(Translated by https://www.hiragana.jp/)
名取 (軽巡洋艦) - Wikipedia コンテンツにスキップ

名取なとり (けい巡洋艦じゅんようかん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
名取なとり
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 三菱みつびし造船ぞうせん長崎造船所なかざきぞうせんじょ
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
かんしゅ けい巡洋艦じゅんようかん
きゅうめい 長良ながらがた
母港ぼこう 最終さいしゅう:舞鶴まいづる[1]
かんれき
計画けいかく 1919ねん1917ねん計画けいかく
起工きこう 1920ねん12月14にち[2]
進水しんすい 1922ねん2がつ16にち[2]
竣工しゅんこう 1922ねん9がつ15にち[2]
最期さいご 1944ねん8がつ18にち沈没ちんぼつ
除籍じょせき 1944ねん10がつ10日とおか[1]
要目ようもく計画けいかく
基準きじゅん排水はいすいりょう 5,170ロングトン (5,253 t)[2]
常備じょうび排水はいすいりょう 5,570ロングトン (5,659 t)[3]
全長ぜんちょう 162.15m
最大さいだいはば 14.17m
吃水きっすい 4.80 m
出力しゅつりょく 90,000馬力ばりき
速力そくりょく 36.0ノット
乗員じょういん 竣工しゅんこう定員ていいん:450めい[4]
へいそう 50口径こうけいさんねんしき14cmたんそうほう 77もん
40口径こうけいさんねんしき8cmたんそう高角こうかくほう 22もん
6.5mmたんそう機銃きじゅう 22てい
はちねんしき61cm連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん 48もん
機雷きらい 48
搭載とうさい 滑走かっそうだい 1だい
航空機こうくうき1搭載とうさい可能かのう
テンプレートを表示ひょうじ

名取なとり(なとり)は、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんけい巡洋艦じゅんようかん長良ながらがたの3ばんかんである。 かんめいかわで、宮城みやぎけん名取川なとりがわよりづけられた[3]

かんがた[編集へんしゅう]

太平洋戦争たいへいようせんそうとき[編集へんしゅう]

最終さいしゅうへいそう以下いかとおり。

かんれき[編集へんしゅう]

名取なとりは、大正たいしょう年間ねんかん多数たすう建造けんぞうされた5500トンがたけい巡洋艦じゅんようかん長良ながらがたいちかんとして、1922ねん大正たいしょう11ねん)に三菱みつびし造船ぞうせん長崎造船所なかざきぞうせんじょげん三菱重工みつびしじゅうこう長崎造船所なかざきぞうせんじょ)で完成かんせいした。完成かんせいには、高速こうそくけい巡洋艦じゅんようかんとして、水雷すいらい戦隊せんたい旗艦きかんてきした優秀ゆうしゅうかんであった。

1927ねん12月にだい艦隊かんたいだい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかんたてあきら次郎じろう少将しょうしょう)の旗艦きかんとなり、1933ねん5月、だいいち艦隊かんたいだいなな戦隊せんたい編入へんにゅうされた。

1936ねん12月にだいいち艦隊かんたいだいはち戦隊せんたい司令しれいかん南雲なぐも忠一ただかず少将しょうしょう)にうつみなみささえ方面ほうめん行動こうどうした。1938ねん12月、だい艦隊かんたいだいきゅう戦隊せんたい編入へんにゅうし、うまこう基地きちとしてみなみささえ作戦さくせん参加さんかした。

1939ねん9月に予備よびかんとなり舞鶴まいづる旗艦きかんとしての改造かいぞうおこなった。

1940ねん11月、だい二遣支艦隊だい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかんはらあらわさんろう少将しょうしょう)の旗艦きかんとなり、翌年よくねん4がつだい水雷すいらい戦隊せんたいだいさん艦隊かんたい編入へんにゅうされ、南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう作戦さくせん参加さんか

太平洋戦争たいへいようせんそう[編集へんしゅう]

