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五島ごしま慶太けいた

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五島ごしま 慶太けいた
ごとう けいた
生年月日せいねんがっぴ (1882-04-18) 1882ねん4がつ18にち
出生しゅっしょう 長野ながのけん小県ちいさがたぐん殿戸とのとむらげん青木あおきむら
ぼつ年月日ねんがっぴ (1959-08-14) 1959ねん8がつ14にち(77さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
ぜんしょく のう商務省しょうむしょう官僚かんりょう
鉄道てつどういん官僚かんりょう
目黒めぐろ蒲田かまた電鉄でんてつ専務せんむ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつ専務せんむ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
京浜けいひん電気でんき鉄道てつどう代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
小田急電鉄おだきゅうでんてつ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
東京急行電鉄とうきょうきゅうこうでんてつ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう会長かいちょう
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞく
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
長野ながのけん青木あおきむら名誉めいよ村民そんみん
配偶はいぐうしゃ つま五島ごしままんせんだい
親族しんぞく 長男ちょうなん五島ごしまのぼる
まご五島ごしまあきら

内閣ないかく 東條とうじょう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1944ねん2がつ19にち - 1944ねん7がつ22にち
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五島ごしま 慶太けいた(ごとう けいた、旧姓きゅうせい小林こばやし1882ねん明治めいじ15ねん4がつ18にち - 1959ねん昭和しょうわ34ねん8がつ14にち)は、日本にっぽん実業じつぎょう政治せいじ官僚かんりょう東急とうきゅうおよびその子会社こがいしゃ東急とうきゅう電鉄でんてつといった東急とうきゅうグループ事実じじつじょう創業そうぎょうしゃである。せいさん勲一等くんいっとう長野ながのけん青木あおきむら名誉めいよ村民そんみん[1]

来歴らいれき

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長野ながのけん農家のうかまれ、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう官僚かんりょうを9ねんつとめたのち現在げんざい東急東横とうきゅうとうよこせん前身ぜんしんである武蔵むさし電気でんき鉄道てつどう常務じょうむ就任しゅうにん実質じっしつてき経営けいえいけん獲得かくとくし、池上いけがみ電気でんき鉄道てつどうげん東急とうきゅう池上線いけがみせん)や玉川たまがわ電気でんき鉄道てつどう東急とうきゅう玉川たまがわせん)をはじめとする数々かずかず競合きょうごう企業きぎょうM&Aもちいて次々つぎつぎ買収ばいしゅうし、「強盗ごうとう慶太けいた」の異名いみょうった。一方いっぽう実業じつぎょうとしてはすぐれた経営けいえいおこない、阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつげん阪急電鉄はんきゅうでんてつ)の小林こばやし一三かずみならび、「西にし小林こばやしひがし五島ごしま」としょうされた。

幼少ようしょう - 大学だいがく卒業そつぎょう

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長野ながのけん小県ちいさがたぐん殿戸とのとむらげん青木あおきむら)に農業のうぎょういとな小林こばやしきくみぎ衛門えもん寿ことぶき夫妻ふさい二男じなんとしてまれる[2]幼少ようしょう時分じぶんガキ大将がきだいしょうであったが、よわものいじめはしなかった。1893ねん青木あおき尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん青木あおき村立そんりつ青木あおき小学校しょうがっこう)、1895ねん浦里うらざと尋常じんじょう小学校しょうがっこう高等こうとうげん上田うえだ市立しりつ浦里うらざと小学校しょうがっこう)を卒業そつぎょう[2]ちち製糸せいしぎょうなどに失敗しっぱいしていたため、家計かけいくるしかったが、慶太けいたこころざしたかく、ちち説得せっとくして長野ながのけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう上田うえだささえこうげん長野ながのけん上田高等学校うえだこうとうがっこう)に入学にゅうがくした。青木あおきむら自宅じたくから徒歩とほ片道かたみち2あいだかけて通学つうがくした。中学ちゅうがくの3ねんえると、長野ながのけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう松本まつもと本校ほんこうげん長野県松本深志高等学校ながのけんまつもとふかしこうとうがっこう)に親友しんゆう大井おおい新次郎しんじろう多摩川たまがわえんちょう)とともに松本まつもと知人ちじんいえ下宿げしゅくしながら通学つうがくし、4ねん・5ねん修了しゅうりょうした[2][3][注釈ちゅうしゃく 1]

