(Translated by https://www.hiragana.jp/)
阿武隈 (軽巡洋艦) - Wikipedia コンテンツにスキップ

阿武隈あぶくま (けい巡洋艦じゅんようかん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿武隈あぶくま
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 浦賀うらが船渠せんきょ[1]
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
かんしゅ とう巡洋艦じゅんようかん(けい巡洋艦じゅんようかん)
きゅうめい 長良ながらがた
かんれき
発注はっちゅう 1920ねん1918ねんはちろく艦隊かんたい計画けいかく
起工きこう 1921ねん12月8にち[1]
進水しんすい 1923ねん3月16にち[1]
竣工しゅんこう 1925ねん3月31にち[1]
就役しゅうえき 1925ねん5月26にち[よう出典しゅってん]
最期さいご 1944ねん10月26にち沈没ちんぼつ
除籍じょせき 1944ねん11月20にち
要目ようもく
基準きじゅん排水はいすいりょう 5,170えいトン
常備じょうび排水はいすいりょう 5,570えいトン
全長ぜんちょう 162.15m
最大さいだいはば 14.17m
吃水きっすい 4.80 m
おも 90,000馬力ばりき
乗員じょういん 竣工しゅんこう定員ていいん438めい[2]
へいそう 新造しんぞう:
50口径こうけいさんねんしき14cmたんそうほう 77もん
40口径こうけいさんねんしき8cmたんそう高角こうかくほう 22もん
さんねんしきほうたんそう22もん
はちねんしき61cm連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん48もん
飛行機ひこうき 1
飛行機ひこうき滑走かっそうだい 1
いち号機ごうきかみなり 48
最終さいしゅう:
50口径こうけいさんねんしき14cmたんそうほう 55もん
40口径こうけいはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう 12もん
きゅうろくしき25mmさん連装れんそう機銃きじゅう 412もん
どう連装れんそう機銃きじゅう 24もん
どうたんそう機銃きじゅう 1414もん
きゅうさんしき13mm連装れんそう機銃きじゅう12もん
13 mm機銃きじゅうたんそう88もん
きゅうねんしき61cm4連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん 28もん
一号対空用電探 1
テンプレートを表示ひょうじ

阿武隈あぶくま(あぶくま)は、日本にっぽん海軍かいぐんけい巡洋艦じゅんようかん長良ながらがたの6ばんかんである。 かんめいかわで、阿武隈川あぶくまがわからづけられた[3]

概要がいよう

[編集へんしゅう]

阿武隈あぶくまは、大正たいしょう時代じだい多数たすう建造けんぞうされた5500トンがたけい巡洋艦じゅんようかん長良ながらがたいちせきである。かんめいには候補こうほとして水無瀬みなせ(みなせ)があった。

1921ねん12月、浦賀うらが船渠せんきょにて起工きこう1925ねん大正たいしょう14ねん)5がつ就役しゅうえきした。姉妹しまいかんくらべ、起工きこうから就役しゅうえきまでの期間きかんながいのには関東大震災かんとうだいしんさい関係かんけいしている。1923ねん3がつ進水しんすいし、建造けんぞう最終さいしゅう段階だんかいである艤装ぎそう作業さぎょうかり、1ねん前後ぜんこう完成かんせいする予定よていであった。ところが、1923ねん9がつ発生はっせいした関東大震災かんとうだいしんさいにより造船ぞうせんしょ施設しせつ被害ひがいけてしまい、建造けんぞう一時いちじ中断ちゅうだんとなった。施設しせつ復旧ふっきゅう予算よさん問題もんだいもあり、完成かんせい進水しんすいから2ねん以上いじょう遅延ちえんすることとなった。

