北岡きたおか寿ひさしいっ

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北岡きたおか寿ひさしいっ(きたおか じゅいつ、1894ねん明治めいじ27ねん7がつ2にち1989ねん平成へいせい元年がんねん6月7にち)は、日本にっぽん労働ろうどう官僚かんりょう経済けいざい学者がくしゃ[1]國學院大學こくがくいんだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ北岡きたおか伸一しんいち大叔父おおおじ[2]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

奈良ならけん吉野よしのまち出身しゅっしん旧制きゅうせい第一高等学校だいちこうとうがっこうて、1918ねん大正たいしょう7ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく政治せいじ卒業そつぎょうのう商務省しょうむしょう入省にゅうしょうし、内務省ないむしょう外局がいきょくとして社会しゃかいきょく設置せっちされるとどう事務じむかん就任しゅうにんした。1929ねん昭和しょうわ4ねん社会しゃかいきょく労働ろうどう監督かんとく課長かちょう1936ねん昭和しょうわ11ねん国際こくさい労働ろうどう機関きかん(ILO)事務所じむしょちょうなどを歴任れきにん1939ねん昭和しょうわ14ねん)に退官たいかんすると同時どうじに、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶ教授きょうじゅ着任ちゃくにんする。1941ねん昭和しょうわ16ねん)には住宅じゅうたく営団えいだん研究けんきゅう部長ぶちょう理事りじ就任しゅうにんする。

戦後せんごは、1946ねん昭和しょうわ21ねん経済けいざい安定あんてい本部ほんぶだい4部長ぶちょう皮切かわきりに、1948ねん昭和しょうわ23ねん東宝とうほう取締役とりしまりやくきぬた(きぬた)撮影さつえいしょ所長しょちょうて、國學院大學こくがくいんだいがく政経学部せいけいがくぶげん経済学部けいざいがくぶ教授きょうじゅ就任しゅうにん1955ねん昭和しょうわ30ねん東大とうだい教授きょうじゅ時代じだい出版しゅっぱんした『失業しつぎょう問題もんだい研究けんきゅう』を日本にっぽん大学だいがく提出ていしゅつし、経済けいざいがく博士はかせとなる[3]1972ねん昭和しょうわ47ねん國學院大學こくがくいんだいがく退職たいしょくし、どう大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅほかにも自由じゆうアジア協会きょうかい理事りじちょうなどの役職やくしょく歴任れきにんした。墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 上田うえだただしあきら西澤にしざわ潤一じゅんいち平山ひらやま郁夫いくお三浦みうら朱門しゅもん監修かんしゅう日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん』(講談社こうだんしゃ、2001ねん
  2. ^ かんよりみん」で世界せかいめざせ JICA理事りじちょう 北岡きたおか伸一しんいちさん(もっと関西かんさい)”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2018ねん7がつ10日とおか). 2021ねん2がつ5にち閲覧えつらん
  3. ^ 北岡きたおか寿ひさしいっきゅうじゅうよんさいおう回顧かいころく』(自由じゆうアジア協会きょうかい、1988ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 北岡きたおか寿ひさしいっおも』(北岡きたおか寿ひさしはぐれ、1976ねん
  • 北岡きたおか寿ひさしいっきゅうじゅうよんさいおう回顧かいころく』(自由じゆうアジア協会きょうかい、1988ねん