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日本にっぽんのロック

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日本にっぽんのロック(にほんのロック、にっぽんのロック)では、日本にっぽんにおけるロックについて解説かいせつする。ロックの範囲はんいには様々さまざま定義ていぎかんがえられるが、ここではポップ・ミュージックなどもふくめたひろ意味いみでのロックをすこととする。

呼称こしょう

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1980年代ねんだい後半こうはんJ-POPという言葉ことばまれ、その派生はせいとしてJ-ROCKという言葉ことば使つかわれたとするネット記事きじ[1]あやまりで"J-ROCK"という言葉ことばは、カルメン・マキの1979ねんアルバム『ナイト・ストーカー』に収録しゅうろくされたきょくのタイトルにすで使つかわれている[2]。(詳細しょうさい後述こうじゅつ)。

1990年代ねんだいに、マーケット用語ようごとしてJ-ROCKという名称めいしょう使用しようしていたが、J-POPとはことなり、日本にっぽんでは浸透しんとうしなかった。本来ほんらいの「日本にっぽんのロックミュージック」という意味合いみあいとはことなる。CDレンタル業界ぎょうかいでは、J-ROCKというジャンルが使用しようされることもある。また、邦楽ほうがくロックくにロック)という呼称こしょうもちいられることもある[3]

歴史れきし

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ロカビリー・ブーム

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だい世界せかい大戦たいせん以後いご、1945ねんから1950年代ねんだい前半ぜんはんにかけて、進駐軍しんちゅうぐんつうじてアメリカのポピュラー音楽おんがく日本にっぽんまれた[4]。1955ねんにアメリカでだいヒットしたビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は同年どうねんにはダーク・ダックス江利えりチエミによってそれぞれべつ日本語にほんご訳詞やくしによってカバーされ、日本語にほんごでの最初さいしょのロックンロール・レコードともわれる[5]。1956ねんエルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」は小坂こさか一也かずやとワゴン・マスターズによってカバーされ、そのとしNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん出場しゅつじょうするまでになった[5]。1958ねんにはミッキー・カーチス平尾ひらおあきらあきら山下やましたたかし二郎じろうが「ロカビリーさんにんおとこ」としてされ、1958ねん2がつにはだい1かいにちげきウエスタンカーニバル開催かいさいされるなどロカビリー人気にんき本格ほんかくしていった[4]。しかし1959ねんにはカバーきょくよりもオリジナルきょくがヒットするようになり、また楽曲がっきょく歌謡かようきょくによりロカビリー・ブームは沈静ちんせいしていった[4]。 しかし、ロカビリーふう一部いちぶのこり、神奈川かながわけん横浜よこはまで1972ねん結成けっせいキャロル (バンド)や、1979ねん結成けっせい横浜よこはまぎんはえは1980年代ねんだいのバイクブームのなみをうけ活躍かつやくした。

テレビの普及ふきゅうとエレキ・ブーム

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1959ねん6がつにはフジテレビ音楽おんがく番組ばんぐみザ・ヒットパレード」の放送ほうそう開始かいしされる[4]。1960ねんニール・セダカの「こい片道かたみち切符きっぷ」をロカビリーさんにんおとこがカバーしたのを皮切かわきりに、1960年代ねんだいはいるとアメリカン・ドリームうたうアメリカの翻訳ほんやくティーン・ポップ隆盛りゅうせいとなった[4]。1962ねんにはチャビー・チェッカーのカバーした「ザ・ツイスト」からツイストがブームとなった[4]。1963ねんには坂本さかもときゅうの「うえいてあるこう」が「SUKIYAKI」のタイトルで全米ぜんべい1獲得かくとくした[4]

1964ねんには藤本ふじもと好一よしかずブルー・ジーンズ)がカバーしたアストロノウツの「太陽たいよう彼方かなた」や、はし幸夫ゆきお和製わせいサーフィン「こいをするなら」がヒットし、サーフィン・ブームとなった[4]。「パイプライン」「キャラバン」といったベンチャーズ演奏えんそうしたきょくもヒットし、かれらを真似まねエレキギター使つかったインスト・バンドが日本にっぽんにも多数たすう誕生たんじょうした[4]代表だいひょうてきなバンドとしては寺内てらうちタケシとブルージーンズ加山かやま雄三ゆうぞうザ・ランチャーズなどがある[4]

