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宇治谷うじたにはじめ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

宇治谷うじたに はじめ(うじたに つとむ、1918ねん8がつ5にち[1] - 1992ねん11月5にち)は、日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃ国文学こくぶんがくしゃ。はじめて『日本書紀にほんしょき』の現代げんだいやくおこなった[2]ほか、『ぞく日本にっぽん』の現代げんだいやく担当たんとうした。

概要がいよう

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1918ねん京都きょうとまれ[3]。1941ねん法政大学ほうせいだいがくくにかんを、1943ねん早稲田大学わせだだいがく文学部ぶんがくぶを、1952ねん立命館大学りつめいかんだいがく経済学部けいざいがくぶをそれぞれ卒業そつぎょう[3]清風せいふう高校こうこうひとしいくつかの高校こうこう教師きょうしつとめたのち最終さいしゅうてき滋賀しが文教ぶんきょう短期大学たんきだいがく教授きょうじゅおよび奈良なら芸術げいじゅつ短期大学たんきだいがく講師こうし就任しゅうにん[3]

早稲田大学わせだだいがく在学ざいがくちゅう歌人かじん国文学こくぶんがくしゃ窪田空穂くぼたうつぼ授業じゅぎょうけていたさいの「日本にっぽん歴史れきし普通ふつうひとにもまさしく理解りかいしてもらうために、『日本書紀にほんしょき』や『ぞく日本にっぽん』をやさしい現代げんだいやくやくしたいが、自分じぶんにはその時間じかんがない。自分じぶんのクラスから、意志いしひとてくれればうれしい」という言葉ことば晩年ばんねんまでしんのこり、戦後せんごなんねんっても日本書紀にほんしょき現代げんだいやくないため、みずか国史こくし現代げんだいやく決意けついかためたという[4]

1992ねん11月5にち交通こうつう事故じこによりくなった[4]。『ぞく日本にっぽんした) ぜん現代げんだいやく』の遺稿いこうは、夫人ふじんてるせんだいおよび、あに宇治谷うじたに義雄よしお愛知学泉大学あいちがくせんだいがく教授きょうじゅ)の整理せいり清書せいしょ発行はっこうされた[4]

著作ちょさく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 現代げんだい物故ぶっこしゃ事典じてん1991~1993』(日外にちがいアソシエーツ、1994ねん)p.99
  2. ^ 宇治谷うじたに(1988ねんうえ)、カバー。
  3. ^ a b c 宇治谷うじたに(1995ねん)、奥付おくづけ
  4. ^ a b c 宇治谷うじたに(1995ねん)、pp. 480-483。

関連かんれん項目こうもく

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