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祭文さいぶん

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人倫じんりん訓蒙くんもう』(元禄げんろく3ねん1690ねん))より「祭文さいぶん挿図そうず
山伏やまぶしによる祭文語さいもんかた

日本にっぽんにおける祭文さいぶん(さいもん)は、かみまつるときにぶん[1]本来ほんらいまつのときなどに神仏しんぶつたいして祈願きがん祝詞のりと(のりと)としてもちいられる願文がんもんであったが、のちに信仰しんこうはなれて芸能げいのうしていった。

祝詞のりと日本にっぽん古来こらい祭儀さいぎまれ、伝統でんとうてきないし公的こうてき性質せいしつつよくもつのにたいし、祭文さいぶん個人こじんてき私的してき性格せいかくゆうし、中国ちゅうごくから伝来でんらいした祭祀さいしなどにとなえられることがおおかった[1]。なお、願文がんもんとしての祭文さいぶん文献ぶんけん資料しりょうにおいてあらわれるもっとふるれいは、8世紀せいきすえ成立せいりつした『ぞく日本にっぽん』においてである[2]

かたりもの芸能げいのうとしての歴史れきしは、中世ちゅうせいにさかのぼる。近世きんせいには歌謡かようした「歌祭文うたざいもん(うたざいもん)」が隆盛りゅうせいし、たんに「祭文さいぶん」といった場合ばあいには、この歌祭文うたざいもんすこともおおい。

歴史れきし

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祭文さいぶんは、神道しんとうにおける祝詞のりと母体ぼたいにしながらまれ、中世ちゅうせいには仏教ぶっきょう声明せいめいつよ影響えいきょうけて山伏やまぶしらによる民間みんかんへの布教ふきょう手段しゅだんとしてかたられるようになり、次第しだい宗教しゅうきょうしょくうすめて近世きんせいには遊芸ゆうげいとなったものである。

巫女ふじょ憑依ひょういするときにとなえる祝詞のりと祭文さいぶん一種いっしゅである。現代げんだいでは東北とうほく地方ちほうしゅとしておこなわれる民間みんかん信仰しんこうおしらさま」において、盲目もうもく巫女ふじょイタコ」が一対いっつい木片もくへん(これを「おしらさま」としょうす)を祭日さいじつあそばせるさい、「おしら祭文さいぶん」がかたられる[3]

一方いっぽう託宣たくせん祭文さいぶんのかたちをとってこんにちにのこされたものとしては、伊豆諸島いずしょとう青ヶ島あおがしま東京とうきょう青ヶ島あおがしまむら)につたわる祭文さいぶん高知こうちけんつたわる「いざなぎりゅう」の祭文さいぶん後述こうじゅつ)がある[3]

古代こだい

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桓武かんむ天皇てんのうぞう」(延暦寺えんりゃくじくら

神道しんとうまつりさい神前しんぜんを「祝詞のりと」としょうしたのにたいし、仏教ぶっきょうふうないし中国ちゅうごくふう祭祀さいしにあっては「祭文さいぶん」としょうすることがおおかった[4]。ただし、さん博士はかせ三善さんぜんためやすし永久えいきゅう4ねん(1116ねん)にへんしたといわれる『朝野ちょうやぐん』にあっては、大祓おおはらいさいにツミ・ケガレをはらうためにとなえられた「ちゅうしんはらい」(大祓おおはらい)が「ちゅうしん祭文さいぶん」と表記ひょうきされている[4]。「ちゅうしんはらい」ないし「ちゅうしん祭文さいぶん」は、ちゅうしん代々だいだい大祓おおはらい祝詞のりとせん(の)ることを生業せいぎょうとしたためにまれたであり、平安京へいあんきょう朱雀すざくもん奏上そうじょうされた[4]

祭文さいぶん」のかたり史料しりょうにあらわれる最古さいこれいは『ぞく日本にっぽん』であり[2]桓武かんむ天皇てんのう治下ちかのべれき6ねん787ねん)11月、天神てんじん河内かわうちこく交野かたのげん大阪おおさか交野かたの)にまつったさい祭文さいぶん2へんである[1][4]。このとき、郊祀がおこなわれ、桓武かんむ天皇てんのう実父じっぷひかりじん天皇てんのうあわせてまつり、「てん上帝じょうていぐ」という中国ちゅうごくの郊祀の体裁ていさいをふまえた祭文さいぶんをつくっている[4]。この2へんかん文体ぶんたいであり、中国ちゅうごくの「祭文さいぶん」の形式けいしきいでいる[1]

