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オックス

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オックス
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん
ジャンル グループ・サウンズ、ロック、ポップス
活動かつどう期間きかん 1968ねん - 1971ねん
レーベル ビクターレコード
メンバー 福井ふくい利男としおベース
岩田いわた裕二ゆうじドラムス
岡田おかだ志郎しろうギター
野口のぐちヒデト(ボーカル)
田浦たうらみゆき(オルガン)
きゅうメンバー 赤松あかまつあいオルガン
杉山すぎやま則夫のりお(ギター)
栗山くりやまじゅん(ボーカル)

オックス(OX)は、グループ・サウンズ以下いかGS)全盛期ぜんせいき1968ねん昭和しょうわ43ねん)にデビューしたグループ。メンバー、ファンが失神しっしんする場面ばめんがあったため、「失神しっしんバンド」とばれた。

英語えいごうしのことをすグループめい由来ゆらい諸説しょせつある。そのひとつは、リーダーである福井ふくい利男としお婦人ふじん下着したぎメーカーの「シルバー・オックス」よりヒントをたというせつである。

メンバー

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なお、デビューにさいし、所属しょぞく事務所じむしょとビクターレコード(当時とうじ日本にほんビクター現在げんざいJVCケンウッド〉の音楽おんがくレコード事業じぎょう現在げんざいJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)の思惑おもわくから福井ふくい岩田いわたは1949ねんまれ、岡田おかだは1951ねんまれ、赤松あかまつは1952ねんまれと詐称さしょうした。

経歴けいれき

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オックスはGSブームの1968ねん、「ガールフレンド」「スワンのなみだ」などがヒットし、野口のぐちヒデトは沢田さわだ研二けんじ[ちゅう 1]萩原はぎはら健一けんいち[ちゅう 2]渡辺わたなべ茂樹しげき(チャッピー)[ちゅう 3]とともに、わか女性じょせいファンのあいだ人気にんきとなった[2]

バンドの結成けっせいは1967ねんあき、キングスのもとメンバーだった福井ふくい岩田いわた、そしてバンドが専属せんぞく活動かつどうしていた大阪おおさかのサパー・クラブ「レンガ」の経営けいえいしゃであった清水しみず芳夫よしおが、方々かたがたからメンバーをあつめることからはじまった。

キングスは、滋賀しがけん大津おおつ出身しゅっしんで1964ねん9がつ京都きょうと活動かつどうはじめ、おも京都きょうと「ベラミ」、大阪おおさか「ナンバいちばん」などのジャズ喫茶きっさ演奏えんそうおこなう、関西かんさいではさい古参こさんのエレキバンドであった。 キングスは1967ねん2がつ上京じょうきょうし、9月には「アイ・ラヴ・ユー」で日本にっぽんグラモフォン(レーベルはポリドール現在げんざいユニバーサルミュージックジャパン)よりレコードデビューするはこびとなるが、福井ふくい岩田いわた発売はつばいまえにこれを脱退だったいした。清水しみず芳夫よしお相談そうだん結果けっかあらたなバンドを結成けっせいすべく、大阪おおさか京都きょうと神戸こうべジャズ喫茶きっさでメンバーをさがすこととなった。

まずは京都きょうとのダンス喫茶きっさ田園でんえん[ちゅう 4]出演しゅつえんしていたマッコイズ[ちゅう 5]ギタリスト杉山すぎやま則夫のりおと、どうバンドのドラマーである岡田おかだ志郎しろうが「リズムギター程度ていどならばはじける」[ちゅう 6]ということで参加さんかした。さらに、大阪おおさかのダンスホール「富士ふじ」で演奏えんそうしていたハタリーズのオルガニスト赤松あかまつあいと、漫画まんがトリオのバックバンドであった「木村きむら幸弘ゆきひろとバックボーン」の専属せんぞく歌手かしゅである野口のぐちヒデトのうわさをききつけ、大阪おおさか「ナンバいちばん」をおとずれた福井ふくいは、「テル・ミー」でステージせましところまわ野口のぐち姿すがた直感ちょっかんし、木村きむら幸弘ゆきひろとバックボーンをめオックスへるよううながす。しかし、野口のぐち赤松あかまつから反応はんのうられず、京都きょうと田園でんえん」のバンド「サンダース」[ちゅう 7]にいた栗山くりやまじゅんを11月1にちよりボーカルにむかえた。のち赤松あかまつよりあらためて承諾しょうだく連絡れんらくがあり、6にん編成へんせいとなった。