また、姉妹しまいかんくら相違そういてんおおいのも特徴とくちょうである。

阿武隈あぶくまは1930ねん衝突しょうとつ事故じここし、かんくび損傷そんしょうした。当然とうぜん修理しゅうりされることになるがそのさい、スプーン・バウがたしのげなみせいなんがあるという報告ほうこくがあったため、かんくび形状けいじょうをダブル・カーベチュアがた(ダブル・カーブがた)に変更へんこうする改修かいしゅうおこなわれた。この形状けいじょう長良ながらがたでは阿武隈あぶくまのみであり、姉妹しまいかんとの外見がいけんじょう相違そういてんとなる。
1938ねんには、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえ長良ながらがたなか唯一ゆいいつ魚雷ぎょらいへいそう強化きょうか改修かいしゅうけ、酸素さんそ魚雷ぎょらい運用うんよう可能かのうとなったかんとなる。内容ないよう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん後部こうぶ連装れんそう発射はっしゃかん2よん連装れんそう発射はっしゃかん2交換こうかん前部ぜんぶ連装れんそう発射はっしゃかん撤去てっきょされウェルデッキは兵員へいいんしつてられた。 姉妹しまいかん開戦かいせんまえにこの改修かいしゅうけなかったのは、1939ねんだいよん海軍かいぐん軍備ぐんび充実じゅうじつ計画けいかく新型しんがたけい巡洋艦じゅんようかん阿賀あががた4せき大淀おおよどがた2せき大淀おおよどがたについては1せきのみに変更へんこうされた)が建造けんぞうされることがまっており、阿武隈あぶくまのぞ長良ながらがた5せき夕張ゆうばりは、老朽ろうきゅうとこれらの就役しゅうえきわせてだい一線いっせんでの運用うんようからはずされる予定よていであったためである。
阿武隈あぶくまのみ改修かいしゅうけたのはかんよわい姉妹しまいかんより若干じゃっかんあたらしかったため(当時とうじ海軍かいぐん所有しょゆうするけい巡洋艦じゅんようかんで(最上さいじょうがたのぞいてかんがえた場合ばあいかんよわいもっとわかいのが1925ねん11月に就役しゅうえきした川内せんだいがた那珂なかであった)、の5500トンがたけい巡洋艦じゅんようかんよりも改装かいそう優先ゆうせんされたとわれている。

かんれき

[編集へんしゅう]

開戦かいせんまえ

[編集へんしゅう]

太平洋戦争たいへいようせんそう

[編集へんしゅう]

南方みなかた作戦さくせん

[編集へんしゅう]

北方ほっぽうでの活動かつどう

[編集へんしゅう]

5がつ20日はつかだいいち水雷すいらい戦隊せんたいの「阿武隈あぶくま」、だいろく駆逐くちくたいだいじゅういち駆逐くちくたい北方ほっぽう部隊ぶたい編入へんにゅうされ、「阿武隈あぶくま」はだいじゅういち駆逐くちくたいなどとともにAQ攻略こうりゃく部隊ぶたい(AQはアッツ)として[5]AL作戦さくせん西部せいぶアリューシャン攻略こうりゃく作戦さくせん)に参加さんかした。AQ攻略こうりゃく部隊ぶたいは5月29にち川内せんだいわん出撃しゅつげき[6]。6月7にちよるにアッツとうホルツわんがい到着とうちゃくし、8にちには同島どうとうのチチャゴフを占領せんりょうした[7]。9にち、「阿武隈あぶくま」と駆逐くちくかん子日ねのひ」、「はつしも」はセミチとう掃海そうかいおよ基地きち調査ちょうさおこなった[7]10日とおかにAQ攻略こうりゃく部隊ぶたい編制へんせいかれ、おもたいじゅう巡洋艦じゅんようかん那智なち」ほか)への合流ごうりゅうめいじられた「阿武隈あぶくま」とだいじゅういち駆逐くちくたい(「子日ねのひかけ)は同日どうじつアッツとうはなれた[8]。その阿武隈あぶくま」はおもたいいで支援しえんたいいちせきとなり、ミッドウェー海戦かいせんやぶれたことからてき艦隊かんたい襲来しゅうらいそなえてかく部隊ぶたい邀撃ようげき作戦さくせんおこなっていたが6がつ24にちまでに大湊おおみなと帰着きちゃくした[9]。6月28にち支援しえん部隊ぶたいふくかく部隊ぶたいだい邀撃ようげき作戦さくせんおよびキスカとうへの輸送ゆそう部隊ぶたい掩護えんごのためふたた出撃しゅつげき[10]。7月5にちにキスカでだいじゅうはち駆逐くちくたいがアメリカ潜水せんすいかん攻撃こうげきけると、損傷そんしょうした「不知火しらぬい」、「かすみ」の応急おうきゅう修理しゅうりのため「阿武隈あぶくま」はキスカへ派遣はけんされ、7がつ7にちにキスカに到着とうちゃくした[11]。7がつ10日とおか阿武隈あぶくまだいろくだいじゅういち駆逐くちくたい護衛ごえいたい編成へんせいされた[12]同日どうじつ阿武隈あぶくま」はキスカをはなれ、7がつ16にち横須賀よこすか到着とうちゃく[13]。7月16にち0040、北緯ほくい3445ふん 東経とうけい14200ふん / 北緯ほくい34.750 東経とうけい142.000 / 34.750; 142.000犬吠埼いぬぼうざき南東なんとう170km地点ちてん付近ふきん補助ほじょ監視かんしせん武蔵丸むさしまる東京とうきょう、104トン)と衝突しょうとつ事故じここしている[14]武蔵丸むさしまる船尾せんび大破たいはし、よく17にち特設とくせつ監視かんしていだいななごうせい栄丸さかえまる四宮しのみやためぞう、102トン)の曳航えいこう横須賀よこすか到着とうちゃくした[よう出典しゅってん]