1964ねん開催かいさい東京とうきょうオリンピックわせて、あたらしいメディアであるテレビ急速きゅうそく普及ふきゅうした[4]。1965ねん1がつにはアストロノウツとベンチャーズの来日らいにち合同ごうどう公演こうえんおこなわれ、エレキ・ブームはおおいにがりをみせた[6]。1965ねん6がつよりフジテレビで「きエレキ合戦かっせん」の放送ほうそう開始かいしされ、ロックをにな若者わかもの育成いくせい一役ひとやくった[4]。1965ねんには加山かやま雄三ゆうぞう主演しゅえん映画えいがエレキのわか大将たいしょう』が公開こうかいされた[7]

フォークソング・ブーム

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1950年代ねんだい後半こうはんから1960年代ねんだい前半ぜんはんにかけて、アメリカでは伝統でんとうてきフォークソング社会しゃかいせいんだフォークソングのリバイバル運動うんどう活発かっぱつしていった[8]代表だいひょうてきなシンガーとしてはピート・シーガージョーン・バエズボブ・ディランなどがおり、若者わかものたちの熱烈ねつれつ支持しじけ、ブラザース・フォアなどのカレッジ・フォークのグループが誕生たんじょうした[8]。このムーブメントは日本にっぽんにも影響えいきょうあたえ、都会とかい大学生だいがくせい中心ちゅうしんにモダン・フォークがひろまっていった[8]。1966ねんマイク真木まきの「バラがいた」は和製わせいフォークとしてはつだいヒットきょくとなり、以降いこう日本にっぽんのフォークシンガーはカバーきょくでなくオリジナルきょく積極せっきょくてきうたうようになっていった[8]。1960年代ねんだい後半こうはんにはより日本にっぽんという風土ふうどざしたフォークをうたいつつのあか風船ふうせん高石たかいし友也ともや岡林おかばやし信康のぶやすといったひとやグループが登場とうじょうした[8]。 1969ねんから1971ねんにかけて3かい開催かいさいされた日本にっぽんはつ野外やがいフェスティバル「全日本ぜんにほんフォークジャンボリー」は中津川なかつがわフォークジャンボリーというでもられている。 1971ねんから、大阪おおさか天王寺てんのうじ公園こうえん野外やがい音楽おんがくどうで5がつのゴールデンウィークにだい規模きぼ野外やがいコンサート「春一番はるいちばん」が開催かいさいされた[9]

グループサウンズ・ブーム

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1966ねん6がつ29にちビートルズ来日らいにちし、社会しゃかい現象げんしょうとしてかたられるほどの熱狂ねっきょうぶりをしめし、かれらを代表だいひょうとするリバプールサウンド触発しょくはつされたグループ・サウンズのブームが到来とうらいした[4]初期しょきのブームを牽引けんいんしたのはザ・スパイダースブルー・コメッツであり、ビートルズ来日らいにちまえから活動かつどうしていたスパイダースは日本にっぽんにおけるグループサウンズの原型げんけい確立かくりつし、ブルー・コメッツの「あおひとみ」はリバプールサウンドとはまたちが独自どくじのサウンドをしめした[4]最盛さいせいの1967ねんから1968ねんにかけて、とく人気にんきのあったのが沢田さわだ研二けんじようするザ・タイガースと、萩原はぎはら健一けんいちようするザ・テンプターズで、タイガースは「シーサイド・バウンド」「モナリザの微笑びしょう」「きみだけにあい」「シー・シー・シー」など、テンプターズは「神様かみさまねがい!」「エメラルドの伝説でんせつ」などがおおきくヒットした[4]ほかにもザ・ゴールデン・カップスザ・カーナビーツオックスザ・ジャガーズヴィレッジ・シンガーズザ・ワイルドワンズザ・モップスといった多数たすうのバンドが活躍かつやくした[10][4]