菅原すがわら道真みちざね菅家すがや文章ふみあきなな祭文さいぶん」におさめられた2へん祭文さいぶんもまた、中国ちゅうごく祭文さいぶん形式けいしきかれており[1]、『延喜えんぎしき』「だい学寮がくりょうしき」の釈尊しゃくそん祭文さいぶん、『朝野ちょうやぐん永久えいきゅう元年がんねん1113ねん)2がつ北辰ほくしん祭文さいぶんもまた、かん文体ぶんたい祭文さいぶんである[4]。その、『本朝ほんちょうぶんいき』『本朝ほんちょうぞくぶんいき』などにも漢文かんぶんたい祭文さいぶん収載しゅうさいされている。古代こだいにあって祭文さいぶんをつくった人物じんぶつとしては、和漢わかんつうじた学者がくしゃとしてられる大江匡房おおえのまさふさがおり、『朝野ちょうやぐん』のうけたまわこよみ2ねん1078ねんじょうにはかれのつくった歌合うたあわせ祭文さいぶんが、よしみうけたまわ元年がんねん1106ねんじょうにはただしぼう作成さくせい病気びょうき平癒へいゆ祭文さいぶん収載しゅうさいされている[4]

一方いっぽう祝詞のりとは、神道しんとうにおいて神徳しんとくとなえ、崇敬すうけいひょうする文章ぶんしょうかみ奏上そうじょうし、もってかみ々の加護かご利益りえきんとする詞章ししょうであった。祝詞のりと通常つうじょう大和言葉やまとことばによってつくられ、神職しんしょくによって独自どくじ節回ふしまわしによる朗誦ろうしょうおこなわれる。そのもっともふる文例ぶんれいは、延長えんちょう5ねん927ねん完成かんせいの『延喜えんぎしきまきはち収録しゅうろくされる29へんいで藤原ふじわらよりゆきちょうたい』(1155ねん以降いこう完成かんせい別記べっき所収しょしゅうの「ちゅうしん寿ことぶき」のけい30へんである。

以上いじょうたいし、『延喜えんぎしき』「陰陽いんようりょうしき収載しゅうさいされた儺祭(すくなまつり)の祭文さいぶんは、祝詞のりとぶん漢文かんぶん混淆こんこうしており、国語こくご資料しりょうとして貴重きちょうである[4]。儺祭は、毎年まいとし12がつ晦日みそか宮廷きゅうていでおこなわれた行事ぎょうじであり、この祭文さいぶん陰陽いんようによってまれた[1]冒頭ぼうとう部分ぶぶんかん文体ぶんたい中間ちゅうかん以降いこう和文わぶんからだ祝詞のりとぶん宣命書せんみょうがき表記ひょうきほうもちいている[1]。儺祭は、日本にっぽん古来こらいかみまつりではなく、中国ちゅうごく渡来とらい行事ぎょうじであり、陰陽いんようによってになわれたところから「祭文さいぶん」としょうされたものとかんがえられる[1]。このように、平安へいあん時代じだいにおける祭文さいぶんには陰陽いんようどう色彩しきさいいものもおおられている[2]

中世ちゅうせい

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名所めいしょ図会ずえ』(1790ねん)より「太秦うずまさうしさい図絵ずえ
きゅうがつじゅうにち 太秦うずまさうしさい 聖徳太子しょうとくたいしはじめて執行しっこうひたまひ、祭文さいぶん弘法大師こうぼうだいしつくきゅうふとなんいひつたはべる」の確認かくにんできる。

祭文さいぶん本来ほんらい神仏しんぶつたいしてはっせられた願文がんもんであったが、中世ちゅうせいはいると山伏やまぶし修験しゅげんしゃがれた[2][5]修験しゅげんしゃによる祭文さいぶんは、仏教ぶっきょう声明せいめい影響えいきょうつよけ、やがて錫杖しゃくじょうり、法螺貝ほらがいいて歌謡かようし、さらに修験しゅげんたびにともない日本にっぽん列島れっとう各地かくちひろがった[2][5]同時どうじに、定住ていじゅうしゃである神職しんしょくによる祝詞のりととは明瞭めいりょう区別くべつされるようになった。

