福田ふくだ一郎いちろう

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福田ふくだ 一郎いちろう(ふくだ いちろう、 1925ねん2がつ16にち[1] - 2003ねん9月4にち[2])は日本にっぽん音楽おんがく評論ひょうろん

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

日本にっぽん大学だいがく卒業そつぎょう、1960年代ねんだいまつからビートルズなどの洋楽ようがくラジオパーソナリティとして紹介しょうかいするなど、洋楽ようがく評論ひょうろん草分くさわけとして活躍かつやくわかころからつきに1のペースでニューヨークおとずれ、現地げんちのアーティストを取材しゅざいしたりライブをていた。ローリング・ストーンズマイケル・ジャクソンビリー・ジョエルポール・マッカートニーらとはプライベートでも交流こうりゅうするほどしたしかった。

1970年代ねんだいには日本にほんテレビ『TVジョッキー』に出演しゅつえんしたり、TBSラジオの深夜しんや放送ほうそうパックインミュージック』のパーソナリティをつとめ、若者わかものたちの人気にんきあつめた。InterFMFMヨコハマで、ラジオ番組ばんぐみのパーソナリティを2003ねんまでつとめるなど精力せいりょくてき活動かつどうしていた。

2003ねん9がつ4にち、78さいぼつ洋楽ようがく評論ひょうろんカリスマてき存在そんざいとして、ファンにしたしまれ、52年間ねんかんわた活動かつどう日本にっぽん音楽おんがくかいおおきな功績こうせきのこした。

命日めいにち放送ほうそうしたFMヨコハマのレギュラー番組ばんぐみ『ロッキン・グルーヴ』で湯川ゆかわれい山下やました達郎たつお城島じょうしましげる追悼ついとうコメントをせた。その、InterFMのレギュラー番組ばんぐみ『ロック・ザ・イチロー』は終了しゅうりょう。『ロッキン・グルーヴ』は大貫おおぬき憲章のりあきがれた。

活動かつどう[編集へんしゅう]

日本にっぽんレコード大賞たいしょう審査しんさいん長年ながねんつとめた。雑誌ざっしオリジナルコンフィデンス」では連載れんさいコーナー「WORLD HOT BUS」をっていた。

音楽おんがく評論ひょうろん伊藤いとう政則まさのりがDJをつとめる番組ばんぐみPOWER ROCK TODAY』(bayfm)の年末ねんまつスペシャルでは毎年まいとしスペシャル・ゲストとして登場とうじょう。4あいだにもおよ生放送なまほうそうであるにもかかわらず選曲せんきょく自身じしんおこない、オープニングからエンディングまで出演しゅつえんしていた。

2003ねん3がつには、WOWOW放送ほうそうしたべいニューヨークでおこなわれたグラミーしょうのリポートを担当たんとう

エピソード[編集へんしゅう]

  • トム・ペティの「ザ・ラスト・DJ」というきょくは、自分じぶんのテーマきょくだと発言はつげんしていた。
  • 2003ねんはるにローリング・ストーンズが来日らいにち公演こうえんおこなったさいに、アメリカのツアーではクラブ・ギグをおこなっているのにもかかわらず、日本にっぽんでの公演こうえん会場かいじょう東京とうきょうドーム日本武道館にほんぶどうかんなどの大型おおがた会場かいじょうだけであったことたいし、雑誌ざっしのインタビューで「日本にっぽんのイベンターがしっかりすれば日本にっぽんでもクラブ・ギグができるはず。アメリカではできてるのに日本にっぽんではできないなんてそんなバカなこと絶対ぜったいにない」と発言はつげん最後さいごまで日本にっぽん音楽おんがく業界ぎょうかいには忠告ちゅうこくのこしていた。
  • 生涯しょうがい最後さいごたライブは日本にっぽんでブレイクしてからあいだもないバンド、エヴァネッセンスはつ来日らいにち公演こうえん。また、インターFMの番組ばんぐみでは、ブレイクまえからかれらの楽曲がっきょくヘビーローテーションになっていた。
  • TOKIOふか交流こうりゅうっており、リーダーの城島じょうしましげるには「キーボードがいるバンドはめずらしいんだから頑張がんばりなさい」と頻繁ひんぱんにエールをおくっていたという。

出演しゅつえん番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 世界せかいのロックグループ
  • ロックの巨人きょじんたち
  • テメエットリのジャズ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b DJ名鑑めいかん 1987さんさいブックス、1987ねん2がつ15にち、133ぺーじ
  2. ^ コトバンク 福田ふくだ 一郎いちろう