11月10にち、「レンガ」のあったビルの社長しゃちょう厚意こういにより、屋上おくじょうでのおとしがはじまった。もう練習れんしゅう甲斐かいもあり、オックスは12月1にちより27にちまで「ナンバいちばんのステージにち、かれらの人気にんき上昇じょうしょうしていった。この評判ひょうばんをききつ演奏えんそう野口のぐちヒデトが、リーダーである福井ふくいより熱心ねっしん口説くどかれ、よく1968ねん1がつ1にちより10日間にちかんの「ナンバいちばん公演こうえん初日しょにちをもって正式せいしきなメンバーとなった。この時点じてんですでに栗山くりやま野口のぐちがのちに「失神しっしん」としょうされる過激かげき演出えんしゅつせていたが、1がつ9にち、ギターの杉山すぎやま家業かぎょうぐべく脱退だったいした。つづいて20日はつかには「サンダース」にもどるべく栗山くりやま脱退だったいし、オックスは5にん編成へんせいとなった。

つづいて同月どうげつ下旬げじゅんから2がつにかけ、スウェーデンより来日らいにちしたザ・スプートニクス前座ぜんざとして京都きょうと[ちゅう 8]神戸こうべ姫路ひめじ大阪おおさか巡業じゅんぎょうし、これらの公演こうえん会場かいじょうで「楽器がっきこわし、アンプたおす」といったオックスの過激かげき演出えんしゅつ話題わだいび、最終さいしゅう公演こうえん会場かいじょうである大阪おおさかサンケイホールいたっては、おおくの観客かんきゃくがスプートニクスではなくオックス目当めあてとなるほどであった。

この反応はんのうて、マネージャーとなっていた清水しみず東京とうきょう進出しんしゅつ計画けいかくし、ザ・サベージパープルシャドウズ所属しょぞくしていた芸能げいのうプロ「ゼネラル・アート・プロデュース」(GAP)へみをかけ、梅田うめだゴーゴー・クラブ「ゴーゴー・メキシカン」でかれらのステージをったGAPと早々そうそう契約けいやくする。3がつ初旬しょじゅん、オックスは東京とうきょうのビクターレコードで録音ろくおんませ、3月17にち梅田うめだはな馬車ばしゃ」での大阪おおさかさよなら公演こうえんのち新幹線しんかんせん上京じょうきょうした。

渋谷しぶやとみだに合宿がっしゅく生活せいかつはじめたかれらは、川崎かわさきダンスホール「フロリダ」でのステージを皮切かわきりに、東京とうきょう12チャンネル(現在げんざいテレビ東京てれびとうきょう)の「ジャポップス・トップ10」で音楽おんがく番組ばんぐみ出演しゅつえんした。つづいて、かれらにとって東京とうきょうのジャズ喫茶きっさはつ出演しゅつえんとなる銀座ぎんざACBでは、わずか3にん観客かんきゃく相手あいてながら、たかさ2.5mものせましき回転かいてんステージよりころ失神しっしんするなど、過激かげき演出えんしゅつ披露ひろうした。

1968ねん5がつ5にち、デビューきょくガール・フレンド[ちゅう 9]発売はつばいされた。一方いっぽう、ジャズ喫茶きっさでは、ステージじょうはげしいうごきから放心ほうしん状態じょうたいとなりたお野口のぐちヒデト、そしてっていたオルガンからころがり気絶きぜつする赤松あかまつあい、そんな2人ふたり触発しょくはつされるかのように連鎖れんさてきたおれていくのこりのメンバー、というパフォーマンスをせ、この前代未聞ぜんだいみもんのステージにファンは熱狂ねっきょうし、またたにオックスの存在そんざい女学生じょがくせい[ちゅう 10]あいだおおきな話題わだいとなる。