山伏やまぶし各地かくち神事しんじ祈祷きとうさい祭文さいぶんをよみあげ、かみおろし神仏しんぶつ恩寵おんちょうねがった[6]中世ちゅうせいにおいて、神仏しんぶつ習合しゅうごうつよ影響えいきょうけた祭文さいぶんは、巫女ふじょなどの下級かきゅう宗教しゅうきょうしゃ声聞しょうもんなど漂泊ひょうはく芸能げいのうしゃにもわたって、その勧進かんじん活動かつどう芸能げいのう活動かつどうにともないひろめられ、かく地方ちほう文芸ぶんげい娯楽ごらく寄与きよした。また、農村のうそん宗教しゅうきょう行事ぎょうじともむすびついて、悪霊あくりょう退散たいさんのろいなどとなって定着ていちゃくした[2][3]

いまにつたわる中世ちゅうせい祭文さいぶんとしては、大和やまとこく元興寺がんこうじ極楽ごくらくぼうにあった「夫婦ふうふ和合わごう離別りべつ祭文さいぶん」や京都きょうと太秦うずまさ広隆寺こうりゅうじの「うしさい祭文さいぶん」、三河みかわこく山間さんかんつたわる花祭はなまつり祭文さいぶん中国ちゅうごく地方ちほう神楽かぐらえんじられた「ぎょう祭文さいぶん」、また、土佐とさこく香美かがみぐん物部ものべつたわる「いざなぎりゅう祭文さいぶん」などがられている[2]いざなぎりゅうは、陰陽いんようどう要素ようそおおふくみながらも土佐とさこく独自どくじ発展はってんした民間みんかん信仰しんこうであり、その祭文さいぶん定式ていしき体系たいけいされている。

なお、広隆寺こうりゅうじうしさいのようすは寛政かんせい2ねん1790ねん発行はっこうの『名所めいしょ図会ずえ』「太秦うずまさうしさい図絵ずえ」にえがかれ、そこには「祭文さいぶん弘法大師こうぼうだいしつくきゅうふとなんいひつたはべる」としるされており、うしさい祭文さいぶん空海くうかい作成さくせい伝承でんしょうされてきたことがわかる。この祭文さいぶんは、きわめて長大ちょうだいで、あらゆる宗教しゅうきょうかみ々のがあらわれる特異とくいなものである。

近世きんせい

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祭文さいぶんは、中世ちゅうせい後期こうきから近世きんせい初期しょきにかけて、遊芸ゆうげいそう山伏やまぶしによって俗化ぞっかされ、とくに、近世きんせい初期しょき三味線しゃみせん伴奏ばんそう楽器がっきくわえて歌謡かようし、下級かきゅう芸能げいのうしゃ零落れいらくいちじるしくなっていっそう芸能げいのうすすんだ[2][5][7]

山伏やまぶし願人坊主がんにんぼうずがみずからのほうずるかみ本地ほんじ縁起えんぎ神仏しんぶつ霊験れいけんきあるいて祭文さいぶんとなえ、また、唱導しょうどう伝統でんとういだ宗教しゅうきょうしょくつよい「唱導しょうどう祭文さいぶん」をもって諸国しょこく放浪ほうろうする一方いっぽうアドリブ卑猥ひわいなことばや駄洒落だじゃれといった諧謔かいぎゃくあじおおれた「もじり祭文さいぶん」や「若気わかげ祭文さいぶん」もひろ大衆たいしゅう人気にんきあつめた[2][6]。また、芸能げいのう同様どうよう祭文さいぶんにおいてもかぞうたがつくられるようになった。

歌祭文うたざいもんうたほん油屋あぶらやしみ久松ひさまつ

江戸えど時代じだいはいり、祭文さいぶん三味線しゃみせんなどとむすびついて俗謡ぞくようとなり、犯罪はんざい心中しんちゅうのなど世俗せぞく事件じけんげるようになったが、これを「歌祭文うたざいもん」または「祭文さいぶんぶし」としょうしている[3][5][8]。これにたいし、錫杖しゃくじょう法螺貝ほらがいのみをもちいた「かい祭文さいぶん」(デロレン祭文さいぶん後述こうじゅつ)は、世俗せぞくてき物語ものがたり採用さいようしながらもかたりものてき要素ようそつよ芸能げいのうであった[8]

