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新島にいじまきゅうやしき

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新島にいじまきゅうやしき
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと上京かみぎょう寺町てらまちどおり丸太まるたまちあが松陰まつかげまち18
位置いち 北緯ほくい351ふん7.2びょう 東経とうけい13546ふん3.7びょう / 北緯ほくい35.018667 東経とうけい135.767694 / 35.018667; 135.767694座標ざひょう: 北緯ほくい351ふん7.2びょう 東経とうけい13546ふん3.7びょう / 北緯ほくい35.018667 東経とうけい135.767694 / 35.018667; 135.767694
形式けいしき構造こうぞう 木造もくぞう地上ちじょう2かいけん
建築けんちくねん 1878ねん明治めいじ11ねん
文化財ぶんかざい 京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい(1985ねん指定してい
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新島にいじまきゅうやしき(にいじまきゅうてい)は、京都きょうと上京かみぎょうにある、同志社どうししゃ創立そうりつしゃ 新島にいじまじょうきゅうやしき外観がいかん洋風ようふうれた和洋折衷わようせっちゅう住宅じゅうたくで、1878ねん竣工しゅんこうした[1]学校がっこう法人ほうじん同志社どうししゃ所有しょゆう管理かんりしている。京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

京都きょうと御苑ぎょえん東南とうなん寺町てらまちどおり丸太まるたまち位置いちするこの邸宅ていたく敷地しきちは、1875ねん同志社どうししゃえい学校がっこう開校かいこうした土地とちであり、「同志社どうししゃ発祥はっしょう」とされている。

歴史れきし

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明治めいじ末期まっき新島にいじまてい
寺町てらまちどおりから
書斎しょさい
新島にいじま会館かいかん
新島にいじま会館かいかん内部ないぶ

敷地しきちは、1875ねん11月29にち同志社どうししゃえい学校がっこう開校かいこうしたさいかり校舎こうしゃとしてけた、高松たかまつ邸宅ていたくあとである[1][2]同志社どうししゃえい学校がっこうよく1876ねんに、山本やまもとさとし所有しょゆうしていたきゅう薩摩さつま藩邸はんてい跡地あとち現在げんざい同志社大学どうししゃだいがく今出川いまでがわキャンパス)に移転いてん。このあいだの1876ねん1がつ3にち新島にいじまじょう八重やえ夫人ふじん山本やまもとさとしいもうと)と結婚けっこんしている[2]。この時期じき新島にいじま借家しゃくやまいをしていたが、友人ゆうじんJ.M.シアーズから礼拝れいはいどう自宅じたく建設けんせつのための寄付きふけた。新島にいじまえい学校がっこういた土地とち高松たかまつからって自宅じたく建設けんせつし、1878ねん9がつ7にち竣工しゅんこうした[2]

この家屋かおくは、新島にいじま夫妻ふさい私邸していであるとともに、応接おうせつしつ教室きょうしつ礼拝れいはいどうとして使つかわれたり[3]書斎しょさい同志社どうししゃ学生がくせい開放かいほう書籍しょせきしたり[4]と、さまざまに使つかわれた。

1890ねん新島にいじまじょう死去しきょしたのち、八重やえ夫人ふじんは1907ねん同志社どうししゃ寄付きふ。このいえで1932ねんぼっするまで生活せいかつした[2]

1985ねん調度ちょうど家具かぐるいふくめ、京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい指定してい[2]。1990ねん全面ぜんめん解体かいたい修理しゅうりおこなわれた[2]

建築けんちく

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和洋折衷わようせっちゅうしき母屋もやと、付属ふぞくからなる。現在げんざい新島にいじま会館かいかん同志社どうししゃ校友こうゆうかい会館かいかん)が隣接りんせつは、もともと新島にいじまていにわで、家庭かてい菜園さいえんなどがもうけてあった[5]

母屋もや

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設計せっけいしゃ施工しこうしゃともに不明ふめいであるが[1]同志社どうししゃ教員きょういん医師いし宣教師せんきょうしでもあったW. テイラーの助言じょげんながら、新島にいじまじょう自身じしん設計せっけいしたともつたえられている[1][2][6]洋風ようふう住宅じゅうたくとしては京都きょうと現存げんそんする木造もくぞう最古さいこのものである[6]