日本にっぽんのロック」の誕生たんじょう

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1960年代ねんだいまつ、グループ・サウンズが商業しょうぎょうしていくのはんして、はん体制たいせいてきアングラ文化ぶんかからまれたフォークソング注目ちゅうもくされるようになった[4]1968ねん、アングラ・フォーク・シーンから登場とうじょうしたザ・フォーク・クルセダーズの「かえってたヨッパライ」がおおきくヒットし、ジャックスのアルバム『ジャックスの世界せかい』が発売はつばいされた[4]。ジャックスのアルバムは当時とうじはほとんどれず、1970年代ねんだい後半こうはんさい評価ひょうかされた[11]

1969ねんに『パックインミュージック』(TBSラジオ)の川口かわぐちただしきょうディレクターと洋楽ようがく評論ひょうろんどう番組ばんぐみパーソナリティだった福田ふくだ一郎いちろう[12]、ロックがまった根付ねついてなかった日本にっぽんなにとかロックを根付ねつかせたいと[12]、ロック・フェスティバルの開催かいさい企画きかく[12]構想こうそう実現じつげん奔走ほんそう、『パックインミュージック』のわくえ、1969ねん9がつ28にちに『ミュージック・マガジンしゃ主催しゅさいにより東京厚生年金会館とうきょうこうせいねんきんかいかんで、だい1かいロック・フェスティバルの開催かいさいぎつけた[12][13][14][15]出演しゅつえんしゃはザ・ゴールデン・カップス、内田うちだ裕也ゆうやとザ・フラワーズチューリップスブルース・クリエイションエディはんグループ成毛なるけしげる増尾ますお好秋よしあきらで[12][14][15]、まだ知名度ちめいどひくく、関係かんけいしゃ繁華はんかがいビラくばってまわった[12]福田ふくだ大会たいかいプログラムに「レコードによって海外かいがい人気にんきグループの演奏えんそう耳馴みみなれたファンにとっては、このフェスティバルの出演しゅつえんグループの演奏えんそう水準すいじゅんひくく、模倣もほうぎない、とこえるかもれない。しかしこのような段階だんかいずして成長せいちょうはありない」などといた[12]。ロック・フェスティバルはだい3かいまでつづけられた[12][15]

1970ねんには細野ほその晴臣はるおみ大滝おおたき詠一えいいち松本まつもとたかし鈴木すずきしげるの4にんによるはっぴいえんどがデビュー、アルバム『はっぴいえんど』と『ふうがいろまん』は日本語にほんごのロックを確立かくりつさせたばんとして評価ひょうかされている[4][16]

またこの時期じき音楽おんがく雑誌ざっしニューミュージック・マガジン』で「ロックは日本語にほんごうたうべきか、英語えいごうたうべきか」という日本語にほんごロック論争ろんそうこる[17]

2012ねんぴあ発行はっこう『R&Rぴあ』での「1972-2012 日本にっぽんのロック40ねん」では、そのはじまりをキャロルのデビューにいている[18]

1971ねん8がつ岐阜ぎふけん中津川なかつがわで、当時とうじのロックミュージシャンやフォークシンガー多数たすう参加さんかして開催かいさいされただい3かい全日本ぜんにほんフォークジャンボリーいて、吉田よしだ拓郎たくろう一躍いちやく脚光きゃっこう[19][20]英雄えいゆうされたことをさかいに、フォークが隆盛りゅうせいし、ロックが沈静ちんせいしていった、フォークとロックのおおまかな分岐ぶんきてんともなった、との論調ろんちょうもある[19]

バンド:はちみつぱいブルース・クリエイションフライド・エッグフラワー・トラベリン・バンド村八分むらはちぶ頭脳ずのう警察けいさつサディスティック・ミカ・バンドファニー・カンパニーなど。浅川あさがわマキ遠藤えんどう賢司けんじ高田たかだわたる加川かがわりょう三上みかみひろしあがたもりぎょ友部ともべ正人まさと吉田よしだ拓郎たくろう井上いのうえ陽水ようすい泉谷いずみやしげるなど。