阿武隈あぶくま」、駆逐くちくかん初春しょしゅん」は8がつ4にち横須賀よこすか出港しゅっこうし、8がつ6にち大湊おおみなと到着とうちゃく[15]。8月8にちにアメリカ艦隊かんたいキスカとう砲撃ほうげきすると、北方ほっぽう部隊ぶたい指揮しきかんだいいち水雷すいらい戦隊せんたいなどにぐまべつわん進出しんしゅつめいじた[16]。「阿武隈あぶくま」は8がつ8にち大湊おおみなと出港しゅっこうし、8がつ11にちぐまべつわん到着とうちゃく[17]。8月12にちぐまべつわん集結しゅうけつした艦隊かんたいおもたい護衛ごえいたい)は出撃しゅつげきした[18]。しかし、どうにち日本にっぽん本土ほんど東方とうほう不時着ふじちゃくすい偵を発見はっけんしたとの報告ほうこくがあり、連合れんごう艦隊かんたいはアメリカ機動きどう部隊ぶたい出現しゅつげん判断はんだん[19]北方ほっぽう部隊ぶたいしゅたい護衛ごえいたい南下なんかして索敵さくてき従事じゅうじすることとなった[20]。しかし、結局けっきょくなにも発見はっけんされず、北方ほっぽう部隊ぶたいしゅたい護衛ごえいたいは8がつ16にち大湊おおみなと入港にゅうこうした[21]みず発見はっけん誤報ごほうであったものとおもわれる[22]

8がつ27にちアトカとう東部とうぶのナザンわんてき巡洋艦じゅんようかんとう発見はっけん報告ほうこくがあり、8がつ29にち北方ほっぽう部隊ぶたいしゅたい護衛ごえいたい大湊おおみなと出港しゅっこうしたが、台風たいふうのためぐまべつわんにゅうはくした[23]。9月3にちには今度こんどは「りょごうだいろくじゅう潜水せんすいかん」が巡洋艦じゅんようかんとう発見はっけん報告ほうこくし、「阿武隈あぶくま」やだいじゅういち戦隊せんたいなどはふたた出撃しゅつげきしてアッツとう南西方みなみにしかためんかった[24]。しかしアメリカ艦隊かんたい来襲らいしゅうはなく、おもたい、「阿武隈あぶくま」などは9月18にち大湊おおみなと帰投きとうした[25]。このあいだには陸軍りくぐん部隊ぶたいのアッツとうからキスカとうへの移駐いちゅうおこなわれていた。監視かんしていからのてき味方みかた不明ふめい飛行機ひこうき発見はっけん報告ほうこくけて9がつ30にちおもたいおよび護衛ごえいたい大湊おおみなとから出撃しゅつげきするも、とくなにもなかった[26]。10月2にち大湊おおみなと帰着きちゃく[27]

