 あきら 已 やめ [88] 、A-musikやルナパーク・アンサンブルで活動 かつどう していた大熊 おおくま ワタル らが、高田 たかだ 宣伝 せんでん 社 しゃ で楽士 がくし としてチンドン演奏 えんそう をはじめ、記録 きろく として『東京 とうきょう チンドンVol.1 』を録音 ろくおん した[88] 。篠田 しのだ はコンポステラを結成 けっせい し、音楽家 おんがくか としてチンドンで奏 かな でられる音楽 おんがく を取 と り入 い れる試 こころ みを続 つづ けるが、1992年 ねん に急逝 きゅうせい する。大熊 おおくま は、ソウル・フラワー・ユニオン (ソウル・フラワー・モノノケ・サミット )と共 とも に震災 しんさい 後 ご の神戸 こうべ などでも活動 かつどう し、雑誌 ざっし などでもチンドンに関 かん する記事 きじ を執筆 しっぴつ している。また、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット による、チンドン・アレンジのライヴ活動 かつどう やCDリリース(『アジール・チンドン 』『レヴェラーズ・チンドン 』『デラシネ・チンドン 』)が、若年 じゃくねん 層 そう にチンドンを広 ひろ めることにもなった。
これら新 しん 世代 せだい の活動 かつどう はチンドンの存在 そんざい を若 わか い世代 せだい に伝 つた え、既存 きそん 業者 ぎょうしゃ の高齢 こうれい 化 か [89] と相 あい まって、チンドン業界 ぎょうかい へ若 わか い人材 じんざい が参入 さんにゅう する流 なが れが生 う まれた。2001年 ねん に全国 ぜんこく のチンドン屋 や の数 かず は150人 にん ほどとされる[90] 。商店 しょうてん の宣伝 せんでん が主要 しゅよう な仕事 しごと とはいえ、大 だい 企業 きぎょう のキャンペーンや町 まち おこしのイベント、結婚式 けっこんしき など、賑 にぎ やかな雰囲気 ふんいき 作 づく りのために呼 よ ばれることも増 ふ え、特 とく に若手 わかて とされるチンドン屋 や はパフォーマンスを営業 えいぎょう 案内 あんない に含 ふく めることも多 おお い[91] [92] [93] 。CDを発売 はつばい する取 と り組 く みなども見 み られる[94] 。
2000年 ねん に、林 はやし と東京 とうきょう の高田 たかだ 洋介 ようすけ はちんどん博覧 はくらん 会 かい を始 はじ めた。富山 とやま のチンドン・コンクールによってチンドン屋 や 業界 ぎょうかい の交流 こうりゅう はあるが、組織 そしき 化 か がなされていないことの打開 だかい を企図 きと したもので[90] [95] 、林 はやし らによるとその趣旨 しゅし は若手 わかて が中心 ちゅうしん となって実験 じっけん 的 てき なパフォーマンスを行 おこな ったり、チンドン屋 や の存在 そんざい を世間 せけん にアピールすることにある[96] 。年 とし に1回 かい のペースで東京 とうきょう 、大阪 おおさか 、福岡 ふくおか 、東京 とうきょう と会場 かいじょう を移 うつ し、数 すう 年 ねん の間 あいだ をおいて2007年 ねん にも東京 とうきょう で開催 かいさい されている。
チンドン屋 や は路上 ろじょう で行 おこな われる音声 おんせい 広告 こうこく であり、歩 ある く野立 のだち て看板 かんばん もしくはポスター ・POP広告 こうこく であり、広告 こうこく 請負 うけおい 業 ぎょう でもある[† 7] 。
パン売 うり 鈴木 すずき 春風 はるか (1851 - 1913)の写本 しゃほん 『世 よ 渡 わたり 風俗 ふうぞく 図会 ずえ 』から。 大伏 おおふし 肇 はじめ 『資料 しりょう が語 かた る近代 きんだい 日本 にっぽん 広告 こうこく 史 し 』東京 とうきょう 堂 どう 出版 しゅっぱん 、1990からスキャン
音声 おんせい 広告 こうこく は、売 う り声 ごえ ・かけ声 ごえ および鳴物 なりもの などの使用 しよう による広告 こうこく の総称 そうしょう で、中世 ちゅうせい の行商 ぎょうしょう 人 じん や大原女 おはらめ にさかのぼる[98] 。江戸 えど 中期 ちゅうき にはさまざまな工夫 くふう がこらされるようになり、文化 ぶんか ・文政 ぶんせい 期 き の引札 ひきふだ には口上 こうじょう が記録 きろく されることが多 おお くなり、明和 めいわ 6年 ねん の引札 ひきふだ には「トウザイトウザイ」の表現 ひょうげん も現 あらわ れる[99] 。こうした口上 こうじょう は、歌舞伎 かぶき にも取 と り上 あ げられた[100] 。売声 うりごえ だけでなく、派手 はで な衣装 いしょう で歌 うた や踊 おど りを披露 ひろう し[101] 、鉦 かね やチャルメラ で個性 こせい を出 だ した[102] 。