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長良ながら (けい巡洋艦じゅんようかん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
長良ながら
佐世保に停泊中の長良(1932年春)
佐世保させぼ停泊ていはくちゅう長良ながら(1932ねんはる)
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 佐世保させぼ海軍かいぐん工廠こうしょう[1]
運用うんようしゃ 日本にっぽん海軍かいぐん
かんしゅ けい巡洋艦じゅんようかん
きゅうめい 長良ながらがた
母港ぼこう 最終さいしゅう:舞鶴まいづる[2]
かんれき
発注はっちゅう 1917年度ねんど計画けいかく
起工きこう 1920ねん9月9にち[1]
進水しんすい 1921ねん4がつ25にち[1]
竣工しゅんこう 1922ねん4がつ21にち[1]
最期さいご 1944ねん8がつ7にち沈没ちんぼつ
除籍じょせき 1944ねん10がつ10日とおか[2]
要目ようもく計画けいかく
基準きじゅん排水はいすいりょう 5,170ロングトン (5,253 t)[1]
常備じょうび排水はいすいりょう 5,570ロングトン (5,659 t)[3]
全長ぜんちょう 162.15m
はば 14.17m
吃水きっすい 4.80m
出力しゅつりょく 90,000馬力ばりき
速力そくりょく 36.0ノット
航続こうぞく距離きょり 14.0ノットで5,000うみさと
乗員じょういん 竣工しゅんこう定員ていいん450めい[4]
へいそう 50口径こうけいさんねんしき14cmほう たんそう77もん
よんじゅう口径こうけいさんねんしきはちせんちめーとる高角こうかくほう たんそう22もん
さんねんしき6.5mm機銃きじゅう 2てい
はちねんしき連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん 48もん(魚雷ぎょらい16ほん)
飛行機ひこうき滑走かっそうだい 1
機雷きらい 48
搭載とうさい 1
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長良ながら(ながら)は、日本にっぽん海軍かいぐんけい巡洋艦じゅんようかん長良ながらがた1ばんかんかんめいかわで、長良川ながらがわにちなむ[3]

概要がいよう

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1920年代ねんだい帝国ていこく海軍かいぐん拡張かくちょうに6せき建造けんぞうされたうちの1せき球磨くまがた川内せんだいがたと3がたあわせて5500トンきゅうけい巡洋艦じゅんようかんともばれる。

1922ねん大正たいしょう11ねん)4がつ竣工しゅんこう。30ノット以上いじょう速力そくりょく魚雷ぎょらい発射はっしゃかんしゅへいそう複数ふくすうたい水上すいじょうようの14センチたんそう主砲しゅほう純粋じゅんすい水上すいじょう戦闘せんとうおこなわれただいいち世界せかい大戦たいせん影響えいきょうつよのこす。

かんがた

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太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん要目ようもく

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1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月での要目ようもく

大戦たいせんちゅう要目ようもく

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大戦たいせんちゅうは5ばん、7ばん主砲しゅほう撤去てっきょ航空こうくうへいそう廃止はいしわりに12.7cm連装れんそう高角こうかくほう1装備そうびした。また機銃きじゅうふえ備している。でんさがせ装備そうび推定すいていされる。 酸素さんそ魚雷ぎょらいについてはごう作戦さくせん終了しゅうりょう改装かいそうに、魚雷ぎょらいへいそうを4連装れんそう発射はっしゃかん2へとかわそうしたことにより発射はっしゃ能力のうりょくたとのせつがあり、これ以前いぜんには空気くうき魚雷ぎょらい使用しようしていた[5]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつでの要目ようもく

  • 基準きじゅん排水はいすいりょう:6,050トン
  • おおやけためし排水はいすいりょう:7,199トン
  • 速力そくりょく:33.4ノット
  • へいそう
  • 航空こうくうへいそう:なし

1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつでのへいそう要目ようもく

  • へいそう
    • 50口径こうけいさんねんしき14cmたんそうほう 55もん
    • 40口径こうけいはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう 12もん
    • きゅうろくしき25mm3連装れんそう機銃きじゅう 2どう連装れんそう 6どうたんそう 14合計ごうけい32てい
    • きゅうさんしき13mm連装れんそう機銃きじゅう 1どうたんそう 8合計ごうけい10てい
    • 61cm4連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん 28もんきゅうさんしき魚雷ぎょらい搭載とうさい
    • いちごうでんさがせ 1

一方いっぽう艦艇かんてい研究けんきゅう田村たむら俊夫としおによれば上記じょうき定説ていせつたいして、かわそうした根拠こんきょがないこと一部いちぶとくがた駆逐くちくかん発射はっしゃかん改造かいぞうして酸素さんそ魚雷ぎょらい運用うんようしたれいがあることから疑問ぎもんち、長良ながらへいそう変遷へんせん調査ちょうさした。そのなかで、

