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四方拝しほうはい

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宮中きゅうちゅう祭祀さいし主要しゅよう祭儀さいぎ一覧いちらん
四方拝しほうはい歳旦さいたんさい
元始げんしさい
そう事始ことはじめ
昭和しょうわ天皇てんのうまつり先帝せんていさい
孝明天皇こうめいてんのう例祭れいさい先帝せんてい以前いぜんさんだい例祭れいさい
祈年祭としごいのまつり
てんちょうさい天長節てんちょうせつさい
春季しゅんき皇霊こうれいさい春季しゅんき神殿しんでんさい
神武じんむ天皇てんのうさい皇霊こうれい殿どの御神楽みかぐら
こうじゅん皇后こうごう例祭れいさいさききさき例祭れいさい
ふしおり大祓おおはらい
明治天皇めいじてんのう例祭れいさい先帝せんてい以前いぜんさんだい例祭れいさい
秋季しゅうき皇霊こうれいさい秋季しゅうき神殿しんでんさい
神嘗祭かんなめさい
新嘗祭にいなめさい
賢所かしこどころ御神楽みかぐら
大正天皇たいしょうてんのう例祭れいさい先帝せんてい以前いぜんさんだい例祭れいさい
ふしおり大祓おおはらい

四方拝しほうはい(しほうはい)とは、毎年まいとし1がつ1にち元日がんじつ)の早朝そうちょう宮中きゅうちゅうにわ天皇てんのう天地てんち四方しほう神祇じんぎはいする儀式ぎしき四方しほうはいし、としわざわい消滅しょうめつ五穀豊穣ごこくほうじょういの宮中きゅうちゅう祭祀さいし[1][2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

四方拜しほうはいは、毎年まいとし1がつ1にち元日がんじつ)の早朝そうちょう歳旦さいたんさいさきだって、宮中きゅうちゅうかみよしみ殿どの南庭なんてい天皇てんのう天地てんち四方しほう神祇じんぎはいする儀式ぎしきである。殿上てんじょうではなくにわじょうおこなわれるのは天皇てんのうみずからが地上ちじょうをへりくだ天神てんじん地祇ちぎはいするという意味いみがあるとされ、このことを「にわ上下じょうげ」という[3]

祝祭日しゅくさいじつ法定ほうていされた明治めいじ時代じだい初期しょきから1945ねん昭和しょうわ20ねんごろまでは、この宮中きゅうちゅう祭祀さいしおこなわれる1がつ1にち四方しほうぶしとよばれていた。皇室こうしつれいひとつである皇室こうしつ祭祀さいしれい明治めいじ41ねん皇室こうしつれいだい1ごうだい23じょうは、「歳旦さいたんさい当日とうじつニハさきタチ四方拝しほうはいしきくだりヒ…ただし天皇てんのうざいリ其ノ事故じこアルトキハ四方拝しほうはいしきくだりハス」とさだめる。1947ねん昭和しょうわ22ねん)にどうれい廃止はいしされたのちは、皇室こうしつ私的してき行事ぎょうじとして、旧例きゅうれい準拠じゅんきょしておこなわれている。

儀式ぎしき大要たいようつぎとおりである。1月1にち元日がんじつ)の午前ごぜん530ふんに、天皇てんのう黄櫨染こうろぜんほうばれる束帯そくたい着用ちゃくようし、皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの西側にしがわにあるかみよしみ殿どの南側みなみがわにわもうけられた仮屋かりやなかはいり、伊勢神宮いせじんぐうすめらぎ大神宮だいじんぐうゆたか受大神宮じんぐうりょうみやかって拝礼はいれいしたのちつづいて四方しほうしょ神祇じんぎはいする。このとき天皇てんのうはいするかみ々・天皇陵てんのうりょうは、伊勢神宮いせじんぐう天神てんじん地祇ちぎ神武じんむ天皇陵てんのうりょう先帝せんていさんだいかく山陵さんりょう[ちゅう 1]武蔵むさしこく一宮いちのみや氷川神社ひかわじんじゃ)、山城やましろこく一宮いちのみや賀茂かもべつ雷神らいじんしゃ賀茂かも祖神そしんしゃ)、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう熱田あつた神宮じんぐう常陸ひたちこく一宮いちのみや鹿島かしま神宮じんぐう)、下総しもうさこく一宮いちのみや香取かとり神宮じんぐう)である。