飴 あめ 売 うり がその声 こえ を売 う り物 もの として東西屋 とうざいや となり[101] 、依頼 いらい を受 う けて楽器 がっき 演奏 えんそう を行 おこな う民間 みんかん 吹奏 すいそう 楽隊 がくたい と結 むす びついてチンドン屋 や の母体 ぼたい となったと言 い える[62] 。広目屋 ひろめや の秋田 あきた と東西屋 とうざいや の九里 くのり 丸 まる は実際 じっさい に交流 こうりゅう があり、大 だい 規模 きぼ な楽隊 がくたい 広告 こうこく では口上 こうじょう 役 やく と楽隊 がくたい をそれぞれに依頼 いらい し、共同 きょうどう 作業 さぎょう を行 おこな った[43] 。
屋外 おくがい 広告 こうこく は明治 めいじ 10年代 ねんだい から活発 かっぱつ 化 か の兆候 ちょうこう を見 み せており[103] 、東西屋 とうざいや 、広目屋 ひろめや の系譜 けいふ に連 つら ならない音声 おんせい 広告 こうこく としては、明治 めいじ 19年 ねん の日本橋 にほんばし 中嶋 なかじま 座 ざ の正月 しょうがつ 公演 こうえん 「大 だい 鼓 こ 曲 きょく 獅子 しし 」(おおつづみまがりじし)の錦絵 にしきえ に太鼓 たいこ を抱 かか えて西洋 せいよう 菓子 かし の宣伝 せんでん をする姿 すがた が描 えが かれているものがあり[104] 、大正 たいしょう 期 き には一人 ひとり で喇叭 らっぱ を吹 ふ き太鼓 たいこ を鳴 な らして宣伝 せんでん をするオイチニの薬 くすり 売 うり などがあった[105] 。
明治 めいじ 初期 しょき の広告 こうこく 手段 しゅだん は、引札 ひきふだ が中心 ちゅうしん で、1877年 ねん 頃 ごろ から新聞 しんぶん 広告 こうこく が増加 ぞうか する[106] 。当初 とうしょ 時事 じじ 新聞 しんぶん 専業 せんぎょう の広告 こうこく 代理 だいり 店 てん として三 さん 世 せい 社 しゃ らが起 お こり、1884年 ねん に複数 ふくすう の新聞 しんぶん を手掛 てが ける代理 だいり 店 てん 業 ぎょう に広目屋 ひろめや も参入 さんにゅう した[107] 。規模 きぼ は異 こと なるにしても、ほぼ並行 へいこう して広告 こうこく を請負 うけお う事業 じぎょう がはじまっていることになる[106] 。明治 めいじ 後半 こうはん の楽隊 がくたい 広告 こうこく は大 だい 規模 きぼ 化 か し、楽士 がくし の派遣 はけん 業 ぎょう も成立 せいりつ したが、昭和 しょうわ 期 き に至 いた るまで口上 こうじょう を主体 しゅたい とする宣伝 せんでん 業 ぎょう は個人 こじん での事業 じぎょう が中心 ちゅうしん であった。
引札 ひきふだ や新聞 しんぶん 広告 こうこく のほか、昭和 しょうわ に入 はい って野外 やがい 広告 こうこく 板 ばん 、アドバルーン やネオン管 かん によるビル などの広告 こうこく が登場 とうじょう し、チンドン屋 や は地域 ちいき 密着 みっちゃく 型 がた になっていったとされる[108] 。古 ふる くは、九里 くのり 丸 まる が質屋 しちや の宣伝 せんでん を請 う け負 お った際 さい に大通 おおどお りではなく路地 ろじ を回 まわ って成功 せいこう した例 れい があり、小規模 しょうきぼ な業務 ぎょうむ 形態 けいたい で限定 げんてい 的 てき な地域 ちいき での宣伝 せんでん については対 たい 費用 ひよう 効果 こうか が高 たか かったことは戦後 せんご の復興 ふっこう の中 なか で最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた理由 りゆう の一 ひと つである[109] 。
類似 るいじ した広告 こうこく 請負 うけおい の形態 けいたい としては、ジンタ (ヂンタ)[110] 、サンドイッチマン がある[111] 。ジンタは広告 こうこく 楽隊 がくたい 、特 とく に映画 えいが やサーカスの呼 よ び込 こ みの楽隊 がくたい を指 さ し、大正 たいしょう 期 き から隠語 いんご として存在 そんざい し昭和 しょうわ 初期 しょき から徳川 とくがわ 夢 ゆめ 声 ごえ が漫談 まんだん などで用 もち いるようになって広 ひろ まった[112] 。徳川 とくがわ や堀内 ほりうち 敬三 けいぞう は、5人 にん 程度 ていど の規模 きぼ の楽隊 がくたい を指 さ すものとしてこの語 かたり を用 もち い、その衰退 すいたい を嘆 なげ くが、ジンタの演奏 えんそう 家 か がチンドン屋 や に流入 りゅうにゅう し、管楽器 かんがっき を含 ふく むチンドン屋 や が普及 ふきゅう する時期 じき とジンタの語 かたり が広 ひろ まった時期 じき が重 かさ なるため、両者 りょうしゃ が同一 どういつ 視 し されることもあった[110] [113] [114] 。