慶太けいたはさらに上級じょうきゅう学校がっこうへの進学しんがく夢見ゆめみたが、経済けいざいてき理由りゆうから進学しんがく断念だんねんして青木あおき小学校しょうがっこう代用だいよう教員きょういんとなる。慶太けいた向学心こうがくしんつよく、1902ねん明治めいじ35ねん)のなつ上京じょうきょうして東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう受験じゅけんするが、英語えいご失敗しっぱい合格ごうかく[よう出典しゅってん]。1903ねん学費がくひ不要ふよう東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう合格ごうかくし、代用だいよう教員きょういんして英文えいぶん進学しんがくした[よう出典しゅってん]東京とうきょうだかでは地理ちり歴史れきし英語えいご教育きょういくがくなどをまなんだが、のちの人生じんせいのこらず、ただ一人ひとりせい指針ししんとなったのは校長こうちょう嘉納かのう治五郎じごろう日頃ひごろかたっていた「なにくそッ」の教訓きょうくんだった[4]

卒業そつぎょうの1906ねん英語えいご教師きょうしとして三重みえけん四日市よっかいち市立しりつ商業しょうぎょう學校がっこう赴任ふにんする[2]も、「いち学校がっこう赴任ふにんしてみると、校長こうちょうはじめ同僚どうりょうがいかにも低調ていちょうでバカにえて、とうていともに仕事しごとをしていくにりないものばかりだった。」と不満ふまんち、さらなる最高さいこう学府がくふへの進学しんがくこころざして、1907ねん明治めいじ40ねん)9がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく政治せいじ学科がっか選科せんか入学にゅうがくする。10月に旧制きゅうせい第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょう資格しかく試験しけん合格ごうかくして法学部ほうがくぶ本科ほんか転学てんがくした。ふたた学資がくしきゅうし、東京とうきょうだか校長こうちょう在学ざいがくちゅう世話せわになった嘉納かのう紹介しょうかいて、富井とみい政章まさあき男爵だんしゃく子息しそく家庭かてい教師きょうしとして居候いそうろうする。富井とみい子息しそくだい高等こうとう学校がっこう進学しんがくまると、つぎ富井とみい紹介しょうかい加藤かとう高明こうめい子息しそく加藤かとうあつし太郎たろう家庭かてい教師きょうしとして加藤かとうてい居候いそうろうする。

1911ねん明治めいじ44ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょうするときはすでに29さいであったが、高等こうとう文官ぶんかん試験しけん合格ごうかくし、加藤かとう高明こうめい斡旋あっせんのう商務省しょうむしょう入省にゅうしょう工場こうじょうほう施行しこうともない、工場こうじょう監督かんとくかん採用さいようされるが、施行しこうが3ねん延期えんきになったため、鉄道てつどういんうつった。

鉄道てつどう業界ぎょうかい

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鉄道てつどういんでは文書ぶんしょ監督かんとくきょく監督かんとく局内きょくない総務そうむ職場しょくばうつり、1919ねん大正たいしょう8ねん)に総務そうむ課長かちょうくが、高等官こうとうかんななとう身分みぶんであるため「課長かちょう心得こころえ」となる。この処遇しょぐうわず、稟議りんぎしょ認可にんか押印おういんに、わざと「心得こころえ」の2してから上席じょうせきまわした。気付きづいた次官じかん理由りゆうたずねると「わたし本当ほんとう課長かちょうとしての責任せきにんをとって本気ほんき書類しょるいはんしている。心得こころえというような中途半端ちゅうとはんぱ無責任むせきにんしている。これは、わたし侮辱ぶじょくしたことになる」とこたえ、心意気こころいきわれて「課長かちょう」に昇進しょうしんした。1ねんはんほどのちに官吏かんり生活せいかつきてきたころ武蔵むさし電気でんき鉄道てつどうの(きゅう東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつ現在げんざい東急東横とうきゅうとうよこせん母体ぼたい社長しゃちょうごう誠之助せいのすけ資金しきんあつめに難航なんこうし、鉄道てつどう建設けんせつせんもん知識ちしきった常務じょうむもとめて鉄道てつどういん次官じかんった。次官じかんは「課長かちょう心得こころえらないとって『心得こころえ』をしてくる面白おもしろいやつがいる」と五島ごしま紹介しょうかいした。これをわたりにふねかんじた五島ごしま1920ねん大正たいしょう9ねん)5がつ11にち鉄道てつどういんし、武蔵むさし電気でんき鉄道てつどう常務じょうむ就任しゅうにんした。