2009ねん平成へいせい21ねん)の四方拝しほうはいは、当時とうじ天皇てんのう明仁あきひとだい125だい天皇てんのう)の高齢こうれいともな祭祀さいし簡略かんりゃくにより、皇居こうきょ御所ごしょにおいておこなわれた。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

草創そうそうから江戸えど時代じだい末期まっきまで[編集へんしゅう]

飛鳥あすか時代ときよ[編集へんしゅう]

本朝ほんちょうにおける四方拝しほうはい文献ぶんけんじょうはつは、『日本書紀にほんしょき』の「すめらぎごく天皇てんのう元年がんねんはちがつ朔日さくじつじょう」である[4][5]天皇てんのうみなみふちで「四方しほうおがみ、てんあおいのきゅうふ」とており、これがそもそものはじまりだという[5]。このときすめらぎごく天皇てんのう四方拝しほうはいいのり目的もくてきであったが、天皇てんのう親拝しんぱいであること、その名称めいしょうが「四方拝しほうはい」であることから、平安へいあん制度せいどした四方拝しほうはいへのなんらかの影響えいきょう関係かんけいがあるとされている[6][ちゅう 2]

また飛鳥あすか藤原ふじわらきょう時代じだい天皇陵てんのうりょう八角はっかくふんであり、大極殿たいきょくでん高御座たかみくらはち角形かくがたにつくられていることなどから、藤原ふじわらきょうでは四方八方しほうはっぽう全土ぜんど支配しはい安寧あんねいをしめす祭儀さいぎおこなわれていたとかんがえられる[8]。このようなことから、だいはい不可ふか要素ようそ北辰ほくしんはいする天皇てんのう大権たいけんかかわる可能かのうせいもあるとされている[9]

平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

病気びょうき疫病えきびょう地震じしん火災かさい天災てんさいといったわざわごとは、すべて「かみたたこすもの」とかんがえられ、たたこすかみ存在そんざいおにたとえたり、疫神としておそれていた[1][10][11]陰陽いんようどう平安へいあん貴族きぞく社会しゃかい基盤きばんにして呪術じゅじゅつてき展開てんかいされており、律令制りつりょうせい神祇じんぎ祭祀さいしなかに、陰陽いんよう要素ようそふく祭祀さいし数多かずおお存在そんざい[12][13]疫神さい鎮花さい風神ふうじんさい大祓おおはらい宮城みやぎ四隅よすみ疫神さいぼうかい火災かさいさいぼたる惑星わくせいさいなど様々さまざまな、祭祀さいしおこなわれており[12][14]きょうない結界けっかいせいなる領域りょういきぞくなる領域りょういき)し、きょうしろ四隅よすみ疫神さい)や宮城みやぎ四隅よすみ疫神さい内裏だいり)など、「四角よつかどよんさかい」の祭祀さいしおこない、安泰あんたいねがっていた[1][14]

平安へいあん四方拝しほうはい制度せいどには桓武かんむ天皇てんのうおこなった古代こだい中国ちゅうごく皇帝こうてい祭祀さいしである郊祀影響えいきょうられるとされる。これは古代こだい中国ちゅうごく皇帝こうていおこなっていたまつりたかし郊祀を朝鮮半島ちょうせんはんとう唯一ゆいいつおこなっていた百済くだらおうさつふうこうであるしん高句麗こうくり皇帝こうていはばかって郊祀をしなかった)より百済くだらおうつうじてその支援しえんしたおこなわれたものであったとされる[15]

現在げんざいおこなわれている四方拝しほうはい平安へいあん時代じだい初期しょき嵯峨天皇さがてんのう治世ちせい9世紀せいきはじめ)に宮中きゅうちゅうはじまったとされている。儀式ぎしきとして定着ていちゃくしたのは宇多天皇うだてんのう時代じだい(9世紀せいきまつ)とされ、『宇多天皇うだてんのう』の寛平かんぺい2ねん元旦がんたんユリウスれき890ねん1がつ25にち)が四方拝しほうはいおこなわれた最古さいこ記録きろくである。

宇多天皇うだてんのうは「わがくに神国しんこくである。よって毎朝まいあさ四方しほうだい中小ちゅうしょう神祇じんぎけいはいする。けいはいのことは、いまよりはじまる。以後いごいちにちたりともおこたることし」(『宇多天皇うだてんのう仁和にわよんねんじゅうがつじゅうきゅうにちじょう)としるしてあり、嵯峨天皇さがてんのうひろじん年間ねんかん成立せいりつした「元旦がんたん四方拝しほうはい」を前提ぜんていにその制度せいどと「毎朝まいあさはい」のそうまつがあったとかんがえられている[16]

