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大祓 おおはらい (おおはらえ、おおはらい)は、日本 にっぽん の神道 しんとう 儀式 ぎしき の祓 はらい の1つ。祓 はらい は浄化 じょうか [注釈 ちゅうしゃく 1] の儀式 ぎしき として宮中 きゅうちゅう や神社 じんじゃ で日常 にちじょう 的 てき に行 おこな われるが、特 とく に天下 てんか 万民 ばんみん の罪 つみ 穢 けがれ を祓 はら うという意味 いみ で大祓 おおはらい という[1] 。毎年 まいとし 6月 がつ と12月 の晦日 みそか 、すなわち、新暦 しんれき 6月30日 にち と12月31日 にち に行 おこな われるものを恒例 こうれい とするが、天皇 てんのう 即位 そくい 後 ご の最初 さいしょ の新嘗祭 にいなめさい である大嘗祭 だいじょうさい の前後 ぜんご や、未 み 曽 そ 有 ゆう の疫病 えきびょう の流行 りゅうこう 、斎宮 いつき 斎院 さいいん の卜 ぼく 定 じょう 、災害 さいがい の襲来 しゅうらい などでも臨時 りんじ に執 と り行 おこな うことがあった。中 ちゅう 臣 しん (なかとみ)の祓 はらい とも言 い われる。
大祓 おおはらい の初 はつ 見 み は、『古事記 こじき 』仲哀 ちゅうせつ 天皇 てんのう の段 だん に見 み える[1] 。
更 さら に
国 くに の
大 だい 奴 やつ 佐 さ ( おほぬさ ) を
取 と りて、
生 なま 剝( いきはぎ ) 、
逆 ぎゃく 剝( さかはぎ ) 、
阿 おもね 離 はなれ ( あはなち ) 、
溝 みぞ 埋 うめ ( みぞうめ ) 、
屎戸 ( くそへ ) 、
上通 かみとおり 下通 しもとおり 婚 こん ( おやこたはけ ) 、
馬 うま 婚 こん ( うまたはけ ) 、
牛 うし 婚 こん ( うしたはけ ) 、
鶏 にわとり 婚 こん ( とりたはけ ) 、
犬 いぬ 婚 こん ( いぬたはけ ) の
罪 つみ の
類 るい を
種種 しゅじゅ 求 もとむ ( ま ) ぎて、
国 くに の
大祓 おおはらい して
これら祓 はら うべきものたちを「天 てん つ罪 つみ 」「国 くに つ罪 ざい 」 といい、世俗 せぞく 的 てき な罪 つみ とは異 こと なり、祓 はら い清 きよ めるには普通 ふつう の祓 はらい 式 しき で用 もち いる短文 たんぶん の祓 はらい 詞 し (はらえことば、のりと)ではなく、長文 ちょうぶん の大祓 おおはらい 詞 し を奏上 そうじょう 、あるいは宣 せん (の)り下 か して浄化 じょうか する。大祓 おおはらい 詞 し には地上 ちじょう で国 くに の人間 にんげん が犯 おか す罪 つみ が主体 しゅたい の「国 くに つ罪 ざい 」よりも農耕 のうこう に関 かん する慣行 かんこう を破 やぶ ることが主体 しゅたい の「天 てん つ罪 つみ 」のほうを先 さき に列挙 れっきょ しており、古代 こだい ではこちらのほうが共同 きょうどう 体 たい 秩序 ちつじょ を乱 みだ す大罪 だいざい と考 かんが えていたことが窺 うかが える。
大祓 おおはらい 詞 し の内容 ないよう は、元々 もともと は6月 がつ と12月で内容 ないよう が異 こと なっていたが、『延喜 えんぎ 式 しき 』に「六 ろく 月 がつ 晦 みそ 大祓 おおはらい 、十二月 じゅうにがつ 此准」とあり、6月のものが残 のこ ったとされる。現在 げんざい は神職 しんしょく が神 かみ へ奏上 そうじょう する形 かたち をとっているが、『延喜 えんぎ 式 しき 』に残 のこ された内容 ないよう からは、本来 ほんらい は参集 さんしゅう 者 しゃ に向 む かって「祝詞 のりと をよく聞 き け」と呼 よ びかけこれに「おう」と称 しょう 唯 ただ (いしょう)[注釈 ちゅうしゃく 2] して答 こた えるのに始 はじ まり、天孫 てんそん 降臨 こうりん からの日本 にっぽん 神話 しんわ 、罪 つみ 穢 けがれ の種類 しゅるい の列挙 れっきょ 、そしてその祓 はら い方 かた と、その後 ご 祓 はらい 戸 ど 大神 だいじん により、どのように罪 つみ 穢 けがれ が消 き えていくかをい聞 いき かせる内容 ないよう となっていた。