そのころ実業じつぎょう渋沢しぶさわ栄一えいいちらによって理想りそうてき住宅じゅうたく田園でんえん都市とし」の開発かいはつ目的もくてき設立せつりつされた田園でんえん都市とし株式会社かぶしきがいしゃ[5]東京とうきょう荏原えばらぐん田園調布でんえんちょうふ[6]洗足せんそくなどに分譲ぶんじょうようとして45まんつぼ土地とち購入こうにゅうした。その住民じゅうみん交通こうつう便びん提供ていきょうするため、目黒めぐろえき蒲田かまたえきからどう経営けいえいまで鉄道てつどう敷設ふせつするため荏原えばら電機でんき鉄道てつどう設立せつりつしたが、素人しろうとばかりのため経営けいえい不振ふしんおちいっていた。そこでだい株主かぶぬし第一生命保険だいいちせいめいほけん社長しゃちょう矢野やのひさしふとし相談そうだんしたところ、第一生命だいいちせいめい相談役そうだんやく和田わだ豊治とよじ阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ阪急電鉄はんきゅうでんてつ総帥そうすい小林こばやし一三かずみした。小林こばやし名前なまえさず、報酬ほうしゅうらず、日曜日にちようびのみ、の約束やくそく経営けいえいけ、玉川たまがわ田園調布でんえんちょうふ方面ほうめん宅地たくち開発かいはつ鉄道てつどう事業じぎょうすすめた[7][8]目黒めぐろ蒲田かまた電鉄でんてつげるとき小林こばやし多忙たぼうのため、わりに鉄道てつどういん出身しゅっしんであった五島ごしま推挙すいきょした。小林こばやしからは「荏原えばら電鉄でんてつさきにやって、45まんつぼ土地とちり、その利益りえき武蔵むさし電鉄でんてつをやればいい」と説得せっとくされ、1922ねん大正たいしょう11ねん)10がつから荏原えばら電気でんき鉄道てつどう専務せんむ兼務けんむした。直前ちょくぜんの1922ねん大正たいしょう11ねん)7がつ荏原えばら電気でんき鉄道てつどう目黒めぐろ蒲田かまた電鉄でんてつ名前なまええ、1924ねん大正たいしょう13ねん)11月に目蒲線めかません全線ぜんせん開通かいつうむかえた。その時期じき関東大震災かんとうだいしんさいかさなったため、都心としんされた人々ひとびと沿線えんせん移住いじゅう業績ぎょうせき一気いっき好転こうてんした。その利益りえき武蔵むさし電鉄でんてつ株式かぶしき過半数かはんすう買収ばいしゅうし、名前なまえ武蔵むさし電鉄でんてつから(きゅう東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつえ、1927ねん昭和しょうわ2ねん)8がつ東横線とうよこせん渋谷しぶやえき - 神奈川かながわえきあいだ開通かいつうさせた。この東横線とうよこせん五島ごしまもっと精魂せいこんかたむけて建設けんせつした路線ろせん[9]である。

昭和しょうわ恐慌きょうこうあおりをけて業績ぎょうせき悪化あっかする。そのとき五島ごしまは「予算よさんそく決算けっさん主義しゅぎ」を確立かくりつした。これは後々あとあとまで五島ごしま経営けいえい哲学てつがくとしてつづける。

五島ごしま阪急はんきゅう小林こばやし手法しゅほうならい、沿線えんせん娯楽ごらく施設しせつデパートつく東横ひがしよこ沿線えんせん付加ふか価値かちたかめた。さら大学だいがくひとし学校がっこう誘致ゆうちはじめる。1924ねん大正たいしょう13ねん)、関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさいした東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく浅草あさくさ蔵前くらまえからがま電鉄でんてつ沿線えんせん大岡山おおおかやま移転いてんさせることに成功せいこうする。1929ねん昭和しょうわ4ねん)に慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく日吉台ひよしだい土地とち無償むしょう提供ていきょうし、1934ねん昭和しょうわ9ねん日吉ひよしキャンパスが開設かいせつされた。1931ねん昭和しょうわ6ねん)に日本医科大学にほんいかだいがく武蔵むさし小杉こすぎえきちかくの土地とち無償むしょう提供ていきょうし、1932ねん昭和しょうわ7ねん)に東京とうきょう府立ふりつ高等こうとう学校がっこう八雲やくも誘致ゆうちした。1936ねん昭和しょうわ11ねん)に赤坂あかさか青山北あおやまきたまちにあった東京とうきょう青山あおやま師範しはん学校がっこう資金しきん援助えんじょおこない、世田谷せたがや下馬げば誘致ゆうちした。東横ひがしよこ沿線えんせん学園がくえん都市としとして位置付いちづ数々かずかず誘致ゆうち成功せいこうさせ、通学つうがくきゃく安定あんていてき乗客じょうきゃくとしておお獲得かくとくした。

