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山本やまもとさとし

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山本やまもとやまもと さとしかくま
山本やまもと さとし
山本やまもとさとし
生年月日せいねんがっぴ 1828ねん2がつ25にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん陸奥みちのくこく会津あいづぐん若松わかまつ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1892-12-28) 1892ねん12月28にち(64さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん京都きょうと京都きょうと
出身しゅっしんこう にち新館しんかん
ぜんしょく 会津あいづはん
称号しょうごう おくしたがえ
配偶はいぐうしゃ 樋口ひぐちうら(1857ごろ - 1870)
小田おださかえ (1870 - 1886)
親族しんぞく

横井よこい時雄ときおむすめ婿むこ

新島にいじま八重やえ(いもうと)

新島にいじまじょう(義弟ぎてい)
宗教しゅうきょう キリスト教きりすときょう(プロテスタント会衆かいしゅう→カトリック教会きょうかい

選挙せんきょ 上京かみぎょう
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1879ねん - 1880ねん

京都府の旗 京都きょうと府議会ふぎかい初代しょだい議長ぎちょう
在任ざいにん期間きかん 1879ねん - 1880ねん
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山本やまもと さとし
山本やまもとさとし八重やえ邸宅ていたくあと石碑せきひ京都きょうと中京ちゅうきょう
教会きょうかい プロテスタント→カトリック教会きょうかい
教派きょうは 会衆かいしゅう受洗じゅせん当時とうじ
洗礼せんれいめい ラザロ(カトリック改宗かいしゅう
受洗じゅせん 1870年代ねんだい前半ぜんはん
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山本やまもと さとし(やまもと かくま、きゅう字体じたい山本やまもと さとし文政ぶんせい11ねん1がつ11にち1828ねん2がつ25にち) - 明治めいじ25ねん1892ねん12月28にち)は、幕末ばくまつ会津あいづはん砲術ほうじゅつ明治めいじ時代じだい地方ちほう官吏かんり政治せいじ京都きょうと顧問こもん府議会ふぎかい議員ぎいん初代しょだい議長ぎちょう)として初期しょき京都きょうと府政ふせい指導しどうした。また、同志社どうししゃえい学校がっこうげん同志社大学どうししゃだいがく)の創立そうりつしゃ新島にいじまじょう協力きょうりょくしゃとして、現在げんざい同志社大学どうししゃだいがく今出川いまでがわこう敷地しきちゆずった人物じんぶつとしてもられている。ごう相応そうおうとき[1]

生涯しょうがい

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武人ぶじん時代じだい

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会津あいづ藩士はんし砲術ほうじゅつ指南しなんやく山本やまもと権八ごんぱちろくだかは22せき4にん扶持ふち[2])の長男ちょうなんとして[1]つるじょうちかくの武家ぶけ屋敷やしきまれる。山本やまもと遠祖えんそ甲州こうしゅうりゅう軍学ぐんがくとされる山本やまもと勘助かんすけで、代々だいだい兵学へいがくをもってはんつかえた。はは佐久さく[1]幼名ようみょうまもるしょうし、いみな良晴よしはるといった[1]

4さい唐詩とうしせん五言ごごん絶句ぜっく暗唱あんしょう藩校はんこうにち新館しんかんまなんで頭角とうかくあらわす。22さい江戸えど武田たけだ三郎さぶろうかつ海舟かいしゅうらと佐久間さくま象山ぞうさんじゅくはいる。弓馬きゅうばやりがたな師伝しでん、23さいごろには藩主はんしゅ松平まつだいらひろしけいよりしょうけた。25さいふたた江戸えどて、大木たいぼく衷城蘭書らんしょまなんだほか、江川えがわ太郎左衛門たろうざえもん師事しじして洋式ようしき砲術ほうじゅつ研究けんきゅうふかめた[3]。28さいでいったん会津あいづもど新館しんかん教授きょうじゅとなり、蘭学らんがくしょ開設かいせつして教授きょうじゅになるが[3]守旧しゅきゅう批判ひはんにより1年間ねんかん禁足きんそく処分しょぶんになる。しかし初志しょしつらぬき、軍制ぐんせい改革かいかくうったえて、軍事ぐんじ取調とりしらべやくけん大砲たいほう頭取とうどり抜擢ばってきされる[1]文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、京都きょうと守護しゅごしょく就任しゅうにんした藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもりしたがきょうのぼり、黒谷くろたに本陣ほんじん西洋せいようしき軍隊ぐんたい調練ちょうれんたるとともに、洋学ようがくしょ主宰しゅさいし、在京ざいきょうしょ藩士はんし洋学ようがく講義こうぎおこなった[1]