太平洋戦争たいへいようせんそう緒戦しょせんでは、だい水雷すいらい戦隊せんたい駆逐くちくかん2せきのぞく)などからなる比島ひじま部隊ぶたいだいいち急襲きゅうしゅうたい指揮しきかんだい五水雷戦隊司令官原顕三郎少将)の一隻いっせきとしてフィリピン北部ほくぶアパリ攻略こうりゃく参加さんかした[5]だいいち急襲きゅうしゅうたい上陸じょうりく部隊ぶたいせた船団せんだん護衛ごえいして12月7にちうまこうから出撃しゅつげき[6]。12月10にち目的もくてき到着とうちゃくだいいち上陸じょうりく部隊ぶたい上陸じょうりくさいして抵抗ていこうく、上陸じょうりく成功せいこうほうじられた[7]同日どうじつ、クラーク基地きちより発進はっしんしたアメリカ陸軍りくぐんだい14中隊ちゅうたいB-17ばくげき2来襲らいしゅう[8]名取なとり左舷さげん中央ちゅうおう付近ふきん至近しきんだんがあり、搭載とうさい大破たいは重油じゅうゆタンク破損はそんなどの損害そんがいけ、死者ししゃ7めい負傷ふしょうしゃ15めいした[9]名取なとり修理しゅうりためうまこうかわされ、はら少将しょうしょう旗艦きかん駆逐くちくかん長月ながつき変更へんこうした[10]

つづいてだい水雷すいらい戦隊せんたいだいじゅういち掃海そうかいたいおよびだいさんじゅう掃海そうかいたいとともにだいいち護衛ごえいたい指揮しきかんだい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん)を編成へんせいし、リンガエンわん上陸じょうりく参加さんかした[11]上陸じょうりく部隊ぶたいはこ船団せんだんは3つにかれており、だいいちからだいさん護衛ごえいたいがそれぞれ護衛ごえいする計画けいかくであった[12]だいいち護衛ごえいたいは23せきからなる船団せんだん護衛ごえいして12月18にち高雄たかおから出撃しゅつげき[13]べつ場所ばしょから出撃しゅつげきしたほか2つの部隊ぶたい途中とちゅう合流ごうりゅうし、リンガエンわんへむかった[14]上陸じょうりくは12月22にちおこなわれ、成功せいこうした[15]。12月23にちマニラ湾まにらわんからアメリカ巡洋艦じゅんようかん1せき駆逐くちくかん2せき潜水せんすいかん2せき出撃しゅつげきしたとの情報じょうほうがありだい水雷すいらい戦隊せんたいみなみかったもののかいてきしなかった[16]名取なとり駆逐くちくかん水無月みなづきとともに12月24にちにリンガエンわんはなれ、12月26にちうまこういた[17]

だい水雷すいらい戦隊せんたいうまらい部隊ぶたい編入へんにゅうされだいはち駆逐くちくたい練習れんしゅう巡洋艦じゅんようかん香椎かしいなどとともにだい護衛ごえいたい指揮しきかんだい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん)を編成へんせい[18]。12月まつからはだい護衛ごえいたいだい25ぐんだい15ぐん一部いちぶうまこうからシンゴラおよびバンコクへはこ船団せんだん護衛ごえい従事じゅうじした[19]。12月31にち船団せんだんうまこうより出発しゅっぱつ[20]。1942ねん1がつ7にち香椎かしい駆逐くちくかん2せき海防かいぼうかん1せき護衛ごえいされてバンコクへかう船団せんだん分離ぶんりされ、のこりの船団せんだんは1がつ8にちにシンゴラに到着とうちゃくした[21]。1月9にちれいだい水雷すいらい戦隊せんたいだい駆逐くちくたいのぞく)はらんしるし部隊ぶたいうつり、同日どうじつシンゴラをはなれた[22]だい駆逐くちくたいも1がつ12にちれいらんしるし部隊ぶたい編入へんにゅうされた[23]だい水雷すいらい戦隊せんたい台湾たいわん西部せいぶジャワ攻略こうりゃく作戦さくせん準備じゅんびおこなった[24]

そのだい駆逐くちくたいだいじゅう駆逐くちくたいだいじゅうろくぐん主力しゅりょくはこ船団せんだん護衛ごえいしてカムランわん移動いどう[25]名取なとりもカムランわん進出しんしゅつし、2がつ3にち到着とうちゃく[25]ジャワ攻略こうりゃく作戦さくせん参加さんかし、3月1にちバタビアおき海戦かいせんにおいてべいじゅうじゅんヒューストン撃沈げきちん貢献こうけんした。 3月12にち名取なとりはマカッサルへかった[26]

3がつ10日とおか戦時せんじ編制へんせい改定かいていによりだい水雷すいらい戦隊せんたいかいたいされ、名取なとり長良ながら鬼怒きぬだいじゅうろく戦隊せんたい編成へんせいされた[27]名取なとりはその司令しれいかんげんあきら三郎さぶろう少将しょうしょう旗艦きかんとなった[28]