歌祭文うたざいもん祭文さいぶんぶし)は、元禄げんろく1688ねん-1704ねん以降いこう、「八百屋やおやしち恋路こいじ歌祭文うたざいもん」「おしみ久松ひさまつ藪入やぶいり心中しんちゅうの祭文さいぶん」などといった演目えんもくがあらわれ、世俗せぞく恋愛れんあい心中しんちゅうの事件じけん、また犯罪はんざい事件じけんをはじめとする下世話げせわニュースなどもれ、一種いっしゅクドキ調しらべみこむようになった[2][5][注釈ちゅうしゃく 1]。ほかには、余興よきょうとして「まちづくし」「はしづくし」「名所めいしょづくし」などの物尽ものづくしもかたったほか、役者やくしゃ追善ついぜん遊女ゆうじょ名寄なよせもおこなった[6][7]

このような歌祭文うたざいもん隆盛りゅうせいにより、祭文語さいもんかたりを専業せんぎょうとする芸人げいにん歌手かしゅ)もあらわれた[3]大坂おおさか生玉いくたま神社じんじゃ境内けいだいには、ていしつらえ小屋こやさえつくられ、歌舞伎かぶき文楽ぶんらく人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり)など当時とうじ演劇えんげきにも影響えいきょうあたえている[7]

その下層かそうみんむすびついて余命よめいたもった本流ほんりゅう門付かどづけ祭文さいぶんがあり、説経節せっきょうぶしむすびついた説経せっきょう祭文さいぶんがあった(後述こうじゅつ[2][3]

このように、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこうはとくに祭文さいぶん多様たよう進行しんこうしたが、これらに共通きょうつうする特徴とくちょうとしては、「そもそも(そもそ)も勧請かんじょうおろしたてまつる」など定型ていけいした祭文さいぶん形式けいしき踏襲とうしゅうし、錫杖しゃくじょうもしくはそれをみじかくしたきむつえ、そして法螺貝ほらがい伴奏ばんそう使つかうことであった[2]

なお、祭文語さいもんかたりの芸人げいにんは、つじってうたほん販売はんばいをもおこなった[5]ふるいところでは「さい河原かわら」「胎内たいないさがし」があり、「八百屋やおやしち(おななよし三郎さぶろう)」「はつ徳兵衛とくべえ」「しょうさん金五郎きんごろう」「千代ちよ半兵衛はんべえ」「なつきよし十郎じゅうろう」「しゅん伝兵衛でんべえ」はとくに人気にんきたかく、これらを総称そうしょうして「はち祭文さいぶん」としょうした[5]著名ちょめい作品さくひんとしては、「さんしょうはんなな」「おさん茂兵衛もへい」「梅川うめかわ忠兵衛ちゅうべえ」「おつまはちろう兵衛ひょうえ」がある[7][注釈ちゅうしゃく 2]うたほんいちまいすり版行はんこうされ、さらに、ほん刊行かんこうされた。文楽ぶんらく作品さくひんの『新版しんぱん歌祭文うたざいもん』が「新版しんぱん」と銘打めいうたれたのは、先行せんこうさく意識いしきしたのと同時どうじ歌祭文うたざいもんにおけるうたほん版行はんこう由来ゆらいするとかんがえられる[7]

浄瑠璃じょうるり新版しんぱん歌祭文うたざいもん』について

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野崎のさきむらだん」がとくられる浄瑠璃じょうるり新版しんぱん歌祭文うたざいもん』の冒頭ぼうとうは、「敬白けいはく(うやまってもうす)」という祭文さいぶんかたしを踏襲とうしゅうしている[7][注釈ちゅうしゃく 3]。この作品さくひんは、近松ちかまつ半二はんじ世話物せわものとしてられ、「おそめ久松ひさまつ」の心中しんちゅうの事件じけん下敷したじきにしている。ここでは、

なさけのたねをこなすあぶらおそめといふて、ひとりむすめのこころはわかめ、うちのこがいの久松ひさまつと…
ところはみやこの東堀ひがしほりいて鬼門きもん角屋敷かどやしき瓦屋かわらやきょうとや油屋あぶらや一人娘ひとりむすめにおしみとて、しんはないろざかり、としはち(にはち)のほそまゆに、うち子飼こがいの久松ひさまつが、しのびしのびにと、おやたちゆめにもしろしぼり(しらしぼり)

など歌祭文うたざいもん歌詞かしれられている[7]