建物たてもの木造もくぞう2かい[6]外観がいかんにはコロニアルスタイルれており、さんぽうベランダをめぐらせ、まどには鎧戸よろいどをつけている[1]一方いっぽうつくりの基本きほん和風わふうよせとう住宅じゅうたくであり、かべはしら露出ろしゅつされる真壁まかべづく間取まどりはがたという、日本にっぽんてき構造こうぞう採用さいようしている[1]欄間らんまはこ階段かいだんつくられているなど、日本にっぽんてき要素ようそれられている[6]

ふゆそなえて暖炉だんろをしつらえ、当時とうじとしては画期的かっきてきセントラルヒーティングれたほか、なつ快適かいてきごすためにゆかたかくして風通かぜとおしをくする工夫くふうをし、またひさしふかくしている[2]建築けんちく当初とうしょは、ぜんしつ板張いたばり(フローリング)でつくられた[2]大正たいしょうはじめ、八重やえは1かい洋間ようま和室わしつ茶室ちゃしつさびちゅうあん」)に改修かいしゅうしている[7]

木製もくせい腰掛こしかけしきトイレもうけており、日本にっぽんにおける初期しょき洋式ようしきトイレである[2][8]

付属ふぞく

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付属ふぞくは、新島にいじまじょう両親りょうしん新島にいじま民治たみじとみ)の隠居いんきょしょとしててた、平屋ひらや日本にっぽん建築けんちくである[2][9]安中あんなかはん江戸えど屋敷やしきにあった住居じゅうきょにならっててたものとつたえられる[9]

交通こうつうアクセス

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交通こうつう手段しゅだんとしては以下いかとお[10]

見学けんがく

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通常つうじょう公開こうかいには、きゅうやしき周囲しゅういから外観がいかんのみの見学けんがく可能かのうである。同志社どうししゃ行事ぎょうじ卒業そつぎょうしき、オープンキャンパス、ホームカミングデーとう)や京都きょうと御所ごしょ一般いっぱん公開こうかいわせて特別とくべつ公開こうかい母屋もや1かい附属ふぞくへの入場にゅうじょう可能かのう)もおこなわれる。団体だんたい(10めい以上いじょう)の見学けんがくには事前じぜんもうみが必要ひつよう

備考びこう

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  • 群馬ぐんまけん安中あんなかにも新島にいじまじょう旧宅きゅうたく新島にいじまきゅうやしき)とばれる建物たてものがある[11]廃藩置県はいはんちけんにより江戸えど屋敷やしきから安中あんなかげた新島にいじま父母ちちはは住居じゅうきょで、1874ねん米国べいこく留学りゅうがくから帰国きこくした新島にいじま滞在たいざいした。1963ねん安中あんなか現在地げんざいち安中あんなか安中あんなかいち丁目ちょうめ)に移築いちくし、1964ねんより資料しりょうかんとして公開こうかいしている。

周辺しゅうへん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 新島にいじまきゅうやしき”. 同志社どうししゃしゃ史料しりょうセンター. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j k 新島にいじまきゅうやしきデジタルパンフレット”. 同志社どうししゃ. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  3. ^ 応接おうせつしつ”. 新島にいじまきゅうやしきガイド. 同志社どうししゃ. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  4. ^ 書斎しょさい”. 新島にいじまきゅうやしきガイド. 同志社どうししゃ. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  5. ^ きゅうやしきにまつわるあれこれ”. 新島にいじまきゅうやしきガイド. 同志社どうししゃ. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d ギャラリー・あいだ 編集へんしゅう建築けんちくMAP京都きょうと』(TOTO出版しゅっぱん、1998ねん)、p.54
  7. ^ 茶室ちゃしつ”. 新島にいじまきゅうやしきガイド. 同志社どうししゃ. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  8. ^ 風呂場ふろば便所べんじょ”. 新島にいじまきゅうやしきガイド. 同志社どうししゃ. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  9. ^ a b 附属ふぞく”. 新島にいじまきゅうやしきガイド. 同志社どうししゃ. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  10. ^ 新島にいじまきゅうやしき”. 京都きょうと観光かんこうNavi. 京都きょうと産業さんぎょう観光かんこうきょく観光かんこうMICE推進すいしんしつ. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん
  11. ^ 新島にいじまじょう旧宅きゅうたく”. 安中あんなか. 2016ねん4がつ12にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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