  • 1944ねん7がつ1にちつくられた『艦船かんせん要目ようもく概要がいよう一覧いちらんひょう』には、魚雷ぎょらいへいそうかんして「連装れんそう発射はっしゃかんよんきゅうさんしき魚雷ぎょらい」とかれていること
  • ごう作戦さくせんのちつくられた『かくかん機銃きじゅうでんさがせ哨信とう現状げんじょう調査ちょうさひょう』のではウェルデッキのままであり、戦前せんぜん酸素さんそ魚雷ぎょらい改装かいそうしウェルデッキを廃止はいしした阿武隈あぶくまぞう備図とはおおきくことなること
  • 沈没ちんぼつべい潜水せんすいかんクローカーからられた写真しゃしんでは、ウェルデッキが確認かくにんされていること

以上いじょうことから「連装れんそう発射はっしゃかん改装かいそうしてきゅうさんしき酸素さんそ魚雷ぎょらい発射はっしゃ可能かのうにしたのではないか」というせつげている[6]

田村たむら俊夫としお調査ちょうさした1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつでのへいそう要目ようもく

  • へいそう
    • 50口径こうけいさんねんしき14cmたんそうほう 55もん
    • 40口径こうけいはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう 12もん
    • きゅうろくしき25mm3連装れんそう機銃きじゅう 2どう連装れんそう 6どうたんそう 14合計ごうけい32てい
    • きゅうさんしき13mm連装れんそう機銃きじゅう 1どうたんそう 8合計ごうけい10てい
    • きゅうしき7.7mm機銃きじゅう 2
    • 61cm連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん 48もんきゅうさんしき魚雷ぎょらい搭載とうさい
    • さんしき爆雷ばくらい投射とうしゃもと4
    • 爆雷ばくらい投射とうしゃ軌条きじょう2
    • 爆雷ばくらい60
    • いちごうでんさがせ 1
    • ぎゃくさがせ 1
    • 九三式水中探信儀
    • きゅうさんしき水中すいちゅう聴音ちょうおん

かんれき

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太平洋戦争たいへいようせんそうまえ

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フィリピン作戦さくせん

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太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんにはだいさん艦隊かんたいだいじゅうろく戦隊せんたい足柄あしがら球磨くまとも所属しょぞくしていたが、この2せき南方なんぽう部隊ぶたい比島ひじま部隊ぶたいぬしたいとなった。一方いっぽう長良ながらだいじゅうよん駆逐くちくたいだいじゅうろく駆逐くちくたいだいいち小隊しょうたいなどとともに比島ひじま部隊ぶたいだいよん急襲きゅうしゅうたい指揮しきかんだいいち根拠地こんきょちたい司令しれいかん久保くぼきゅう少将しょうしょう)を編成へんせいし、その旗艦きかんとなった[7]だいよん急襲きゅうしゅうたいは11月26にち寺島てらしま水道すいどう出発しゅっぱつして12月1にちにパラオに到着とうちゃく[8]

開戦かいせんの12月8にちあさ艦橋かんきょうはいってきた艦長かんちょう直井なおい俊夫としお大佐たいさが「こんな馬鹿ばか戦争せんそうはじめやがって!」とおおきなこえしたところを、航海こうかいちょう薗田そのだはじめ大尉たいい当時とうじのち駆逐くちくかんひびき」の最後さいご艦長かんちょう。)を目撃もくげきしている。艦橋かんきょうには久保くぼ少将しょうしょうやその参謀さんぼうたちもいたが、直井なおいとがめたものはいなかったという。[よう出典しゅってん]

開戦かいせんレガスピー攻略こうりゃく従事じゅうじした。攻略こうりゃく部隊ぶたいは1941ねん12月8にちパラオから出撃しゅつげきし、12月12にち上陸じょうりくおこなわれた[9]だいよん急襲きゅうしゅうたい泊地はくち警戒けいかいなどをおこなったが、同日どうじつてき銃撃じゅうげきにより長良ながら戦死せんししゃ1めいした[10]。12月13にち長良ながらだいじゅうよん駆逐くちくたい奄美あまみ大島おおしまかった[11]

つぎ長良ながら白鷹しらたかのぞだいいち根拠地こんきょちたいだいじゅうよん駆逐くちくたいだいじゅうろく駆逐くちくたいだいいち小隊しょうたいなどとともにだいよん護衛ごえいたい編成へんせいし、ラモンわん上陸じょうりく作戦さくせん参加さんかした[12]指揮しきかん久保くぼ少将しょうしょう長良ながらつづ旗艦きかんであった[13]だいよん護衛ごえいたい上陸じょうりく部隊ぶたいせた船団せんだん護衛ごえいして12月17にち奄美あまみ大島おおしまから出撃しゅつげき[14]。12月24にち上陸じょうりくおこなわれた[15]長良ながらは12月30にちにラモンわんはなれた[16]