歌祭文うたざいもんから派生はせいしたしょ芸能げいのう

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盆踊ぼんおど瞽女ごぜうた

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クドキ調ちょうとなった歌祭文うたざいもん地方ちほうぼんおどりてんじていったものが「祭文さいぶんおど」、「祭文さいぶん音頭おんど」である[2][5]地域ちいきによっては、近年きんねんまで「佐倉さくら宗吾そうごくどき」や「いしわらわまるかりちがや道心どうしんくどき」によって盆踊ぼんおどおどられていたところもある[6]

越後えちごこくなど北陸ほくりく地方ちほうぼんおどりであった松坂まつさかたかし歌祭文うたざいもんむすびついてまれたのが「祭文さいぶん松坂まつさか」である[5][注釈ちゅうしゃく 4]祭文さいぶん松坂まつさかは、不自由ふじゆう女性じょせい旅芸人たびげいにんである瞽女ごぜ門付かどづけをしてうたってきたしゅくうたである[5][9]。「最後さいご瞽女ごぜ」といわれた小林こばやしハルもまた、『俊徳丸しゅんとくまる』『山椒さんしょう大夫たいふ』などの説経せっきょう祭文さいぶんとともに祭文さいぶん松坂まつさかえんじている[3]

説経せっきょう祭文さいぶん

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正保まさやす5ねん説経節せっきょうぶし正本しょうほん(『俊徳丸しゅんとくまる』)

中世ちゅうせい隆盛りゅうせいした説経節せっきょうぶしは、ささら鞨鼓伴奏ばんそう庶民しょみん仏教ぶっきょうひろめ、浸透しんとうさせてきたが、近世きんせいはいると浄瑠璃じょうるり影響えいきょうけ、三味線しゃみせんれて舞台ぶたい芸能げいのうとして一時いちじ成功せいこうおさめる一方いっぽう歌祭文うたざいもんむすびついて説経せっきょう祭文さいぶんとなり、くずれ山伏やまぶし瞽女ごぜなどによる大道芸だいどうげい門付かどづけげいとなった[6]

説経せっきょう祭文さいぶんかたられる演目えんもくには、歌祭文うたざいもん同様どうよう心中しんちゅうのぶつなど世俗せぞくてき話題わだいあつかったもののほか、『俊徳丸しゅんとくまる』『愛護あいごわか』『苅萱かるかや』『小栗おぐり判官ほうがん』などのように中世ちゅうせい以来いらい説経節せっきょうぶし演目えんもくもあった[6]。もとより、野外やがい芸能げいのう回帰かいきした説経せっきょう祭文さいぶんは、もんつじでの芸能げいのうであることから、通常つうじょう段物だんもの一段いちだんやサワリ部分ぶぶんだけをかたるものであり、かつての宗教しゅうきょうせいうしなわれ、いちじるしく世俗せぞくした[6]

ちょぼくれ・ちょんがれ・あほだらけい

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ちょぼくれ」は、江戸えど時代じだい後半こうはんにさかんになった大道芸だいどうげいのひとつで、歌祭文うたざいもん系統けいとうぞくする[10]願人坊主がんにんぼうずなど大道だいどうざつ芸人げいにん江戸えど上野うえの両国りょうこくなどの広小路ひろこうじはしのたもとなど殷賑いんしんでおこなう芸能げいのうで、錫杖しゃくじょうきむつえなどをりながら拍子ひょうしをとりつつ早口はやくちうたい、おどるもので「クドキ」ともいわれた[10][11]

真冬まふゆはだかがたあらわれた「すたすた坊主ぼうず」(願人坊主がんにんぼうず
しろかくれとしづる布袋ほていすたすた坊主ぼうず』(18世紀せいき

ちょぼくれが、ちいさな木魚もくぎょもちいてテンポをはやめてリズミカルにうたうものをとくに「あほだらけい」と[10]。ここでは、芸人げいにん2人ふたりのときは、ひとりが三味線しゃみせんくこともあった[5]

