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ご存知 ぞんじ の方 ほう は加筆 かひつ をお願 ねが いします。(2020年 ねん 7月 がつ )
カリスマ (ギリシア語 ご : Χάρισμα 、ドイツ語 ご : Charisma )とは、超 ちょう 自然 しぜん 的 てき ・超人 ちょうじん 間 あいだ 的 てき ・非 ひ 日常 にちじょう 的 てき な資質 ししつ や能力 のうりょく 。神 かみ の賜物 たまもの または天 てん 賦 ふ の力 ちから で、教祖 きょうそ ・預言 よげん 者 しゃ ・呪術 じゅじゅつ 師 し ・英雄 えいゆう などに見 み られるとされる。『オックスフォード現代 げんだい 英 えい 英 えい 辞典 じてん 』(Oxford Advanced Learner's Dictionary )では、カリスマ(charisma)は「一部 いちぶ の人々 ひとびと が持 も つ、他 た の人々 ひとびと を引 ひ きつけ感銘 かんめい を与 あた える強力 きょうりょく な個人 こじん の性質 せいしつ 」 ("the powerful personal quality that some people have to attract and impress other people")とされている[3] 。カリスマを持 も つ者 もの による支配 しはい を、ドイツ の社会 しゃかい 学者 がくしゃ マックス・ヴェーバー は「カリスマ的 てき 支配 しはい 」と呼 よ び、支配 しはい の三 さん 類型 るいけい の一 ひと つとした。
一般 いっぱん 的 てき には、特定 とくてい の人物 じんぶつ に宿 やど る特別 とくべつ な能力 のうりょく や資質 ししつ をあらわす概念 がいねん である[4] 。とりわけ、人々 ひとびと を引 ひ きつけたり信服 しんぷく させるある種 しゅ の人格 じんかく 上 じょう の特質 とくしつ や魅力 みりょく を指 さ す[5] 。より一般 いっぱん 論 ろん 的 てき 説明 せつめい としては、特定 とくてい の個人 こじん 、身分 みぶん 、社会 しゃかい 組織 そしき 、象徴 しょうちょう 、事物 じぶつ などに、他 た とは異 こと なる超自然 ちょうしぜん 的 てき 、超 ちょう 人間 にんげん 的 てき 、非 ひ 日常 にちじょう 的 てき な力 ちから や性質 せいしつ がそなわっていると認識 にんしき される場合 ばあい に、それらのもつ特質 とくしつ をカリスマという[6] 。宗教 しゅうきょう 社会 しゃかい 学 がく においてカリスマは、人間 にんげん の社会 しゃかい 生活 せいかつ の中 なか で例外 れいがい 的 てき に世界 せかい の根底 こんてい にある究極 きゅうきょく 的 てき 秩序 ちつじょ にふれているものとして、日常 にちじょう 的 てき 秩序 ちつじょ を支 ささ え、あるいは破壊 はかい し新 あら たな秩序 ちつじょ を創造 そうぞう する性格 せいかく をもつとされる概念 がいねん であり、非合理 ひごうり 的 てき であるなどの点 てん において、ルドルフ・オットー がヌミノーゼ と呼 よ ぶ「聖 せい なるもの」の概念 がいねん と類似 るいじ する[6] 。
元来 がんらい 、ギリシア語 ご の χάρισμα (恵 めぐ み、賜物 たまもの )は「神 かみ より賜 たまわ った能力 のうりょく 」といった意味 いみ で、「神 かみ の賜物 たまもの 、恩寵 おんちょう 」として新約 しんやく 聖書 せいしょ などに用例 ようれい があり[7] 、キリスト教 きょう の神学 しんがく 上 じょう の概念 がいねん として用 もち いられてきた。ドイツの法制 ほうせい 史家 しか ルドルフ・ゾーム (de:Rudolph Sohm ) が原始 げんし キリスト教団 きょうだん の歴史 れきし を叙述 じょじゅつ する際 さい にこの言葉 ことば を使 つか い、社会 しゃかい 学者 がくしゃ マックス・ヴェーバー がそれを社会 しゃかい 学 がく の概念 がいねん として導入 どうにゅう した。ヴェーバーはカリスマという語 かたり を、人 ひと ではなく物 もの に宿 やど る力 ちから という意味 いみ でも用 もち いたが、社会 しゃかい における支配 しはい のありようを論 ろん ずるに当 あ たって、預言 よげん 者 しゃ 、呪術 じゅじゅつ 師 し 、英雄 えいゆう などの個人 こじん に宿 やど る非 ひ 日常 にちじょう 的 てき な資質 ししつ をカリスマとし、そのような人物 じんぶつ による支配 しはい をカリスマ的 てき 支配 しはい として分析 ぶんせき した。以後 いご 、カリスマという言葉 ことば は社会 しゃかい 学 がく 的 てき 用語 ようご として普及 ふきゅう し、指導 しどう 者 しゃ や新 しん 宗教 しゅうきょう などに関 かん する研究 けんきゅう で用 もち いられている[4] 。
