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山下やました亀三郎かめさぶろう

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やました かめさぶろう

山下やました 亀三郎かめさぶろう
生誕せいたん 1867ねん5月12にち
伊予いよこく宇和うわぐん河内かわちむら
宇和島うわじまはん
死没しぼつ 1944ねん12月13にち
出身しゅっしんこう 明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう中退ちゅうたい
げん: 明治大学めいじだいがく
職業しょくぎょう 実業じつぎょう
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たいしおかくあと

山下やました 亀三郎かめさぶろう(やました かめさぶろう、1867ねん5月12にち慶応けいおう3ねん4がつ9にち) - 1944ねん昭和しょうわ19ねん12月13にち)は、日本にっぽん実業じつぎょう勲一等くんいっとう山下やました汽船きせんげん商船しょうせん三井みつい)・山下やました財閥ざいばつ創業そうぎょうしゃ勝田かつた銀次ぎんじろう内田うちだ信也しんやならさん大船おおぶね成金なりきん一人ひとり

生涯しょうがい

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1867ねん慶応けいおう3ねん)、伊予いよこく宇和うわぐん佐方さがたむらげん:愛媛えひめけん宇和島うわじま吉田よしだまち)の庄屋しょうや山下やましたの7にん兄弟きょうだい末子まっしとしてまれた。山下やました庄屋しょうやいえまれたことをしんかてとし、同時どうじ庄屋しょうやとしてきびしくしつけけられた。

宇和島うわじま旧制きゅうせいみなみ中学校ちゅうがっこうげん: 愛媛えひめ県立けんりつ宇和島東うわじまひがし高等こうとう学校がっこう)に入学にゅうがくしたが、1882ねん明治めいじ15ねん)に同校どうこう中退ちゅうたいし、出奔しゅっぽんした。しかし、家出いえでしたその宇和島うわじま暴風雨ぼうふううおそわれやむなく知人ちじんいえ厄介やっかいになっていた。すると、ははからの使つかいのものあらわれ「男子だんしがいったんむらげてて、おめおめむらかえってくるようなことがあってはならない。大手おおてってむらみちあるいてかえれるようになるまでかえってくるな」と伝言でんごんげた。この言葉ことば山下やました四国しこくのちにする。

下積したづ時代じだい

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大阪おおさかたが、家出いえで少年しょうねんやとってくれるところはなく、京都きょうと友人ゆうじんたよって、祇園ぎおん清井きよいまち下宿げしゅくしながら小学校しょうがっこうじょ教員きょういんつとめる。このころ山本やまもとさとし出会であい、山本やまもと主宰しゅさいする私塾しじゅくにもあしはこぶようになる。

山本やまもとすすめで東京とうきょうて、明治めいじ法律ほうりつ学校がっこうげん: 明治大学めいじだいがく)に入学にゅうがくする。ここには、明治めいじ民法みんぽう起草きそうしゃであった法学ほうがくしゃ穂積ほづみ陳重のぶしげこうしていたので、かれから個人こじんてき法律ほうりつがく教授きょうじゅけていた。「ドロかめ」というあだち、のちみずか無学むがくであるかのようにしるしている山下やましただが実際じっさいはこのようにして勉強べんきょうにも精励せいれいしたといういちめんもあった。

22さいとき明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう退学たいがくして富士ふじ製紙せいし会社かいしゃはいるが、長続ながつづきせずつぎ大倉おおくらまご兵衛ひょうえてん店員てんいんとなった。その横浜よこはま貿易ぼうえき商会しょうかい支配人しはいにん池田いけだぶんろうてんなどしょく転々てんてんとする。1892ねん明治めいじ25ねん)、横浜よこはま出身しゅっしん朝倉あさくらカメ結婚けっこんするが、翌年よくねん池田いけだ商店しょうてん倒産とうさんしてしまう。

独立どくりつ

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山下やました1894ねん明治めいじ27ねん)、横浜よこはま太田おおたまち洋紙ようし売買ばいばい山下やました商店しょうてんはじめた。山下やました独立どくりつした第一歩だいいっぽである。しかし事業じぎょうはうまくいかず、とうとうみせをたたむことになる。その直後ちょくご竹内たけうち兄弟きょうだい商会しょうかい石炭せきたんはいる。にちしん戦争せんそう時期じきにあたり、石炭せきたん業界ぎょうかい好景気こうけいきいていた。ここで山下やました石炭せきたん輸送ゆそう必要ひつようからはじめて海運かいうんぎょうせっする。1897ねん明治めいじ30ねん)、竹内たけうち兄弟きょうだい商会しょうかい石炭せきたんゆずけ、個人こじん商店しょうてんとして独立どくりつし、名称めいしょう横浜よこはま石炭せきたん商会しょうかいえた。

