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兄猾(えうかし)とは、記紀等に伝わる古代日本の人物。『古事記』では兄宇迦斯と表記されている。弟猾(おとうかし)の兄。
『古事記』中巻・『日本書紀』巻第三ともに、以下のような物語を伝えている。
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこ の すめらみこと)は八咫烏(やた の からす)の導きと道臣命(みちのおみ の みこと)の働きで辛くも大和の菟田穿邑(うだ の うがち の むら)に辿り着いた。
『書紀』の暦によると、磐余彦は戊午年(紀元前663年)8月2日に、菟田県(うだのあがた)の魁帥(ひとごのかみ=首長)である兄猾、弟猾兄弟を呼び出した。しかし兄猾はやって来なかった。
それどころか、『古事記』によると、遣いに出した八咫烏が
「
今天つ
神の
御子(みこ)
幸行(い)でましつ。
汝(なれ)
仕へ
奉らむや」
(
今、
天つ
神の
御子がおいでになった。おまえたちは
御子にお
仕えするのかどうか)
訳:
荻原浅男[1]
と呼びかけて来たのに対し、鳴鏑(なりかぶら)を射返して、追い返した。
そして
- 『古事記』 - 軍勢を集めようとしたが集めることができなかった
- 『日本書紀』 - 「皇師(みいくさ)の威(いきおい)」[2]をながめて、とても敵しがたいと恐れた
という理由で、正面きって戦うことを諦め、かわりに押機(踏むと挟まれて圧死する仕掛け)のある新宮(大殿)をつくり、もてなしをするかに見せかけて磐余彦を殺そうと企んだ。
しかし、この奸計は磐余彦の召しに応じた弟猾によって報告された。結果、道臣命(と大久米命)に「自分が先に入ってみろ」と剣と弓で(『古事記』では大刀のつかを握ったままで、矛と矢とで)脅され、敢えなく自身の作った罠にかかり、圧死してしまった(『古事記』では、打たれて死んでしまった)。
兄猾が死んだことにより、その地は菟田(宇陀)の血原と呼ばれるようになった(『古事記』では罠で死んだ兄宇迦斯の死体をただちに解体したから、『書紀』は兄猾の死体を引きずり出して斬ったら、血が踝(つぶなぎ=くるぶし)を埋めるほどだったから、だという)。
弟猾は、戦勝を祝って、酒や牛肉を用意して、もてなしをした。磐余彦は『古事記』によると、以下のような歌を歌った(( )内は『書紀』の表記)。
「
宇陀(
菟田)の
高城(たかき)に
鴫羂(しぎわな)
張る
吾(
我)が
待つや
鴫は
障(さや)らず いすくはし
鯨(くぢら)
障る(
鷹等障り)
前妻(こなみ)が
肴(な)乞はさば
立柧棱(
立蕎麦)の
実の
無けくを こ(=扱)きしひゑね(
幾多(こきし)聶ゑね)
後妻(うはなり)が
肴(な)乞はさば 柃(
斎賢木、いちさかき)
実の
多けくを こきだひゑね(
幾多聶ゑね)
(以下は『古事記』のみ)
ええ しやこしや 此(こ)はいのごふそ ああ しやこしや 此は嘲咲(あざわら)ふぞ」[1]
(訳:宇陀の高城に鴫をとる罠をはって 私が待っていると 鴫がかからないで (いすくはしの)鯨(『書紀』では「鷹」)がかかってしまった 古女房がほしがったら (立蕎麦のような) 実の少ないところを 削りとってやれ 若女房がほしがったら (ひさかきのような) 実の多いところをいっぱい削ってやれ
ええ、しやこしや これは憎み妬もうとする声で
あー、しやこしや これはあざ
笑う
声で)
『書紀』はこれを「来目歌」とし、「楽府(おおうたどころ=雅楽寮」でこの歌を演奏する時には「手量(たばかり=手のひろげかた)の大きさ小ささ、音声(うたごゑ)の巨(ふと)さ細さ有り」[2]と注釈をつけている。
『書紀』ではこのあと、吉野で国津神の井光(井氷鹿)、磐排別が子(石押分之子)、苞苴担が子(贄持之子)に迎えられることになる(『古事記』では兄宇迦斯事件の前に出会っている)。
- ^ a b 『古事記』中巻、神武天皇条
- ^ a b 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年8月2日条