日本 にっぽん では1999年 ねん の「現代 げんだい 用語 ようご の基礎 きそ 知識 ちしき 」選出 せんしゅつ の流行 りゅうこう 語 ご トップテン入賞 にゅうしょう 語 ご となっている[8] 。
カリスマ (χάρισμα ) は古代 こだい ギリシア語 ご において χάρις (恵 めぐ み)、もしくは χαρίζομαι (好意 こうい )、χαίρω (喜 よろこ び)から派生 はせい した語 かたり とされる[9] 。
社会 しゃかい 学 がく 用語 ようご としてのカリスマ[ 編集 へんしゅう ]
カリスマはヴェーバーが科学 かがく 概念 がいねん として持 も ち出 だ し普遍 ふへん 化 か した語 かたり であり、情動 じょうどう 的 てき 帰依 きえ によって成 な り立 た つ支配 しはい の根拠 こんきょ [10] である。
ヴェーバーは何 なに ゆえに支配 しはい は正当 せいとう 化 か されうるのかという観点 かんてん から、カリスマ的 てき 支配 しはい を合法 ごうほう 的 てき および伝統 でんとう 的 てき 支配 しはい とともに支配 しはい の三 さん 類型 るいけい として構想 こうそう した。
カリスマ的 てき 支配 しはい とは「特定 とくてい の人物 じんぶつ の非 ひ 日常 にちじょう 的 てき な能力 のうりょく に対 たい する信仰 しんこう 」によって成立 せいりつ している支配 しはい で、その正当 せいとう 性 せい は、カリスマ的 てき な人物 じんぶつ の「呪術 じゅじゅつ 力 りょく に対 たい する信仰 しんこう 、あるいは啓示 けいじ 力 りょく や英雄 えいゆう 性 せい に対 たい する崇拝 すうはい 」に基 もと づく[11] 。そして「これらの信仰 しんこう の源 みなもと は、奇跡 きせき あるいは勝利 しょうり および他 た の成功 せいこう によって、すなわち、信 しん 従者 じゅうしゃ へ福祉 ふくし をもたらすことによって、そのカリスマ的 てき な能力 のうりょく を実証 じっしょう することにある」。
カリスマ的 てき 支配 しはい は、偉大 いだい な政治 せいじ 家 か ・軍人 ぐんじん ・預言 よげん 者 しゃ ・宗教 しゅうきょう 的 てき 教祖 きょうそ など、政治 せいじ や宗教 しゅうきょう の領域 りょういき における支配 しはい 者 しゃ ・指導 しどう 者 しゃ に対 たい して用 もち いられ、被 ひ 支配 しはい 者 しゃ ・被 ひ 指導 しどう 者 しゃ は支配 しはい 者 しゃ ・指導 しどう 者 しゃ のカリスマ的 てき 資質 ししつ に絶大 ぜつだい の信頼 しんらい を置 お いて服従 ふくじゅう ・帰依 きえ するのである。政治 せいじ 的 てき カリスマでは「軍事 ぐんじ カリスマ」と「雄弁 ゆうべん カリスマ」が、宗教 しゅうきょう 的 てき カリスマでは「預言 よげん カリスマ」と「呪術 じゅじゅつ カリスマ」が歴史 れきし 上 じょう 重要 じゅうよう である。カエサル やナポレオン はその軍事 ぐんじ カリスマによって、リンカーン やヒトラー 、毛沢東 もうたくとう はその雄弁 ゆうべん カリスマによって世界 せかい 史 し を動 うご かした。イエス やマホメット はその預言 よげん カリスマによって、卑弥呼 ひみこ はその呪術 じゅじゅつ カリスマによって社会 しゃかい を変革 へんかく してきた。とりわけ古代 こだい においては戦争 せんそう 指導 しどう 者 しゃ の軍事 ぐんじ カリスマと呪術 じゅじゅつ 師 し の平和 へいわ 主義 しゅぎ 的 てき カリスマの関係 かんけい が文化 ぶんか の発展 はってん においては決定的 けっていてき であった[12] 。