らんしるし作戦さくせん以降いこう

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つづいてらんしるし作戦さくせん開始かいしされた。らんしるし作戦さくせん参加さんか部隊ぶたいダバオ集結しゅうけつし、長良ながらは1942ねん1がつ2にち到着とうちゃくした[17]長良ながらだいいち根拠地こんきょちたい一部いちぶとともに東方とうほう攻略こうりゃく部隊ぶたいだいいち根拠地こんきょち部隊ぶたい指揮しきかんだい一根拠地隊司令官久保九次少将)を編成へんせいし、その旗艦きかんであった[18]

東方とうほう攻略こうりゃく部隊ぶたい最初さいしょ攻略こうりゃく目標もくひょうメナドであった。長良ながらは1がつ9にちにマララグわんより出撃しゅつげきし、攻略こうりゃく部隊ぶたい合流ごうりゅうして1がつ11にちにメナドおき到着とうちゃくした[19]。このあいだ長良ながらはマララグわん湾口わんこうでは潜望鏡せんぼうきょうらしきものを発見はっけん、メナドの北西ほくせいやく40海里かいりでは浮上ふじょう潜水せんすいかん発見はっけんして攻撃こうげきしている[19]。メナドの攻略こうりゃくは1がつ11にちおこなわれた[20]根拠地こんきょち部隊ぶたいはバンカ泊地はくち防備ぼうび作業さぎょうおこない、長良ながらから久保くぼ少将しょうしょうがそれを指揮しきした[21]。1月14にちモルッカかい潜水艦せんすいかん30せき発見はっけんとの報告ほうこくがあったことから掃討そうとうおこなわれ、長良ながらもメナド東方とうほう出撃しゅつげきしたが、結局けっきょくなにつからず、潜水艦せんすいかん発見はっけん報告ほうこく大半たいはんくじら誤認ごにんしたものとされた[22]

メナドのつぎケンダリー攻略こうりゃくであった。ケンダリー攻略こうりゃくではだいじゅう駆逐くちくたいだいじゅうろく駆逐くちくたいなどがだいいち根拠地こんきょち部隊ぶたいくわわり、久保くぼ少将しょうしょう攻略こうりゃく部隊ぶたい指揮しきをとった[23]攻略こうりゃく部隊ぶたいは1がつ21にちにバンカ泊地はくちから出撃しゅつげき[24]。1月24にち上陸じょうりくおこなわれた[24]。1月25にちあめ視界しかいわるなか、ケンダリーへかっていた駆逐くちくかん初春しょしゅんが21ノットで長良ながら右舷うげん中央ちゅうおう付近ふきん衝突しょうとつする事故じこ発生はっせいし、長良ながら重傷じゅうしょうしゃ2めいがでた[25]久保くぼ少将しょうしょう駆逐くちくかんはつしもうつり、長良ながらはダバオで工作こうさくかん明石あかしによる修理しゅうりけた[26]

修理しゅうり完了かんりょう長良ながらは2がつ2にちにバンカ泊地はくち[27]マカッサル攻略こうりゃく参加さんかすることとなった。久保くぼ少将しょうしょう長良ながらもどった[28]。マカッサル攻略こうりゃく参加さんかするのは長良ながらだいいち根拠地こんきょちたい大半たいはんだいじゅういち駆逐くちくたいだいはち駆逐くちくたいだいじゅう駆逐くちくたいなどであった[29]攻略こうりゃく部隊ぶたい順次じゅんじスターリングわん集結しゅうけつし、2がつ6にち出撃しゅつげきした[30]途中とちゅう攻略こうりゃく部隊ぶたいはアメリカ潜水せんすいかん攻撃こうげきけ、スカルピンによる攻撃こうげきはずれたが、S-37雷撃らいげき駆逐くちくかんなつうしお沈没ちんぼつした[31]上陸じょうりくは2がつ9にちおこなわれ、マカッサルは占領せんりょうされた[32]長良ながらは2がつ13にちにスターリングわんもどった[33]

だいいち根拠地こんきょち部隊ぶたいつぎ作戦さくせんバリ島ばりとう攻略こうりゃくであった。この作戦さくせんでは長良ながらだいじゅういち駆逐くちくたい駆逐くちくかん1せきのぞく)とともに作戦さくせん支援しえんにあたる支援しえんたいであった[34]攻略こうりゃく部隊ぶたいは2がつ18にちにマカッサルから出撃しゅつげきし、2がつ19にち上陸じょうりくおこなわれたが[35]同日どうじつよる連合れんごうこく艦隊かんたい泊地はくち襲撃しゅうげきバリ島ばりとうおき海戦かいせん発生はっせい。セバチャンとう東方とうほうにあった支援しえんたい急行きゅうこうしたものの戦闘せんとうにはわなかった[36]