10月18にち、「阿武隈あぶくま」は片岡かたおかわん進出しんしゅつ[28]。10月まつからアッツとうさい占領せんりょうおこなわれた。そのために10がつ21にちだいいち水雷すいらい戦隊せんたいけい巡洋艦じゅんようかん多摩たま」、「木曾きそ」で挺身ていしん輸送ゆそう部隊ぶたい編成へんせいされた[29]。10月27にちから挺身ていしん輸送ゆそう部隊ぶたい陸軍りくぐん米川よねかわ部隊ぶたい主力しゅりょくをアッツとう輸送ゆそうした[30]陸軍りくぐん部隊ぶたいはこぶのは「阿武隈あぶくま」、「多摩たま」、「木曾きそ」で、3せき柏原かしわばらわん片岡かたおかわん人員じんいん物件ぶっけんをのせて片岡かたおかわん移動いどう[31]。10月27にち挺身ていしん輸送ゆそう部隊ぶたいおもたいとも出撃しゅつげきし、10月29にちよる揚陸ようりくおこなって11月1にち片岡かたおかわん帰投きとうした[32]。「阿武隈あぶくま」の輸送ゆそう人員じんいん物件ぶっけん計画けいかくではりくへい204めい海軍かいぐん水上すいじょう基地きちいん15めい海軍かいぐん派遣はけん通信つうしん隊員たいいん6めい速射そくしゃほう2機銃きじゅう2無線むせん通信つうしん弾薬だんやくとうやく30トンとなっている[33]。11月10にち、「阿武隈あぶくま」は小樽おたる[34]。「阿武隈あぶくま」は「木曾きそ」とともに小樽おたるでアッツとうへの増強ぞうきょう部隊ぶたいである独立どくりつ野戦やせん高射こうしゃほうだいじゅうよん中隊ちゅうたい独立どくりつ工兵こうへいだいさんひゃく中隊ちゅうたい独立どくりつ無線むせんだいじゅういち小隊しょうたいをのせた[35]計画けいかくでは「阿武隈あぶくま」の搭載とうさい内容ないよう人員じんいん235めい機銃きじゅう2無線むせん関係かんけい資材しざい糧秣りょうまつ燃料ねんりょう弾薬だんやくとうであった[36]。そのアッツとうへの輸送ゆそう部隊ぶたい(「阿武隈あぶくま」、「木曾きそ」、駆逐くちくかん若葉わかば」)とおもたいぐまべつわん移動いどうし、11月23にち同地どうち出撃しゅつげき[34]。11月25にち揚陸ようりくおこなって11月28にちぐまべつわん帰着きちゃくした[34]。11月30にちから「阿武隈あぶくま」、「木曾きそ」、「若葉わかば」の3せき(K船団せんだん)は独立どくりつ歩兵ほへいだいさんひゃく大隊だいたい主力しゅりょくほろむしろからキスカとう輸送ゆそう[37]計画けいかくでは「阿武隈あぶくま乗艦じょうかんしゃは259めいであった[38]。12月3にち揚陸ようりくおこなって12月7にちほろむしろ帰投きとう[37]復路ふくろでは2せき内地ないちへの帰還きかんしゃ(「阿武隈あぶくま」は86めい)をせていた[38]。その阿武隈あぶくま」と「若葉わかば」は佐世保させぼかって12月12にち到着とうちゃくし、修理しゅうり防寒ぼうかん工事こうじおこなわれた[39]