アングラ・フォークに呼応こおうするかのように、日本にっぽんのロックもよりアート志向しこうのニュー・ロックの時代じだいむかえた。70年代ねんだいのニューロックのバンドには沢田さわだ研二けんじ萩原はぎはら健一けんいちらが結成けっせいしたPYGや、パワーハウスブルース・クリエイションなどがあった。また、70年代ねんだいのハードロック・バンドとしてはむらさきコンディション・グリーンBOWWOWなどが活動かつどうした。クリエイションやCharらは、ジェフ・ベック・スタイルのロックを演奏えんそうした。

1970年代ねんだい

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1980年代ねんだい

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1990年代ねんだい

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2000年代ねんだい

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2010年代ねんだい

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2005ねん刊行かんこうされたがらす賀陽かよう弘道ひろみち著書ちょしょ『Jポップの心象しんしょう風景ふうけい』により、「J-POP」の発祥はっしょうJ-WAVE定説ていせつになったが、これ以前いぜんに1999ねん刊行かんこうの『ロック・クロニクル・ジャパンVol.2』のなかで、評論ひょうろん大須賀おおすがたけしが「J-POP」の言葉ことば起源きげんろんじている[2]大須賀おおすがたけしは「J-ROCK」がさきにあったうえでの「J-POP」の発祥はっしょうであろうとかんがえ、1979ねんに「J-Rock」というきょくつくったカルメン・マキ取材しゅざいおこなった。タイトルに「J-Rock」とけた理由りゆうについて、カルメン・マキは「アルバム全曲ぜんきょくロサンゼルス録音ろくおんで、全曲ぜんきょく英語えいご企画きかくだったことから、日本にっぽんまれそだって日本語にほんご表現ひょうげんしてるうたなんだってことは刻印こくいんしておきたかった」と明確めいかく意図いとがあって「J-Rock」と命名めいめいしたとはなした[2]。この評論ひょうろんは3ぺーじみじかく、後半こうはんはプロデューサーろんになるため、「J-POP」の起源きげんろんじた記述きじゅつみじかいが、大須賀おおすがは1986ねん浜田はまだ省吾しょうごがアルバム『J.BOY』を発表はっぴょうしたあたりから、「J」という記号きごうかるみをはじめ、「J-POP」よりさきにあった「J-ROCK」という、ロックとぶにはかるすぎ、ポップスとえるほど娯しくはなく、歌謡かようきょくのヘリテイジはいでいない、ロックという言葉ことばにも遠慮えんりょしたような、ちょっとずかしいネーミングがあり、外資がいしけいCDショップが「J-POP」という言葉ことばつくったのではないかと推察すいさつしている[2]。つまり、外資がいしけいのCDショップの商品しょうひん主力しゅりょく洋楽ようがくのため、ジャンルめいもアーティストも横文字よこもじ日本にっぽん音楽おんがくだけタテ文字もじではかっこわるく、それとうけるために「J-POP」という言葉ことばつくった。カルメン・マキや浜田はまだ省吾しょうご位置いち日本にっぽんがわにあり、アンビバレントなおもいでアイロニカルな意味いみめながらもちいた「J」という記号きごうは、英語えいごけんがわからごくあっさり、無味むみ無臭むしゅう記号きごうとして採用さいようされた、ひとしろんじている[2]大須賀おおすがはこの時点じてんでは「J-POP」が「J-WAVE」の発祥はっしょうとはまった気付きづいていなかった[2]

タイトルに「J-ROCK」、または「Jロック」が使つかわれた書籍しょせきとしては、1989ねん『J-ROCK EARLY DAYS STRONG SELECTION』(キティエンタープライズ)、1990ねん日本にっぽんロック大系たいけい : 1957-1979 Complete history of J-rock』(白夜書房びゃくやしょぼう)、1993ねん『ザ・ライブ! : Jロック・ヒット・コレクション』(ケイ・エム・ピー)、1994ねん最新さいしん!!Jロック・リクエスト』(ドレミ楽譜がくふ出版しゅっぱんしゃ)、1996ねん『J-ROCKベスト123 1968-1996』(講談社こうだんしゃ)、1998ねん『J-rock'sバイブル』(ジェイロックマガジンしゃ)など、1990年代ねんだい以降いこう多数たすう刊行かんこうされている。