元治もとはる元年がんねん1864ねん)、砲兵ほうへいたいひきいて参戦さんせんした禁門きんもんへんにおいて勲功くんこうげ、公用こうようじんにんぜられる。これによりさとしは、幕府ばくふしょはん名士めいしとうまじわる機会きかいえ、活動かつどう範囲はんいひろげるが、不幸ふこうにもびょうわずらい、ほとんど失明しつめい同然どうぜん状態じょうたいになる。失明しつめいについては、禁門きんもんへんでの負傷ふしょう、また持病じびょう白内障はくないしょう悪化あっかとう原因げんいんとされている。失明しつめいという障害しょうがいいながらも、暗殺あんさつされた象山ぞうさん遺児いじ三浦みうら啓之ひろゆきすけ世話せわかちからたのまれてけ、新選しんせんぐみれたほか、西にしあまね紹介しょうかいされ、西洋せいよう事情じじょう見聞けんぶんひろめたのもこのころである[1]。のちにさとし西にし主著しゅちょひゃく一新いっしんろん』を出版しゅっぱんした。

慶応けいおう2ねん1866ねん)12がつごろ会津あいづ藩士はんし中沢なかざわ帯刀たてわきとともに長崎ながさきき、ドイツ商人しょうにんカール・レーマン鉄砲てっぽう購入こうにゅう交渉こうしょうおこな[4]。そしてよく慶応けいおう3ねん1867ねん)3がつには、紀州きしゅうはんのためにシュンドナールドゲベールじゅうを3,000てい、4がつには会津あいづはん桑名くわなはんのためにシュンドナールドゲベールじゅう1,300てい購入こうにゅうするという約定やくじょうわした[ちゅう 1]。 さらにおなごろ兵庫ひょうごでレーマンと会津あいづはん家老がろう田中たなか土佐とさとの会見かいけん斡旋あっせんした[6]。 このさいレーマンの援助えんじょで、兵庫ひょうご造船ぞうせんしょ武器ぶき工場こうじょう建設けんせつする計画けいかくがったという[6]。また、長崎ながさき滞在たいざいちゅうさとし西洋せいようしき近代きんだい病院びょういんせいとくかん」で、オランダじん医師いしアントニウス・ボードウィンから診察しんさつけている[7]一方いっぽうで、赤松あかまつ小三郎こさぶろうかいして、小松こまつきよしれん西郷さいごう隆盛たかもり薩摩さつまはん幕府ばくふ協調きょうちょう模索もさくしていたが、赤松あかまつ暗殺あんさつされてしまった[8]

慶応けいおう4ねん1868ねん)の鳥羽とば伏見ふしみたたかい(このたたかいでおとうと三郎さぶろう戦死せんし)にさいしてはきょうのこり、薩摩さつまはんとらわれてどうはん二本松にほんまつてい現在げんざい同志社大学どうししゃだいがく今出川いまでがわキャンパス)に収容しゅうようされた[3]。しかし、薩摩さつまはんないさとし優秀ゆうしゅうさがられており、丁重ていちょう処遇しょぐうけた[9][ちゅう 2]。この幽閉ゆうへいちゅう建白けんぱくしょ管見かんけん』を口述こうじゅつ筆記ひっき薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ忠義ただよし上程じょうてい[10]、これをんだ小松こまつ西郷さいごうらはますます敬服けいふく一層いっそう待遇たいぐうくしたという。明治めいじ元年がんねん(1868ねん)、仙台せんだいはんやしき病院びょういんうつされ[3]、ここで岩倉いわくら具視ともみ訪問ほうもんけ、翌年よくねん釈放しゃくほうされた[3]