2がつ17にちには長良ながらはイギリス潜水せんすいかんトルーアントから魚雷ぎょらい攻撃こうげきけたが、損害そんがいはなかった[よう検証けんしょう][37]

つづいてだいバリ島ばりとう輸送ゆそう作戦さくせんおこなわれ、長良ながら参加さんか[38]作戦さくせん部隊ぶたいは2がつ23にちにマカッサルから出撃しゅつげき[39]。2月24にち、スラバヤのきた巡洋艦じゅんようかん1せき駆逐くちくかん3せき発見はっけんとの報告ほうこくがあり長良ながらなどはバリ島ばりとうカンゲアン諸島しょとうあいだかったもののかいてきはしなかった[39]

3月15にち兵力へいりょく部署ぶしょ改定かいてい長良ながらはニューギニア攻略こうりゃく部隊ぶたいくわえられていたが、4がつ10日とおか予定よてい戦時せんじ編制へんせい改定かいてい長良ながら空母くうぼ警戒けいかいたいだいじゅう戦隊せんたい編入へんにゅうされることとなったため、拘束こうそく期間きかんみじかクリスマスとう攻略こうりゃく部隊ぶたいうつされた[40]。クリスマスとう攻略こうりゃくには長良ながらほかけい巡洋艦じゅんようかん那珂なか名取なとりひとし参加さんかし、攻略こうりゃく部隊ぶたいは3がつ29にちにバンタムわんから出撃しゅつげき[41]。3月31にちにクリスマスとう到着とうちゃくし、けい巡洋艦じゅんようかん3せきみず偵はばくげきおこなった[42]上陸じょうりく成功せいこうしたが、那珂なか潜水せんすいかん雷撃らいげき損傷そんしょうした[43]

4がつ10日とおか、「長良ながら」はだいいち航空こうくう艦隊かんたいだいじゅう戦隊せんたい編入へんにゅうされた[44]。4月11にち舞鶴まいづる入港にゅうこうし、同地どうち修理しゅうり実施じっし[45]。このさい艦橋かんきょうまえの13ミリ4連装れんそう機銃きじゅうきゅうさんしき13ミリ連装れんそう機銃きじゅう1へのかわそうなどがおこなわれた[46]

5月にはMI作戦さくせんそなえて柱島はしらじまへと移動いどうし、5月26にちだいいち機動きどう部隊ぶたい南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい警戒けいかいたい旗艦きかんとして柱島はしらじま出港しゅっこう、6月5にちミッドウェー海戦かいせん参加さんかした。 ミッドウェー海戦かいせん旗艦きかん赤城あかぎが2はつ命中めいちゅうだんと1はつ至近しきんだんけて、味方みかた駆逐くちくかん魚雷ぎょらい雷撃らいげき処分しょぶんされたのち南雲なぐも忠一ただかず中将ちゅうじょう以下いかだい1航空こうくう艦隊かんたい司令しれい移譲いじょう旗艦きかんとなった。

ソロモン諸島しょとうたたか以降いこう

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帰投きとう、7がつ14にちだいじゅう戦隊せんたいだいさん艦隊かんたい編入へんにゅう。8月9にちから14にちくれ修理しゅうりおこなわれ、このとき7.7ミリたんそう機銃きじゅう2装備そうびされたものとおもわれる[47]

8がつ16にちにソロモン海域かいいきでの作戦さくせん従事じゅうじするため出港しゅっこうした。8月24にちにはだいソロモン海戦かいせん参加さんか、10月26にちには南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせん参加さんかしたが、損傷そんしょうなくトラック諸島しょとうへと帰還きかんした。 11月12にちからのだいさんソロモン海戦かいせんには、戦艦せんかん比叡ひえい霧島きりしま護衛ごえいし、海戦かいせんにも参加さんかした。13にちだいいち夜戦やせんではけい巡洋艦じゅんようかんアトランタたいして命中めいちゅうだんたが、じゅう巡洋艦じゅんようかんサンフランシスコの5インチほう被弾ひだんした。しかし損傷そんしょう軽微けいびにとどまり、作戦さくせん続行ぞっこうした。15にちだい夜戦やせんにおいて、ワシントンサウスダコタの2戦艦せんかん中心ちゅうしんとするだい64任務にんむ部隊ぶたい交戦こうせん駆逐くちくかんあや損傷そんしょうさせた駆逐くちくかんプレストンにとどめをし、撃沈げきちんする戦果せんかげた。しかし、べい新鋭しんえい戦艦せんかん2せきたいして雷撃らいげきによる被害ひがいあたえること出来できなかった。18にちにはトラックに帰還きかん。11月20にち、「長良ながら」はだいよん水雷すいらい戦隊せんたい編入へんにゅうされた[48]