安土あづち桃山ももやま時代じだい[編集へんしゅう]

豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる陰陽いんよう弾圧だんあつ迫害はくがいはじまり、祈祷きとううらな生業せいぎょうとする陰陽いんよう地方ちほういやり、一気いっきちからうしなっていき、当時とうじ陰陽いんようりょうにいた正式せいしき陰陽いんようかずをはるかにえる陰陽いんよう名乗なの人間にんげん全国ぜんこくながれた[17][18][19]戦国せんごく時代じだい迫害はくがいで、筆頭ひっとう土御門つちみかどであっても陰陽いんようどう相伝そうでんほうなどのおおくを焼失しょうしつした。陰陽いんようどうもっと重要じゅうような「大法たいほう」の泰山たいざんくんまつり(たいざんふくんさい)の祭壇さいだん喪失そうしつし、京都きょうと吉田よしだ神社じんじゃからほう借用しゃくようして御所ごしょ地鎮祭じちんさいおこなった。その影響えいきょうおおきく、宮中きゅうちゅう祭祀さいし神道しんとうしょく色濃いろこくしていった[20][21][22][23]一方いっぽう陰陽いんようどうは、幕府ばくふからの認可にんかのもと、土御門つちみかどやすしぶくたれ神道しんとう影響えいきょうけててんしゃ神道しんとうとして神道しんとうさせた[24]

宮中きゅうちゅう祭祀さいしにおいて天皇てんのうおこなほか拝礼はいれいでは、摂関せっかん神祇じんぎはくだいはいすることもあったが、四方拝しほうはい天皇てんのう本人ほんにん守護しゅごぼし父母ちちははたいする拝礼はいれいであるため、だいはいおこなわれなかった。江戸えど時代じだい白川しらかわまさたかしあらわした『いえせつ略記りゃっき』には、四方拝しほうはい守護しゅごぼし祖廟そびょう拝礼はいれいする儀式ぎしきであるとべて神道しんとう儀礼ぎれいであることを否定ひていしている(「神祭しんさい」)ことから、四方拝しほうはい道教どうきょう陰陽いんようどうした成立せいりつした儀式ぎしきであって、本来ほんらい神道しんとうとは無関係むかんけい儀式ぎしきであった可能かのうせいもある[25]

天皇てんのうならって、貴族きぞく庶民しょみんあいだでも四方拜しほうはいおこなわれ、いち年間ねんかん豊作ほうさく無病むびょう息災そくさいいのったが[ちゅう 3]時代じだいるごとに宮中きゅうちゅう行事ぎょうじとしてのこるのみとなった[ちゅう 4]

15世紀せいき後半こうはんには応仁おうにんらん一時いちじ中断ちゅうだんされたが、こう土御門天皇つちみかどてんのう治世ちせい文明ぶんめい7ねん1475ねん)に再興さいこうされて以後いご19世紀せいき後半こうはん孝明天皇こうめいてんのう治世ちせいいたるまで、京都きょうと御所ごしょ清涼せいりょう殿どの前庭ぜんていおこなわれた。

明治めいじ以前いぜん式次第しきしだい[編集へんしゅう]

1がつ1にちとらこく午前ごぜん4ごろ)に、天皇てんのう御所ごしょあやあやぎぬ殿どの黄櫨染こうろぜんほう着用ちゃくようし、清涼せいりょう殿どのひがしにわ出御しゅつぎょする。清涼せいりょう殿どのひがしにわには、あらかじめ、「しょくぼしはい御座ぎょざ」「四方しほうはい御座ぎょざ」「山陵さんりょうはい御座ぎょざ」のさんもうけられている。