加太 かだ こうじ によると、明治 めいじ 末 まつ から大正 たいしょう にかけてまではチンドン屋 や からの依頼 いらい で小 しょう 編成 へんせい の楽隊 がくたい 、つまりジンタが演奏 えんそう を行 おこな うことがあった。そうした関係 かんけい は楽士 がくし がサイレント映画 えいが の伴奏 ばんそう を行 おこな うようになって解消 かいしょう したが、映画 えいが がトーキーへ移行 いこう すると、職 しょく にあぶれた楽士 がくし たちが再 ふたた びチンドン屋 や と手 て を組 く み、あるいはチンドン屋 や を開業 かいぎょう するようになった。サンドイッチマンは、明治 めいじ 19年 ねん に既 すで に現 あらわ れ[116] 、戦後 せんご も週刊 しゅうかん 誌 し を賑 にぎ わせた。音楽 おんがく や口上 こうじょう を伴 ともな わず特別 とくべつ な技能 ぎのう を必要 ひつよう としない点 てん で異 こと なるが、街頭 がいとう 宣伝 せんでん ということで共通 きょうつう する。
口上 こうじょう
宣伝 せんでん すべき内容 ないよう を伝 つた える役割 やくわり として重視 じゅうし され、親方 おやかた が担 にな うことが多 おお い[5] 。
飴 あめ 売 うり ほか物売 ものうり を祖 そ とすることに加 くわ え、昭和 しょうわ 初期 しょき には活動 かつどう 写真 しゃしん 館 かん の弁士 べんし 、芝居 しばい 役者 やくしゃ なども流入 りゅうにゅう したため、様々 さまざま なスタイルが混 ま じり合 あ っている[117] 。
化粧 けしょう と衣装 いしょう
支度 したく と呼 よ ぶ[118] 。多 おお くは白 しろ 塗 ぬり で、カツラを着 つ けた和装 わそう 、着 ちゃく 帽 ぼう での洋装 ようそう いずれにしても華美 かび な衣装 いしょう を纏 まと う[119] 。
初期 しょき は化粧 けしょう をせず、これは寄席 よせ 芸人 げいにん 出身 しゅっしん 者 しゃ がチンドンに流 なが れてきたためと考 かんが えられる[120] 。村芝居 むらしばい やサーカス出身 しゅっしん 者 しゃ が多 おお くチンドン屋 や 業界 ぎょうかい に流入 りゅうにゅう したことは歴史 れきし の節 ふし でも述 の べたが、カツラの着用 ちゃくよう は、東京 とうきょう では戦前 せんぜん からあったが、関西 かんさい では戦後 せんご に青空 あおぞら 宣伝 せんでん 社 しゃ がはじめた[121] 。
和装 わそう の場合 ばあい は、歌舞伎 かぶき 、大衆 たいしゅう 演劇 えんげき の役 やく どころを模 も し、洋装 ようそう の場合 ばあい はピエロ に扮 ふん することが多 おお いが、アニメ などのキャラクターを取 と り入 い れたり、着 き ぐるみを用 もち いることもある[122] 。
チンドンコンクールなどでは、大 おお がかりな扮装 ふんそう も見 み られ、象 ぞう や戦車 せんしゃ などを張 は りぼてで作 つく った例 れい もある[123] 。
寸劇 すんげき
路上 ろじょう で寸劇 すんげき を演 えん じることもあり、昭和 しょうわ 30年代 ねんだい 頃 ごろ には、10人 にん ほどでチャンバラ の立 た ち回 まわ りをすることもあった[124] 。
この他 ほか 、成人 せいじん の人形 にんぎょう を前 まえ に抱 かか え、背負 しょ われた子供 こども を演 えん じつつ人形 にんぎょう を操作 そうさ する「人形 にんぎょう 振 ふ り」など、独自 どくじ の芸 げい を持 も つ者 もの もいる[125] 。
編成 へんせい は、チンドン太鼓 たいこ 、楽士 がくし を基本 きほん として、3人 にん から5人 にん の編成 へんせい で、ゴロス(大 だい 太鼓 たいこ )、旗持 はたもち を伴 ともな うことも多 おお い[126] 。
手前 てまえ がゴロス、奥 おく はチンドン太鼓 たいこ 右手 みぎて 側 がわ
チンドン太鼓 たいこ 左手 ひだりて 側 がわ
チンドン太鼓 たいこ
チンドン太鼓 たいこ は、下座 げざ 音楽 おんがく で用 もち いられていた楽器 がっき である鉦 かね (当 あ たり鉦 かね )、締 しめ 太鼓 たいこ 、大 だい 胴 どう を組 く み合 あ わせて作 つく られ[127] 、
身体 しんたい に垂直 すいちょく となる向 む きで上 うえ に鉦 かね と締 しめ 太鼓 たいこ 、下 した に大 だい 胴 どう を木 き 枠 わく にはめ込 こ み、上部 じょうぶ に傘 かさ 、前部 ぜんぶ には屋号 やごう を書 か いた札 さつ を立 た てる形 かたち が一般 いっぱん 的 てき [128] 。締 しめ 太鼓 たいこ 、鉦 かね 、大 だい 胴 どう のサイズは小 ちい さめ[129] で、とくに締 しめ 太鼓 たいこ はチンドン屋 や 以外 いがい は用 もち いないといわれるほど小 ちい さい[128] 。ひもを肩 かた にかけ、身体 しんたい の前面 ぜんめん にチンドン太鼓 たいこ を固定 こてい する[128] 。