このように、大祓 おおはらい は、これら既 すで に起 お きてしまった災厄 さいやく をリセットして今後 こんご の国体 こくたい の鎮守 ちんじゅ を図 はか る意味 いみ の他 ほか 、共同 きょうどう 体 たい の構成 こうせい 員 いん に全員 ぜんいん の参加 さんか を義務付 ぎむづ けて宣下 せんげ する本来 ほんらい の形式 けいしき が推定 すいてい されることから、上位 じょうい の政権 せいけん による“禁忌 きんき を犯 おか してはならない”という法 ほう を広 ひろ く知 し らしめて遵守 じゅんしゅ させる側面 そくめん があったと考 かんが えられる[2] 。
現在 げんざい は大正 たいしょう 3年 ねん (1914年 ねん )に当時 とうじ の内務省 ないむしょう の選定 せんてい による神話 しんわ や障害 しょうがい 者 しゃ に対 たい する差別 さべつ 的 てき な表現 ひょうげん 内容 ないよう を含 ふく む天 てん つ罪 つみ ・国 くに つ罪 ざい の列挙 れっきょ の部分 ぶぶん が大幅 おおはば に省略 しょうりゃく された大 だい 祝詞 のりと が奏上 そうじょう される。これは中 ちゅう 臣 しん 祭文 さいぶん [3] (さいもん)とも言 い われ、現在 げんざい の大祓 おおはらい 詞 し はこれを一部 いちぶ 改訂 かいてい したものになっている。
宮中 きゅうちゅう 祭祀 さいし [ 編集 へんしゅう ]
昭和 しょうわ 天皇 てんのう の即位 そくい の礼 れい 。即位 そくい の礼 れい の年 とし に行 おこな われる大嘗祭 だいじょうさい では、天皇 てんのう が神 かみ と一緒 いっしょ に食事 しょくじ をする「大 だい 御 ご 饌供進 しん の儀 ぎ 」の前 まえ に禊 みそぎ と大祓 おおはらい が行 おこな われる。
大宝 たいほう 元年 がんねん (701年 ねん )の『大宝 たいほう 律令 りつりょう 』によって正式 せいしき な宮中 きゅうちゅう の年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ に、その施行 しこう 細則 さいそく は『延喜 えんぎ 式 しき 』に定 さだ められた。この上代 じょうだい の頃 ころ の儀式 ぎしき の様子 ようす は『儀式 ぎしき 』『北山 きたやま 抄 しょう 』『江 こう 家 か 次第 しだい 』などの文書 ぶんしょ で知 し ることができる。また『日本書紀 にほんしょき 』に天武天皇 てんむてんのう 5年 ねん (676年 ねん )8月 がつ 、全国 ぜんこく の国造 くにのみやつこ や郡司 ぐんじ から馬 うま ・布 ぬの ・麻 あさ などの祓 はらい 物 ぶつ を出 だ させて大 だい 解除 かいじょ を行 おこな ったとする記事 きじ が見 み える[4] 。
現在 げんざい の大祓 おおはらい は『養老 ようろう 律令 りつりょう 』によるものだが、神祇 じんぎ 令 れい によれば、毎年 まいとし の 6月 がつ と12月の晦日 みそか に中 ちゅう 臣 しん (なかとみ)が祓 はらい の麻 あさ (ぬさ)を東西 とうざい (やまとかわち)の文部 もんぶ (ふびとべ)が祓 はらい の刀 かたな (たち)(罪 つみ 穢 けがれ を断 た つ義 よし )を奉 まつ り、祓 はらい 所 しょ にて、中 ちゅう 臣 しん が百官 ひゃっかん の男女 だんじょ に大祓 おおはらい 詞 し を宣 の り下 くだ し、卜部 うらべ (うらべ)が解除 かいじょ (はらえ)をしていた。この「祓 はらい 所 しょ 」とは多 おお くは朱雀 すざく 門 もん [5] であり、朱雀 すざく 門 もん 前 まえ の広場 ひろば に親王 しんのう 、大臣 だいじん (おおおみ)ほか京 きょう (みやこ)にいる官僚 かんりょう が集 たか って大祓 おおはらい 詞 し を読 よ み上 あ げ、国民 こくみん の罪 つみ や穢 けが れを祓 はら った。しかし室町 むろまち 時代 ときよ に起 お きた応仁 おうにん の乱 らん で京都 きょうと 市街 しがい が荒廃 こうはい すると、門前 もんぜん でのこのような儀式 ぎしき も廃絶 はいぜつ してしまった。
