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八角はっかくふん

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発掘はっくつちゅう八角はっかくふん中山荘園なかやまそうえん古墳こふん
復元ふくげん整備せいびされた八角はっかくふん牽牛けんぎゅうづか古墳こふん

八角はっかくふん(はっかくふん)は古墳こふん時代じだい終末しゅうまつ7世紀せいきなかば)につくられたただし八角はっかくがた古墳こふん京都きょうと御廟ごびょう古墳こふんげん天智天皇てんぢてんのうりょう)や奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら野口のぐちおうはか古墳こふんげん天武てんむもちみつるごうそうりょう)などが有名ゆうめい

八角はっかくふん意味いみ

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八角はっかくふん意味いみについては、道教どうきょうふくめたひろ意味いみでの古代こだい中国ちゅうごく政治せいじ思想しそうにおいて、八角はっかくがた天下てんかはちぽう支配しはいしゃにふさわしいという思想しそう影響えいきょうかんがえられる。

八角はっかくふんもり浩一こういち提唱ていしょうによると最終さいしゅうまつ古墳こふんふくまれる。即位そくいした大王だいおうまつられている可能かのうせい指摘してきする学者がくしゃもあるが、奈良ならけんだけではなく東京とうきょう多摩たま稲荷塚いなりづか古墳こふんをはじめ東日本ひがしにっぽんなど各地かくち少数しょうすうではあるが確認かくにんされていることから、即位そくいした大王だいおうだけをまつるためにつくられている可能かのうせいうたがいを学者がくしゃおお[1]

八角はっかくふんは7世紀せいきなかばになると、大王だいおうのみがいとなむようになる。現在げんざいられているかぎりでは、奈良ならけん桜井さくらいだんづか古墳こふんげん舒明天皇てんのうりょう)、奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら野口のぐちおうはかげん天武てんむもちすべりょう)、一般いっぱん文武ぶんぶ天皇てんのうりょうかんがえられている奈良ならけん明日香あすかむら中尾山なかおやま古墳こふん[ちゅう 1][2]、それに御廟ごびょう古墳こふんなどがはち角形かくがた平面へいめん墳丘ふんきゅうっている。7世紀せいきなかば、日本にっぽんでははじめて大王だいおう固有こゆう型式けいしき陵墓りょうぼ出現しゅつげんしたといえる。これらのほかに、奈良ならけん高市たかいちぐん高取たかとりまちたば明神みょうじん古墳こふん草壁皇子くさかべのおうじ真弓まゆみ山稜さんりょうか)、方形ほうけいふんうえはち角形かくがた墳丘ふんきゅうつくっている可能かのうせいのある明日香あすかむら岩屋山いわやさん古墳こふんひとし明天めいてんすめらぎりょうか)などがはち角形かくがたふん可能かのうせい指摘してきされている。[3]

八角はっかくふんは、舒明天皇てんのうはかからはじまっているとかんがえられ、日本にっぽん大王だいおうはか固有こゆう型式けいしき陵墓りょうぼかんがされたととらえることができる。これは、大王だいおう有力ゆうりょく豪族ごうぞくからも隔絶かくぜつした支配しはいしゃとみなし、中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか樹立じゅりつ目指めざすものであったとかんがえられる。

ふんがた変化へんか

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このふんがた被葬ひそうしゃは、すんでじゅつのように天皇てんのうやその近親きんしんしゃかんがえられるので、はち角形かくがたふんは、天皇てんのう固有こゆう型式けいしきとして使用しようされはじめたとえる。うえはちかく下方かほうふんの舒明りょうもっとふるいと仮定かていするなら、もとは方墳ほうふん基礎きそ構築こうちくされたと推定すいていできるので、6世紀せいきまつ以降いこう天皇陵てんのうりょう前方後円墳ぜんぽうこうえんふん → (大型おおがたえんふん) → 大型おおがた方墳ほうふんうえはちかく下方かほうふん八角はっかくふん変化へんかしたとかんがえられる[4]

最近さいきん調査ちょうさ結果けっか

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2006ねん平成へいせい18ねん4がつ19にち大阪おおさか茨木いばらぎ桑原くわばら遺跡いせき桑原くわばら古墳こふんぐん7世紀せいき埋没まいぼつ群集ぐんしゅうふん24検出けんしゅつしたなかの1八角はっかくふんであり、中臣鎌足なかとみのかまたりはか可能かのうせい指摘してきするこえがあり、マスメディアでも紹介しょうかいされた。

また、2009ねんから2010ねんにかけて奈良ならけん明日香あすかむら牽牛けんぎゅうづか古墳こふん調査ちょうさ明日香あすかむら教育きょういく委員いいんかいによっておこなわれ、2010ねん9がつ調査ちょうさ成果せいか公表こうひょうされた。

おも古墳こふん

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大王だいおうりょう
首長しゅちょう
八角はっかくふんである可能かのうせい指摘してきされている古墳こふん
八角はっかくふんである可能かのうせい指摘してきされている遺構いこう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1974ねん昭和しょうわ49ねん事前じぜん調査ちょうさ八角はっかくふんであることがかった。この古墳こふん1697ねん元禄げんろく10ねん)の奈良なら奉行ぶぎょう与力よりき見聞けんぶんろくに「づかかたちまる根回ねまわさんじゅうあいだあり、頂上ちょうじょうひがしほうくずしたあとのようにくぼみがあり、そのなかよんしゃくさんしゃくいしがある」と記録きろくされている。
  2. ^ しゅうほりのなかに墳丘ふんきゅうすみかくりょうえる程度ていどで、そとまもる列石れっせきなどがなく、不安定ふあんていはち角形かくがた八角はっかくえんふんでは。基本きほんてきにはえんふんではないかと推測すいそくされる。直径ちょっけい18メートル。
  3. ^ 墳丘ふんきゅうすそそとまもる列石れっせきはち角形かくがたをしている。たいかくちょうながさ13メートル。はば8.2メートル、奥行おくゆき4.2メートルの方形ほうけいだんいている。確実かくじつ八角はっかくがたかどうかはなお検討けんとう余地よちがある。
  4. ^ 墳丘ふんきゅうすそ列石れっせきがあり、前面ぜんめん直線ちょくせんであるが、後背こうはいめん曲線きょくせんであるので、多少たしょう疑問ぎもんのこる。
  5. ^ だん築造ちくぞう下段げだんちょうあたりが9メートル、たんあたりやく6.3メートルのはち角形かくがたふんで、上段じょうだん墳丘ふんきゅう円形えんけいである。たいかくちょう東西とうざい18.5メートル、南北なんぼく21メートルでちょう八角はっかくふんといえるかもれない。7世紀せいき後半こうはん築造ちくぞう
  6. ^ みち20メートル、一辺いっぺん6.4メートルのせいはち角形かくがたとうこころいしずえとするものもその構造こうぞうからは火葬かそうぞうこつれるそと容器ようきかんがえられる。時代じだいは7世紀せいきまつから8世紀せいきはじごろ地方ちほうにおける数少かずすくないせいはち角形かくがたふん

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 白石しらいし太一郎たいちろう古墳こふんとヤマト政権せいけん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう<文春ぶんしゅん新書しんしょ>、1999ねんISBN 4-16-660036-2
  • 河上かわかみ邦彦くにひこ大和やまと終末しゅうまつ古墳こふん学生がくせいしゃ、2005ねんISBN 978-4-311-20282-7 

外部がいぶリンク

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