天皇てんのうはまず最初さいしょに「しょくぼしはい御座ぎょざ」に着座ちゃくざして、天皇てんのうぞくぼし(ぞくしょう)[ちゅう 5]拝礼はいれいする。つぎに「四方しほうはい御座ぎょざ」に着座ちゃくざして天地てんち四方しほう神霊しんれい拝礼はいれいする。最後さいごに「山陵さんりょうはい御座ぎょざ」に着座ちゃくざして父母ちちはは山陵さんりょう父母ちちはは健在けんざい場合ばあいには省略しょうりゃく)などの方向ほうこう拝礼はいれいする。それぞれ、玉体ぎょくたい安穏あんのん宝祚ほうそ延長えんちょういのった。また、江戸えど時代じだいには、ぞくぼし拝礼はいれいに「しょくぼしはい御座ぎょざ」において内侍所ないしどころ伊勢神宮いせじんぐうへの拝礼はいれいおこなわれ、父母ちちはは御陵ごりょう拝礼はいれいまえに「山陵さんりょうはい御座ぎょざ」にて歴代れきだい天皇てんのう山陵さんりょう対象たいしょう時期じきによってことなる)にたいする拝礼はいれい追加ついかされたこともられている。なお、伊勢神宮いせじんぐうへの拝礼はいれいかんしてはいん四方拝しほうはいにおいては、こう深草ふかくさいん以来いらい慣例かんれいであったとする『花園天皇はなぞのてんのう日記にっきもとおう2ねん1320ねん元日がんじつじょう記事きじがあり、中世ちゅうせいいんおこなわれたものがのち天皇てんのう四方拝しほうはいでも採用さいようされたとかんがえられている。

この拝礼はいれいのとき、天皇てんのう独特どくとく言葉ことば呪文じゅもん)をとなえた。それは『内裏だいり儀式ぎしき』・『こう次第しだい』によるとつぎとおりである。


ぞく寇之ちゅう過度かど我身わがみぞくこうしちゅうかどがしん
どくちゅう過度かど我身わがみどくましちゅうかどがしん
毒氣どくけちゅう過度かど我身わがみどくけしちゅうかどがしん
毀厄ちゅう過度かど我身わがみきやくしちゅうかどがしん
五危六害之中過度我身ごきろくがいしちゅうかどがしん
五兵六舌之中過度我身ごへいろくぜつしちゅうかどがしん
いやちゅう過度かど我身わがみえんみしちゅうかどがしん
萬病まんびょうじょまんびょうじょゆ
ところよくずいこころしょよくずいしん
きゅう々如律れいきゅうきゅうにょりつりょう

なお、「危」は「やく」とする史料しりょうもある。

また明治めいじ時代じだい以前いぜん元旦がんたん四方拝しほうはい祭器さいきには「だいそう屏風びょうぶ」があったが、「だいそう」とは中国ちゅうごく南朝なんちょうの「りゅうそう」のことであり、かん天地てんちまつ皇帝こうてい祭祀さいしであるあかりどう祭祀さいし南朝なんちょうりゅうそう日本にっぽん継承けいしょうされたしなであると位置いちづけられること、元旦がんたん四方拝しほうはい天皇てんのう礼服れいふくである黄櫨染こうろぜんほうは「つきれい思想しそう」の中央ちゅうおうであるおう」をあらわしているとし古代こだい中国ちゅうごく皇帝こうてい祭祀さいしとの関連かんれん指摘してきされている[27]

内裏だいり儀式ぎしき』『西宮にしのみや』によれば正月しょうがつ元旦がんたん鶏鳴けいめいうしこく午前ごぜん)よりひがしにわ屏風びょうぶよんじょうてられ、ぞくぼしはいするまえには燈明とうみょうかくまえには白木しらきつくえうえこうかれはなかれ、とらこく午前ごぜんさん)からおこなわれてきた。 祭儀さいぎ次第しだいいちぞくぼしはい天地てんち四方拝しほうはいさん、(父母ちちははりょうはい。 であったという[28]

明治めいじ時代じだい以後いご[編集へんしゅう]

明治めいじ以後いごは、国学こくがくてき観点かんてんから、道教どうきょう影響えいきょう北斗七星ほくとしちせい信仰しんこうきゅう々如律れいなどの呪文じゅもん)は排除はいじょされ、神道しんとう祭祀さいしとしてさい構成こうせいされたうえくに行事ぎょうじとしておこなわれて四方しほうぶしばれ、祝祭日しゅくさいじつなか四大しだいぶしひとつとされていた。