山下やました船主せんしゅになったのは、1903ねん明治めいじ36ねん)のことである。まず手付てつけの1まんえんはらい、のこりの11まんえん金策きんさく山下やました奔走ほんそうする。保険ほけん会社かいしゃ取引とりひきさきから8まんえんりるが、のこり3まんえんりない。当時とうじだいいち銀行ぎんこう横浜よこはま支店してんちょう心得こころえ石井いしい健吾けんごだいいち銀行ぎんこう頭取とうどり)に相談そうだんすると、山下やました意気いきかんじた石井いしいは、みずから3まんえん借金しゃっきんをして、それをした。山下やました恩義おんぎ終生しゅうせいわすれず、石井いしい昭和しょうわ初年しょねん退任たいにんするまでだいいち銀行ぎんこうをメインバンクとした。

こうしてれた英国えいこくせんベンベニニーごう(2,373トン)を佐方さがたまる命名めいめいし、海運かいうんぎょうす。佐方さがたまるまれ故郷こきょうむら名前なまえであり、山下やましたむらてから20ねんにして「大手おおてってむらみちあるける」船主せんしゅになったのである。しかし、船舶せんぱく経営けいえい経験けいけんとぼしい山下やましたは、さしあたりブローカーのちからりて横浜よこはま上海しゃんはい航路こうろ事業じぎょう着手ちゃくしゅするが燃料ねんりょうだいにも事欠ことか有様ありさまであった。

政商せいしょう

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山下やましたは、おな愛媛えひめけん出身しゅっしん海軍かいぐん軍人ぐんじん秋山あきやま真之まさゆきともしたしい間柄あいだがらであった。佐方さがたまる購入こうにゅう直前ちょくぜん山下やました秋山あきやまから、「にち開戦かいせんちかし」の情報じょうほう入手にゅうしゅしていた。戦争せんそうになると民間みんかん船舶せんぱく徴用ちょうようされる。また徴用ちょうようせん傭船ようせん価格かかく一般いっぱん価格かかくよりも有利ゆうりであることは、にちしん戦争せんそう経験けいけんからっていた。この秋山あきやまからの情報じょうほうにより山下やました成功せいこうがることになる。

山下やました佐方さがたまる購入こうにゅうすると早速さっそく近親きんしん古谷ふるやひさつなもと伊藤いとう博文ひろぶみ首相しゅしょう秘書官ひしょかん)をつうじて、1903ねん明治めいじ36ねん)12月、徴用ちょうようせん指定していける。しかし、このとき佐方さがたまるは、三井物産みついぶっさん依頼いらい積荷つみに石炭せきたんせて、上海しゃんはい出航しゅっこうする直前ちょくぜん長崎ながさきけん佐々ささこうにいた。上海しゃんはい往復おうふくしているあいだ徴用ちょうようせん指定してい解除かいじょされたら大変たいへんだと、三井みつい大阪おおさか支店してんちょう福井ふくい菊三郎きくさぶろう事情じじょうはなして了解りょうかいもとめておき、横浜よこはまかえって石炭せきたん陸揚りくあげして処置しょちをつけ、佐方さがたまる海軍かいぐんわたした。こうして、無事ぶじ佐方さがたまる納期のうきまでに海軍かいぐんとどけられた。これにいきおいをて、1904ねん明治めいじ37ねんだい佐方さがたまる購入こうにゅうただちに海軍かいぐん徴用ちょうようせんとして提供ていきょうする。さらに他社たしゃ貨物かもつ手配てはいし、他社たしゃせんでこれを運送うんそうする海運かいうんオペレーションの分野ぶんやにも進出しんしゅつする。

戦後せんご不況ふきょう

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にち戦争せんそう1907ねん明治めいじ40ねん)にはいると日本にっぽん深刻しんこく戦後せんご不況ふきょう突入とつにゅうする。海軍かいぐん徴用ちょうようせんしゅとして経営けいえいおこなっていた山下やましたは、この影響えいきょうをもろにうけ、さらに北海道ほっかいどう木材もくざい事業じぎょうにも失敗しっぱいすうひゃくまんえん負債ふさい背負せおう。