五島ごしまみずからが苦学くがくせいであったことにくわえ、学生がくせい時代じだいから家庭かてい教師きょうし学校がっこう教師きょうしつとめていたことから教育きょういく分野ぶんや大変たいへん熱心ねっしんだった。そのため私財しざいとうじて東横ひがしよこ商業しょうぎょう女学校じょがっこう東横学園とうよこがくえん中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう女子じょし短期大学たんきだいがく)を設立せつりつつづけて武蔵むさし高等こうとう工科こうか学校がっこうゆうする学校がっこう法人ほうじん五島ごしま育英いくえいかい設立せつりつするなど、晩年ばんねんまで意欲いよくつづけた。

事業じぎょう拡大かくだいして1933ねん昭和しょうわ8ねん)7がつ競合きょうごうする池上いけがみ電気でんき鉄道てつどうかぶ東京とうきょう川崎かわさき財閥ざいばつからゆずけて買収ばいしゅうした。

1934ねん昭和しょうわ9ねん)11月、渋谷しぶや駅前えきまえ関東かんとうはつ電鉄でんてつけいターミナルデパートである東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてん開業かいぎょうした。呉服ごふく中心ちゅうしんだった百貨店ひゃっかてん事業じぎょうなかで、東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてんにち用品ようひん中心ちゅうしんしなそろえを展開てんかいする。ターミナルであった渋谷しぶやえき当時とうじでも30まんにんちか乗降じょうこうきゃくがあり、都心としんかずものができる東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてん人気にんきんだ。東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてんとなり本社ほんしゃビルを所有しょゆうし、渋谷しぶや開発かいはつをめぐり競合きょうごう関係かんけいにあった玉川たまがわ電気でんき鉄道てつどう内国ないこく貯金ちょきん銀行ぎんこう前山まえやま久吉ひさよしから株式かぶしき譲渡じょうと買収ばいしゅう1936ねん昭和しょうわ11ねん)に社長しゃちょう就任しゅうにん1938ねん昭和しょうわ13ねん)4がつに(きゅう東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつ吸収きゅうしゅう合併がっぺいした。1939ねん昭和しょうわ14ねん)10がつ目黒めぐろ蒲田かまた電鉄でんてつは(きゅう東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつ合併がっぺいし、名称めいしょうぎゃくに(しん東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつとする。五島ごしま慶太けいたは「東横線とうよこせん我々われわれ祖業そぎょうである、このせんとどこおりなくはしっていれば東急とうきゅう事業じぎょう安泰あんたいだ」とかたったように(きゅう東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつは(しん東京とうきょう横浜よこはま電鉄でんてつにおける事実じじつじょう主力しゅりょくであった。[9]

五島ごしま関西かんさいでも鉄道てつどう事業じぎょう関与かんよし、1927ねん昭和しょうわ2ねん)から1944ねん昭和しょうわ19ねん)にかけて、近畿日本鉄道きんきにほんてつどう近鉄きんてつ)の前身ぜんしんである大阪おおさか電気でんき軌道きどうだい軌)[10]監査かんさやくおよび、だい軌子会社かいしゃである参宮さんぐう急行きゅうこう電鉄でんてつまいりきゅう)の取締役とりしまりやくつとめた。

事業じぎょう戦略せんりゃく

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1938ねん前山まえやま久吉ひさよし所有しょゆうする三越みつこし株式かぶしき譲渡じょうとがった。五島ごしま東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてん三越みつこし合併がっぺいして東横ひがしよこ三越みつこし渋谷しぶや支店してんにしようとかんがえ、10まんかぶ購入こうにゅうした。東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてん従業じゅうぎょういん研修けんしゅうさい研修けんしゅうさき候補こうほがっていた三越みつこしかられをことわられたことの逆恨さかうらみであったとつたわる。三井みつい財閥ざいばつ祖業そぎょうである三越みつこしりを阻止そしするため、三井みつい銀行ぎんこう東横ひがしよこ融資ゆうし停止ていしする。三井みつい要請ようせいけた三菱銀行みつびしぎんこう頭取とうどり加藤かとう武男たけおも、慶應けいおうばつ牙城がじょう三越みつこし買収ばいしゅうせば非難ひなんくと判断はんだんして融資ゆうし停止ていしした。五島ごしまだい財閥ざいばつ三井みつい三菱みつびし相手あいてにする状況じょうきょうとなり、資金繰しきんぐりが悪化あっかする。三井みつい銀行ぎんこう出身しゅっしん慶應けいおうばつかお小林こばやし一三かずみ助力じょりょく依頼いらいしたが、「渋谷しぶやのようなへん田舎いなか[注釈ちゅうしゃく 2]百貨店ひゃっかてんがそんなことをするのは、かえるへびむより至難しなん」とさとされて断念だんねんした。