明治めいじ時代じだい以後いご式次第しきしだい
しきさきだって、皇居こうきょ宮中きゅうちゅうさん殿どの付属ふぞく施設しせつであるかみよしみ殿どの南庭なんていにあらかじめ仮屋かりやもうけ、中央ちゅうおうすだれこも屏風びょうぶ2そうめぐらし、そのなか御座ぎょざもう灯台とうだい2きょうする。1月1にち午前ごぜん530ふん天皇てんのうあやあやぎぬ殿どの黄櫨染こうろぜんほう着用ちゃくようし、てのひらてんちょう先導せんどうかみよしみ殿どの南庭なんている。拝礼はいれい御座ぎょざで、伊勢神宮いせじんぐうすめらぎ大神宮だいじんぐうゆたか受大神宮じんぐうりょうみやかって拝礼はいれいしたのちつづいて四方しほうしょ神祇じんぎはいする。このとき天皇てんのうはいするかみ々・天皇陵てんのうりょうは、伊勢神宮いせじんぐう天神てんじん地祇ちぎ神武じんむ天皇陵てんのうりょう先帝せんていさんだいかく山陵さんりょう武蔵むさしこく一宮いちのみや氷川神社ひかわじんじゃ)、山城やましろこく一宮いちのみや賀茂かもべつ雷神らいじんしゃ賀茂かも祖神そしんしゃ)、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう熱田あつた神宮じんぐう常陸ひたちこく一宮いちのみや鹿島かしま神宮じんぐう)、下総しもうさこく一宮いちのみや香取かとり神宮じんぐう)でこれらを順次じゅんじはいする。四方拝しほうはいえると、天皇てんのう宮中きゅうちゅうさん殿どの賢所かしこどころ皇霊こうれい殿どの神殿しんでん)をそれぞれ拝礼はいれいする。
天皇てんのう事故じこがあって四方拝しほうはいおこなえないときもだいはいおこなわない慣例かんれいは、従前じゅうぜんとおりである。

だい世界せかい大戦たいせんちゅう昭和しょうわ20ねん(1945)の元旦がんたんには、B29爆撃ばくげき襲来しゅうらいらせる空襲くうしゅう警報けいほうったが、昭和しょうわ天皇てんのう防空壕ぼうくうごうとしていた文庫ぶんこまえ臨時りんじ斎場さいじょうとして四方拝しほうはいおこなった[29]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 上皇じょうこう明仁あきひと場合ばあい曾祖父そうそふ明治天皇めいじてんのう伏見桃山ふしみももやまりょう祖父そふ大正天皇たいしょうてんのう多摩たまりょうちち昭和しょうわ天皇てんのう武蔵野むさしのりょうさんりょう
  2. ^ すめらぎごく天皇てんのうかんふう諡号しごうの「すめらぎきょく」と重祚じゅうそしたときの「ひとしあきら」は中国ちゅうごく古典こてん由来ゆらいするがともに「中央ちゅうおう」や北斗七星ほくとしちせい関連かんれんがあるかたりである[7]
  3. ^ こう次第しだい』には「関白かんぱく四方拝しほうはい」「庶臣」にかんする記述きじゅつもある[よう出典しゅってん]
  4. ^ ただし、江戸えど時代じだいにおいても摂家せっけなど一部いちぶ公家くげあいだでも四方拝しほうはいおこなわれていた記録きろくのこされている。たとえばもとぶん3ねん1738ねん)の元旦がんたん当時とうじ関白かんぱく一条いちじょうけんこう四方拝しほうはいおこなったとき記録きろくが、かれ日記にっきけんこうおおやけ』にのこされており、それによれば、天皇てんのう四方拝しほうはいことなりさんもうけられず、山陵さんりょうわって藤原ふじわら陰陽いんようどうかかわるしょかみしょしゃへの拝礼はいれいおこなわれている[よう出典しゅってん]
  5. ^ ぞくぼし(ぞくしょう)とは、誕生たんじょうねんによってさだまるという人間にんげん運命うんめいつかさど北斗七星ほくとしちせいのなかのほしのことで、ねんむさぼおおかみぼし(ドゥーベ)、うしねん亥年いどしきょもんぼし(メラク)、とらねん戌年いぬどしろくそんぼし(フェクダ)、ねんとりねんぶんきょくぼし(メグレズ)、たつねんさるねんれんさだぼし(アリオト)、ねんとしたけきょくぼし(ミザール)、うまねんやぶぐんぼし(アルカイド、ベネトナシュ)となる[26]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 小池こいけやすし寿ことぶき (2015), p. 36.
  2. ^ はやしあつし (2005), p. 52-53.
  3. ^ 松山まつやまのうおっと (1966), pp. 75–76.
  4. ^ 渡辺わたなべ瑞穂みずほ (2020), p. 90.
  5. ^ a b 八束やつかきよしぬき (1957), p. 11.
  6. ^ 渡辺わたなべ瑞穂みずほ (2020), pp. 91–92.
  7. ^ 渡辺わたなべ瑞穂みずほ (2020), pp. 113–114.
  8. ^ 渡辺わたなべ瑞穂みずほ (2020), pp. 276–280.
  9. ^ 渡辺わたなべ瑞穂みずほ (2020), p. 337.
  10. ^ 斎藤さいとう英喜ひでき (2007), p. 31.
  11. ^ 繁田しげた信一しんいち (2005), p. 129.
  12. ^ a b 小池こいけやすし寿ことぶき (2015), p. 38.
  13. ^ はやしあつし (2005), p. 52.
  14. ^ a b はやしあつし (2005), p. 53.
  15. ^ 石野いしの浩司こうじ (2011), pp. 138–154.
  16. ^ 石野いしの浩司こうじ (2011), p. 136.
  17. ^ 小池こいけやすし寿ことぶき (2015), p. 33.
  18. ^ はやしあつし (2005), pp. 44–48.
  19. ^ けいむろ文雄ふみお (2006), p. 279.
  20. ^ 小池こいけやすし寿ことぶき (2015), p. 34.
  21. ^ 繁田しげた信一しんいち (2005), pp. 72–76.
  22. ^ はやしあつし (2005), pp. 75–77.
  23. ^ 岡田おかだ荘司しょうじ (2010), pp. 136–137.
  24. ^ 木場きばあきらこころざし (1982), pp. 65–66.
  25. ^ むら和明かずあき (2013), pp. 254-260、275-276.
  26. ^ "ぞくぼし". 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん小学館しょうがくかん. コトバンクより2023ねん12月14にち閲覧えつらん
  27. ^ 石野いしの浩司こうじ (2011), pp. 149–154.
  28. ^ 渡辺わたなべ瑞穂みずほ (2020), pp. 79–80.
  29. ^ 藤田ふじた尚徳なおのり (2015), pp. 9–11.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