日本にっぽんのロック・バンド

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インディーズの詳細しょうさいについては、インディーズこう掲載けいさいされているので、そちらを参照さんしょう

日本にっぽんのロックコンサート・ロックフェスティバル

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日本にっぽんのロック雑誌ざっし

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脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ J-ROCK”. OKMusic. 2022ねん5がつ25にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f 「"J-POP"といううつわなにながむか……プロデューサーの時代じだい~J-POPの時代じだい2」『ロック・クロニクル・ジャパンVol.2』音楽おんがく出版しゅっぱんしゃ、1999ねん、43–45ぺーじ 
  3. ^ 評判ひょうばんくにロックのおすすめバンド30せん!2022ねんくべき若手わかて人気にんき邦楽ほうがくバンドを紹介しょうかい 2022ねん5がつ”. ライブUtaTen (2022ねん1がつ18にち). 2022ねん5がつ25にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 篠原しのはらあきら. “日本にっぽんロックどおり (1956 ねん-1990 年代ねんだい)WEBばん”. 批評ひひょう.COM. 2021ねん11月1にち閲覧えつらん
  5. ^ a b 川崎かわさき 2015, p. 174-177.
  6. ^ 佐藤さとうつよし (2015ねん1がつ10日とおか). “エレキ・ブームが日本にっぽん爆発ばくはつしたアストロノーツとベンチャーズの合同ごうどう公演こうえん”. TAP the POP. 2021ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  7. ^ 加山かやま雄三ゆうぞう内田うちだ裕也ゆうやさんしのび「またまれわってロックやれや」 「わか大将たいしょう」シリーズで共演きょうえん”. ORICON NEWS (2019ねん3がつ18にち). 2022ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d e めいばんガイド 2001, p. 6.
  9. ^ 福岡ふくおかふうふとし喫茶きっさ〈ディラン〉の時代じだい[リンク] - 井口いぐち啓子けいこ西日本にしにほんロック紀行きこう No. 147 OOPS! コラム 2007ねん5がつ2にち
  10. ^ AllMusic: The Mops”. 2020ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  11. ^ 川崎かわさき 2015, p. 68-69.
  12. ^ a b c d e f g h 伊藤いとう友治ゆうじ+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和しょうわんだラジオ深夜しんや放送ほうそう革命かくめいディスクユニオン、2015ねん、148–150ぺーじISBN 9784907583637 
  13. ^ 日本にっぽんロック・フェスティバル』 - コトバンク
  14. ^ a b JAPANESE ROCK ANATOMY解剖かいぼうがく ミッキー「ブルース・クリエイションとはカップスもフェスで共演きょうえん」 難波なんば竹田たけださんのわたりおう解散かいさんしたあと、まれためいバンドは…」
  15. ^ a b c 46ねんまえの<日本にっぽん近代きんだいロック黎明れいめい>に開催かいさいされた『だいいちかい日本にっぽんロック・フェスティバル』こそ、その大型おおがたロック・フェスの源流げんりゅうであった。
  16. ^ 川崎かわさき 2015, p. 40-41.
  17. ^ 日本語にほんごでロックは実現じつげんできるのか?/ みの『たたかいの音楽おんがく”. ダ・ヴィンチWeb (2022ねん4がつ20日はつか). 2022ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  18. ^ 「1972-2012 日本にっぽんのロック40ねん ぶん大山おおやま貴弘たかひろ」『R&Rぴあ』 2012ねん8がつ30にち発行はっこうぴあ、70–77ぺーじISBN 978-4-8356-2124-1 
  19. ^ a b JAPANESE ROCK ANATOMY解剖かいぼうがく ミッキー「フォークとロックの分岐ぶんきてんフォークジャンボリー」 難波なんば混沌こんとんとした状況じょうきょうなか吉田よしだ拓郎たくろうさんが脚光きゃっこうびた」”. ZAKZAK. 夕刊ゆうかんフジ (2024ねん4がつ20日はつか). 2024ねん5がつ9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん6がつ28にち閲覧えつらん