ちょんがれ」は、ちょぼくれのだいさかでの呼称こしょうで、講談こうだんなどの影響えいきょうけて複雑ふくざつ内容ないようえんじるかたりものとして発展はってんし、のちのかれぶし浪曲ろうきょく浪花節なにわぶし)につながった[5][8][10]。また、ちょんがれは、日本にっぽん歌謡かよう史上しじょう説経せっきょう祭文さいぶん民衆みんしゅうのうたいやすいクドキ形式けいしき変化へんかさせたという重要じゅうよう意義いぎゆうする[6][8]戦後せんご富山とやまけんした厖大ぼうだいりょうの「ちょんがれ写本しゃほん」の集積しゅうせき発見はっけんされたが、これは、盆踊ぼんおど鎮守ちんじゅ祭礼さいれいなどでさかんにちょんがれがうたわれたのみならず、地域ちいき社会しゃかいにおいて、ちょんがれぶし歌唱かしょう優劣ゆうれつきそ大会たいかいがしばしばあり、その番付ばんづけ神社じんじゃ掲額けいがくされたなどのしょ事情じじょうによるものとかんがえられる[6]。クドキは民衆みんしゅうによる物語ものがたり歌謡かよう(エピックソング)を可能かのうにし、近畿きんき地方ちほうの「しゅう音頭おんど」や「河内かわうち音頭おんど」、関東かんとう地方ちほうの「八木やぎたかし」「しょう念仏ねんぶつ」(飴屋あめやぶし)「万作まんさくぶし」、東北とうほく地方ちほうの「やすちん念仏ねんぶつ」「津軽つがるじょんからふし」などなななな調ちょう基調きちょうとするクドキの民謡みんよう多数たすうんだ[6]。その意味いみで、ちょんがれは説経せっきょう祭文さいぶん民謡みんようへとえていくおおきな媒介ばいかいとなったのである[6]

デロレン祭文さいぶん

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デロレン祭文さいぶんチラシ19世紀せいき

デロレン祭文さいぶんもまた歌祭文うたざいもん系統けいとうぞくし、ちょぼくれ、ちょんがれ、うかれぶしなどと同類どうるい芸能げいのうである[5][10]。ちょぼくれは、関東かんとうにあってはタンカ(啖呵たんか)のおおいものとなり、きむつえのほか拍子木ひょうしぎ張扇はりおうぎもちいたが、ことに法螺貝ほらがい調子ちょうしわせたものをデロレン祭文さいぶんかい祭文さいぶん)としょうした[5][10]法螺貝ほらがいくちにあて、デロレンデロレンと口三味線くちじゃみせんいのもちいたため、このがある[5]当初とうしょ大道芸だいどうげいとしてまれたが、小屋こやがけによって興行こうぎょうし、明治めいじ以降いこう寄席よせげいした[5]都会とかいでは浪曲ろうきょくとなって隆盛りゅうせいしたが、地方ちほうひろまったデロレン祭文さいぶん関東かんとう東北とうほく地方ちほう分布ぶんぷし、ことに仙台せんだい山形やまがたなどでは太平洋戦争たいへいようせんそうまでそのあとがみられた[5]

浪曲ろうきょく落語らくご講談こうだん

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幕末ばくまつまれた浪曲ろうきょく浪花節なにわぶし)は、説経節せっきょうぶし歌祭文うたざいもん双方そうほう源流げんりゅうとしてまれたかたりものである[5][8]上述じょうじゅつのちょんがれ(ちょぼくれ)、あほだらけい、デロレン祭文さいぶんはいずれも浪曲ろうきょく前身ぜんしんであり、かれぶしなどとどう系統けいとうである[5][8]1877ねん明治めいじ10ねん)、「かれぶし」の井上いのうえしんかい、のちの広沢ひろさわ虎吉とらきち代目だいめ大阪おおさか芸人げいにん鑑札かんさつけたころには、現在げんざい浪曲ろうきょく基礎きそがかたちづくられていただろうと推測すいそくされる[6]

一方いっぽう平安へいあん時代じだい以来いらい、とくに浄土じょうどきょう諸派しょはむすびつき、音韻おんいん抑揚よくようをともなって衆生しゅじょう仏道ぶつどうにいざなってきた唱導しょうどうかならずしも芸能げいのうせずに説教せっきょう法話ほうわ)のかたちでのこったとかんがえられる[12]。この説教せっきょう唱導しょうどう)と説経節せっきょうぶし、さらには「ちょんがれ」とがむすびついてふしだん説教せっきょうおこった[12]しろごえ(しらごえ)でかたるようになったふしだん説教せっきょう芸能げいのうして民衆みんしゅう娯楽ごらくとなったいっぽう、浪曲ろうきょくいち源流げんりゅうとなり、また、講談こうだん落語らくごかく芸能げいのう母体ぼたいとなった[12]