12月27にちに「長良ながら」は舞鶴まいづる入港にゅうこうし、同地どうち修理しゅうりおこなわれた[48]。このときばんほう撤去てっきょや25ミリ連装れんそう機銃きじゅう4装備そうびなどがおこなわれた[47]。「長良ながら」はだいじゅうよん防空ぼうくうたい人員じんいん兵器へいきとう搭載とうさいして1943ねん1がつ20日はつか舞鶴まいづる出港しゅっこうし、徳山とくやまて1がつ25にちにトラックに到着とうちゃく[49]

1943ねん4がつ8にち、トラック西方せいほう30かいりで「厚生こうせいまる」がかみなりし、「長良ながら」は駆逐くちくかん夕暮ゆうぐれ」とともにトラックから救援きゅうえんかった[50]翌日よくじつ厚生こうせいまる」のもとにき、「長良ながら」は「厚生こうせいまる」を曳航えいこうしてトラックへかったが、浸水しんすいのため「厚生こうせいまる」は沈没ちんぼつした[51]。「長良ながら」は「厚生こうせいまる乗員じょういん救助きゅうじょし、トラックにもどった[52]

7がつ15にちカビエン右舷うげん後部こうぶさわかみなり[47]ラバウル応急おうきゅう修理しゅうりおこなった[47]。この機雷きらいはアメリカ潜水せんすいかんシルバーサイズ」によって敷設ふせつされたもの[53]とされている。

7がつ20日はつか、「長良ながら」はだい水雷すいらい戦隊せんたい編入へんにゅうされ、旗艦きかんとなった[54]。7月21にちに「長良ながら」とじゅう巡洋艦じゅんようかん愛宕あたご」、「高雄たかお」、駆逐くちくかん涼風すずかぜ」はトラックを出発しゅっぱつし、7がつ26にち横須賀よこすか入港にゅうこう[55]。 「長良ながら」は修理しゅうりのため、8がつ16にち舞鶴まいづる入港にゅうこうした[54]。このときにはいちごうでんさがせ電波でんぱ探知たんち装備そうび、須式探照灯たんしょうとう撤去てっきょきゅうろくしき探照灯たんしょうとう装備そうび、2メートルはんはか距儀の撤去てっきょ射出しゃしゅつかわそうなどがおこなわれた[56]。11月1にちだいよん艦隊かんたい編入へんにゅうされ、旗艦きかんとなった[57]

11月前半ぜんはん長良ながら連合れんごう艦隊かんたいのラバウル撤退てったい支援しえんし、11月12にちには潜水せんすいかんによってかみなり大破たいはしたけい巡洋艦じゅんようかん阿賀あがをトラック泊地はくちまで曳航えいこうした。

11月21にち、アメリカぐんギルバート諸島しょとうタラワ環礁かんしょう攻撃こうげき開始かいしタラワのたたかがはじまった[58]連合れんごう艦隊かんたいだいよん艦隊かんたい長官ちょうかん指揮しきかんとして、タラワ増援ぞうえん部隊ぶたい編成へんせいした。支援しえん部隊ぶたいだいよん戦隊せんたいだいなな戦隊せんたいだいはち戦隊せんたいだい水雷すいらい戦隊せんたい)、南洋なんよう方面ほうめん航空こうくう部隊ぶたい補給ほきゅう部隊ぶたいだいじゅう駆逐くちくたい東亜とうあまる富士山ふじさんまる)とともに、輸送ゆそう部隊ぶたい指揮しきかん伊澤いさわ少将しょうしょうだいじゅうよん戦隊せんたい那珂なか五十鈴いすず》、長良ながらだい6駆逐くちくたいかみなりひびき》)、先遣せんけんたい潜水せんすいかん9せきという戦力せんりょく作戦さくせんまれた[58]。21にちだいじゅうよん戦隊せんたいはトラックを出発しゅっぱつ、22にちポナペとう到着とうちゃくして陸軍りくぐん部隊ぶたい収容しゅうよう、25にちにクェゼリンに到着とうちゃくした[59]。26にちまでにけいじゅん長良ながらだい6駆逐くちくたいかみなりひびき)はクェゼリンに集結しゅうけつだいじゅうよん戦隊せんたい那珂なか)の指揮しきはい[59]。こうしてギルバート方面ほうめんへのぎゃく上陸じょうりく準備じゅんび完了かんりょうした[59]。だがタラワはすでにアメリカぐんにより陥落かんらくしており、ぎゃく上陸じょうりく作戦さくせん実行じっこうされなかった[60]。タラワの陥落かんらくと、並行へいこうして勃発ぼっぱつしたギルバート諸島しょとうおき航空こうくうせん敗北はいぼくにより、日本にっぽんぐん制海権せいかいけん制空権せいくうけんうしないかけていた[61]