3月29にちから「名取なとり」は「那珂なか」、「長良ながら」などとともにクリスマスとう攻略こうりゃく作戦さくせん参加さんかした[29]攻略こうりゃく部隊ぶたいは3がつ29にちにバンタムわんから出撃しゅつげき[29]。3月31にちにクリスマスとう到着とうちゃくし、けい巡洋艦じゅんようかん3せきみず偵はばくげきおこなった[30]上陸じょうりく成功せいこうしたが、「名取なとり」と「那珂なか」はアメリカ潜水せんすいかんシーウルフ」の雷撃らいげきけ、「那珂なか」は4がつ1にちかみなり損傷そんしょう[31]。「名取なとり」は「那珂なか」を曳航えいこうしてバンタムわんかった[32]

以後いご名取なとり1943ねん1がつまでひがしインド方面ほうめん警戒けいかい任務にんむ従事じゅうじした。12月1にち、チモールとうおき索敵さくてきにより発見はっけんされたオーストラリア艦隊かんたい掃海そうかいていアーミデール、キャッスルメーン、特設とくせつ掃海そうかいていクル)攻撃こうげき鬼怒きぬとともにかったが捕捉ほそく出来できずにわった[33]。またこのさい命中めいちゅうはしなかったがオーストラリア軍機ぐんきによるばくげきけている[34]。こののち、ホーランディアへ陸戦りくせんたい輸送ゆそう[34]

1943ねん1がつ6にち、アンボンへかっていた船団せんだんばくげきけて水雷すいらいていともづる損傷そんしょうした。名取なとりはそのもと派遣はけんされて警戒けいかいにあり、その単独たんどくでアンボンへかったが、9にち1043ふんにアンボン灯台とうだい南東なんとう18海里かいりでアメリカ潜水せんすいかんトートグ雷撃らいげきけた[35]後部こうぶ魚雷ぎょらい1ほん命中めいちゅうして後部こうぶ切断せつだんされ、戦死せんし7めい負傷ふしょう12めいした[35]操舵そうだ不能ふのうになったが針路しんろ変更へんこう機械きかい操作そうさによりおこなうことができ、1345ふんにアンボンに到着とうちゃくした[35]名取なとりはアンボンで陸軍りくぐん救難きゅうなんせん大隈おおくままる協力きょうりょくによりかり修理しゅうりおこなったが、同月どうげつ16にちと21にちB-24攻撃こうげきけ21にちには至近しきんだんにより損傷そんしょうした[36]。そのため敷設ふせつかんあおたか護衛ごえいでマカッサルへ後退こうたいしたが、命中めいちゅうしなかったもののその途中とちゅうにもふたたびトートグによる攻撃こうげきけた[37]。マカッサル到着とうちゃくシンガポールかいそこでの応急おうきゅう修理しゅうりのち舞鶴まいづる帰投きとう[38]1944ねん4がつまで修理しゅうり改造かいぞう実施じっしした。この改造かいぞうに7ばん主砲しゅほう撤去てっきょしてあとに12.7mm連装れんそう高角こうかくほう装備そうび、5ばん主砲しゅほう撤去てっきょ機銃きじゅう多数たすうぞう備などがおこなわれた。

修理しゅうりえたのち名取なとり中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん艦隊かんたい編入へんにゅうされ、内海うつみ西部せいぶ訓練くんれん実施じっししていたが、1944ねん5がつだいさん水雷すいらい戦隊せんたい編入へんにゅうからだい126防空ぼうくうたいダバオまで輸送ゆそうした。6月のマリアナおき海戦かいせんでは機動きどう部隊ぶたい補給ほきゅうたい護衛ごえいしたのち連合れんごう艦隊かんたい付属ふぞくとなりフィリピンからパラオ作戦さくせん輸送ゆそうおこなっていた。

最期さいご[編集へんしゅう]

8がつ18にち名取なとりサマールとう東方とうほう水域すいいきにおいてアメリカ潜水せんすいかんハードヘッド雷撃らいげき沈没ちんぼつした。 久保田くぼたさとし艦長かんちょう以下いか550めい便乗びんじょうしゃふくむ)が戦死せんし生存せいぞんしゃ183めいカッターボート3せき分乗ぶんじょうし、13にちあさミンダナオ島みんだなおとうスリガオ辿たどいた。このときのカッターこう次席じせき将校しょうこうだった松永まつなが市郎いちろうが『先任せんにん将校しょうこう軍艦ぐんかん名取なとり短艇たんていたい帰投きとうせり』など手記しゅきにまとめている。1にちたり10時間じかん以上いじょうカッターをぎ、天測てんそく航法こうほうなどを駆使くしして陸地りくち目指めざした。水分すいぶんスコール補給ほきゅうし、食料しょくりょう士官しかん水兵すいへい平等びょうどうに1にちたりかんパン1人ひとり2まいめた。夜間やかんかんパンかんうえ盗難とうなんふせぎ、反乱はんらんふせいだ。名取なとりのこ乗員じょういん生還せいかんげき戦後せんご、アメリカにもつたわった。松永まつながとハードヘッドの艦長かんちょう文通ぶんつうするようになり、『べい潜水せんすいかんハードヘッドvs軍艦ぐんかん名取なとり短艇たんていたい』『次席じせき将校しょうこうー「先任せんにん将校しょうこう」アメリカをく』の出版しゅっぱんつながった[39]