せい時代じだい

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自由じゆうとなったさとし明治めいじ3ねん1870ねん)、京都きょうとだい参事さんじ河田かわたたすく久馬きゅうま推挽すいばんにより京都きょうと府庁ふちょう出仕しゅっしし、けんだい参事さんじとして府政ふせい実権じっけんにぎっていたまきむら正直しょうじき(のち京都きょうとれい知事ちじ)の顧問こもんとして指導しどうする[3]まきむらもとで、小中学校しょうちゅうがっこう女学校じょがっこう病院びょういん医学いがくこうなどの設立せつりつちからくしたほか大阪おおさか北陸ほくりくむす京都きょうと鉄道てつどう敷設ふせつ願書がんしょ当局とうきょく提出ていしゅつするなど、開明かいめいてきしょ政策せいさく推進すいしん有能ゆうのう人材じんざいささえられ、京都きょうと近代きんだいおおきく寄与きよした[3][10]。またいえでは講筵こうえんひらいて政治せいじがく経済けいざいがく講義こうぎした[ちゅう 3]日本にっぽん最初さいしょ博覧はくらんかいとなった京都きょうと博覧はくらんかい支援しえんし、明治めいじ6ねん1873ねん)、日本人にっぽんじんによる日本にっぽん最初さいしょとみられる英語えいごかれたガイドブック「The guide to the celebrated places in Kiyoto & the surrounding places for the foreign visitors」をあらわ[11]。また、このころ脊髄せきずい損傷そんしょうし、からだ自由じゆうかなくなる[10]

信仰しんこう時代じだい

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明治めいじ8ねん1875ねんはる当時とうじ大阪おおさか伝道でんどうちゅうのアメリカの会衆かいしゅう宣教せんきょう団体だんたいアメリカン・ボード宣教せんきょうM・L・ゴルドンからおくられた『天道てんとうさかのぼはら』をんでおおいに共鳴きょうめい[10]キリスト教きりすときょうこそがしん日本人にっぽんじんしんみがき、進歩しんぽ促進そくしんするちからとなりるとかんじた。そのころ新島にいじまじょう(のちにさとしいもうとはちじゅう結婚けっこんする)とい、かれ学校がっこう設立せつりつ計画けいかくり、協力きょうりょく約束やくそくした[10]さとし維新いしん購入こうにゅうしていたきゅう薩摩さつま藩邸はんてい敷地しきち(6,000つぼ)を学校がっこう用地ようちとして新島にいじま譲渡じょうといで新島にいじまとの連名れんめいで「私学しがく開業かいぎょうねがい」を文部省もんぶしょう出願しゅつがん、これが認可にんかされた[10]。このこうは、やがて設立せつりつされた同志社どうししゃえい学校がっこうからそのである同志社大学どうししゃだいがく継承けいしょうされ、現在げんざい今出川いまでがわキャンパスとなっている(なお、「同志社どうししゃ」はさとし命名めいめいといわれる)[12]

明治めいじ10ねん1877ねん)、顧問こもんかれ、2ねんだい1かい京都きょうと府会ふかい選挙せんきょでは上京かみぎょうで51ひょう獲得かくとくして選出せんしゅつされ、最初さいしょ府会ふかい議員ぎいん一人ひとりとなり、初代しょだい議長ぎちょうにもなった[3]。しかし府会ふかい議決ぎけつずに、地租ちそ追徴ついちょう課税かぜい強行きょうこうする府知事ふちじまきむら対立たいりつ最終さいしゅうてきまきむら一旦いったん追徴ついちょう課税かぜい撤回てっかいしたうえで、府会ふかい追徴ついちょう課税かぜい議案ぎあん提出ていしゅつして可決かけついたったが、さとし議長ぎちょう議員ぎいんども辞職じしょくまきむらほどなく京都きょうと府知事ふちじして元老げんろう院議いんぎかんてんじた。こののちさとし同志社どうししゃじく活動かつどうし、旧主きゅうしゅ松平まつだいらひろしだい同志社どうししゃ入学にゅうがくさせた。一方いっぽう明治めいじ18ねん1885ねん)、京都きょうと商工しょうこう会議かいぎしょ会長かいちょう就任しゅうにん[3]、このとしつまときさかえとともに受洗じゅせんした。明治めいじ23ねん1890ねん)、新島にいじま他界たかいすると、さとし同志社どうししゃ臨時りんじ総長そうちょうとして、同志社どうししゃ発展はってん尽力じんりょくする[10]さとし臨時りんじ総長そうちょう時期じきに、ハリス理化りか学校がっこう同志社どうししゃせいほう学校がっこう設置せっちされた。明治めいじ25ねん1892ねん)、7がつにカトリックに改宗かいしゅう[13]、12月に64さいぼつ大正たいしょう4ねん(1915ねん)、したがえ追贈ついぞうされた[14]はか若王子わかおうじ山上さんじょう同志社どうししゃ墓地ぼちにある[10]