明治 めいじ 4年 ねん (1871年 ねん )、明治天皇 めいじてんのう は宮中 きゅうちゅう 三 さん 殿 どの 賢所 かしこどころ の前庭 ぜんてい にて大祓 おおはらい を400年 ねん ぶりに復活 ふっかつ させ、翌 よく 明治 めいじ 5年 ねん に太政官 だじょうかん 布告 ふこく を出 だ して『大宝 たいほう 律令 りつりょう 』以来 いらい の旧 きゅう 儀 ぎ の再興 さいこう を命 めい じた[6] 。なお、6月のものも12月のものも名称 めいしょう はどちらも同 おな じく「大祓 おおはらい 」である。
改暦 かいれき の年 とし である明治 めいじ 6年 ねん (1873年 ねん )より宮中 きゅうちゅう 祭祀 さいし では新暦 しんれき 6月30日 にち と12月31日 にち を採用 さいよう している。また、同年 どうねん 1月 がつ 7日 にち 太政官 だじょうかん 第 だい 2号 ごう 布告 ふこく によって6月28日 にち から30日 にち までの3日間 にちかん と12月29日 にち から31日 にち までの3日間 にちかん がそれぞれ休暇 きゅうか 日 び (休日 きゅうじつ )とされた。ただし、6月28日 にち から30日 にち までの3日間 にちかん の休暇 きゅうか 日 び は、直前 ちょくぜん の同年 どうねん 6月 がつ 23日 にち 太政官 だじょうかん 第 だい 221号 ごう 布告 ふこく によって取 と り消 け されている。
大祓 おおはらい は、大正 たいしょう 、昭和 しょうわ 、平成 へいせい の大嘗祭 だいじょうさい に際 さい しても執 と り行 おこな われた。
それまで慣例 かんれい として、皇室 こうしつ での大祓 おおはらい では参列 さんれつ する皇室 こうしつ の範囲 はんい を成年 せいねん 男子 だんし の親王 しんのう に限 かぎ っていた。平成 へいせい 26年 ねん (2014年 ねん )6月 がつ 10日 とおか 、宮内庁 くないちょう より、男性 だんせい 皇族 こうぞく が実質 じっしつ 少 すく なくなったことを理由 りゆう に、以降 いこう の大祓 おおはらい への参加 さんか を成年 せいねん 女性 じょせい の皇族 こうぞく にまで範囲 はんい を広 ひろ げると発表 はっぴょう された[7] 。
民間 みんかん 行事 ぎょうじ としての大祓 おおはらい [ 編集 へんしゅう ]
茅 ち の輪 わ (大和 やまと 神社 じんじゃ )
民間 みんかん では、毎年 まいとし の犯 おか した罪 つみ や穢 けが れ を除 のぞ き去 さ るための除 じょ 災 わざわい 行事 ぎょうじ として定着 ていちゃく した。民間 みんかん の場合 ばあい 、6月のものは「夏越 なごし の祓 はらい 」(なごしのはらえ)、12月のものは「年 とし 越 えつ の祓 はらい 」(としこしのはらえ)と呼 よ び分 わ けられる。前者 ぜんしゃ は「名越 なごし 」と表記 ひょうき されたり、「夏越 なごし 神事 しんじ 」「夏 なつ 祓 はらい 」「六 ろく 月 がつ 祓 はらい 」などと呼 よ ばれることもあり[8] 、また、月遅 つきおく れ を採用 さいよう する事例 じれい も見 み られる。その場合 ばあい 、月 つき の大小 だいしょう の兼 か ね合 あ いが生 しょう じるが、晦日 みそか に意義 いぎ があるため、旧暦 きゅうれき の6月 がつ 30日 にち や新暦 しんれき の7月 がつ 31日 にち に行 おこな われる。