同年どうねん(1944ねん)10がつ10日とおか艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょうから削除さくじょ[40]帝国ていこく軍艦ぐんかんせきからのぞかれた(除籍じょせき)[1]

歴代れきだい艦長かんちょう[編集へんしゅう]

※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』152-155ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれきおよび『官報かんぽう』にもとづく。

艤装ぎそういんちょう[編集へんしゅう]

  1. 副島そえじまけいしん 大佐たいさ:1922ねん2がつ15にち[41] -

艦長かんちょう[編集へんしゅう]

  1. 副島そえじまけいしん 大佐たいさ:1922ねん9がつ15にち - 1922ねん12月1にち[42]
  2. 森田もりたのぼる 大佐たいさ:1922ねん12月1にち[42] - 1923ねん11月20にち
  3. 小倉おぐら泰造やすぞう 大佐たいさ:1923ねん11がつ20日はつか - 1924ねん12月1にち
  4. 井上いのうえ四郎しろう 大佐たいさ:1924ねん12月1にち - 1925ねん11月20にち
  5. 加島かしま太郎たろう 大佐たいさ:1925ねん11がつ20日はつか - 1926ねん5がつ20日はつか
  6. 水城みずきけい 大佐たいさ:1926ねん5がつ20日はつか - 1926ねん11月1にち
  7. けん市来いちきさきけいいち 大佐たいさ:1926ねん11月1にち - 1926ねん12月1にち
  8. 松本まつもとただしひだり 大佐たいさ:1926ねん12月1にち - 1927ねん8がつ20日はつか
  9. 津田つだたけし大佐たいさ:1927ねん8がつ20日はつか - 1927ねん11月15にち
  10. ゆうじゅうろう 大佐たいさ:1927ねん11月15にち - 1928ねん8がつ1にち
  11. 日暮ひぐらし豊年とよとし 大佐たいさ:1928ねん8がつ1にち - 1928ねん12がつ10日とおか
  12. 佐田さた健一けんいち 大佐たいさ:1928ねん12がつ10日とおか - 1929ねん11月30にち
  13. 小山こやま与四郎よしろう 大佐たいさ:1929ねん11月30にち - 1930ねん12月1にち
  14. 三木みきふとし 大佐たいさ:1930ねん12月1にち - 1931ねん4がつ5にち
  15. 星野ほしの倉吉くらよし 大佐たいさ:1931ねん4がつ5にち - 1931ねん12月1にち
  16. 坂部さかべ省三しょうぞう 大佐たいさ:1931ねん12月1にち - 1932ねん6がつ10日とおか
  17. けん後藤ごとうあきらどう 大佐たいさ:1932ねん6がつ10日とおか - 1932ねん12月1にち[43]
  18. 松木まつき益吉ますきち 大佐たいさ:1932ねん12月1にち - 1933ねん11月15にち
  19. 松浦まつうら永次えいじろう 大佐たいさ:1933ねん11月15にち - 1934ねん11月15にち
  20. きし福治ふくはる 大佐たいさ:1934ねん11月15にち - 1935ねん11月15にち
  21. 岡村おかむら政夫まさお 大佐たいさ:1935ねん11月15にち - 1936ねん12月1
  22. 中原なかはら義正よしまさ 大佐たいさ:1936ねん12月1にち - 1937ねん11がつ10日とおか
  23. 中尾なかお八郎はちろう 大佐たいさ:1937ねん11がつ10日とおか - 1938ねん12月5にち
  24. 有賀ありが武夫たけお 大佐たいさ:1938ねん12月5にち - 1939ねん11月15にち[44]
  25. 松原まつばらひろしさん 大佐たいさ:1939ねん11月15にち - 1940ねん11月15にち[45]
  26. やまきよし貞次郎ていじろう 大佐たいさ:1940ねん11月15にち - 1941ねん7がつ28にち
  27. 佐々木ささきしずわれ 大佐たいさ:1941ねん7がつ28にち -
  28. 猪口いのぐちさとしたいら 大佐たいさ:1942ねん7がつ1にち - 1943ねん1がつ20日はつか
  29. 植田うえだ弘之ひろゆきかい 大佐たいさ:1943ねん1がつ20日はつか -
  30. けん平井ひらい泰次やすじ 大佐たいさ:1943ねん7がつ20日はつか - 1944ねん3がつ18にち
  31. 久保田くぼたさとし 大佐たいさ:1944ねん3がつ18にち - 1944ねん8がつ18にち戦死せんし