つづいて6がつ23にちには有楽町ゆうらくちょうビデオホールで「オックス・ファン・クラブ」結成けっせいつどいを開催かいさいし、[ちゅう 11]かれらの評判ひょうばんをききつじつに1200にんものファンを動員どういんした。こののステージでかれらの人気にんき決定的けっていてきなものとなり、「ステージじょう気分きぶん高揚こうよう陶酔とうすいのあまり恍惚こうこつ状態じょうたいたおんでしまう」という特異とくいなパフォーマンスは、「失神しっしんバンド」としてそのとどろかせるまでになっていた[ちゅう 12]

デビュー当初とうしょ赤松あかまつあい人気にんき先行せんこうしたが、2まいのシングル「ダンシング・セブンティーン」を発売はつばいするころには、人気にんき中心ちゅうしん野口のぐちヒデトにうつり、「ジュリー、ショーケン、ヒデト」の時代じだいむかえる。かれら3にん鼎談ていだんなども平凡へいぼん明星みょうじょうなどの雑誌ざっしでよくられるようになった。[ちゅう 13]なお、GSメンバーの人気にんき投票とうひょうでは、ワイルド・ワンズの渡辺わたなべ茂樹しげき(チャッピー)や、タイガースのきょうひとみも、野口のぐちヒデトに匹敵ひってきする人気にんきがあった。9月14にちより全国ぜんこく6ヵ所かしょでの公演こうえんはじまり、初日しょにち日比谷公会堂ひびやこうかいどうはじかく会場かいじょうのステージで失神しっしんさわぎをこしたことから、マスコミは過剰かじょうなまでにかれらを「失神しっしんバンド」ときたてた。

こうしてオックスは、タイガーステンプターズともに、人気にんきGSとしてげられるようになっていく。

あくまでもメンバーの「失神しっしん」は演技えんぎであったが、かれらが演奏えんそうする「テル・ミー」で本当ほんとう失神しっしんしてしまうファンがあらわれ、これをきっかけに、11月10にち日比谷公会堂ひびやこうかいどうでの公演こうえんよりどうきょく自粛じしゅくした。だが、このステージだい1最後さいご演奏えんそうした「オー・ビーバー」あたりから客席きゃくせき様子ようすあやしくなりはじめた。 そのため、急遽きゅうきょだい2では趣向しゅこう歌謡かようきょく演奏えんそうしたが、イントロで失神しっしんしゃ相次あいつぎ、熱狂ねっきょうするファンで場内じょうないだい混乱こんらんしたことから公演こうえん途中とちゅうられてしまう。公演こうえん会場かいじょうけた女子じょし学生がくせいやく2000にんちゅう興奮こうふんしたやく30にん矢継やつばや失神しっしんし、15にん病院びょういんかつまれる事態じたいにまで発展はってんする大騒おおさわぎであった。

この結果けっか、「オー・ビーバー」は自粛じしゅくせざるをなくなり、このいちけんから「オックス」の存在そんざい失神しっしんGSとしてせる一方いっぽう社会しゃかい問題もんだいすることとなった。一部いちぶ学校がっこうではオックスのショーをかんくことをかたきんじ、また会場かいじょうでは教師きょうし生徒せいと入場にゅうじょうきびしくまる光景こうけいられるようになり、PTA婦人ふじん団体だんたい抗議こうぎ活動かつどうもあって、地方自治体ちほうじちたい劇場げきじょうより会場かいじょうしぶりがえていくこととなる。

12月5にち待望たいぼうの「オックス・ファースト・アルバム」を発売はつばいした。かねてよりステージで披露ひろうされていた問題もんだい失神しっしんきょく「オー・ビーバー」をふくむ4きょくがオリジナルさくとなるかれらの意欲いよくさくであった。つづ10日とおかには3まいとなるシングル「スワンのなみだ」を発売はつばいした。