東京 とうきょう では、山 やま の手 て のチンドン屋 や は締 しめ 太鼓 たいこ を大 だい 胴 どう の下 した に地面 じめん に平行 へいこう な向 む きで固定 こてい していたのに対 たい し、下町 したまち では剣劇 けんげき を行 おこな いながら歩 ある くことが多 おお く、締 しめ 太鼓 たいこ を上部 じょうぶ に置 お くことになった[130] 。昭和 しょうわ 初期 しょき までは銅鑼 どら を用 もち いることもあった[131] 。大 だい 胴 どう と締 しめ 太鼓 たいこ を叩 たた く際 さい にはバチ、鉦 かね を叩 たた くには先端 せんたん に鹿 しか の角 かく を付 つ けた撞木 しゅもく を用 もち いる[132] 。リズムは細 こま かく、囃子 はやし に歩調 ほちょう のリズムが合成 ごうせい されて生 しょう じたものと考 かんが えられる。
ゴロス(大 だい 太鼓 たいこ )
ゴロスは、フランス語 ふらんすご の大 だい 太鼓 たいこ "grosse caisse"からの転 てん [134] 。ドラムと呼 よ ぶチンドン屋 や もいる[135] 。
フランス式 しき を採用 さいよう していた帝国 ていこく 陸軍 りくぐん の軍楽隊 ぐんがくたい の退役 たいえき 者 しゃ が、映画 えいが 館 かん などで楽士 がくし となり、この語 かたり が広 ひろ まったと推察 すいさつ される[135] 。
ゴロスは、紙芝居 かみしばい でも話 はなし の合 あい の手 て として用 もち いられており、戦後 せんご [136] 、紙芝居 かみしばい からチンドン屋 や へ転業 てんぎょう する際 さい に持 も ち込 こ まれたという意見 いけん がある[137] [138] [139] 。
チンドン屋 や のゴロス演奏 えんそう に特徴 とくちょう 的 てき な点 てん としては、左右 さゆう で用 もち いるバチの大 おお きさが異 こと なることが挙 あ げられる[139] 。
三 みっ つ打 だ 「ドン・ドン・ドン・(休 きゅう )」、七 なな つ打 だ 「ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・(休 きゅう )」といった単純 たんじゅん なリズムを繰 く り返 かえ すことが多 おお い[140] 。
楽士 がくし
主 おも に旋律 せんりつ を担当 たんとう する[141] 。
メロディを崩 くず して演奏 えんそう することが多 おお い[141] 。
楽器 がっき としては、昭和 しょうわ 初期 しょき あるいは戦前 せんぜん 期 き から戦後 せんご 間 あいだ もなくにかけては三味線 しゃみせん を使 つか うこともあったが、戦後 せんご 音量 おんりょう の大 おお きなゴロスが普及 ふきゅう すると、音量 おんりょう が小 ちい さい上 うえ に技量 ぎりょう を要 よう することが難点 なんてん となり[136] 、さらにマンボ など洋楽 ようがく リズムの流行 りゅうこう に伴 ともな い昭和 しょうわ 30年代 ねんだい はじめまでに衰退 すいたい し、次第 しだい に管楽器 かんがっき がほとんどを占 し めるようになった[143] 。
クラリネット 、サックス が用 もち いられることが多 おお く、トランペット あるいはコルネット も用 もち いられたが、次第 しだい に減少 げんしょう している[144] 。
楽士 がくし は特定 とくてい の親方 おやかた に属 ぞく する雇用 こよう 関係 かんけい を結 むす ぶこともあったが、依頼 いらい に応 おう じて編成 へんせい の大 おお きさを変 か える必要 ひつよう 性 せい もあり[145] 、仕事 しごと の都度 つど 依頼 いらい されたり派遣 はけん されたりする形 かたち をとることも多 おお い[145] 。
フリーの楽士 がくし は「出方 でかた 」と呼 よ ばれる[146] 。明治 めいじ 期 き より演奏 えんそう 家 か の派遣 はけん 業 ぎょう が存在 そんざい し、臨時 りんじ の要 よう に応 おう じて映画 えいが 館 かん 、サーカスや宣伝 せんでん を請 う け負 お い、見習 みなら いは宣伝 せんでん の町 まち 廻 まわ りをした[147] 。サーカスとチンドンの間 あいだ を行 い き来 き する楽士 がくし もいた[148] 。