ここで山下やましたは、奇想天外きそうてんがい方法ほうほう考案こうあんする。「菱形ひしがた償却しょうきゃくほう」とばれる返済へんさい方式ほうしきで、返済へんさい元利がんり均等きんとう元金がんきん均等きんとうなどの一定いってい枠組わくぐみをもうけず、最初さいしょすこしずつ利益りえきるようになったらおお返済へんさいするというものである。山下やましたはこの方式ほうしき債権さいけんしゃ説得せっとくし、20ねんぶん菱形ひしがた償却しょうきゃくほうによる返済へんさいみとめさせた。そのこうきょうなみり、わずか7ねん完済かんさいしている。

ふね成金なりきん代表だいひょうかくに、そして財閥ざいばつ

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1909ねん明治めいじ42ねん以降いこうそと航海こうかいうん好転こうてんし、山下やました着実ちゃくじつ海運かいうんぎょう発展はってんさせる。1911ねん明治めいじ44ねん)6がつには資本しほんきん10まんえん組織そしき合名ごうめい会社かいしゃ変更へんこうして山下やました汽船きせん合名ごうめい会社かいしゃ発足ほっそくし、本店ほんてん東京とうきょう日本橋にほんばし北島きたじままちげん: 東京とうきょう中央ちゅうおう日本橋にほんばし茅場かやばまち)に移転いてんし、支店してん神戸こうべ開設かいせつした。

1914ねん大正たいしょう3ねん)にだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、海運かいうんぎょう空前くうぜん好景気こうけいきとなった。大戦たいせんまえのトンたりチャーターりょう3えんふね50えん程度ていどであったが、1917ねん大正たいしょう6ねん)にはチャーターりょう国内こくないで30えん、ヨーロッパで45えんふね6,700えんじゅうすうばいになった。山下やました勝田かつた銀次ぎんじろう内田うちだ信也しんやとともにさん大船おおぶね成金なりきんしょうせられ、このふね成金なりきん競争きょうそうのトップをはしることになる。

このあいだ1915ねん大正たいしょう4ねん)6がつには、満州まんしゅう大連たいれん山下やました汽船きせん合名ごうめい会社かいしゃ設立せつりついで11月に石炭せきたん分離ぶんり独立どくりつさせて山下やました石炭せきたん株式会社かぶしきがいしゃとし、よく1916ねん大正たいしょう5ねん)8がつには渋沢しぶさわ栄一えいいちらと扶桑ふそう海上かいじょう保険ほけんげん: 三井みつい住友すみとも海上かいじょう)を創立そうりつ。さらに1917ねん大正たいしょう6ねん)5がつには山下やました汽船きせん合名ごうめい会社かいしゃ資本しほんきん1,000まんえん株式会社かぶしきがいしゃ改組かいそ拡充かくじゅうしてべつ会社かいしゃ山下やました合名ごうめい会社かいしゃをつくり、8がつには浦賀うらが船渠せんきょ株式会社かぶしきがいしゃげん: 住友重機械工業すみともじゅうきかいこうぎょう)を創立そうりつするなど、矢継やつばや事業じぎょう拡大かくだいしていった。

1917ねん5がつ山下やました汽船きせん株式会社かぶしきがいしゃあらため、社長しゃちょうとなったとき山下やましたは50さいであった。海運かいうんぎょう開始かいし以来いらい船腹せんぷく拡充かくじゅう積極せっきょくてきみ、不定期ふていきせん事業じぎょうゆうとして山下やました汽船きせんたかめた。大戦たいせんちゅう山下やましたげた利益りえきじつ年間ねんかん2,900まんえんにのぼる。1919ねん大正たいしょう8ねん当時とうじ総理そうり大臣だいじん年俸ねんぽうは12,000えん各省かくしょう大臣だいじん東大とうだい総長そうちょう年俸ねんぽうは8,000えんであったので山下やましたがいかに巨額きょがく利益りえきをあげたかがうかがいれる。1926ねん時点じてん日本にっぽん最大さいだい傭船ようせんぬしとなり[1]、1938ねん時点じてん不定期ふていきせんオペレーターの支配しはい船腹せんぷくりょうにおいて山下やました汽船きせん日本一にっぽんいちとなった[2]