なお、ここで注意 ちゅうい すべきは、ヴェーバーの言 い うカリスマは、善悪 ぜんあく という価値 かち 判断 はんだん からは自由 じゆう な(「価値 かち 自由 じゆう (Wertfreiheit)」な)概念 がいねん ということである。その意味 いみ で、ヒトラーや毛沢東 もうたくとう はイエスと同様 どうよう にカリスマの保持 ほじ 者 しゃ と見 み なされるのである。
カリスマ的 てき 支配 しはい は、カリスマの不安定 ふあんてい な性質 せいしつ (非 ひ 日常 にちじょう 性 せい )のために、ただ一時 いちじ 的 てき にのみ存在 そんざい する。ここからカリスマの日常 にちじょう 化 か が始 はじ まる。「カリスマ型 がた 支配 しはい は持続 じぞく することはできず、伝統 でんとう 化 か されたものへまたは合理 ごうり 化 か されたものへ、あるいは両方 りょうほう の結合 けつごう したものへ変化 へんか する」[13] 。カリスマが世襲 せしゅう によって伝統 でんとう 化 か される場合 ばあい は「血統 けっとう カリスマ」となる。カリスマが成文 せいぶん 化 か された手段 しゅだん によって合理 ごうり 化 か される場合 ばあい は「制度 せいど カリスマ」と呼 よ ばれる。あるいは、カリスマが、伝統 でんとう 化 か および合理 ごうり 化 か の結合 けつごう によって非 ひ 人格 じんかく 化 か される場合 ばあい は「官職 かんしょく カリスマ」となる。この「血統 けっとう カリスマ」、「制度 せいど カリスマ」および「官職 かんしょく カリスマ」はカリスマ本来 ほんらい の非 ひ 日常 にちじょう 性 せい 的 てき 性質 せいしつ が失 うしな われ日常 にちじょう 化 か したものである。
精神 せいしん 医学 いがく 用語 ようご としてのカリスマ[ 編集 へんしゅう ]
カリスマ的 てき 先導 せんどう 者 しゃ の失敗 しっぱい はカリスマ信仰 しんこう への裏切 うらぎ りとなり、往々 おうおう にして追従 ついしょう 集団 しゅうだん の急速 きゅうそく な解体 かいたい が生 しょう じる[14] 。にも関 かか わらず現代 げんだい に至 いた るまで人 ひと がカリスマを強 つよ く求 もと めるのは、超 ちょう 常 つね 現象 げんしょう (不思議 ふしぎ 現象 げんしょう )に強 つよ く惹 ひ かれることに由来 ゆらい するからであるとされる。
人 ひと は繰 く り返 かえ す日常 にちじょう に退屈 たいくつ しやすく、絶 た えず非 ひ 日常 にちじょう へと誘 さそ われる性質 せいしつ を持 も っている。そしてカリスマは非 ひ 日常 にちじょう への誘 さそ いとなる。故 ゆえ にカリスマ的 てき 人物 じんぶつ (新 あら たな「恋愛 れんあい 」対象 たいしょう 者 しゃ )は、非 ひ 日常 にちじょう 的 てき である方 ほう が好都合 こうつごう である。非 ひ 日常 にちじょう 世界 せかい を求 もと める者 もの にとっては、珍奇 ちんき で周囲 しゅうい から変 か わり者 もの と思 おも われる人物 じんぶつ の方 ほう が魅力 みりょく 的 てき に映 うつ り、端正 たんせい な人物 じんぶつ の言葉 ことば は「正 ただ しい」だけで魅力 みりょく を感 かん じない。そしてカリスマに引 ひ き寄 よ せられた者 もの は、自己 じこ と向 む き合 あ うことを避 さ け、検証 けんしょう 能力 のうりょく を持 も たなくなる(カリスマに自己 じこ を委 ゆだ ねる)。カリスマが批判 ひはん された場合 ばあい は、それをカリスマの聖 ひじり 性 せい の証明 しょうめい と受 う け取 と る。この時点 じてん で日常 にちじょう 的 てき 判断 はんだん は手放 てばな され、カリスマ的 てき 人物 じんぶつ の意向 いこう のまま徹底 てってい して信者 しんじゃ は追従 ついしょう していくこととなる。