昭和 しょうわ 初期 しょき にはトーキーの登場 とうじょう によって映画 えいが 館 かん を追 お われた演奏 えんそう 家 か 、戦後 せんご はサーカスから転身 てんしん してきた演奏 えんそう 家 か が、楽士 がくし としてチンドン業界 ぎょうかい に流入 りゅうにゅう したと言 い われている[149] 。1990年代 ねんだい 以降 いこう は、ジャズやロックのミュージシャンが楽士 がくし となることも多 おお い。
レパートリーの元 もと は、下座 げざ 音楽 おんがく 、軍歌 ぐんか ・行進曲 こうしんきょく 、映画 えいが 館 かん などの和洋 わよう 合奏 がっそう 、歌謡 かよう 曲 きょく などがある。客 きゃく を寄 よ せるための演奏 えんそう であるから、後 のち になってチンドン屋 や の演奏 えんそう 以外 いがい では耳 みみ にする機会 きかい が少 すく なくなった曲 きょく もあるが、その時代 じだい 時代 じだい に広 ひろ く知 し られた曲 きょく が取 と り込 こ まれる。無声 むせい 映画 えいが や寄席 よせ 太鼓 たいこ でも親 した しまれた「四 よん 丁目 ちょうめ 」「タケス(竹 たけ に雀 すずめ )」[150] など歌舞伎 かぶき 下座 げざ 音楽 おんがく から借用 しゃくよう したもの、「軍艦 ぐんかん マーチ 」「天然 てんねん の美 よし 」(美 うつく しき天然 てんねん )など国産 こくさん の軍歌 ぐんか ・行進曲 こうしんきょく などから採 と られたものは定番 ていばん 曲 きょく として演奏 えんそう され続 つづ けている[151] 。これらも取 と り入 い れられた時代 じだい には耳 みみ 馴染 なじ みのある音楽 おんがく であった。戦後 せんご になると、いわゆる歌謡 かよう 曲 きょく が演奏 えんそう されるようになる[152] [153] 。
下座 げざ 音楽 おんがく は、歌舞伎 かぶき や寄席 よせ の舞台 ぶたい で、御簾 みす や衝立 ついたて の陰 かげ で演奏 えんそう されるもので、季 き 節 ぶし や場所 ばしょ の雰囲気 ふんいき を出 だ したり、効果 こうか 音 おん を発 はっ したり、劇 げき 中 ちゅう の馬子 まご 唄 うた や獅子 しし 舞 まい などの伴奏 ばんそう をする[154] 。長唄 ながうた を中心 ちゅうしん とするが、清元 きよもと 、義太夫 ぎだゆう のほか、端 はし 唄 うた や新内 しんない 、神楽 かぐら 、念仏 ねんぶつ など必要 ひつよう なものは取 と り入 い れ、また奇抜 きばつ な試 こころ みも行 おこな われていた[155] 。当初 とうしょ 、寄席 よせ の囃子 はやし は上方 かみがた にのみ存在 そんざい したが、大正 たいしょう 期 き に東京 とうきょう の睦 むつみ 会 かい が取 と り入 い れ、定着 ていちゃく した[155] 。また、大衆 たいしゅう 演劇 えんげき にも採用 さいよう された。「四 よん 丁目 ちょうめ 」「竹 たけ に雀 すずめ (タケス)」「米 べい 洗 あら い」などは、下座 げざ 音楽 おんがく からチンドン屋 や のレパートリーとなった[155] 。
下座 げざ 音楽 おんがく の祭礼 さいれい 囃子 ばやし は、細 ほそ いバチで叩 たた くことで軽快 けいかい さを出 だ し、三味線 しゃみせん と合 あ わせる際 さい にリズムが強調 きょうちょう された。
演奏 えんそう の初 はじ めに鳴 な らされる「打 う ち出 だ し」は、出 で 囃子 ばやし から借用 しゃくよう されたもの[156] 。
軍歌 ぐんか は、日 にち 清 しん 戦争 せんそう 時 じ に流行 りゅうこう し、民間 みんかん 吹奏楽 すいそうがく 団 だん の主要 しゅよう なレパートリーとなった。軍楽隊 ぐんがくたい の田中 たなか 穂積 ほづみ 作曲 さっきょく による「天然 てんねん の美 び 」は、サーカスの楽隊 がくたい のレパートリーとして知 し られ、チンドン屋 や のレパートリーともなっている。海軍 かいぐん 軍楽隊 ぐんがくたい の瀬戸口 せとぐち 藤吉 とうきち が作曲 さっきょく した行進曲 こうしんきょく 「軍艦 ぐんかん 」は、「軍艦 ぐんかん マーチ 」として景気 けいき 付 づ けのために用 もち いられ、特 とく に戦後 せんご パチンコ店 てん の宣伝 せんでん に用 もち いられ一般 いっぱん 化 か した。このほか、「ドンドレミ」など、由来 ゆらい が不明 ふめい の行進曲 こうしんきょく もチンドン屋 や のレパートリーとして残 のこ っている。