管見かんけん

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管見かんけん』(かんけん)は、慶応けいおう4ねん(1868ねん)6がつさとししん政府せいふててした(役所やくしょてとなっている)、政治せいじ経済けいざい教育きょういくとう22項目こうもくにわたり将来しょうらい日本にっぽんのあるべき姿すがたろんじた建白けんぱくしょである[ちゅう 4]

内容ないようは、思想家しそうか横井よこい小楠しょうなん富国ふこく強兵きょうへい士道しどう経済けいざい国防こくぼう道徳どうとく)の確立かくりつとなえた「国是こくぜさんろん」に酷似こくじしているが、さらに発展はってんさせたものである。三権分立さんけんぶんりつの「政体せいたい」にはじまり、だいいんしょういん二院にいんせいの「議事ぎじいん」、「学校がっこう」、「へんせい」、封建ほうけんせいからぐんけんせいへの移行いこう世襲せしゅうせい廃止はいし税制ぜいせい改革かいかくまでとなえた「国体こくたい」、「建国けんこくじゅつ」、「製鉄せいてつほう」、「貨幣かへい」、「衣食いしょく」、女子じょし教育きょういくすすめた「おんながく」、遺産いさん平均へいきん分与ぶんよの「平均へいきんほう」、「醸造じょうぞうほう」、「条約じょうやく」、「軍艦ぐんかん国体こくたい」、「みなとせい」、「救民きゅうみん」、「かみせい」、てら学校がっこうへの開放かいほうとなえた「へん仏法ぶっぽう」、「しょうりつ」、「どきほう」、太陽暦たいようれき採用さいようすすめた「暦法れきほう」、西洋せいよう登用とうよううったえた「かん」と内容ないよう多岐たきにわたる。将来しょうらい見据みすすぐれた先見せんけんせいんでおり、明治めいじしん政府せいふ政策せいさく骨格こっかくともつながる。

家族かぞく子孫しそん

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山本やまもとさとしはか京都きょうと左京さきょう
両親りょうしん
弟妹ていまい
両親りょうしんは3なん3じょもうけるが、1なん1じょ幼児ようじうしなう。
つま
  • 先妻せんさい樋口ひぐちうら:会津あいづはん勘定かんじょうかた樋口ひぐちむすめ。1857ねんに20さいで29さいさとし結婚けっこん。1860ねん長女ちょうじょ夭折ようせつ)、1862ねん次女じじょ・みねをもうける。そのとしさとし上洛じょうらく別居べっきょ、1871ねんはちじゅうたちが上洛じょうらくするさい離縁りえんもとめて会津あいづのこる。
  • 後妻ごさい小田おださかえ[ちゅう 5]:1853年生ねんせい京都きょうと盲目もうもくさとし身辺しんぺん世話せわに13さいよりたっていた。25さい年上としうえさとしとのあいださんじょ久栄ひさえもうけ、明治めいじ4ねん(1871ねん)に正式せいしき入籍にゅうせき不義ふぎ密通みっつううたがわれ、明治めいじ19ねん(1886ねん)に離縁りえん[ちゅう 6]
子女しじょ
  • 次女じじょ横井よこいみね文久ぶんきゅう2ねん(1862ねんせい明治めいじ14ねん(1881ねん)、横井よこい時雄ときお結婚けっこんたいら後述こうじゅつ)をもうけるが、明治めいじ20ねん(1887ねん死去しきょ
  • さんじょ山本やまもと久栄ひさえ明治めいじ3ねん(1870ねんせい一時期いちじきとくとみ蘆花ろか婚約こんやくするも破談はだん蘆花ろか小説しょうせつくろ茶色ちゃいろ』は久栄ひさえとの恋愛れんあい葛藤かっとうえがいている[ちゅう 7]婚約こんやく破棄はきから6ねんさとしから半年はんとし明治めいじ26ねん(1893ねん)、23さい病没びょうぼつ
  • まご養子ようし山本やまもとひらうま明治めいじ15ねん(1887ねんせい(諸説しょせつあり)。みねと横井よこい時雄ときおあいだいち生後せいごまもなくはは死別しべつしたため祖父そふさとし養子ようしとなる。くわしい生涯しょうがい不明ふめい[15]昭和しょうわ19ねん(1944ねん)に死去しきょ[15]ひらうまかく太郎たろうで、幼時ようじ山口やまぐち養子ようしとなる。京都きょうと市役所しやくしょ勤務きんむし、各地かくち消防署しょうぼうしょちょうをつとめた[15]