先述 せんじゅつ の明治 めいじ 6年 ねん 太政官 だじょうかん 布告 ふこく によって休暇 きゅうか 期間 きかん としては定着 ていちゃく しなかった夏越 なごし の祓 はらい であるが、『拾遺 しゅうい 和歌集 わかしゅう 』に「題 だい しらず」「よみ人 じん 知 し らず 」として、「水無月 みなづき のなごしの祓 はらい する人 ひと はちとせの命 いのち のぶというふなり」という歌 うた にも見 み える夏越 なごし の祓 はらい は、古 ふる くから民間 みんかん でも見 み られた年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ のひとつであり、さまざまな風習 ふうしゅう が残 のこ っている。
夏 なつ に挙行 きょこう される意味 いみ として、衣服 いふく を毎日 まいにち 洗濯 せんたく する習慣 しゅうかん や自由 じゆう に使 つか える水 みず が少 すく なかった時代 じだい 、半年 はんとし に一 いち 度 ど 、雑菌 ざっきん が繁殖 はんしょく し易 やす い夏 なつ を前 まえ に新 あたら しい物 もの に替 か える事 こと で、残 のこ りの半年 はんとし を疫病 えきびょう を予防 よぼう して健康 けんこう に過 す ごすようにする意味 いみ があったのではと考 かんが えられている。また、旧暦 きゅうれき 6月 がつ 晦日 みそか にはほとんどの地域 ちいき で梅雨 つゆ が明 あ け、猛暑 もうしょ と旱 ひでり (ひでり)が続 つづ く夏 なつ 本番 ほんばん を迎 むか えることになるが、この過酷 かこく な時期 じき を乗 の り越 こ えるための戒 いまし めでもあった。
応仁 おうにん の乱 らん で宮中 きゅうちゅう 行事 ぎょうじ として廃絶 はいぜつ した以降 いこう は、神仏 しんぶつ 習合 しゅうごう の影響 えいきょう で民間 みんかん でも行 おこな われることはほとんどなくなった。元禄 げんろく 4年 ねん (1691年 ねん )に再興 さいこう されたものの内侍所 ないしどころ や一部 いちぶ の神社 じんじゃ に限 かぎ り、「夏越 なごし 神事 しんじ 」「六 ろく 月 がつ 祓 はらい 」と呼 よ ばれて形式 けいしき 的 てき な神事 しんじ のみが伝 つた わるだけだった[4] など、わずかしか執 と り行 おこな われていなかった。
明治 めいじ 4年 ねん (1871年 ねん )の太政官 だじょうかん 布告 ふこく では、「夏越 なごし 神事 しんじ 」「六 ろく 月 がつ 祓 はらい 」の呼称 こしょう を禁止 きんし をして大祓 おおはらい の復活 ふっかつ が宣 せん ぜられた[6] 。これにより神仏 しんぶつ 分離 ぶんり が行 おこな われた全国 ぜんこく の神社 じんじゃ でも毎年 まいとし の大祓 おおはらい が行 おこな われるようになった。太平洋戦争 たいへいようせんそう 後 のち になると「夏越 なごし 神事 しんじ 」「六 ろく 月 がつ 祓 はらい 」の呼称 こしょう も一部 いちぶ では復活 ふっかつ し現在 げんざい に至 いた っている。
夏越 なごし の祓 はらい では多 おお くの神社 じんじゃ で「茅 ち の輪 わ 潜 もぐ り(ちのわくぐり)」が行 おこな われる。参道 さんどう の鳥居 とりい や笹 ささ の葉 は を建 た てて注連縄 しめなわ を張 は った結界 けっかい 内 うち に茅 ちがや で編 あ んだ直径 ちょっけい 数 すう m ほどの輪 わ を建 た て、ここを氏子 うじこ が正面 しょうめん から最初 さいしょ に左 ひだり 回 まわ り、次 つぎ に右 みぎ 回 まわ りと 8 字 じ を描 えが いて計 けい 3回 かい くぐることで、半年 はんとし 間 あいだ に溜 た まった病 やまい と穢 けが れを落 お とし残 のこ りの半年 はんとし を無事 ぶじ に過 す ごせることを願 ねが うという儀式 ぎしき である。かつては茅 ち の輪 わ の小 ちい さいものを腰 こし につけたり首 くび にかけたりしたとされる。