1934ねん五島ごしま渋谷しぶや - 新橋しんばしあいだ地下鉄ちかてつ敷設ふせつするため、大倉おおくらぐみ東京とうきょう地下鉄ちかてつどう協力きょうりょくして東京とうきょう高速こうそく鉄道てつどう発足ほっそくさせ、常務じょうむ就任しゅうにんした。1938ねん渋谷しぶや - 虎ノ門とらのもんあいだ開通かいつうするが、社長しゃちょう門野もんのしげる九郎くろう東京とうきょうえきへの延伸えんしん主張しゅちょうするのにたいし、五島ごしま新橋しんばしから東京とうきょう地下鉄ちかてつどうれ、当時とうじ東京とうきょういち繁華はんかがいであった上野うえの浅草あさくさいたるルートを主張しゅちょうし、2人ふたり対立たいりつした。1939ねん五島ごしまだい日本にっぽん電力でんりょく社長しゃちょう穴水あなみずぐまゆうから東京とうきょう地下鉄ちかてつどう株式かぶしき45まんかぶゆずけ、東京とうきょう地下鉄ちかてつどう社長しゃちょう早川はやかわ徳次とくじ退陣たいじんんだ。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)に陸上りくじょう交通こうつう事業じぎょう調整ちょうせいほうもとづく帝都ていと高速度こうそくど交通こうつう営団えいだん営団えいだん地下鉄ちかてつ)が成立せいりつした。鉄道てつどうしょう総務そうむ課長かちょう佐藤さとう栄作えいさくは、「私鉄してつしゃ無駄むだ競争きょうそうをやめさせ、営団えいだん一本いっぽんすべき」と主張しゅちょうした。これまで五島ごしま競合きょうごう相手あいて合併がっぺいするさいもちいた口実こうじつ使つかわれたことになる。両社りょうしゃ株式かぶしき営団えいだんさいえられたが、戦後せんごインフレーション紙屑かみくず同然どうぜんした債券さいけんやま五島ごしま人知ひとしれず号泣ごうきゅうした。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)に陸上りくじょう交通こうつう事業じぎょう調整ちょうせいほう趣旨しゅしもとづき、すで五島ごしま経営けいえいにあった京浜けいひん電気でんき鉄道てつどう小田急電鉄おだきゅうでんてつ合併がっぺいして東京急行電鉄とうきょうきゅうこうでんてつ発足ほっそくし、1944ねん京王けいおう電気でんき軌道きどう合併がっぺいする。相模鉄道さがみてつどうなど東京とうきょう西南せいなん全域ぜんいき私鉄してつもう傘下さんかおさめて「だい東急とうきゅう」となった。

東條とうじょう内閣ないかく入閣にゅうかく公職こうしょく追放ついほう

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五島ごしま慶太けいた

1943ねん昭和しょうわ18ねん)、国策こくさくによって静岡鉄道しずおかてつどう成立せいりつし、五島ごしま初代しょだい会長かいちょう就任しゅうにん静岡鉄道しずおかてつどう東急とうきゅうつながりがいまふかいのはそのためである。内閣ないかく顧問こもんにんぜられ、木造もくぞうせん行政ぎょうせい査察ささつ使として青森あおもりから関西かんさい造船ぞうせんしょまわった。巡回じゅんかいのち箱根はこね強羅ごうらホテルでレポートを仕上しあげているところに次男じなん戦死せんしみみにした。1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつ11にち東條とうじょう英機ひでき内閣ないかく運輸うんゆ通信つうしん大臣だいじん就任しゅうにんし、名古屋なごやえき交通こうつう緩和かんわ船員せんいん待遇たいぐう改善かいぜんなどに貢献こうけんする。

だい東急とうきゅう沿線えんせん都市とし川崎かわさきは、国鉄こくてつ川崎かわさきえき臨海りんかいむす川崎かわさき鶴見つるみ臨港りんこうバス輸送ゆそうりょく低下ていかごうやし、路面ろめん電車でんしゃ参入さんにゅうめていた。東急とうきゅう京浜けいひん電気でんき鉄道てつどうからいだ大師線だいしせん延長えんちょうし、臨海りんかい軍需ぐんじゅ工場こうじょう通勤つうきん輸送ゆそうたる予定よていだった。川崎かわさきでは当初とうしょ東急とうきゅうから大師線だいしせん買収ばいしゅうして市営しえい一本いっぽん環状かんじょう運転うんてんおこな構想こうそうっていたが五島ごしまがわ調整ちょうせいし、桜本さくらほんえきからきた東急とうきゅう以南いなん川崎かわさき運営うんえいとすることでわせる。1945ねん昭和しょうわ20ねん)に川崎かわさき市電しでん大師だいしせん桜本さくらほんえき連絡れんらくした。