阿武隈あぶくま」は1がつ16にち佐世保させぼはつ[40]大湊おおみなと経由けいゆで1がつ24にちほろむしろ到着とうちゃくした[41]。2月18にちだいじゅう船団せんだんとしてだいさんじゅう防空ぼうくうたいだいさんじゅう設営せつえいたい基幹きかんいんおよび飛行場ひこうじょう資材しざいはこぶ「粟田あわたまる」を駆逐くちくかんでん」とともに護衛ごえいしてほろむしろからキスカとうけて出港しゅっこう[42]。このころアッツとう方面ほうめんにはアメリカ艦艇かんてい出現しゅつげんし、2がつ20日はつかにはアッツとうかっていた「あかがねまる」が撃沈げきちんされたが、「粟田あわたまる」による輸送ゆそう成功せいこうした[43]。「阿武隈あぶくま」と「でん」は2がつ21にちに「粟田あわたまる」をキスカとうかわせ、2がつ25にちほろむしろ帰着きちゃくした[44]

アメリカ水上すいじょう部隊ぶたいによる「あかがねまる撃沈げきちんにより北方ほっぽう部隊ぶたいはその大半たいはん輸送ゆそう作戦さくせん投入とうにゅうすることとなり、だいいち水雷すいらい戦隊せんたい駆逐くちくかん2せきかけ)は護衛ごえい部隊ぶたいとなった[45]。3月7にち水上すいじょう飛行場ひこうじょう資材しざい人員じんいんとうはこぶ「君川きみかわまる」、「粟田あわたまる」、「崎戸さきとまる」の3せきだいじゅういち船団せんだん、イ船団せんだん)と護衛ごえい部隊ぶたいおよびじゅう巡洋艦じゅんようかん那智なち」など巡洋艦じゅんようかん4せきは3がつ7にちほろむしろ海峡かいきょうより出撃しゅつげき[46]。3月10にち揚陸ようりく成功せいこうし、3月13にちぜん部隊ぶたいほろむしろ海峡かいきょう帰投きとうした[46]

つづいて2度目どめ輸送ゆそう作戦さくせんおこなわれたが、アメリカ艦隊かんたい遭遇そうぐうしてアッツとうおき海戦かいせん発生はっせいし、輸送ゆそう失敗しっぱいした。

阿武隈あぶくま」は整備せいびのため4がつ13にち片岡かたおかわんはつ舞鶴まいづるかい、4がつ17にち到着とうちゃくした[47]

7がつにはキスカとう撤退てったい作戦さくせん(司令しれいかん:木村きむら昌福まさとみ少将しょうしょう)に参加さんかし、1,202めい収容しゅうよう帰投きとうする。

1943ねん4がつ魚雷ぎょらい発射はっしゃかん直上ちょくじょう付近ふきんのシェルター甲板かんぱん左右さゆうに25mmさん連装れんそう機銃きじゅう2追加ついか装備そうび重量じゅうりょう補償ほしょうとして5ばん主砲しゅほう撤去てっきょ同年どうねん11がつ横須賀よこすか工廠こうしょうにて7ばん主砲しゅほう撤去てっきょあとはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう搭載とうさいする対空たいくう強化きょうか改装かいそうける。

1944ねん3月、大湊おおみなとにてカタパルトほか航空こうくうへいそう撤去てっきょ。カタパルト跡地あとち後部こうぶ甲板かんぱんに25mmさん連装れんそう機銃きじゅう追加ついか装備そうび同年どうねん7がつ横須賀よこすかにてこうろうに22ごうでんさがせ装備そうび。25mmたんそう機銃きじゅうおよび13mmたんそう機銃きじゅう多数たすうふえ備。同年どうねん10がつ内火艇ないかてい2ていとカッター2ていをおろし25mmたんそう機銃きじゅう10ふえ備。13ごうでんさがせ装備そうびはされなかったと推測すいそくされる。

レイテおき海戦かいせん沈没ちんぼつ

[編集へんしゅう]