これは、『釈 しゃく 日本 にっぽん 紀 き 』逸文 いつぶん の『備後 びんご 国 こく 風土記 ふどき 』に記 しる されている疫隈国 こく 、素 す 盞嗚神社 じんじゃ の蘇民将来 そみんしょうらい 伝説 でんせつ に由来 ゆらい するもので、武 たけ 塔 とう 神 しん の指示 しじ により茅 ち の輪 わ を腰 こし につけたところ災厄 さいやく から免 まぬか れ、武 たけ 塔 とう 神 しん は自 みずか らを速 はや 須佐 すさ 雄 つよし と名乗 なの り去 さ っていったと書 か かれている。多 おお くの神社 じんじゃ で祭神 さいじん としているスサノオ と習合 しゅうごう している例 れい が多数 たすう 見 み られる[9] 。
疫隈國 こく 社 しゃ 素 もと 盞嗚神社 じんじゃ では蘇民将来 そみんしょうらい 説話 せつわ に基 もと づいて、茅 ち の輪 わ くぐりを行 おこな った後 のち に解体 かいたい し、持 も ち帰 かえ って個々 ここ に茅 ち の輪 わ にする風習 ふうしゅう が残 のこ っている。
しかし、京都 きょうと 新聞 しんぶん では、次 つぎ のような記事 きじ を令 れい 和 わ 元年 がんねん (2019年 ねん )に書 か いている。
茅 ち の
輪 わ の"
茅 ちがや "を
引 ひ き
抜 ぬ き
持 も ち
帰 かえ ってお
守 まも りとする
俗信 ぞくしん がある。しかし、
本来 ほんらい は
茅 ち の
輪 わ をくぐった
人 ひと たちの
罪 つみ や
穢 けが れ・
災厄 さいやく が
茅 ちがや に
遷 うつ されており、
茅 ちがや を
持 も ち
帰 かえ ることは
他人 たにん の
災厄 さいやく を
自宅 じたく に
持 も ち
帰 かえ ることになるので(
茅 ち の
輪 わ のカヤを
抜 ぬ いて
持 も ち
帰 かえ るのは)
避 さ けるべきである
— 『京都 きょうと 新聞 しんぶん 』 2011年 ねん (平成 へいせい 23年 ねん )6月24日 にち 24面 めん
茅 ち の輪 わ に独特 どくとく の形式 けいしき を施 ほどこ しているところがある。奈良 なら 県 けん の大神神社 おおみわじんじゃ では茅 ち の輪 わ は榊 さかき ・杉 すぎ ・松 まつ をかかげた3連 れん になっており、周 まわ り方 かた も他 た の神社 じんじゃ とは異 こと なり、杉 すぎ の輪 わ → 松 まつ の輪 わ → 杉 すぎ の輪 わ → 榊 さかき の輪 わ の順 じゅん にくぐる。出雲 いずも 大社 たいしゃ の茅 ち の輪 わ は「○形 かたち 」ではなく、「U形 かたち 」をしている。これを神職 しんしょく が両手 りょうて で持 も ち、参詣 さんけい 者 しゃ は、縄 なわ とびをするように飛 と び越 こ える。茅 ちがや を跨 また ぐと同時 どうじ に両 りょう 肩 かた にかついた茅 ちがや を落 お とす[10] 。
また、ペット (主 おも に犬 いぬ )の茅 ち の輪 わ くぐりも広 ひろ く行 おこな われている[11] 。
ウィキメディア・コモンズには、
茅 ち の輪 わ に
関連 かんれん するカテゴリがあります。
もともとは祝詞 のりと にある東 ひがし 文 ぶん 忌 き 寸 すん 部 ぶ 献 けんじ 横 よこ 刀 がたな 時 じ 呪 のろい に由来 ゆらい する。『神 かみ 祗令義 ぎ 解 かい 』によれば「凡六 ろく 月 がつ 、十二月 じゅうにがつ の晦日 みそか の大祓 おおはらい には、中 ちゅう 臣 しん は御祓 おはらい 麻 あさ を上 のぼ れ、東西 とうざい の文部 もんぶ は、祓 はらい 刀 がたな を上 のぼ り、祓 はらい 詞 し を読 よ め、訖りなば、百官 ひゃっかん 男女 だんじょ を祓 はらい 所 しょ に聚め集 しゅう へて、中 ちゅう 臣 しん は祓 はらい 詞 し を宣 の り、卜部 うらべ は解除 かいじょ を為 な せよ」とある。大祓 おおはらい の前 まえ に大和 やまと と河内 かわうち の文部 もんぶ (ふみべ)が内裏 だいり へ参内 さんだい し、天皇 てんのう に祓 はらい 刀 がたな と人形 にんぎょう を奉 たてまつ って祝詞 のりと を奏上 そうじょう し、天皇 てんのう は自分 じぶん の息 いき を吹 ふ きかけて自身 じしん の災禍 さいか を移 うつ し憑ける。後 のち に陰陽 いんよう 道 どう でも呪詛 じゅそ に用 もち いた。