「天然 てんねん の美 び 」や「軍艦 ぐんかん マーチ」は、映画 えいが 館 かん の呼 よ び込 こ みに用 もち いられたが、館内 かんない では伴奏 ばんそう のための楽団 がくだん があった[157] 。大正 たいしょう 末 まつ から流行 りゅうこう する時代 じだい 劇 げき では、ピアノ やサックスなどの洋楽 ようがく 器 き に三味線 しゃみせん や囃子方 はやしかた が加 くわ わる和洋 わよう 合奏 がっそう という編成 へんせい が主流 しゅりゅう になった[157] 。無声 むせい 映画 えいが 時代 じだい には下座 げざ 音楽 おんがく が流用 りゅうよう されたが、トーキー以降 いこう は、映画 えいが 会社 かいしゃ とレコード会社 かいしゃ が提携 ていけい して新曲 しんきょく を作 つく るようになる。チャンバラの流行 りゅうこう もあり、三味線 しゃみせん 音楽 おんがく の延長 えんちょう にある流行 りゅうこう 歌 か が多 おお く生 う まれ、和洋 わよう の楽器 がっき が混在 こんざい する編成 へんせい で伴奏 ばんそう された[158] 。「名月 めいげつ 赤城山 あかぎやま 」や「無法 むほう 松 まつ の一生 いっしょう 」「野崎 のさき 小唄 こうた 」などは、和洋 わよう 合奏 がっそう による映画 えいが の伴奏 ばんそう からチンドン屋 や のレパートリーとなったと思 おも われる[159] 。
歌謡 かよう 曲 きょく は、時代 じだい 時代 じだい に応 おう じて選曲 せんきょく され、曲 きょく としての知名度 ちめいど や曲調 きょくちょう のほか、テンポ、旋律 せんりつ などによって適 てき 不適 ふてき があると考 かんが えられる[160] 。
「チンドン屋 や 」が現 あらわ れる文学 ぶんがく 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
チンドン屋 や についての記録 きろく が少 すく ないことから、文学 ぶんがく 作品 さくひん に現 あらわ れる楽隊 がくたい 、東西屋 とうざいや 、広目屋 ひろめや 、チンドン屋 や の描写 びょうしゃ も資料 しりょう として扱 あつか われる。
代表 だいひょう 的 てき なものしては、創作 そうさく 作品 さくひん として、永井 ながい 荷風 かふう 「燈火 ともしび の巷 ちまた 」(1903)、室生 むろう 犀星 さいせい 「チンドン世界 せかい 」(1934)、江戸川 えどがわ 乱歩 らんぽ 「陰 かげ 獣 じゅう 」(1928)、武田 たけだ 麟太郎 りんたろう 「ひろめ屋 や の道 みち 」(1935)、幸田 こうだ 文 あや 「ちんどんや」(1954)、梅崎 うめさき 春生 はるお 「幻 まぼろし 化 か 」(1965)、黒岩 くろいわ 重 しげる 吾 われ 「朝 ちょう のない夜 よる 」(発表 はっぴょう 年 ねん 不明 ふめい )、平岩 ひらいわ 弓枝 ゆみえ 「チンドン屋 や の娘 むすめ 」(1982)、奈良 なら 裕明 ひろあき 『チン・ドン・ジャン』(1990)、エッセイとして田中 たなか 小 しょう 実 じつ 昌 あきら 「あのこはチンドン屋 や の娘 むすめ だった」(1979)、渋沢 しぶさわ 龍彦 たつひこ 「チンドン屋 や のこと」(1981)などがある。この他 ほか 、林 はやし 芙美子 ふみこ 「ちんどんやのおじさん」など、子供 こども 向 む けの作品 さくひん も多 おお い。軍国 ぐんこく 美談 びだん にも「チンドン屋 や 」が登場 とうじょう する作品 さくひん がある。
なお、林 はやし 芙美子 ふみこ の作品 さくひん を多数 たすう 映画 えいが 化 か したことでも知 し られる映画 えいが 監督 かんとく の成瀬 なるせ 巳喜男 みきお は、自身 じしん の作品 さくひん で何 なん 度 ど もチンドン屋 や を登場 とうじょう させた。物語 ものがたり への介入 かいにゅう はほとんどなく、その多 おお くはBGM としての扱 あつか いも兼 か ねているが、成瀬 なるせ 自身 じしん が強 つよ いこだわりを持 も って登場 とうじょう させていたという。
チンドン屋 や についての考察 こうさつ は、紙芝居 かみしばい 出身 しゅっしん で『思想 しそう の科学 かがく 』に参画 さんかく した加太 かだ こうじ が1980年 ねん にまとめた『下町 したまち の民俗 みんぞく 学 がく 』『東京 とうきょう の原 はら 像 ぞう 』が早 はや く、以後 いご チンドン屋 や のイメージを形成 けいせい したと言 い える。加太 かぶと は、紙芝居 かみしばい 屋 や 時代 じだい の体験 たいけん を基 もと にチンドン屋 や の様態 ようたい を記述 きじゅつ した。
次 つ いで、ルポライター の朝倉 あさくら 喬司 たかし が1983年 ねん に『ミュージック・マガジン』の連載 れんさい 「日本 にっぽん の芸能 げいのう 一 いち 〇〇年 ねん 」でチンドン屋 や を取 と り上 あ げる。
朝倉 あさくら は、チンドンを大道芸 だいどうげい の流 なが れとして捉 とら え、テキ屋 や との関 かか わりなども意識 いしき しながら、チンドン屋 や の親方 おやかた ・楽士 がくし に取材 しゅざい をした。