浪曲ろうきょく落語らくご講談こうだんはこのように、それぞれ大道芸だいどうげいをその起点きてんのひとつとしているが、近世きんせい以降いこう浪曲ろうきょく忠君ちゅうくん愛国あいこく義理ぎり人情にんじょう落語らくごわら人情にんじょう講談こうだん教養きょうようをおもなテーマとしながら、いずれも寄席よせ演芸えんげいとしておおきな発展はってんをとげた[13]

きん現代げんだい

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現代げんだいは、上述じょうじゅつふしだん説教せっきょう母体ぼたいまれた各種かくしゅ話芸わげいのほかは、伝統でんとうてき民俗みんぞく行事ぎょうじのなかで祭文さいぶんかたられる程度ていどであり、かつての祭文語さいもんかたりや歌祭文うたざいもんはみられなくなった。とく高度こうど経済けいざい成長せいちょう以後いごは、かつての放浪ほうろうげいがつぎつぎに姿すがたしている[14]

そうしたなかで、文学ぶんがく映画えいがアニメーションなどの領域りょういきでは、「祭文さいぶん」のけたり、祭文さいぶん題材だいざい着想ちゃくそうている作品さくひんもみられる。

また、現在げんざい神道しんとうにおける祭祀さいしでは、勅使ちょくし伊勢神宮いせじんぐうみことのりさいしゃ参向さんこうしたさい神前しんぜん奏上そうじょうするものを「祭文さいぶん」とぶ。祭文さいぶんかれるとり子紙こがみについて、伊勢神宮いせじんぐうには縹色はなだいろ(はなだいろ)、賀茂かも神社じんじゃには紅色こうしょく石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう春日大社かすがたいしゃには黄色おうしょくのものがもちいられる。

祭文さいぶん殿どの

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神楽かぐらえんじるが「神楽かぐら殿どの」であるのと同様どうよう祭文語さいもんかたりのが「祭文さいぶん殿どの」であった。

本殿ほんでん)、祭文さいぶん殿どのなか)、拝殿はいでんまえ)を回廊かいろうつないだ左右さゆう対称たいしょう建築けんちく様式ようしき尾張おわりづくりであり、尾張おわりこく愛知あいちけん西部せいぶ地方ちほう特有とくゆう建築けんちく様式ようしきである。愛知あいちけん稲沢いなざわ尾張おわり大国たいこく霊神れいじんしゃ犬山いぬやまだいけん神社じんじゃ一宮いちのみや真清田ますみだ神社じんじゃ名古屋なごや富部とんべ神社じんじゃ清須きよす河原かわはら神社じんじゃのほか、愛知あいちけん瀬戸せと定光寺ていこうじ豊田とよだろくしょ神社じんじゃ岡山おかやまけん岡山おかやま吉備津きびつ彦神しゃには「祭文さいぶん殿どの」がある。なお、名古屋なごや東照宮とうしょうぐうにもかつて祭文さいぶん殿どのがあったとつたえる。

ことわざ

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うさぎ祭文さいぶん」ということわざがあり、「うまみみ念仏ねんぶつ」「ねこ小判こばん」などと同様どうようで、なん効果こうかもないことを意味いみしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ しみ久松ひさまつ歌祭文うたざいもんには、に「あぶらやおそめ久松ひさまつ心中しんちゅうのうえ)」、「おそめ久松ひさまつおもひのたねした)」「おしみ久松ひさまつこい祭文さいぶん」「おしみ久松ひさまつめづくし」などがある。
  2. ^ 歌舞伎かぶき浄瑠璃じょうるり演目えんもくさくらつば恨鮫さや』のもととなった古手ふるてはちろう兵衛ひょうえのおつまごろしの事件じけんも、当初とうしょ歌祭文うたざいもんうたわれた作品さくひん(「おつまはちろう兵衛ひょうえ」)であった。
  3. ^ 野崎のさきむら」については、上方かみがた落語らくご演目えんもくとして「野崎のさきまい」があり、これは文楽ぶんらくなどと同様どうよう、おそめが久松ひさまつうための理由りゆうもちいた野崎のさき観音かんのん大阪おおさか大東だいとうぶく聚山慈眼寺じがんじまいりをえがいている。
  4. ^ 松坂まつさか」は、伊勢いせこく松阪まつざかよりはっしたという伝承でんしょうをもつ北陸ほくりく地方ちほう東北とうほく地方ちほうひろ分布ぶんぷするしゅくうたで、土地とちにより松坂まつさかたかしかたぶし(にがたぶし)・けんりょうぶし(けんりょうぶし)など、ことなる。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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