終戦しゅうせん1947ねん昭和しょうわ22ねん)、東條とうじょう内閣ないかく閣僚かくりょうだったために連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい (GHQ) によって公職こうしょく追放ついほうもの指定していけた。追放ついほう解除かいじょは、1950ねんだいいち解除かいじょでは申請しんせいみとめられず[11]、1951ねんにずれんだ。追放ついほうちゅうかげのご意見いけんばんとして事実じじつじょう企業きぎょう活動かつどう参加さんかだい東急とうきゅう分割ぶんかつさいも、むしろみずか企業きぎょう分割ぶんかつ推進すいしんやくたした。すでにこのころ城西じょうさいみなみ地区ちく開発かいはつ」の発想はっそうがあり、きゅう3しゃへの事業じぎょう譲渡じょうと代金だいきん城西じょうさいみなみ地区ちく開発かいはつはじめる恰好かっこう元金がんきんであった。

追放ついほう解除かいじょ東京急行電鉄とうきょうきゅうこうでんてつ会長かいちょうふたた就任しゅうにんし、まずはかく系列けいれつ会社かいしゃ運営うんえい実態じったい確認かくにん倒産とうさん寸前すんぜんにまでおちいっていた東映とうえいは、借金しゃっきんが11おくえん(2006ねん貨幣かへい価値かち換算かんさんすうひゃくおくえん[12][13]にもふくらんでいたが[12][13]住友銀行すみともぎんこう鈴木すずきつよし頭取とうどり交渉こうしょうして融資ゆうしした[12][13]東映とうえい再建さいけんに、東急とうきゅう専務せんむで「経理けいり専門せんもん」として五島ごしま多大ただい信頼しんらいせていた大川おおかわひろし社長しゃちょうとして派遣はけんし、見事みごとに3ねんなおらせた。これが失敗しっぱいしていたら五島ごしま破産はさんしていたといわれる[12]1953ねん昭和しょうわ28ねん)に城西じょうさいみなみ地区ちく開発かいはつ発表はっぴょうして神奈川かながわけん北東ほくとう中心ちゅうしんとした地域ちいき多摩たま田園でんえん都市とし開発かいはつ着手ちゃくしゅする。

その一方いっぽうで、1955ねん昭和しょうわ30ねん)に横井よこい英樹ひでき白木屋しらきやりにし、これに東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてん吸収きゅうしゅう、「強盗ごうとう慶太けいた」の健在けんざいぶりをらしめる。定山渓じょうざんけい鉄道てつどうなど北海道ほっかいどう各地かくち乗合のりあいバス会社かいしゃ次々つぎつぎ買収ばいしゅうし、北海道ほっかいどう開発かいはつ推進すいしんした。伊豆いず観光かんこう開発かいはつにもちからそそぎ、伊東いとう - 下田しもだあいだ鉄道てつどう敷設ふせつげん伊豆急行線いずきゅうこうせん)を計画けいかくし「伊豆いず戦争せんそう」をひろげるかたわら、箱根はこね観光かんこう事業じぎょうではかつて傘下さんかおさめていた小田急おだきゅうがわについて「箱根山はこねやま戦争せんそう」をひろげ、五島ごしま郷里きょうりである長野ながのけんでも軽井沢かるいざわ開発かいはつめぐってくさけい電気でんき鉄道てつどう[注釈ちゅうしゃく 3]東急とうきゅう傘下さんかおさめて経営けいえいおこない、西武鉄道せいぶてつどうつつみ康次郎やすじろう各地かくちはげしく対立たいりつした。

五島ごしま郷里きょうり長野ながのけん開発かいはつにも関心かんしんっており、上田うえだ丸子まるこ電鉄でんてつげん上田うえだ交通こうつう)に出資しゅっしし、同社どうしゃはのちに東急とうきゅう系列けいれつ会社かいしゃとなったものの、すでやまいおかされておりそれ以上いじょう関与かんよはできなかった。直前ちょくぜんの1959ねん昭和しょうわ34ねん)にふたた横井よこい東洋精糖とうようせいとう買収ばいしゅうし、熾烈しれつ攻防こうぼうせんひろげる。しかし、その最中さいちゅう五島ごしま病没びょうぼつ東洋精糖とうようせいとうかぶ死後しご27にち手放てばなされた。墓所はかしょ世田谷せたがや浄真寺じょうしんじ

