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久米くめうた

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

久米くめうたあるいは らい(くめうた)は、日本にっぽん上代じょうだい記紀きき歌謡かようひとつで、久米くめ伝承でんしょうした軍歌ぐんか久米くめまいさいうたわれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

記紀きき神武じんむ天皇てんのうじょうにある、 神武じんむ天皇てんのう大和やまとあに(えうかし)・はちじゅうふくろうそち(やそたける)・あに磯城しき(えしき)・ちょうずい(ながすねひこ)を征討せいとうしたとき久米くめがうたったうたであるという、大和やまとこく平定へいてい記事きじまれた宮廷きゅうてい歌曲かきょくぐんであり、『日本書紀にほんしょき』に8しゅ、このうち6しゅが『古事記こじき』にもかれている[1]大和やまと王権おうけんふくした久米くめが、近衛このえ軍団ぐんだんともづくり(とものみやつこ)、あるいは膳夫かしわて(かしわで、調理人ちょうりにん)となり、戦闘せんとう酒宴しゅえん合唱がっしょういとで、宮廷きゅうてい儀礼ぎれい大王だいおう天皇てんのう)に忠誠ちゅうせいちかってそうしたものである。

久米くめうた勇壮ゆうそう所作しょさとともに、久米くめはんのうはんりょうてき性格せいかく表現ひょうげんしたもので、久米くめまいわせて宮廷きゅうてい歌舞かぶのひとつになり、儀式ぎしきさい演奏えんそうされ、現在げんざい宮内庁くないちょうらく歌舞かぶおこなわれている。

日本書紀にほんしょき』には、「いまらくに此のうたそうは、なほりょうたいちいさき、および音声おんせいきょぼそり。此はいにしえのこしきなり」とある。

楽人がくじんによる久米くめうたは、天平てんぴょうかちたから元年がんねん749ねん)12月、東大寺とうだいじ外来がいらい音楽おんがくとともに演奏えんそうされたのが文献ぶんけん初出しょしゅつで(『ぞく日本にっぽん』)、平安へいあん時代じだいは、大嘗祭だいじょうさい豊明とよあけぶしかい悠紀ゆきまいとしてもちいられ(しゅもとまい吉志きしまい)、こう土御門天皇つちみかどてんのうだい在位ざいい1465ねん - 1500ねん以降いこう、おこなわれず、1818ねん仁孝天皇にんこうてんのう即位そくい大礼たいれいのときに再興さいこうされ、以後いご天皇てんのう即位そくい大礼たいれい演奏えんそうされている。なお、1878ねんから1945ねんまで、紀元節きげんせつ賀宴がえん豊明とよあき殿どのでおこなわれた。

考証こうしょう[編集へんしゅう]

高木たかぎ市之助いちのすけせつによると、久米くめうたには「ちてしまむたずにおかぬものか)」という主題しゅだいつたえるために、

粟生あおう(あはふ)には においにら(かみら)一本いっぽん(ひともと) そねがほん そねつなぎて[2]」(わけあわはたけにおいのつよにら一本いっぽん、その根本こんぽんとそのつなぐように)

あるいは

垣下かきした(かきもと)に うえゑしはじかみ(はじかみ) こうひひく[2]」(『しょまきだいさんでは「垣本かきもと(かきもと)に うえゑし山椒さんしょう(はじかみ) くち疼(ひび)く」[3])、(わけかきしたえた山椒さんしょうくちがひりひりする)

といった、日常にちじょう身近みぢか体験たいけん根本こんぽんにあり、「われわすれじ」・「われはやかつえ(ゑ)ぬ」という、「われ」の意志いしにもとづいて行動こうどうしているてん特色とくしょくがある。そこには氏族しぞくちょうとして氏族しぞくいん統率とうそつして戦闘せんとう指揮しきしつつ、同時どうじにそのひきいる氏族しぞくいんおな農耕のうこう生活せいかついとなんでいる英雄えいゆう時代じだい族長ぞくちょうかんじさせるものがある、とべられている。歌謡かよう形式けいしきとして、ちょうたんわせたり、かく語数ごすうからして考察こうさつすると、長歌ながうた短歌たんかなどの定型ていけい成立せいりつとさほどとおくはない時期じきにできたものだとかんがえられ、 石母田いしもたただし歴史れきしてきにみて、 大和やまと朝廷ちょうていが抬頭し、周囲しゅうい国家こっか征服せいふくし、半島はんとうにまで勢力せいりょく拡大かくだいした 5世紀せいきごろ雄略天皇ゆうりゃくてんのう時代じだい)を想定そうていしている。

これにたいし、 土橋どばしひろしはこれらのうたで「部下ぶかである久米くめ気持きもち」だけではなく、「族長ぞくちょう意志いし」もうたわれており、「第三者だいさんしゃきて(天皇てんのう)」が想定そうていされ、天皇てんのうへの久米くめ忠誠ちゅうせい誓約せいやくであることが本質ほんしつであるとしている。 久米くめ大伴おおとも統率とうそつされた状態じょうたいで、久米くめひきいた中小ちゅうしょうともづくりであり、大伴おおとも天皇てんのう従属じゅうぞくする豪族ごうぞくである、という ヒエラルキーがある、というのである[4]