長良ながらは1943ねん12月5にちにクェゼリン環礁かんしょう寄港きこうちゅうだい50.3任務にんむぐん空母くうぼ艦載かんさい攻撃こうげきけ、至近しきんだんにより搭載とうさい魚雷ぎょらい誘爆ゆうばく、48めい死亡しぼう艦長かんちょうふくむ112めい負傷ふしょうした[62]

長良ながらどう環礁かんしょう停泊ていはくしていた工作こうさくかんやましもまるより応急おうきゅう修理しゅうりけ、トラックに退避たいひした[62]病院びょういんせん氷川丸ひかわまる負傷ふしょうしゃ戦死せんししゃ遺骨いこつあづけ、西村にしむら友晴ともはる先任せんにん将校しょうこう艦長かんちょう代理だいりとした[62]。この損傷そんしょうから日本にっぽん本国ほんごくでの修理しゅうりまるが、せんだってラバウル空襲くうしゅう損傷そんしょうかん切断せつだんした駆逐くちくかん長波ちょうは曳航えいこうめいじられる[63]氷川丸ひかわまるあづけた戦死せんししゃ遺骨いこつふたた長良ながらかえり、長波ちょうは曳航えいこうして日本にっぽん本土ほんどかった[63]。1944ねん1がつ24にち到着とうちゃくして長波ちょうはわたし、長良ながらは1がつ26にち舞鶴まいづる入港にゅうこうして修理しゅうりけた。このさい後述こうじゅつの「大戦たいせんちゅう要目ようもく」にしるされた改装かいそうけている。長良ながら修理しゅうりちゅう中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん艦隊かんたい付属ふぞく編入へんにゅうされたが、みぞして訓練くんれん終了しゅうりょうした5月にだいじゅういち水雷すいらい戦隊せんたい編入へんにゅうとなった。

長良ながらはしばらく入港にゅうこうしていたが、1944ねん6がつ15にちにアメリカぐんがサイパンとう上陸じょうりくしたのをけ、ぎゃく上陸じょうりく作戦さくせん参加さんか戦力せんりょくとして6がつ19にち横須賀よこすか移動いどうした。だが6がつ21にちマリアナおき海戦かいせん敗北はいぼくけて、25にちぎゃく上陸じょうりく中止ちゅうしとなった。急遽きゅうきょ小笠原諸島おがさわらしょとう防衛ぼうえいりょく増強ぞうきょう必要ひつようせまられた陸軍りくぐんはサイパンとうぎゃく上陸じょうりくよう用意よういしていた部隊ぶたい小笠原諸島おがさわらしょとう防衛ぼうえい転用てんようすることを決定けっていし、海軍かいぐん同様どうよう準備じゅんびしていた艦船かんせん小笠原おがさわらへの輸送ゆそうにあてることとし、ごう輸送ゆそう部隊ぶたい編成へんせいした。長良ながらごう輸送ゆそう部隊ぶたいだいいち輸送ゆそうたい長良ながら駆逐くちくかんふゆがつまつだいよんごう一等いっとう輸送ゆそうかんひとし)にくわわり6がつ28にち横須賀よこすか出港しゅっこう、7がつ1にち父島ちちじま二見ふたみ入港にゅうこう任務にんむたした。

7がつ14にちから長良ながら沖縄おきなわへのりょごう輸送ゆそう作戦さくせん従事じゅうじし、8がつ5にちから疎開そかいしゃをつれて出港しゅっこうして6にち鹿児島かごしま入港にゅうこう疎開そかいしゃ上陸じょうりくさせた。

最期さいご

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クローカーの潜望鏡せんぼうきょうから撮影さつえいされた沈没ちんぼつする長良ながら

1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつ7にち長良ながら鹿児島かごしま出港しゅっこうして佐世保させぼかう途中とちゅう熊本くまもとけん天草諸島あまくさしょとう西にしにおいてアメリカ潜水せんすいかんクローカー雷撃らいげきされた。クローカーの後部こうぶ発射はっしゃかんから4ほん魚雷ぎょらい射出しゃしゅつされ、うち1ほん長良ながら右舷うげん後部こうぶ命中めいちゅうし、長良ながらはほどなくして沈没ちんぼつした。中原なかはら艦長かんちょう以下いか348めい戦死せんしし、237めい救助きゅうじょされた。沈没ちんぼつする長良ながら様子ようすはクローカーによりカラー映像えいぞうとして記録きろくされていた。

同年どうねん10がつ10日とおか艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょうから削除さくじょ[64]帝国ていこく軍艦ぐんかんせきからのぞかれた(除籍じょせき)[2]

その

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佐々木ささきツルが建立こんりゅうした長良ながら戦没せんぼつしゃ慰霊いれい天草あまくさ牛深うしぶか在郷ざいきょう軍人ぐんじん墓地ぼち一角いっかくにあり、同市どうしにはうしぶかうみいろどりかん軍艦ぐんかん長良ながら記念きねんかんがある。記念きねんかんには砲弾ほうだんてつぼう長良ながら模型もけいなどが展示てんじされている。