図書としょ
  • 松山まつやまのうおっと明治維新めいじいしん神道しんとうひゃくねん神道しんとう文化ぶんかかい、1966ねん4がつ 
  • 繁田しげた信一しんいち平安へいあん貴族きぞく陰陽いんよう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2005ねん5がつISBN 9784642079426 
  • はやしあつし近世きんせい陰陽いんようどう研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2005ねん12月。ISBN 4642034072 
  • けいむろ文雄ふみお日本人にっぽんじん宗教しゅうきょう庶民しょみん信仰しんこう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2006ねん3がつISBN 9784642013673 
  • 斎藤さいとう英喜ひでき陰陽いんようどうかみ々』佛教大学ぶっきょうだいがく教育きょういく思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2007ねん10がつISBN 9784784213665 
  • 岡田おかだ荘司しょうじ日本にっぽん神道しんとう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん6がつISBN 9784642080385 
  • 石野いしの浩司こうじ石灰せっかいだん毎朝まいあさはい」の史的してき研究けんきゅう皇學館大学こうがくかんだいがく出版しゅっぱん、2011ねん2がつISBN 9784876441693 
  • むら和明かずあき近世きんせい朝廷ちょうてい制度せいどあさまく関係かんけい東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2013ねん2がつISBN 9784130262330 
  • 藤田ふじた尚徳なおのり侍従じじゅうちょう回想かいそう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2015ねん3がつISBN 9784062922845 
  • 小池こいけやすし寿ことぶき日本人にっぽんじんならっておきたいただしい家相かそうほんプレジデントしゃ、2015ねん11月。ISBN 9784833421492 
  • 渡辺わたなべ瑞穂みずほ元旦がんたん四方拝しほうはい研究けんきゅう啓文ひろふみしゃ書房しょぼう、2020ねん1がつISBN 9784899920625 
  • 八束やつかきよしぬき皇室こうしつ神宮じんぐう神宮じんぐうつかさちょう教導きょうどう、1957ねん6がつ 
論文ろんぶん
辞書じしょるい
  • 平凡社へいぼんしゃへん神道しんとうだい辞典じてん : 3かん. だいかんシホーハイ 四方拜しほうはい平凡社へいぼんしゃ、1941ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]