海運かいうん部門ぶもんでトップの一角いっかく

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その海運かいうんぎょうだけでなく、ひろ財界ざいかい官界かんかいさらに軍部ぐんぶ要人ようじん交際こうさいし、1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつには、とき東條とうじょう内閣ないかくによって創設そうせつされた内閣ないかく顧問こもん任命にんめいされ、大正たいしょう昭和しょうわ代表だいひょうてき政商せいしょうとさえしょうされた。政府せいふ関係かんけい委員いいんにも就任しゅうにんし、だい世界せかい大戦たいせん末期まっきには行政ぎょうせい査察ささつ使就任しゅうにん北海道ほっかいどう視察しさつくことになるが、この視察しさつによってやまい山下やましたは、1944ねん昭和しょうわ19ねん)12月13にち死去しきょした[3]

山下やました功績こうせきは、主宰しゅさいした山下やました汽船きせん世界せかい有数ゆうすうのトランプ(不定期ふていきせん)オペレーターにし、日本にっぽん海運かいうん伸展しんてんふねけん拡張かくちょう寄与きよしただけでなく、山下やました汽船きせんからおおくの人材じんざい輩出はいしゅつされ、いわゆる山下やました学校がっこうしょうされた。また郷里きょうりはじ各地かくち学校がっこう設立せつりつするなど社会しゃかい事業じぎょうにもちからくした。

山下やました汽船きせんさい盛時せいじともいうべき1941ねん昭和しょうわ16ねん当時とうじ日本にっぽんそう船腹せんぷくりょうは1,962せきで、内訳うちわけ日本郵船にっぽんゆうせん133せき大阪おおさか商船しょうせん109せき山下やました汽船きせん55せき大連たいれん汽船きせん54せき川崎汽船かわさききせん35せき三井物産みついぶっさん商船しょうせん部門ぶもん)32せきであった。明治めいじから昭和しょうわ初期しょきにかけて日本にっぽん郵船ゆうせん大阪おおさか商船しょうせんの2しゃびぬけていたが、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんにおいて、山下やました汽船きせんはこの2しゃせま会社かいしゃとなっていた。しかし敗戦はいせんにより、1947ねん昭和しょうわ22ねん)、山下やました株式会社かぶしきがいしゃ財閥ざいばつ解体かいたいだい持株もちかぶ会社かいしゃ指定していをうけることになった。

りゃく年譜ねんぷ

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栄典えいてん

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外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

評価ひょうか

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  • 秋山あきやま真之まさゆき山下やましたして「かれさんぜっあり。よくひとはなしくこと、すなわち情報じょうほうどおり。よくひと使つかうこと、すなわち人間にんげんどおり乾坤一擲けんこんいってきはなわざおこなうこと、すなわち果敢かかん実行じっこうりょく」の3てんげたという[1]
  • ドイツの経済けいざい学者がくしゃパウル・シュルツ=キーソウドイツばんは1933ねん論文ろんぶん日本にっぽん不定期ふていきせんぎょう組織そしきとその優越ゆうえつてき地位ちい」のなかで、にち戦争せんそうきょう山下やました汽船きせん破産はさん寸前すんぜんになったさいにも船長せんちょう士官しかんたちが無給むきゅう山下やましたささえたこと、銀行ぎんこう支払しはら猶予ゆうよあたえたこと、200以上いじょうふねはたら船員せんいんすべてが山下やました無制限むせいげん信任しんにんしていることをおどろきをもって紹介しょうかいした[2]
  • 渋沢しぶさわ栄一えいいち近頃ちかごろひとで、おのれたんとほっしてひとて、おのれたっせんとほっしてひとたっするそこ心掛こころがけある人物じんぶつは、誰彼だれかれといふよりもちかいところで、昨今さっこんせん成金なりきんうわさたか山下やました汽船きせん会社かいしゃちょう山下やました亀三郎かめさぶろうなぞが其人だらうとおもふのだ。一概いちがいに「成金なりきん」といいつてしまへばあまかんばしくもひびかぬが山下やました当節とうせつ成金なりきんちんらしくのう親切しんせつ部下ぶか面倒めんどうこれててやることほねり、ずい分厚ぶあつむくいてもる。山下やましたとて先年せんねん石炭せきたん失敗しっぱいしたさいにそれりで没落ぼつらくしてしまへば、べつ学問がくもんのあるひとでもなにんでもいんだから、世間せけんから歯牙しがけられずにおわらねばならなかつたのみならず、今日きょうでもなおほ「成金なりきん」だとかなにんだとかいいはれてるのだが、人物じんぶつ鑑識かんしきする鑑識かんしきまったちんらしいほどに徹底てっていしたものだ。
     それから、山下やました人物じんぶつ鑑識かんしきするのに、一時いちじ印象いんしょうまぐれ乃至ないし直観ちょっかんいいつたやうなものにらず、すべ鑑識かんしきほうにチヤーンとした順序じゅんじょ筋道すじみちつてる。かぶとひとくであるからくの長所ちょうしょがあり、おつひとは斯う斯うだから斯んな特色とくしょくがあると、整然せいぜんたる理路りろ辿たど人物じんぶつ鑑識かんしきするところが、山下やました人物じんぶつ鑑識かんしき非凡ひぼんなる所以ゆえんだ。」[6]