歴代れきだい艦長かんちょう

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※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』146-149ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれきおよび『官報かんぽう』にもとづく。

艤装ぎそういんちょう

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  1. 黒田くろだたき二郎じろう 大佐たいさ:1921ねん6がつ15にち - 1921ねん9がつ10日とおか[65]

艦長かんちょう

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  1. 黒田くろだたき二郎じろう 大佐たいさ:1921ねん9がつ10日とおか[65] - 1922ねん11がつ10日とおか
  2. 藤井ふじい謙介けんすけ 大佐たいさ:1922ねん11がつ10日とおか - 1923ねん11月1にち
  3. 佐藤さとう巳之吉みのきち 大佐たいさ:1923ねん11月1にち - 1924ねん11月1にち
  4. ほり悌吉 大佐たいさ:1924ねん11月1にち - 1925ねん10がつ20日はつか
  5. 吉武よしたけじゅんぞう 大佐たいさ:1925ねん10がつ20日はつか - 1926ねん7がつ1にち
  6. 柳沢やなぎさわきょうあきら 大佐たいさ:1926ねん7がつ1にち - 1927ねん12月1にち
  7. ばん次郎じろう 大佐たいさ:1927ねん12月1にち - 1927ねん12月21にち
  8. 相良さがら達夫たつお 大佐たいさ:1927ねん12月21にち - 1928ねん12がつ10日とおか
  9. 佐藤さとう市郎いちろう 大佐たいさ:1928ねん12がつ10日とおか - 1929ねん5がつ1にち
  10. 三井みつい清三郎せいさぶろう 大佐たいさ:1929ねん5がつ1にち - 1929ねん11月30にち
  11. 小林こばやし宗之むねゆきすけ 大佐たいさ:1929ねん11月30にち - 1930ねん12月1にち
  12. わきかなえ 大佐たいさ:1930ねん12月1にち - 1931ねん12月1にち
  13. たにいけ三郎さぶろう 大佐たいさ:1931ねん12月1にち - 1932ねん12月1にち
  14. 渡部わたなべ徳四郎とくしろう 大佐たいさ:1932ねん12月1にち - 1933ねん11月15にち
  15. 高木たかぎ武雄たけお 大佐たいさ:1933ねん11月15にち - 1934ねん11月15にち
  16. 松永まつなが次郎じろう 大佐たいさ:1934ねん11月15にち - 1935ねん11月15にち
  17. かじおか定道さだみち 大佐たいさ:1935ねん11月15にち - 1936ねん12月1にち
  18. けん松山まつやま光治こうじ 大佐たいさ:1936ねん12月1にち - 1937ねん2がつ20日はつか
  19. 中尾なかお八郎はちろう 大佐たいさ:1937ねん2がつ20日はつか - 1937ねん11がつ10日とおか
  20. 澤田さわだ虎夫とらお 大佐たいさ:1937ねん11がつ10日とおか - 1938ねん7がつ15にち
  21. 一瀬いちのせ信一しんいち 大佐たいさ:1938ねん7がつ15にち - 1938ねん12月15にち
  22. 江戸えど兵太郎へいたろう 大佐たいさ:1938ねん12月15にち - 1939ねん7がつ1にち
  23. 矢野やの英雄ひでお 大佐たいさ:1939ねん7がつ1にち - 1939ねん9がつ1にち
  24. 中里なかさと隆治りゅうじ 大佐たいさ:1939ねん9がつ1にち - 1940ねん11月1にち[66]
  25. 曽爾そにあきら 大佐たいさ:1940ねん11月1にち - 1941ねん9がつ10日とおか
  26. 直井なおい俊夫としお 大佐たいさ:1941ねん9がつ10日とおか -
  27. 田原たはらよしきょう 大佐たいさ:1942ねん7がつ10日とおか -
  28. 篠田しのだ勝清かつきよ 大佐たいさ:1942ねん12月17にち - 1943ねん8がつ16にち
  29. 北村きたむら昌幸まさゆき 大佐たいさ:1943ねん8がつ16にち - 1944ねん4がつ7にち
  30. 近藤こんどう新一しんいち 大佐たいさ:1944ねん4がつ7にち -
  31. 中原なかはらよし一郎いちろう 大佐たいさ:1944ねん5がつ8にち - 1944ねん8がつ7にち戦死せんし