  20. ^ 吉田よしだ拓郎たくろう フォークのプリンスから団塊だんかい世代せだいのヒーローに』 音楽おんがくCD検定けんてい公式こうしきガイドブック(下巻げかん)、音楽おんがく出版しゅっぱんしゃ、2007ねん、p.29アーティスト・アーカイヴ 吉田よしだ拓郎たくろう よしだたくろう”. 記憶きおく記録きろく LIBRARY. 日本にっぽん音楽おんがく制作せいさくしゃ連盟れんめい. 2023ねん9がつ29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん6がつ22にち閲覧えつらん永井ながい純一じゅんいち日本にっぽんにおける黎明れいめいのロックコンサートとフェスティバル--1950〜70年代ねんだい前半ぜんはん中心ちゅうしん神戸こうべ山手やまて大学だいがく紀要きよう pp.196-199:(2009-12-20) - 関西かんさい国際大学こくさいだいがく情報じょうほうリポジトリ、佐藤さとうつよし (2015ねん4がつ10日とおか). “TAP the SONG 「人間にんげんなんて」をマイクしでうたって伝説でんせつになった吉田よしだ拓郎たくろうだい3かい全日本ぜんにほんフォークジャンボリー”. TAP the POP. 2024ねん2がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん6がつ28にち閲覧えつらん越智おちしゅんいたり大森おおもりまさわたる (2019ねん8がつ3にち). “フォークはどこへった”. 東京とうきょう新聞しんぶん (中日新聞ちゅうにちしんぶん東京とうきょう本社ほんしゃ). オリジナルの2023ねん10がつ23にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20231023044722/https://www.tokyo-np.co.jp/article/3074 2024ねん6がつ28にち閲覧えつらん つボイノリオ (2019–09–25). “吉田よしだ拓郎たくろう伝説でんせつはじまり。「だい3かい中津川なかつがわフォークジャンボリー」”. つボイノリオのけばくほど. CBCラジオ. 2024ねん6がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん6がつ28にち閲覧えつらん中津川なかつがわフォークジャンボリー開催かいさいは「ウッドストック」よりもはやかった”. J-CASTトレンド. ジェイ・キャスト (2018–07–25). 2021ねん11月18にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん6がつ28にち閲覧えつらん岡本おかもと洋太郎ようたろう (2009ねん8がつ1にち). 青春せいしゅんふたた中津川なかつがわフォークジャンボリー38ねんぶり復活ふっかつ. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). オリジナルの2023ねん10がつ17にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20231017123527/http://www.asahi.com/showbiz/music/NGY200908010005.html 2024ねん6がつ28にち閲覧えつらん 
  21. ^ 日本人にっぽんじんとリズムかん -「はく」をめぐる日本にっぽん文化ぶんかろん著者ちょしゃ樋口ひぐち桂子けいこ青土おうづちしゃ発売はつばい:2017-11-24
  22. ^ この20ねんでフェスはいかにして「国民こくみんてき娯楽ごらく」に変貌へんぼうしたのか(レジー) @gendai_biz”. 現代げんだいビジネス. 2020ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  23. ^ 曽我そがよしなつめ (2022ねん6がつ10日とおか). “supercellからwowaka&ハチ、DECO*27、じん、バルーン、稲葉いなばくもりまで VOCAROCKの変遷へんせん再興さいこうするボカロシーンでの存在そんざいかん”. Real Sound. 2022ねん10がつ11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 篠原しのはらあきら『J-ROCKベスト123 1968-1996』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ〉、1996ねんISBN 4062632764 
  • 『Jロック&ポップスCDめいばんガイド』たてふう書房しょぼう、2001ねんISBN 4651009417 
  • かわ﨑大すけ日本にっぽんのロックめいばんベスト100』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2015ねんISBN 9784062883290 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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