としけた1969ねん1がつ6にちより、東京とうきょう12チャンネル「ジャポップス・トップ10」ののち番組ばんぐみで9がつ29にちまでつづいた「あつまれ!ジャポップス」ではホストやく挑戦ちょうせんした。さらに、1がつ26にちには日本にほんテレビ公開こうかい生放送なまほうそう番組ばんぐみ「ディン・ドン・ダン」がスタートする。ギターの岡田おかだ志郎しろう司会しかいつとめるほか、アシスタントに大阪おおさか時代じだいよりオックスと顔馴染かおなじみの和田わだアキ子あきこ起用きようした。番組ばんぐみテーマきょくはじめ、うたおどり、コントにいたるまでオックスが担当たんとうするこの番組ばんぐみは、3月30にちまでつづいた。

3月25にち発売はつばいされた名古屋なごや公会堂こうかいどうでの実況じっきょう録音ろくおんによるアルバム「テルミー/オックス・オン・ステージNO.1」では、実況じっきょう録音ろくおんばんということで、失神しっしん防止ぼうしのためにロックとのジャンルを交互こうご演奏えんそうするといった苦肉くにくさくもちいられ、ラストの「テル・ミー」にいたっては、通常つうじょう[ちゅう 14]とはことなり、すべての楽器がっき演奏えんそうのままわるといった、かれらにとっては不本意ふほんいかたちではあるものの、貴重きちょう公式こうしきライブ音源おんげんとなった。

3月25にちにはシングル「ぼくえてる」を発売はつばいした。3月28にちより3日間にちかん浅草あさくさ国際こくさい劇場げきじょうにて3構成こうせいからなる「オックス・ショー」が開催かいさいされ、「ヒデトのウエストサイド物語ものがたり」「あいうしわかまる」といった演劇えんげきまじえ、趣向しゅこうらした内容ないようであった。さらにトリではきんじられていた問題もんだいきょく[ちゅう 15]「テル・ミー」が演奏えんそうされると観客かんきゃくせき騒然そうぜんとなり、野口のぐちヒデトのたお姿すがたをもってまくりた。浅草あさくさ国際こくさい劇場げきじょうでの公演こうえんだい成功せいこうとなり、自信じしんけたかれらだったが、5月にはグループ存亡そんぼう危機ききともうべき事態じたいかまえていた。

5月5にち正午しょうご夕方ゆうがた4土浦つちうら市民しみん会館かいかんおこなわれる公演こうえんそなえ、オックスのメンバーは前日ぜんじつより現地げんちのホテルにチェックインしていたが、赤松あかまつあいわすもの理由りゆう東京とうきょうもどってしまい、翌日よくじつ開演かいえんまえになってもあらわれなかった。

あわてた主催しゅさいしゃがわは、『赤松あかまつ前日ぜんじつ下館しもだて公演こうえんのちいったん都内とないのホテルへもどり、只今ただいまこちらへかっている最中さいちゅうではございますが、なにぶん交通こうつう渋滞じゅうたいにつきおくれがしょうじておる次第しだいであります』とつくろった。しかしはらてた赤松あかまつのファンがかえってしまい、客席きゃくせきは7わりりというさまになってしまう。突然とつぜん事態じたいにメンバーが困惑こんわくするなか、バンドの異変いへんけたマスコミは失神しっしんGSオックスの赤松あかまつあい脱退だったいとの報道ほうどうをそのうちながし、またた騒動そうどうひろまった。

この事態じたいについて、都内とないのホテルにとどまっていた赤松あかまつは、『個性こせいがなく、フォーク歌謡かようきょくまで演奏えんそうさせられることにくわえ、4がつぶん給料きゅうりょうは1900えん一番いちばんもらっているひとでさえ6せんえん失神しっしんさわぎやロボットとしてあやつられることに嫌気いやけした』と主張しゅちょうした。一方いっぽう所属しょぞく事務所じむしょであるホリプロダクション(現在げんざいホリプロ社長しゃちょうほり威夫たけおは、『契約けいやくにマネージャーである清水しみずふくめ、メンバーそれぞれに月給げっきゅう3まんえんとテレビ、ステージでの歩合ぶあい支払しはらわれることになっているから、すくなくとも1人ひとりあたり10まんえんっているはず。だいいち4がつ下旬げじゅん沖縄おきなわ公演こうえんでは支度したくきんとして1人ひとり10まんえんあたえている、赤松あかまつがく到底とうていしんがたい』とこたえた[3]