著書ちょしょ

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伝記でんき

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家族かぞく親族しんぞく

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長男ちょうなん山下やました太郎たろうむすめ婿むこ松方まつかた峰雄みねお伯父おじせいさく三菱みつびし財閥ざいばつの2代目だいめ総帥そうすい岩崎いわさき弥之助やのすけむすめ婿むこである。一方いっぽう太郎たろう後妻ごさい茂子しげこ大叔父おおおじごう昌作しょうさくかぞえ2さい三菱みつびし創業そうぎょうしゃ初代しょだい総帥そうすい岩崎いわさき弥太郎やたろう養子ようしとなり岩崎いわさきゆたかわたる改名かいめいした。ゆえ山下やました松方まつかたつうじて岩崎いわさき弥之助やのすけ係累けいるいとなる一方いっぽう河合かわい川崎かわさきさとつうじて岩崎いわさき弥太郎やたろう係累けいるいにもなっており、山下やました三菱みつびし創業そうぎょうしゃ一族いちぞく岩崎いわさきじゅう姻戚いんせき関係かんけいにあるといえる。

太郎たろう長男ちょうなん真一郎しんいちろうつま武田薬品工業たけだやくひんこうぎょう創業そうぎょうしゃ一族いちぞく武田たけだ春雄はるおむすめ、すなわち同社どうしゃもと会長かいちょう武田たけだ國男くにお再従兄弟はとこ國男くにおちち6代目だいめ武田たけだ長兵衛ちょうべえ春雄はるおはは従兄弟いとこ)である。太郎たろう次男じなん山下やました洋二郎ようじろうつま松本まつもとふけ孫娘まごむすめにあたるが、そのいもうと義弟ぎていもと富士ふじゼロックス会長かいちょう小林こばやし陽太郎ようたろうで、陽太郎ようたろう末弟ばっていである小林こばやししゅん三郎さぶろうつま次男じなん三郎さぶろうむすめ(すなわち亀三郎かめさぶろう孫娘まごむすめ)なので、山下やました小林こばやしじゅうねやばつ関係かんけいにある。太郎たろう次女じじょ節子せつこ松本まつもとろう小松こまつストア創業そうぎょうしゃ小坂こさか梅吉うめきち三男さんなん小坂こさか俊雄としおとついだが、俊雄としおあねライオンもと会長かいちょうである3代目だいめ小林こばやし富次郎とみじろう義弟ぎていである西野にしのゆたかとついだ(ちち帝国ていこく劇場げきじょう白木屋しらきや社長しゃちょうつとめた西野にしの恵之助えのすけ)。太郎たろうさんじょ恒子つねこ東京とうきょうコンテナ工業こうぎょうもと会長かいちょう黒崎くろさき素行そこうとつぎ、その長女ちょうじょ河本かわもと敏夫としお三男さんなん河本かわもと三郎さぶろうとついだ。

三郎さぶろう長男ちょうなん英郎ひでおつま同和どうわ火災かさい海上かいじょうもと会長かいちょう岡崎おかざき真一しんいち長女ちょうじょで、英郎ひでお義兄ぎけい岡崎おかざき真雄まさお同社どうしゃ会長かいちょうつとめた。岡崎おかざき真雄まさお義父ぎふ外務がいむ大臣だいじん歴任れきにんした小坂こさか善太郎ぜんたろうむすめで、善太郎ぜんたろうおとうと小坂こさか徳三郎とくさぶろう信越化学工業しんえつかがくこうぎょう社長しゃちょうから衆議院しゅうぎいん議員ぎいん転身てんしんし、運輸うんゆ大臣だいじんなどをつとめた。小坂こさか兄弟きょうだいあね東京とうきょう都知事とちじながつとめた美濃部みのべ亮吉りょうきちとついだ。英郎ひでお義兄ぎけいである岡崎おかざき藤雄ふじおむすめ岡谷鋼機おかやこうきもと会長かいちょう岡谷おかや康治こうじ長男ちょうなんとついだ。岡崎おかざき真一しんいち義弟ぎていいもうとおっと)は神戸銀行こうべぎんこう頭取とうどりながつとめ、1973ねん太陽たいよう神戸銀行こうべぎんこう発足ほっそく相談役そうだんやくである岡崎おかざきただしで、川島かわじまから岡崎おかざき養子ようしりし義父ぎふである岡崎おかざき忠雄ただおのちいだ。