1944ねん10がつだい5艦隊かんたいゆうげき部隊ぶたい(21戦隊せんたい1みずせん)として、スリガオ海峡かいきょうより西村にしむら艦隊かんたいのちつづいて突入とつにゅうした。10月25にちスリガオ海峡かいきょう海戦かいせんにおいててき魚雷ぎょらいていぐん攻撃こうげきけ、魚雷ぎょらい1ほんかんくびだいいち砲塔ほうとうした命中めいちゅうだいいち砲塔ほうとういんおよび弾薬だんやく発生はっせいした一酸化いっさんか炭素たんそ電信でんしんしついれ電信でんしんいん暗号あんごういんだい部分ぶぶんふく戦死せんししゃじゅうめいし、速力そくりょく低下ていかした。旗艦きかん駆逐くちくかんかすみ変更へんこうになり、だいいちみずせん司令しれいかんならびに幕僚ばくりょうかすみ移乗いじょうした。阿武隈あぶくまはその撤退てったい命令めいれい駆逐くちくかんしおともな戦線せんせん離脱りだつした。

夜明よあけとともにアメリカぐん攻撃こうげき雷撃らいげきによる空襲くうしゅうけた。空襲くうしゅう損傷そんしょう待避たいひしていたじゅう巡洋艦じゅんようかん最上さいじょう集中しゅうちゅうし、その最上さいじょう沈没ちんぼつした。阿武隈あぶくまP-38戦闘せんとうによる機銃きじゅう掃射そうしゃなどの攻撃こうげきけるが、対空たいくう機銃きじゅうにより応戦おうせん。このとき空襲くうしゅうなんとかることに成功せいこうした。

よく26にちミンダナオ島みんだなおとうダピタンで応急おうきゅう修理しゅうりおこない、駆逐くちくかんしおとともにコロンへ出航しゅっこうした。その途上とじょう午前ごぜんじゅうごろにB-24爆撃ばくげき30空襲くうしゅうけた。まず対空たいくう砲火ほうかとどかない高度こうど3,000メートル以上いじょうからの高空こうくうからばくげきけ、その700メートルから低空ていくうばくげきけた。阿武隈あぶくまはこの攻撃こうげきで250kgばくだんにより直撃ちょくげきだん3はつ至近しきんだん4はつじょう甲板かんぱん人員じんいん全滅ぜんめつし、艦橋かんきょう人員じんいんだい部分ぶぶん負傷ふしょうまたは戦死せんし機関きかん停止ていし火災かさい発生はっせいした。アメリカ軍機ぐんきはこれをみて攻撃こうげき目標もくひょうしお変更へんこうした。

阿武隈あぶくま停止ていし必死ひっし応急おうきゅう処置しょちによりなんとかかんでいたが発射はっしゃかん魚雷ぎょらい予備よび魚雷ぎょらいとの証言しょうげんもあり)が火災かさいにより誘爆ゆうばくかんたい亀裂きれつしょう重油じゅうゆ流出りゅうしゅつした。これによって応急おうきゅう処置しょちあきらめ、総員そういん退去たいきょ命令めいれいくだされ生存せいぞんしゃかんくびより退すさかん阿武隈あぶくまは3あいだかんくびてた状態じょうたいネグロスとうおきしずんだ。

阿武隈あぶくま戦死せんししゃは217めい生存せいぞんしゃは281めい(うち負傷ふしょうしゃは111めい)だった[48]阿武隈あぶくま生存せいぞんしゃはなんとかアメリカ軍機ぐんき攻撃こうげき回避かいひしたしお救助きゅうじょされ、全員ぜんいんマニラおくとどけられた。

沈没ちんぼつ位置いち北緯ほくい0909ふん 東経とうけい12154ふん / 北緯ほくい9.150 東経とうけい121.900 / 9.150; 121.900 ダピタン20037かいり地点ちてん付近ふきん 1944ねん10がつ26にち 午後ごご0:42

歴代れきだい艦長かんちょう

[編集へんしゅう]

※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』159-162ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれきおよび『官報かんぽう』にもとづく。