オックスは野口のぐちヒデトと赤松あかまつあいという、ことなるほんばしらによる相乗そうじょう効果こうか人気にんき牽引けんいんしていただけに、この騒動そうどうでバンドのすえ暗雲あんうんはじめた。急遽きゅうきょ後釜あとがまとしてむかえられたのは、大阪おおさか時代じだい和田わだアキ子あきこ演奏えんそう担当たんとうしていたグランプリズのオルガニスト、田浦たうら久幸ひさゆき[ちゅう 16]で、かれはホリプロダクションよりあらたにデビューするGSのメンバーになるべく上京じょうきょうしていた。

赤松あかまつ脱退だったい騒動そうどうからわずか5にちの5がつ10日とおか、デビュー1周年しゅうねん記念きねん大阪おおさか公演こうえんで、田浦たうら久幸ひさゆき田浦たうらみゆき芸名げいめいでステージにち、田浦たうらがレコーディングはつ参加さんかとなるムード歌謡かよういろつよ新曲しんきょくロザリオは永遠えいえん[ちゅう 17]が6がつ25にち発売はつばいされる。だがこれは選曲せんきょくミスで、夏向なつむきで躍動やくどうかんあるBめんの「真夏まなつのフラメンコ」をAめんにすべきであったと、日本にほんビクターおよかくラジオきょく気付きづくようになる。このころ、すでにグループサウンズのブームそのものがりつつあった。田浦たうらみゆきへのメンバー変更へんこうたいしては、赤松あかまつあいのファンから「あいちゃんかえせ」の抗議こうぎこえび、田浦たうらくるしいおもいをした。

1969ねんは3がつにタイガースのギター担当たんとうであるきょうかつみ、4がつにカーナビーツのボーカルである臼井うすいあきらよし、そして5がつには赤松あかまつあい脱退だったいと、主要しゅようGSより脱退だったい相次あいついだ。テンプターズらとともに、GSブーム中期ちゅうきから後期こうきにかけて人気にんきになっていたオックスだったが、ときおなじくしてフォーク台頭たいとうはじめ、1967ねん初夏しょかよりはじまったGSブームは、3ねんなつ目前もくぜん終息しゅうそくむかえようとしていた。

69ねん10がつはい新曲しんきょくかみにそむいて」が発売はつばいされた。オックスらしさはもどったものの、すでに音楽おんがくかいながれはわってしまい、グループサウンズの時代じだいわろうとしていた。その一方いっぽうで、かれらはこのとしブロマイド売上うりあげ実績じっせきでは好調こうちょうだった。

よく1970ねんはいるとテレビの仕事しごと激減げきげんし、日本にっぽん各地かくちのジャズ喫茶きっさゴーゴークラブなどが、オックスのおも活動かつどうとなっていく。かつて栄華えいがきわめたほかのGSも、同様どうよう境遇きょうぐう余儀よぎなくされていた。 5月23にちにはデビュー2周年しゅうねん記念きねんリサイタル「E・プレスリーをぶっばせ!」が大手町おおてまちサンケイホール開催かいさいされ、メンバーは意気揚々いきようようとした姿すがた披露ひろう[4]したが、やがて田浦たうらみゆきなつゆうかい名乗なのり、日活にっかつ野良猫のらねこロックシリーズに出演しゅつえんし、俳優はいゆうへとてんじていく。野口のぐちヒデトもあさワイドショーうちでコーナーを担当たんとうするなど、音楽おんがくからはなれた活動かつどうはじめる。