人物じんぶつ

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  • 京都きょうとでは、新門しんもん辰五郎たつごろうの100つぼ居宅きょたくを36えん買取かいと居住きょじゅうしていた(当時とうじさとし月給げっきゅうは45えん)。
  • 世間せけん浮華ふかなことをきらい、「分限ぶげん相応そうおう」が一番いちばん大切たいせついた。

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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テレビドラマ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このじゅう鳥羽とば伏見ふしみたたかには納入のうにゅうわず、のち紀州きしゅうはんけ、実験じっけんてき藩政はんせい改革かいかくのち明治めいじしん政府せいふ押収おうしゅうされることとなるが、西南せいなん戦争せんそう活用かつようされることとなった[5]
  2. ^ 囚人しゅうじん土間どま寝起ねおきするなかさとしにだけゆか板張いたばりのたたみあいだがあてがわれた。また、余分よぶん夜具やぐ毎日まいにちしゅいちしょうあたえられるなどの特別とくべつ待遇たいぐうだった。
  3. ^ このとき聴講生ちょうこうせいとして、のちの滋賀しがけん東京とうきょう知事ちじ松田まつだ道之みちゆき大阪おおさか知事ちじ藤村ふじむらむらさきあきらがいる
  4. ^ 書名しょめいの「管見かんけん」は、「自分じぶん見解けんかい」の謙称けんしょうである。
  5. ^ とくとみあしはな小説しょうせつくろ茶色ちゃいろ』ではときめぐみ
  6. ^ くろ茶色ちゃいろ』ではどきさかえ不貞ふてい原因げんいんとされている。
  7. ^ 作中さくちゅうでは寿代ひさよ(ひさよ)となっている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g 日本にっぽんきん現代げんだい人名じんめい辞典じてん』、1113ぺーじ
  2. ^ a b 野口のぐち信一しんいち. “山本やまもと八重子やえこ会津あいづ精神せいしん風土ふうど平成へいせい21ねん12月12にち)、190ぺーじ” (PDF). 同志社大学どうししゃだいがく. 2022ねん3がつ15にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i 日本人にっぽんじんめいだい事典じてん』、397ぺーじ
  4. ^ 荒木あらき、118p.
  5. ^ 荒木あらき、85p.
  6. ^ a b 荒木あらき、107 - 108p.
  7. ^ 安藤あんどう、276p.
  8. ^ 「さつまじんこく 会津あいづ藩士はんし山本やまもとさとし薩摩さつまはんした)」みなみ日本にっぽん新聞しんぶん』2013ねん5がつ20日はつか
  9. ^ https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/cmsfiles/contents/0000083/83714/No.15.pdf
  10. ^ a b c d e f g h 日本にっぽんきん現代げんだい人名じんめい辞典じてん』、1114ぺーじ
  11. ^ 山本やまもとさとしのThe guide to the celebrated places in Kiyoto ...”. レファレンス協同きょうどうデータベース. 2020ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  12. ^ 同志社どうししゃりょう編纂へんさんしょ同志社どうししゃきゅうじゅうねん小史しょうし学校がっこう法人ほうじん同志社どうししゃ、1965ねん、36ぺーじ
  13. ^ カトリック河原町かわらまち教会きょうかい洗礼せんれい台帳だいちょう山本やまもとさとし久栄ひさえ洗礼せんれい” (PDF). カトリック河原町かわらまち教会きょうかいだより (2014ねん1がつ). 2020ねん12月29にち閲覧えつらん
  14. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.38
  15. ^ a b c 八重やえとその時代じだい 幕末ばくまつ明治めいじきた人々ひとびと

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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