軍艦ぐんかん阿武隈あぶくま慰霊いれい佐世保させぼ

艤装ぎそういんちょう

[編集へんしゅう]
  1. 徳田とくた伊之助いのすけ 大佐たいさ:1924ねん10がつ20日はつか -

艦長かんちょう

[編集へんしゅう]
  1. 徳田とくた伊之助いのすけ 大佐たいさ:1925ねん5がつ26にち - 1925ねん12月1にち
  2. 大谷おおや四郎しろう 大佐たいさ:1925ねん12月1にち - 1926ねん11月1にち
  3. 長井ながいみのる 大佐たいさ:1926ねん11月1にち - 1927ねん11月15にち
  4. 豊田とよだ貞次郎ていじろう 大佐たいさ:1927ねん11月15にち - 1928ねん12がつ10日とおか
  5. 入江いりえふかしひら 大佐たいさ:1928ねん12がつ10日とおか[49] - 1929ねん11月30にち
  6. 野原のはら伸治しんじ 大佐たいさ:1929ねん11月30にち - 1930ねん12月1にち
  7. 古賀こが七三郎しちさぶろう 大佐たいさ:1930ねん12月1にち - 1931ねん12月1にち
  8. 岩村いわむら清一せいいち 大佐たいさ:1931ねん12月1にち - 1932ねん11月15にち
  9. 小島こじま謙太郎けんたろう 大佐たいさ:1932ねん11月15にち - 1933ねん11月15にち
  10. 小橋こはし義亮ぎりょう 大佐たいさ:1933ねん11月15にち - 1934ねん11月15にち
  11. 栗田くりた健男たけお 大佐たいさ:1934ねん11月15にち - 1935ねん11月15にち
  12. 藤田ふじたるい太郎たろう 大佐たいさ:1935ねん11月15にち - 1936ねん12月1にち
  13. 清水しみずいわお 大佐たいさ:1936ねん12月1にち - 1937ねん12月1にち
  14. 秋山あきやま勝三かつぞう 大佐たいさ:1937ねん12月1にち - 1938ねん12月1にち
  15. 田中たなか菊松きくまつ 大佐たいさ:1938ねん12月1にち - 1939ねん11月15にち
  16. 崎山さきやましゃくおっと 大佐たいさ:1939ねん11月15にち - 1940ねん11月1にち
  17. 村山むらやまきよしろく 大佐たいさ:1940ねん11月1にち -
  18. 渋谷しぶやむらさきろう 大佐たいさ:1942ねん9がつ20日はつか - 1943ねん8がつ28にち
  19. 小西こにし要人かなめ 大佐たいさ:1943ねん8がつ28にち - 1944ねん3がつ26にち
  20. 花田はなた卓夫たくお 大佐たいさ:1944ねん3がつ26にち -