人物じんぶつぞう

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死後しご評価ひょうか

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強引ごういん企業きぎょう買収ばいしゅうられているものの、東映とうえい再建さいけん箱根はこね伊豆いず信州しんしゅう北海道ほっかいどう開発かいはつ洗足せんそく田園でんえん都市とし田園調布でんえんちょうふ発端ほったんにした多摩たま田園でんえん都市とし開発かいはつなど、その壮大そうだい事業じぎょう構想こうそうは、企業きぎょうとしてたか評価ひょうかけている。である小林こばやし一三かずみからは私鉄してつ経営けいえいについておおくをまなび、ターミナルであった渋谷しぶやえきにデパートを設置せっちしたことや田園でんえん都市とし開発かいはつしたのは、小林こばやし手法しゅほう模倣もほうとされている。しかし小林こばやしよりもだい規模きぼった「学校がっこう誘致ゆうち」のように、独自どくじ発想はっそうによるものもいくつかあった。さらに小林こばやし官僚かんりょう天下あまくだきらったのにたいし、五島ごしまはその政治せいじりょく積極せっきょくてき利用りようして事業じぎょうすすめようとするなど、官僚かんりょう出身しゅっしんしゃであるがゆえといっためんられることがあった。その反面はんめん小林こばやし多用たようした「"隠密おんみつ"を使つかっての事業じぎょう拡大かくだい」の手法しゅほうらなかった。

小林こばやしやライバルとしてられる西武鉄道せいぶてつどうつつみ康次郎やすじろう同様どうよう美術びじゅつひんのコレクターとしてられる。蒐集しゅうしゅうひん公開こうかいのため、翌年よくねん五島ごしま美術館びじゅつかん創立そうりつされた。

東急とうきゅうグループである東京とうきょう都市とし大学だいがくでは、五島ごしまについてまな授業じゅぎょう存在そんざいする。

出身しゅっしん長野ながのけんでは、郷土きょうど出身しゅっしん偉人いじんとしてたたえられている。生前せいぜんまれ故郷こきょうである青木あおきむら殿戸とのと地区ちく公民館こうみんかん建設けんせつ寄付きふおこなうなどしており、館内かんない胸像きょうぞうてられている。没後ぼつご長男ちょうなん五島ごしまのぼるが「五島ごしま慶太けいたおう記念きねん公園こうえん」を建設けんせつしたほか、2020ねんに「五島ごしま慶太けいた未来みらい創造そうぞうかん」が開館かいかんしている。殿戸とのととうげ入口いりくち生家せいか現存げんそんしていたが、2018ねん8がつ落雷らくらいにより焼失しょうしつ[注釈ちゅうしゃく 4]鉄道てつどういん官吏かんりとして勤務きんむしたころは、北信ほくしん地方ちほう交通こうつうもう整備せいびのため飯山いいやま鉄道てつどう敷設ふせつ認可にんか尽力じんりょくし、のちに運輸うんゆ通信つうしん大臣だいじんとして同社どうしゃ国有こくゆうして国鉄こくてつ飯山線いいやませんとした。この功績こうせき記念きねんした石碑せきひ飯山いいのやまえきまえてられている。

家族かぞく親族しんぞく

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日本経済新聞にほんけいざいしんぶん連載れんさいされた『わたし履歴りれきしょ』によれば、「わたしいえまずしい農家のうかとはいっても、千戸せんどあまりしかない山中さんちゅういち寒村かんそんでは、むら一番いちばん資産しさんだった」。ちちきくみぎ衛門えもん熱心ねっしん法華経ほけきょう信者しんじゃで、起床きしょう就寝しゅうしんまえ南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうすくなくともひゃくへんからせんへんほどもとなえていた[15]両親りょうしん姿勢しせいけた慶太けいた仏教ぶっきょう感化かんかけた。あに虎之助とらのすけ家業かぎょうぎ、のちに青木あおきむら村長そんちょう長野ながの県議会けんぎかい議員ぎいんつとめるなど地元じもと名士めいしとして活動かつどうした。

鉄道てつどういん転属てんぞく前年ぜんねん1912ねん明治めいじ45ねん)2がつ24にち慶太けいたが30さいとき工学こうがく博士はかせ古市ふるいちこうたけし仲人なこうどで、皇居こうきょ二重橋にじゅうばし設計せっけいしゃである工学こうがく博士はかせ久米くめみんすけ長女ちょうじょまんせんだい見合みあ結婚けっこんをした。このとき久米くめみんすけ祖母そぼ実家じっかきゅう沼田ぬまたはん五島ごしま再興さいこう[16]慶太けいたまんせんだい結婚けっこんしたのち五島ごしませい名乗なのることになった。まんせんだい1922ねん(大正たいしょう11ねん)、スペインかぜ原因げんいんで31さい急逝きゅうせいしたが、五島ごしま生涯しょうがい再婚さいこん復姓ふくせいもしなかった。