現在 げんざい では神社 じんじゃ から配 くば られた人形 にんぎょう 代 だい (ひとかたしろ)に息 いき を吹 ふ きかけ、また体 からだ の調子 ちょうし の悪 わる いところを撫 な でて(このようなものを撫 なで 物 ぶつ (なでもの)という)穢 けが れを遷 うつ した後 のち に川 かわ や海 うみ に流 なが す、ということが行 おこな われている。この「流 なが す」行為 こうい は、後 のち に願 ねがい 掛 かけ と結 むす びつき、同 どう 時期 じき に行 おこな われる七夕 たなばた 祭 さい と結 むす びついて短冊 たんざく を流 なが すことがある。一部 いちぶ に人形 にんぎょう 代 だい や短冊 たんざく 、笹竹 ささたけ を焚 た き上 あ げるということが行 おこな われるが、これはどんと焼 や き や密教 みっきょう に由来 ゆらい する行事 ぎょうじ であり神仏 しんぶつ 習合 しゅうごう で混用 こんよう されたと考 かんが えられる。
夏越 なごし の祓 はらい の風習 ふうしゅう [ 編集 へんしゅう ]
6月の大祓 おおはらい に併 あわ せ、独自 どくじ の風習 ふうしゅう が備 そな わるところがある。
京都 きょうと では夏越 なごし 祓 はらい に「水無月 みなづき 」という和菓子 わがし を食 た べる習慣 しゅうかん がある[12] 。水無月 みなづき は白 しろ のういろう 生地 きじ に小豆 あずき を乗 の せ、三角形 さんかっけい に包丁 ほうちょう された菓子 かし である。水無月 みなづき の上部 じょうぶ にある小豆 あずき は悪霊 あくりょう ばらい の意味 いみ があり、三角 さんかく の形 かたち は暑気 しょき を払 はら うため、平安 へいあん 時代 じだい の貴族 きぞく が旧暦 きゅうれき 6月 がつ 1日 にち (氷 こおり の朔日 さくじつ )、冬 ふゆ のうちに保存 ほぞん しておいて食 た べた氷 こおり を表 あらわ しているという説 せつ がある[13] 。
平成 へいせい 27年 ねん (2015年 ねん )になってから「夏越 なごし ごはん」という行事 ぎょうじ 食 しょく を広 ひろ める動 うご きが出 で てきた。夏 なつ 野菜 やさい の丸 まる いかき揚 あ げ を雑穀 ざっこく 米 まい にのせたかき揚 あ げ丼 どんぶり である。公益社 こうえきしゃ 団 だん 法人 ほうじん 「米穀 べいこく 安定 あんてい 供給 きょうきゅう 確保 かくほ 支援 しえん 機構 きこう 」が提唱 ていしょう した[14] [15] [16] 。
高知 こうち 県 けん 下 した では、夏越 なごし 祓 はらい のことを「輪抜 わぬ け様 さま 」と呼 よ んでいる。
^ カタルシス の本来 ほんらい の意味 いみ は汚 よご れたものの体外 たいがい への排泄 はいせつ を意味 いみ し、宗教 しゅうきょう 的 てき 意味合 いみあ いに転 てん じて魂 たましい の浄化 じょうか となった。祓 はら いにより幸福 こうふく 感 かん と満足 まんぞく が得 え られることで臣民 しんみん の心 しん を安定 あんてい させる意図 いと があったと考 かんが えられる。
^ 本来 ほんらい は宮廷 きゅうてい 内 ない での作法 さほう で、天皇 てんのう に召 め された官 かん 人 じん が口 くち を覆 おお って「おう」と応答 おうとう することを指 さ した。なお、「称 しょう 唯 ただ 」の読 よ み方 かた は本来 ほんらい は「しょうい」になるが、これが「譲位 じょうい 」と音 おと が似 に るために忌避 きひ して音 おと を転置 てんち したとも言 い われている。デジタル大辞泉 だいじせん 「称 しょう 唯 ただ 」の項 こう 。
基礎 きそ 資料 しりょう 神社 じんじゃ 祭祀 さいし と祭礼 さいれい 関連 かんれん 用語 ようご