また、 やまとおうたけし上表じょうひょうぶん

むかし(よ)りわたる(そでい)躬(みづか)ら甲冑かっちゅうたまき(めぐ)らし、山川やまかわ(さんせん)を跋渉ばっしょう(ばっしょう)し、やすししょ(ねいしょ)するに遑(いとま)あらず。ひがしのかたじんじゅうこくせいし、西にしのかたしゅうえびすろくじゅうろくこくふくし、わたりてうみきたきゅうじゅうこくたいらぐ」[5]

とあるように、この時代じだい天皇てんのうぐん先頭せんとうってひきいており、地方ちほう豪族ごうぞくでもしたがわないものを討伐とうばつしていた。にもかかわらず、朝廷ちょうていしょ氏族しぞくも、地方ちほう豪族ごうぞく6世紀せいき以降いこう史料しりょうにおいてすら、独立どくりつせい自由じゆう確保かくほし、はるかに活気かっきちた社会しゃかい歴史れきしとを形成けいせいしていた。そこにはこうした歌謡かよう描写びょうしゃしている日本にっぽん英雄えいゆう時代じだい想定そうていすることができる、というのが 井上いのうえ光貞みつさだ意見いけんである[4]。しかし、その歴史れきしがく考古学こうこがく発展はってんにより、英雄えいゆう時代じだい存在そんざい現在げんざいでは否定ひていされ、専制せんせい国家こっか成立せいりつしていたことがあきらかとなっている。

そのほか、久米くめうたには、大和やまと政権せいけん服属ふくぞく以前いぜん

宇陀うだ(うだ)の 高城たかぎ(たかき)に しぎ羂(しぎわな)る われつや しぎさわ(さや)らず いすくはし くじら(くぢら)さわる」[2]

など、やまみん時代じだいりによせててき声高こわだかわらったふるかたちおもわれるものも存在そんざいする。

久米くめまい[編集へんしゅう]

久米くめまいうたは、うた2にん伴奏ばんそうである。

かんのみでのおと(ねとり)ののち、うた「うたのたかきに...」を、参入さんにゅう音声おんせい(まいりおんじょう)と「前妻ぜんさい(こなみ)が...」のあげ拍子ひょうし(あげびょうし)(まいがある。ここのみリズムははくぶしてき)とに2ふんして、こののちうたいまはよ...」を、「さんごえ歓声かんせい」と退出たいしゅつ音声おんせい(まかでおんじょう)とに2ふんして、演奏えんそうする。

楽器がっきは、りゅうふえ1にん篳篥ひちりき1にん和琴わごん1にん、そしてきん2にんである。

まいは4にん(かつては6にんないし20にん)で、すえがくかんむりをかぶり、しゃく太刀たちをつけ、赤色あかいろほうる。

構成こうせい以下いかとおり。

  • おと楽器がっき:りゅうふえ篳篥ひちりき
  • 参入さんにゅう音声おんせいうた:「うたのたかきに、」独唱どくしょう)(うた:「しぎわなはる、...」斉唱せいしょう)(楽器がっき:和琴わごんしゃく拍子ひょうしりゅうふえ篳篥ひちりき
  • まい
    • あげ拍子ひょうしうた:「こなみが、なこは」独唱どくしょう)(うた:「さば、たちそはの...」斉唱せいしょう)(楽器がっき:和琴わごんしゃく拍子ひょうしりゅうふえ篳篥ひちりき
    • 間奏かんそう)(楽器がっき:和琴わごん
    • さんごえ)(うた:「いまはよ、いまはよ、」独唱どくしょう)(楽器がっき:和琴わごんしゃく拍子ひょうし
    • 歓声かんせい)(うた:「あ、あ」斉唱せいしょう)(楽器がっき:和琴わごんしゃく拍子ひょうし
  • 退出たいしゅつ音声おんせいうた:「しやを、」独唱どくしょう)(うた:「いまだにもよ、...」斉唱せいしょう)(楽器がっき:和琴わごんしゃく拍子ひょうしりゅうふえ篳篥ひちりき

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 古事記こじき』には神武じんむ天皇てんのう伊須いすあまりうり求婚きゅうこんしたさい大久おおひさべいいのち仲介ちゅうかいした和歌わか4しゅかれているが、一般いっぱんてきには久米くめうたとはばれない。
  2. ^ a b c 古事記こじきちゅうまき神武じんむ天皇てんのうじょう
  3. ^ 日本書紀にほんしょき神武じんむ天皇てんのう即位そくいぜんつちのえうまねん12がつ4にちじょう
  4. ^ a b 日本にっぽん歴史れきし1 神話しんわから歴史れきしへ』p336 - 344、井上いのうえ光貞みつさだちょ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1965ねん
  5. ^ そうしょまききゅうじゅうななえびす蛮伝・倭国わのくにじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]