まんせんだいとのあいだに2なん2じょもうけた。長男ちょうなんのぼり東京急行電鉄とうきょうきゅうこうでんてつ社長しゃちょう日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとうなどを歴任れきにんする。長女ちょうじょ春子はるこ曾禰えきとつぐ。次女じじょ光子こうし早世そうせいした。次男じなんすすむ東京帝大とうきょうていだい卒業そつぎょう帝国ていこく海軍かいぐん入隊にゅうたいし、ソロモン諸島しょとうてき機銃きじゅう掃射そうしゃにより乗船じょうせんしていたふね運命うんめいともにし戦死せんしする。

年譜ねんぷ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 上條かみじょう昌克まさよし所有しょゆう新町しんまち長屋ながや下宿げしゅくした。『五島ごしま慶太けいた追想ついそう』436ぺーじ
  2. ^ 渋谷しぶや繁華はんかがいになったのは1970年代ねんだい以降いこうである。
  3. ^ のちのくさけい交通こうつう2009ねん東急とうきゅうグループから離脱りだつ
  4. ^ 五島ごしま慶太けいた未来みらい創造そうぞうかんに、生家せいか模型もけいはしら一部いちぶのこされている[14]

出典しゅってん

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  1. ^ 広報こうほうあおき2023ねん7がつごう” (PDF) (日本語にほんご). 青木あおきむら (2023ねん7がつ1にち). 2023ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 五島ごしま慶太けいた未来みらい創造そうぞうかん開館かいかん記念きねんパンフレット”. 2022ねん10がつ25にち閲覧えつらん
  3. ^ わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん1』10ぺーじ
  4. ^ 鈴木すずき 1978, p. 795.
  5. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいち伝記でんき資料しりょうだい53かん 目次もくじ詳細しょうさい だい13せつ 土木どぼく築港ちっこう土地とち会社かいしゃ だい3款 田園でんえん都市とし株式会社かぶしきがいしゃ
  6. ^ 日本一にっぽんいちのブランドりょくほこる「田園調布でんえんちょうふ」- 東京とうきょう高級こうきゅう住宅じゅうたくがいむならどこがベスト
  7. ^ 中野なかのたけし営と商業しょうぎょう会議かいぎしょ』1017ぺーじ
  8. ^ 大阪おおさか池田いけだにある小林こばやし一三かずみ記念きねんかんパネル展示てんじ(2011ねん9がつ閲覧えつらん
  9. ^ a b 日本にっぽん私鉄してつ 東京急行電鉄とうきょうきゅうこうでんてつ毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 2011ねん1がつ30にち
  10. ^ 1941ねんからまいりきゅう統合とうごうして関西かんさい急行きゅうこう鉄道てつどうせききゅう)となる。
  11. ^ いちまんめい追放ついほう解除かいじょ」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん昭和しょうわ25ねん10がつ14にち1めん
  12. ^ a b c d #履歴りれきしょ26、177-178ぺーじ
  13. ^ a b c #いなき、238ぺーじ
  14. ^ 五島ごしま慶太けいたおう記念きねん公園こうえん五島ごしま慶太けいた”. 青木あおきむらホームページ. 2020ねん3がつ16にち閲覧えつらん
  15. ^ わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん1』11ぺーじ
  16. ^ 五島ごしま慶太けいたおう記念きねん公園こうえん五島ごしま慶太けいた

参考さんこう文献ぶんけん

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  • わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん1』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1980ねん)- 1956ねん4がつ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん連載れんさい
  • 早川はやかわたかし日本にっぽん上流じょうりゅう社会しゃかいねやばつ角川書店かどかわしょてん、1983ねん9がつ、82-83,88ぺーじISBN 9784048200011全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:84003794 
  • 岡田おかだしげるいなきわが映画えいが人生じんせい東映とうえいともあゆんだ50ねん財界ざいかい研究所けんきゅうじょ、2001ねん6がつ30にちISBN 9784879320162 
  • わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん26 五島ごしまのぼる日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、2004ねん6がつ7にちISBN 9784532169022 
  • 鈴木すずき博雄ひろお東京教育大学とうきょうきょういくだいがくひゃくねん図書としょ文化ぶんかしゃ、1978ねん7がつ28にち、819ぺーじ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:78027422 

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん人物じんぶつ

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門下生もんかせい

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外部がいぶリンク

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ビジネス
先代せんだい
後藤ごとう圀彦
池上いけがみ電気でんき鉄道てつどう代表だいひょう取締役とりしまりやく
1933 - 1934
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五島ごしまのぼる
先代せんだい
太田おおた耕造こうぞう
亜細亜学園あじあがくえん理事りじちょう
だい2だい:1956 - 1959
次代じだい
五島ごしまのぼる
  1. ^ 相模鉄道さがみてつどう系譜けいふ 鉄道てつどうピクトリアル 1976ねん5がつごう