広告 こうこく プランナー出身 しゅっしん の堀江 ほりえ 誠二 せいじ による『チンドン屋 や 始末 しまつ 記 き 』は、新書 しんしょ ながら飴 あめ 勝 しょう から戦後 せんご までのチンドン屋 や の歴史 れきし を概観 がいかん した最初 さいしょ の本 ほん である。
林 はやし 幸次郎 こうじろう 『ぼくたちのちんどん屋 や 日記 にっき 』『ちんどん屋 や です。』は、チンドン屋 や 稼業 かぎょう に飛 と び込 こ んだ体験 たいけん を記 しる し、またチンドン史 し や現代 げんだい におけるチンドン屋 や の役割 やくわり などについて考察 こうさつ を続 つづ けている。
音楽 おんがく 学者 がくしゃ の細川 ほそかわ 周平 しゅうへい は、西洋 せいよう 音楽 おんがく の輸入 ゆにゅう と土着 どちゃく 化 か という音楽 おんがく 的 てき な視点 してん でチンドン屋 や を捉 とら える試 こころ みを続 つづ けている。
音楽家 おんがくか の大熊 おおくま ワタル は、チンドン楽士 がくし としての活動 かつどう のなかで得 え た情報 じょうほう をまとめ、執筆 しっぴつ も行 おこな っている[161] 。
^ ただし、チンドン屋 や の定義 ていぎ については当事 とうじ 者 しゃ の間 あいだ でも意見 いけん が一致 いっち せず、必 かなら ずしも容易 ようい なことではないとされる[1] 。
^ 堀 ほり 悌吉 は山本 やまもと 五十六 いそろく にあてた手紙 てがみ の中 なか で太平洋戦争 たいへいようせんそう 開始 かいし 時 じ の大本営 だいほんえい 海軍 かいぐん 部 ぶ 報道 ほうどう 課長 かちょう であった平出 ひらで 英夫 ひでお を「チンドン屋 や 」と呼 よ んだ。(阿川 あがわ 弘之 ひろゆき 「新編 しんぺん 山本 やまもと 五十六 いそろく 」)
^ 増田 ますだ 太 ふとし 次郎 じろう は呼称 こしょう が生 う まれたのは大正 たいしょう 末 まつ 、現在 げんざい のチンドン屋 や の風俗 ふうぞく が形成 けいせい されたのは昭和 しょうわ 初期 しょき と推察 すいさつ する[13] 。用例 ようれい として細川 ほそかわ 『繁盛 はんじょう 記 き 』は1929年 ねん の塩入 しおいり 亀輔 かめすけ 『ジャズ』を挙 あ げ、『日本 にっぽん 国語 こくご 大 だい 辞典 じてん 』(第 だい 二 に 版 はん 、小学館 しょうがくかん 2001)は、1930年 ねん の細田 ほそだ 民樹 たみき 『真理 しんり の春 はる 』などを挙 あ げている。
^ 「空地 くうち に盛 さか り場 ば に明朗 めいろう な美 び を描 えが く、アドビル、アドバルーンなどいずれ劣 おと らぬ豪華 ごうか な競争 きょうそう 陣 じん ――近代 きんだい 都市 とし 広告 こうこく 」(大阪毎日新聞 おおさかまいにちしんぶん 1935.6.20)(未見 みけん 。堀江 ほりえ 『始末 しまつ 記 き 』に拠 よ る)には「映画 えいが 館 かん くづれのジンタをまじへたチンドン屋 や の踊 おど り」という表現 ひょうげん がある。
堀内 ほりうち 敬 たかし 三 さん 1977 も参照 さんしょう
^ 既 すで に述 の べた通 とお り、語彙 ごい としての「チンドン屋 や 」の用法 ようほう は明治 めいじ 初期 しょき からあるが、この実態 じったい は明 あき らかではない。日置 ひおき 『ものしり事典 じてん 』の「ちんどんや」の項 こう では、1885年 ねん に高坂 こうさか 金 きむ 兵衛 ひょうえ が「ひろめやという商売 しょうばい をはじめ一 いち 日 にち に百 ひゃく 人 にん くらいのルンペン を集 あつ めて行列 ぎょうれつ をつくり、先頭 せんとう と後部 こうぶ に旗 はた を立 た て、囃をなかに入 い れ、ドンチャンドンチャンと、主 しゅ として化粧 けしょう 品 ひん などの宣伝 せんでん をしたのがはじまりである」としている。石子 いしこ 順 じゅん 三 さん は『ガラクタ百科 ひゃっか 』の「チンドン屋 や 」の項 こう で、東西屋 とうざいや や広目屋 ひろめや を前身 ぜんしん として大正 たいしょう 元年 がんねん に「北沢 きたざわ 国松 くにまつ という曲芸 きょくげい 師 し が考案 こうあん したといわれているが、はっきりしない」と書 か いている。
^ この組合 くみあい は、創設 そうせつ 目的 もくてき が選挙 せんきょ 目当 めあ てであったことがあまりにも露骨 ろこつ であったため、ほどなく潰 つぶ れた[70] 。
^ 増田 ますだ 太 ふとし 次郎 じろう は「口上 こうじょう 広告 こうこく 」という表現 ひょうげん を用 もち いる[97] 。
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^ 堀江 ほりえ 1986, pp. 13-14.