なみろうつまヤマサ醤油じょうゆもと会長かいちょう濱口はまぐち梧洞のさんじょで、なみろう長男ちょうなんまいろうつま東芝とうしばケミカル会長かいちょう三浦みうら勇三ゆうぞうむすめもと経団連けいだんれん会長かいちょう石坂いしざか泰三たいぞうまご)。梧洞の長男ちょうなんである11代目だいめ濱口はまぐちただし兵衛ひょうえつま東邦生命保険とうほうせいめいほけんもと会長かいちょう4代目だいめ太田おおた清蔵せいぞうさんじょで、長男ちょうなんはヤマサ醤油じょうゆ会長かいちょう濱口はまぐち道雄みちお道雄みちおあねもと外務がいむ大臣だいじん藤山ふじやま愛一郎あいいちろう長男ちょうなんに、いもうとブリヂストン創業そうぎょうしゃ石橋いしばし正二郎しょうじろうおいである石橋いしばしあつしじゅにそれぞれとついだ。石橋いしばし長女ちょうじょ安子やすこ大蔵おおくら事務次官じむじかん外務がいむ大臣だいじんつとめた鳩山はとやま威一郎いいちろうとつぎ、鳩山はとやま由紀夫ゆきお鳩山はとやま邦夫くにおんだため山下やました濱口はまぐち石橋いしばしとおして鳩山はとやま縁戚えんせきになっている。

関連かんれん人物じんぶつ

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秋山あきやま真之まさゆき 終焉しゅうえん小田原おだわら南町みなみまち1丁目ちょうめ亀三郎かめさぶろう別邸べっていたいしおかくあと[7]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 連載れんさい四海しかい茫々ぼうぼう』(105)にんたらし日刊にっかん海事かいじプレス、2014.6.6
  2. ^ a b 連載れんさい四海しかい茫々ぼうぼう』(106)海運かいうんおう日刊にっかん海事かいじプレス、2014.6.13
  3. ^ 昭和しょうわ19ねん12月15にち官報かんぽうだい5377ごう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション コマ5彙報いほう官廳かんちょう事項じこう ◉內閣顧問こもん卒去そっきょ 內閣顧問こもんしたがえよん勳一等くんいっとう山下やました亀三郎かめさぶろういちさくじゅうさんにち卒去そっきょセリ」
  4. ^ 昭和しょうわ19ねん12がつ20日はつか官報かんぽうだい5381ごう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション コマ6
  5. ^ 官報かんぽうだい3523ごう叙任じょにん及辞れい」1924ねん5がつ23にち
  6. ^ 実験じっけん論語ろんご処世しょせいだん』9. 近頃ちかごろひとでは山下やました
  7. ^ たいしおかく山下やました亀三郎かめさぶろう別邸べってい)《秋山あきやま真之まさゆき終焉しゅうえん小田原おだわら市立しりつさんまる小学校しょうがっこう
  8. ^ 『てっぺん野郎やろう本人ほんにんらなかった石原いしはら慎太郎しんたろう』p.180
  9. ^ 宮澤みやざわ喜一きいち長男ちょうなんでエマの叔父おじにあたる宮澤みやざわ裕夫ひろおつまがブリヂストンもと会長かいちょう石橋いしばし正二郎しょうじろう孫娘まごむすめで、石橋いしばしおいである石橋いしばし進一しんいち義父ぎふヤマサ醤油じょうゆもと会長かいちょうの11代目だいめ濱口はまぐちただし兵衛ひょうえで、兵衛ひょうえいもうと亀三郎かめさぶろうさん男波おなみろうとついでいるため。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 佐藤さとうちょうたいごうばつ 地方ちほう豪族ごうぞくのネットワーク』2001ねん、p10~21、p137~149、p242~253、p340~364、p472~495
  • 佐藤さとうちょうたいねやばつ 日本にっぽんのニューエスタブリッシュメント』1981ねん、p68~77、p218~225、p257~263、p302~310、p409~418、p456~463
  • 官報かんぽう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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