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c #S19.9-12海軍かいぐん公報こうほう号外ごうがい/10月(2)コマ36-37、昭和しょうわ19ねん10がつ10にちないれいだい1165ごう
  2. ^ a b c d #海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく11-2(1972)pp.1057-1087、昭和しょうわ3ねん2がつ14にち(うちれい43)艦船かんせん要目ようもく公表こうひょう範囲はんい
  3. ^ a b 日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんめいこう 1928, pp. 254–255「名取なとり なとり Natori.」
  4. ^ 大正たいしょう11ねん9がつ15にちづけ海軍かいぐんないれいだい320ごう海軍かいぐん定員ていいんれい改正かいせいだい50ひょう とう巡洋艦じゅんようかん定員ていいんひょう 其4」。
  5. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、201-202ページ
  6. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、204ページ
  7. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、204、205ページ
  8. ^ 日本にっぽん水雷すいらい戦史せんし、47ページ
  9. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、205ページ
  10. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、206ページ
  11. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、253ページ
  12. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、254-255ページ
  13. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、260ページ
  14. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、260-261ページ
  15. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、264ページ
  16. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、267ページ
  17. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、268、558ページ
  18. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、539ページ
  19. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、557-558ページ
  20. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、561ページ
  21. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、563-564ページ
  22. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、564ページ
  23. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、565ページ
  24. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、377ページ
  25. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、380ページ
  26. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、528ページ
  27. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、531ページ
  28. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、220ページ
  29. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、615、617ページ
  30. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、617ページ
  31. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、222ページ
  32. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、619ページ
  33. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、369-371ページ
  34. ^ a b 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、371ページ
  35. ^ a b c 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、372ページ
  36. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、373ページ
  37. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、373-374ページ
  38. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、374ページ
  39. ^ 戦後せんご72ねんかたぐーぐ/松永まつなが真理まり生還せいかんはなせぬ海軍かいぐん一家いっか ちちおも文章ぶんしょうった」『読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2017ねん8がつ13にち
  40. ^ #S19.9-12海軍かいぐん公報こうほう号外ごうがい/10月(2)コマ35、昭和しょうわ19ねん10がつ10にちないれいだい1159ごう
  41. ^ 官報かんぽうだい2860ごう大正たいしょう11ねん2がつ16にち
  42. ^ a b 官報かんぽうだい3102ごう大正たいしょう11ねん12月2にち
  43. ^ 官報かんぽうだい1778ごう昭和しょうわ7ねん12月2にち
  44. ^ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい402ごう 昭和しょうわ14ねん11月15にち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072076700 
  45. ^ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい555ごう 昭和しょうわ15ねん11月15にち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072079400 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 浅井あさいすすむしげる/へん日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんめいこう東京とうきょうすい交社、1928ねん12月。 
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)
    • Ref.C08030579600「昭和しょうわ19ねん8がつ18にち~ 軍艦ぐんかん名取なとり戦闘せんとう詳報しょうほう(1)」
    • Ref.C08030579700「昭和しょうわ19ねん8がつ18にち~ 軍艦ぐんかん名取なとり戦闘せんとう詳報しょうほう(2)」
    • 「10がつ(2)」『昭和しょうわ19ねん9がつ~12がつ 海軍かいぐん公報こうほう 号外ごうがい』、Ref.JACAR:C12070497400 
  • 海軍かいぐんしょう/へん海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく まきじゅういちの2』 明治めいじひゃくねん叢書そうしょ だい185かんはら書房しょぼう、1972ねん5がつ原著げんちょ1941ねん)。 
  • 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかい日本にっぽん海軍かいぐんだい7かんだい9かんだい10かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1995ねん
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽんけいじゅん戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1989ねん
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽん水雷すいらい戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1986ねん
  • 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねんISBN 4-7698-1246-9
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう『ハンディばん 日本にっぽん海軍かいぐん艦艇かんてい写真しゃしんしゅう14 けいじゅん 長良ながらがた光人みつひとしゃ、1997ねん
  • 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズVol.32『けいじゅん 球磨くま長良ながら川内せんだいがた学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2001ねん
  • 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズVol.51『帝国ていこく海軍かいぐん 真実しんじつ艦艇かんてい2』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2005ねん
  • 官報かんぽう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]