同年どうねんまつごろから、オックスは当時とうじニュー・ロックばれたレッド・ツェッペリングランド・ファンク・レイルロード、そしてフリー、さらにはザ・フーのアルバム「ロック・オペラ・トミー」のきょくなどをステージで演奏えんそうした。また映画えいがウッドストック/あい平和へいわ音楽おんがくさん日間にちかん』の影響えいきょうからかかみばし、あきごろからはぞろいの衣装いしょうではなくジーンズなどのくだけたいでたちとなっていた。この変化へんか少女しょうじょマンガてきな、あまくメルヘンチックな世界せかいもとめていたわか女性じょせいとは、音楽おんがくせいにズレがあった。デビュー当時とうじくらべ、演奏えんそうりょく格段かくだん上達じょうたつしていたが、この音楽おんがくせい変化へんかおおきかった。

よく1971ねん1がつ、オックスは池袋いけぶくろACBでのステージでグループ解散かいさん表明ひょうめいする。 日本にっぽん各地かくちを2ヶ月かげつあいだ解散かいさん公演こうえんとしてまわったのち、ホリプロがわより最終さいしゅう公演こうえん会場かいじょうとして新宿しんじゅく厚生こうせい年金ねんきん会館かいかん提示ていじされたが、リーダーである福井ふくいはじめとしたメンバーの「ジャズ喫茶きっさから人気にんきたバンドなんだから、ジャズ喫茶きっさわろう」とする意向いこう尊重そんちょうされ、5月29にちから31にちにかけ池袋いけぶくろACBけい15かいおこなわれた公演こうえんをもって、デビューからまん3ねんでオックスの活動かつどう終止符しゅうしふたれた。野口のぐちヒデトは、筒美つつみ京平きょうへい作曲さっきょくのシングルばんでソロ・デビューしたが、ヒットをすことはできなかった。 オックス解散かいさん岩田いわた裕二ゆうじ岡田おかだ志郎しろうはGS志向しこうのバンド、ローズマリーを結成けっせいする。このローズマリーに加入かにゅうしたのがモト冬樹もとふゆきである。

野口のぐちは、のち真木まきひでととして「ゆめよもう一度いちど」で、演歌えんかてき歌謡かよう歌手かしゅとしてCBS・ソニー(現在げんざいソニー・ミュージックレーベルズ)からさいデビューし、オリコンチャート9のヒットきょくすこととなる。そのこいにおぼれて」「あめ東京とうきょう」「元気げんきほし」などのヒットきょくもある。後年こうねんなつメロ番組ばんぐみ散発さんぱつてきさい結成けっせいすることがあったが、赤松あかまつあいなつゆうかい田浦たのうら)をのぞいた4にん出演しゅつえんし、キーボードはサポートメンバーによる演奏えんそうだった。

ディスコグラフィ

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シングル

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  1. ガール・フレンドはなゆびたまき(1968.5.5) オリコン6
  2. ダンシング・セブンティーンぼくのハートをどうぞ(1968.9.5) オリコン28
  3. スワンのなみだ/オックス・クライ(1968.12.10) オリコン7
  4. ぼくえてる夜明よあけのオックス(1969.3.25) オリコン18
  5. ロザリオは永遠えいえんに/真夏まなつのフラメンコ(1969.6.25) オリコン32
  6. かみにそむいて/夜明よあけのひかり(1969.10.10) オリコン41
  7. ゆるしてくれ/ジャスト・ア・リトル・ラブ(1970.2.5) オリコン64
  8. ぼくをあげます/はな時間じかん(1970.5.5) オリコン91
  9. もうどうにもならない/ふりむきもしないで(1970.12.5) オリコン100圏外けんがい

アルバム

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  1. オックス・ファースト・アルバム(1968.12.5)
  2. テル・ミー/オックス・オン・ステージNO.1(1969.2.5)

非売品ひばいひん

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記念きねんばん(1968ねん):Bめん
  • ひとりの電話でんわ 作詞さくし:上田うえだ公彦きみひこ作曲さっきょく編曲へんきょく:筒美つつみ京平きょうへい
Aめんは「お世話せわになりますダイヤルさん」(佐良さら直美なおみ
電電でんでん公社こうしゃ現在げんざいNTTグループ)イメージソング。