同型どうけいかん

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d #海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく11-2(1972)pp.1057-1087、昭和しょうわ3ねん2がつ14にち(うちれい43)艦船かんせん要目ようもく公表こうひょう範囲はんい
  2. ^ 大正たいしょう14ねん5がつ26にちづけ 海軍かいぐんないれい だい137ごう改正かいせい海軍かいぐん定員ていいんれいだい50ひょう とう巡洋艦じゅんようかん定員ていいんひょう 其4」。この数字すうじ特修とくしゅうへいふくまない。
  3. ^ 日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんめいこう 1928, pp. 256–257「阿武隈あぶくま あぶくま Abukuma.」
  4. ^ 夜間やかん演習えんしゅうちゅうよんせき駆逐くちくかんわらび」が沈没ちんぼつ大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ2ねん8がつ26にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい1かん 昭和しょうわ元年がんねん-昭和しょうわ3ねん本編ほんぺんp49 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  5. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、229-231ページ、戦史せんし叢書そうしょだい43かん ミッドウェー海戦かいせん、234ページ
  6. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、245ページ
  7. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、255ページ
  8. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、229、255ページ
  9. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、258-262ページ
  10. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、262-263ページ
  11. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、272-273ページ、昭和しょうわ17ねんがつ29にち昭和しょうわ17ねんがつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(4)、だい5画像がぞう
  12. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、284ページ
  13. ^ 昭和しょうわ17ねんがつ29にち昭和しょうわ17ねんがつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(4)、だい7-8画像がぞう
  14. ^ 昭和しょうわ17ねんがつ29にち昭和しょうわ17ねんがつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(4)、だい85画像がぞう
  15. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、289ページ
  16. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、290-291ページ
  17. ^ 昭和しょうわ17ねんがつにち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(1)、だい7-8画像がぞう
  18. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、291ページ
  19. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、291、293ページ
  20. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、294ページ
  21. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、296ページ、昭和しょうわ17ねんがつにち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(1)、だい9画像がぞう
  22. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、296ページ
  23. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、301-302ページ
  24. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、302-303ページ
  25. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、303ページ、昭和しょうわ17ねんがつにち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(2)、だい9画像がぞう
  26. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、330-331ページ
  27. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、331ページ
  28. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、335ページ
  29. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、346ページ
  30. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、347、371ページ
  31. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、370ページ
  32. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、371ページ
  33. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、369ページ
  34. ^ a b c 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、378ページ
  35. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい21かん 北東ほくとう方面ほうめん陸軍りくぐん作戦さくせん<1>アッツの玉砕ぎょくさい、186ページ
  36. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、390ページ
  37. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、380ページ
  38. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、391ページ
  39. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、380ページ、昭和しょうわ17ねん12月じゅうにがつにち昭和しょうわ18ねんがつ28にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(1)、だい7画像がぞう
  40. ^ 昭和しょうわ17ねん12月じゅうにがつにち昭和しょうわ18ねんがつ28にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(2)、だい9、33画像がぞう
  41. ^ 昭和しょうわ17ねん12月じゅうにがつにち昭和しょうわ18ねんがつ28にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(2)、だい9-10、33画像がぞう
  42. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい21かん 北東ほくとう方面ほうめん陸軍りくぐん作戦さくせん<1>アッツの玉砕ぎょくさい、248ページ、戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、438ページ
  43. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、438-440ページ
  44. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、440ページ
  45. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、440-442ページ
  46. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、442ページ
  47. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、446ページ
  48. ^ 軍艦ぐんかん阿武隈あぶくま戦闘せんとう詳報しょうほう18P
  49. ^ 官報かんぽうだい587ごう昭和しょうわ3ねん12月11にち

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 浅井あさいすすむしげる/へん日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんめいこう東京とうきょうすい交社、1928ねん12月。 
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき)(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)
    • Ref.C08030081500、昭和しょうわ17ねんがつ29にち昭和しょうわ17ねんがつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(4)
    • Ref.C08030082000、昭和しょうわ17ねんがつにち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(1)
    • Ref.C08030082100、昭和しょうわ17ねんがつにち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(2)
    • Ref.C08030083200、昭和しょうわ17ねん12月じゅうにがつにち昭和しょうわ18ねんがつ28にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(1)
    • Ref.C08030083300、昭和しょうわ17ねん12月じゅうにがつにち昭和しょうわ18ねんがつ28にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(2)
  • 海軍かいぐんしょう/へん海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく まきじゅういちの2』 明治めいじひゃくねん叢書そうしょ だい185かんはら書房しょぼう、1972ねん5がつ原著げんちょ1941ねん)。 
  • 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかい日本にっぽん海軍かいぐんだい7かんだい9かんだい10かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1995ねん
  • 軍艦ぐんかん阿武隈あぶくま戦友せんゆうかい 配布はいふ雑誌ざっし
  • 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねんISBN 4-7698-1246-9
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい21かん 北東ほくとう方面ほうめん陸軍りくぐん作戦さくせん<1>アッツの玉砕ぎょくさいちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい43かん ミッドウェー海戦かいせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう『ハンディばん 日本にっぽん海軍かいぐん艦艇かんてい写真しゃしんしゅう14 けいじゅん 長良ながらがた光人みつひとしゃ、1997ねん
  • 官報かんぽう

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]