だが日常 にちじょう を退屈 たいくつ に思 おも う心理 しんり 機構 きこう は、過敏 かびん な感性 かんせい を持 も つ反面 はんめん 、怠惰 たいだ な性質 せいしつ の者 もの に多 おお く発生 はっせい する。実際 じっさい には同 おな じ出来事 できごと が同 おな じ状況 じょうきょう で繰 く り返 かえ されることも、昨日 きのう と同 おな じ今日 きょう という時間 じかん も在 あ り得 え ない。退屈 たいくつ な“終 お わりなき日常 にちじょう ”を変革 へんかく し得 え るのは、自己 じこ の意識 いしき のみである。過敏 かびん な感性 かんせい は先天的 せんてんてき だが、豊 ゆた かな感性 かんせい は学習 がくしゅう によってしか生 う み出 だ されず、また豊穣 ほうじょう な個人 こじん 的 てき 体験 たいけん は、その個人 こじん の社会 しゃかい への参加 さんか 水準 すいじゅん に比例 ひれい しているという。
宗教 しゅうきょう 的 てき 概念 がいねん としてのカリスマ[ 編集 へんしゅう ]
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キリスト教 きりすときょう 神学 しんがく [ 編集 へんしゅう ]
もとは、キリスト教 きりすときょう 用語 ようご として、『新約 しんやく 聖書 せいしょ 』において、神 かみ からの天与 てんよ の賜物 たまもの の意味 いみ で用 もち いられた言葉 ことば である[16] 。
ユダヤ教 きょう とキリスト教 きりすときょう の伝統 でんとう においては、七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ でこの語 かたり が神 かみ の賜物 たまもの の意味 いみ で使 つか われており、キリスト教 きりすときょう 用語 ようご としては紀元前 きげんぜん から一貫 いっかん して、神 かみ からの天与 てんよ の賜物 たまもの の意味 いみ である[16] 。カトリック教会 きょうかい では、ペンテコステ の名称 めいしょう よりもカリスマの語 かたり が使 つか われる[17] 。
この語 かたり は、新約 しんやく 聖書 せいしょ の諸 しょ 書簡 しょかん において知 し られている。キリスト教 きょう における「カリスマ」は、神 かみ からの恩寵 おんちょう 、賜物 たまもの である。ローマ1:11、5:15-16、6:23、11:29、12:6、第 だい 一 いち コリント1:7、7:7、12:4,12:9,12:28,12:30,12:31、第 だい 二 に コリント1:11、第 だい 一 いち テモテ4:14、第 だい 二 に テモテ1:6、第 だい 一 いち ペテロ4:7にギリシャ語 ご のこの語 かたり が出 で て来 く る。ローマ5:15は救 すく いの恵 めぐ みの賜物 たまもの 、6:23は神 かみ の賜物 たまもの 「キリスト・イエスにある永遠 えいえん のいのち」、11:29は「神 かみ の賜物 たまもの と召 め し」である[18] 。御霊 みたま の賜物 たまもの は第 だい 一 いち に三位一体 さんみいったい の神 かみ から与 あた えられているもので、教会 きょうかい の益 えき のために用 もち いるべきものであると福音 ふくいん 派 は では教 おし えられている[信頼 しんらい 性 せい 要 よう 検証 けんしょう ] [19] 。カトリック教会 きょうかい では、キリストのからだの成長 せいちょう に協力 きょうりょく できる者 もの となるために与 あた えられる恵 めぐ みの賜物 たまもの に、秘跡 ひせき に固有 こゆう の秘跡 ひせき 的 てき 恩恵 おんけい と、カリスマの恵 めぐ みがあり、それはすべて成 なり 聖 ひじり の恩恵 おんけい 、教会 きょうかい の共通 きょうつう 善 ぜん 、教会 きょうかい を築 きず く愛 あい を助 たす けるためにあると教 おし えている[20] 。
ドイツの教会 きょうかい 法学 ほうがく 者 しゃ ルドルフ・ゾーム は、『教会 きょうかい 法 ほう 』(Kirchenrecht)第 だい 1巻 かん (1892年 ねん )のなかで、1世紀 せいき のキリスト教 きりすときょう のエクレシア(集会 しゅうかい )を説明 せつめい ・分析 ぶんせき するために、この語 かたり を用 もち いた。
1960年代 ねんだい 以降 いこう にはカリスマ運動 うんどう とよばれる宗教 しゅうきょう 運動 うんどう がみられる。
その他 た
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Sohm, Rudolph (1892). Kirchenrecht . Berlin: Duncker & Humblot