^ この段落 だんらく は朝倉 あさくら 喬司 たかし 1991 , p. 52-。紅 べに 勘 かん は、高村 たかむら 光雲 こううん 「幕末 ばくまつ 維新 いしん 懐古 かいこ 談 だん 」などにも登場 とうじょう する
^ 大伏 おおふし 肇 はじめ 『資料 しりょう が語 かた る近代 きんだい 日本 にっぽん 広告 こうこく 史 し 』東京 とうきょう 堂 どう 出版 しゅっぱん 、1990よりスキャナーで採取 さいしゅ
^ 以下 いか 、大阪 おおさか の東西屋 とうざいや については朝倉 あさくら 喬司 たかし 1986 , pp. 142–155(『上方 かみがた 』を参考 さんこう にした記述 きじゅつ )、「大阪 おおさか の東西屋 とうざいや (東西屋 とうざいや の開祖 かいそ 栗 ぐり 丸 まる の談話 だんわ )」『広告 こうこく 大福帳 だいふくちょう 』(1905.1, pp. 25-31., 1905.2, pp. 11-17.)、奥村 おくむら 梅皐 ばいこう 『大阪 おおさか 人物 じんぶつ 管見 かんけん 』小谷 おたに 書店 しょてん 1903.6 pp.34-35などを参照 さんしょう した
^ 以下 いか 、広目屋 ひろめや 関係 かんけい については広目屋 ひろめや 「市中 しちゅう 音楽 おんがく 隊 たい の沿革 えんかく 」『音楽 おんがく 界 かい 』(1910/M43(9).pp49-50.)、池田 いけだ 辰五郎 たつごろう 述 じゅつ ・堀内 ほりうち 敬三 けいぞう 記 き 「民間 みんかん 吹奏楽 すいそうがく の創建 そうけん 秘史 ひし 」『音楽 おんがく 之 の 友 とも 』1942/2巻 かん 6号 ごう , pp. 34-39.、「秋田 あきた 柳 やなぎ 吉 よし 君 くん 閲歴 えつれき 談 だん 」『広告 こうこく 大福帳 だいふくちょう 』(1905.1, pp. 17-25)などを参照 さんしょう した
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^ 増田 ますだ 2011, pp. 77-78.。高坂 こうさか 金次郎 きんじろう をチンドン屋 や のはじまりとする資料 しりょう もある。
^ 堀江 ほりえ 1986, p. 68, 79
^ いも助 すけ については堀江 ほりえ 1986, pp. 83-96.
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^ 本節 ほんぶし の記述 きじゅつ は、主 おも に細川 ほそかわ 周平 しゅうへい 「チンドン・リズム・マシーン」に拠 よ る。
下座 げざ 音楽 おんがく については望月 もちづき 太 ふとし 意 い 之 の 助 すけ 『歌舞伎 かぶき 下座 げざ 音楽 おんがく 』演劇 えんげき 出版 しゅっぱん 社 しゃ 1975。ほか、カームラミツジ(ちんどん通信 つうしん 社 しゃ )「Let's Try!ちんどん太鼓 たいこ を演奏 えんそう しよう!」全国 ぜんこく ちんどん博覧 はくらん 会 かい 実行 じっこう 委員 いいん 会 かい 『第 だい 二 に 回 かい ちんどん博覧 はくらん 会 かい 公式 こうしき ガイドブック』pp.36-37.や『チンドンヤ』国立音楽大学 くにたちおんがくだいがく 音楽 おんがく 学 がく 学科 がっか 第 だい 18回 かい 研究 けんきゅう 発表 はっぴょう 会 かい 配付 はいふ 資料 しりょう 2002には、楽譜 がくふ を用 もち いた分析 ぶんせき がある
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松岡 まつおか 由衣 ゆい 「ちんどん屋 や の歴史 れきし 」『チンドンヤ』国立音楽大学 くにたちおんがくだいがく 音楽 おんがく 学 がく 学科 がっか 第 だい 18回 かい 研究 けんきゅう 発表 はっぴょう 会 かい 配付 はいふ 資料 しりょう 2002
増田 ますだ 太 ふとし 次郎 じろう 『引札 ひきふだ 絵 え ビラ風俗 ふうぞく 史 し 』新装 しんそう 版 ばん . 青蛙 あおがえる 房 ぼう . 2011(初版 しょはん は1981.)
室生 むろう 犀星 さいせい 「チンドン世界 せかい 」『性 せい に眼覚 めざ める頃 ころ 』(新潮社 しんちょうしゃ 1980, 新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ )
吉田 よしだ 絢子 あやこ 「ちんどん屋 や に対 たい するイメージの変化 へんか について」『チンドンヤ』国立音楽大学 くにたちおんがくだいがく 音楽 おんがく 学 がく 学科 がっか 第 だい 18回 かい 研究 けんきゅう 発表 はっぴょう 会 かい 配付 はいふ 資料 しりょう 2002
「大阪 おおさか の東西屋 とうざいや (東西屋 とうざいや の開祖 かいそ 栗 ぐり 丸 まる の談話 だんわ )」『広告 こうこく 大福帳 だいふくちょう 』(1905.1, pp. 25-31., 1905.2, pp. 11-17.)
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