その

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オールスター・フェスティバル/吉田よしだただし傑作けっさくせん Bめん7きょく
  • こいをするなら 作詞さくし:佐伯さえき孝夫たかお 作曲さっきょく:吉田よしだただし
吉田よしだただし作曲さっきょくしたうたをオリジナルの歌手かしゅ以外いがいがカバーした企画きかくもの。

メディア

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ザ・タイガースとして「モナリザの微笑ほほえ」など、ソロとしては「危険きけんなふたり」「勝手かってにしやがれ」など多数たすうのヒットをした
  2. ^ テンプターズ時代じだいに「神様かみさまねが」「エメラルドの伝説でんせつ」をヒットさせた。俳優はいゆうとしてはドラマ「太陽たいようにほえろ!」「きずだらけの天使てんし」で人気にんきスターとなっている。ソロ歌手かしゅとしても「おろもの」などのヒットがある
  3. ^ ワイルドワンズのキーボードとして加入かにゅう。デビュー16さいだったため、わか女性じょせいファンのあいだ絶大ぜつだい人気にんきほこった
  4. ^ ファニーズ参加さんかまえ沢田さわだ研二けんじ専属せんぞく
  5. ^ アメリカのバンド「マッコイズ」とはことなる。
  6. ^ 赤松あかまつあいのオルガンをフィーチャリングすることでおぎなった。
  7. ^ 京都きょうとのダンス喫茶きっさ田園でんえん時代じだい沢田さわだ研二けんじ在籍ざいせき
  8. ^ 公演こうえん終了しゅうりょう旅館りょかんおとずれたスプートニクスのメンバーから「おまえらはザ・フーおとらずグレイトだ」と激励げきれいされる。さらには「これ(楽器がっきこわすパフォーマンス)をつづけなさい」ともアドバイスされたという。ただし野口のぐち当時とうじ、ザ・フーの存在そんざいらなかったという。
  9. ^ 筒美つつみ京平きょうへい作曲さっきょくした
  10. ^ オックスのファンそう小学生しょうがくせいから高校生こうこうせいまでが中心ちゅうしんであった。
  11. ^ このころ所属しょぞく事務所じむしょであるGAPはホリプロに吸収きゅうしゅう合併がっぺいされた。
  12. ^ こうした「失神しっしん」は、ジ・アップルなどの、後期こうきGSでもれていたという。
  13. ^ またこのころ目黒めぐろ青葉台あおばだい合宿がっしゅくしょし。
  14. ^ 野口のぐちヒデトがドラムをげ、アンプをたおすなどしてまくりるころにはベースの演奏えんそうのみ。
  15. ^ 初日しょにちを以って「オー・ビーバー」ととも解禁かいきん
  16. ^ なつゆうかい
  17. ^ 当時とうじから平成へいせい初期しょきにかけ日本にっぽん代表だいひょうする作曲さっきょく筒美つつみ京平きょうへいと、GSをはじすうおおくの作品さくひん手掛てがけた作詞さくし橋本はしもとあつしとのコンビでは、オックスにとって最後さいごきょくだった。

出典しゅってん

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  1. ^ あのひといまこうしている GSオックスでギター 岡田おかだ志郎しろうさんは20つぼ居酒屋いざかやオーナー - 日刊にっかんゲンダイDIGITAL(2016ねん11月6にち)2024ねん3がつ13にち閲覧えつらん
  2. ^ ジュリー、ショーケン、ヒデト 2022ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  3. ^ グループサウンズ最高さいこう 柴田しばた陽平ようへいちょ ブレーン出版しゅっぱん 1981ねん9がつかん 190ぺーじ、192ぺーじ読売新聞よみうりしんぶん 読売新聞社よみうりしんぶんしゃ 1969ねん5がつ7日刊にっかん
  4. ^ 近代きんだい映画えいが 近代映画社きんだいえいがしゃ 1970ねん7がつごう 141ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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