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e #海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく11-2(1972)pp.1057-1087、昭和しょうわ3ねん2がつ14にち(うちれい43)艦船かんせん要目ようもく公表こうひょう範囲はんい
  2. ^ a b c #S19.9-12海軍かいぐん公報こうほう号外ごうがい/10月(2)コマ36-37、昭和しょうわ19ねん10がつ10にちないれいだい1165ごう
  3. ^ a b 日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんめいこう 1928, pp. 253–254「長良ながら ながら Nagara.」
  4. ^ 大正たいしょう11ねん2がつ25にちづけ 海軍かいぐんないれい だい48ごう改正かいせい海軍かいぐん定員ていいんれいだい50ひょう とう巡洋艦じゅんようかん定員ていいんひょう 其4」。この数字すうじ特修とくしゅうへいふくまない。
  5. ^ 写真しゃしん|日本にっぽん軍艦ぐんかん』p156-157
  6. ^ 真実しんじつ艦艇かんてい2』p80-91
  7. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、218ページ
  8. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい38かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<1>昭和しょうわじゅうななねんがつまで、111ページ
  9. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、231-233ページ
  10. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、233-234ページ
  11. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、234ページ
  12. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、254ページ
  13. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、272ページ
  14. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、274ページ
  15. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、276ページ
  16. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、278ページ
  17. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、304-305ページ
  18. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、103、160、168ページ
  19. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、168-169ページ
  20. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、169-170、172ページ
  21. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、181ページ
  22. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、181、183ページ
  23. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、210-211ページ
  24. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、211ページ
  25. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、212-213ページ
  26. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、213、262ページ
  27. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、262ページ
  28. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、128ページ
  29. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、258、262-263ページ
  30. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、262-263ページ
  31. ^ 日本にっぽん水雷すいらい戦史せんし、72ページ
  32. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、265ページ
  33. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、266ページ
  34. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、321ページ
  35. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、324-325ページ
  36. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい3かん らんしるし攻略こうりゃく作戦さくせん、417ページ
  37. ^ Uboat.netによればトルーアントは2がつ11にちにスラバヤ到着とうちゃく、2がつ18にちにスラバヤから出撃しゅつげきし、2がつ24にち長良ながら攻撃こうげきした。
  38. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、335-336ページ
  39. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、337ページ
  40. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、530-531、614ページ
  41. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、615、617ページ
  42. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、617ページ
  43. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、222ページ
  44. ^ 5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ、81ページ
  45. ^ 5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ、81-82ページ
  46. ^ 5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ、82-83ページ
  47. ^ a b c d 5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ、83ページ
  48. ^ a b 5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ、82ページ
  49. ^ 昭和しょうわ17ねん12ねんにち昭和しょうわ18ねんがつ30にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(3)、だい10画像がぞう
  50. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』313-314ページ、「昭和しょうわ17ねん12ねんにち昭和しょうわ18ねんがつ30にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(6)」だい5画像がぞう
  51. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』314ページ、「昭和しょうわ17ねん12ねんにち昭和しょうわ18ねんがつ30にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(6)」だい5-6画像がぞう
  52. ^ 昭和しょうわ17ねん12ねんにち昭和しょうわ18ねんがつ30にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(6)」だい6画像がぞう
  53. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  54. ^ a b 5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ、84ページ
  55. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』357ページ
  56. ^ 5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ、84-85ページ
  57. ^ 5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ、86ページ
  58. ^ a b #戦史せんし叢書そうしょ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2)477ぺーじ『タラワ増援ぞうえん作戦さくせん部隊ぶたい編成へんせい
  59. ^ a b c #戦史せんし叢書そうしょ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2)481ぺーじざいポナペかぶと支隊したいのギルバートへの増援ぞうえん準備じゅんび
  60. ^ #戦史せんし叢書そうしょ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2)488-490ぺーじ『ギルバートへの増援ぞうえんぎゃく上陸じょうりく中止ちゅうしきのえ支隊したいおよ南洋なんようだいいち支隊したいのクサイ、ミレへの転進てんしん
  61. ^ #戦史せんし叢書そうしょ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2)594ぺーじ彼我ひが死傷ししょうしゃすうおよびギルバート作戦さくせんおよぼす影響えいきょう
  62. ^ a b c #日本にっぽん海軍かいぐんのこころ36ぺーじ
  63. ^ a b #日本にっぽん海軍かいぐんのこころ37ぺーじ
  64. ^ #S19.9-12海軍かいぐん公報こうほう号外ごうがい/10月(2)コマ35、昭和しょうわ19ねん10がつ10にちないれいだい1159ごう
  65. ^ a b 官報かんぽうだい2735ごう大正たいしょう10ねん9がつ12にち
  66. ^ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい550ごう 昭和しょうわ15ねん11月1にち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072079300 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 浅井あさいすすむしげる/へん日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんめいこう東京とうきょうすい交社、1928ねん12月。 
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
    • Ref.C08030116200、昭和しょうわ17ねん12ねんにち昭和しょうわ18ねんがつ30にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(3)
    • 昭和しょうわ17ねん12ねんにち昭和しょうわ18ねんがつ30にち だい水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(6)」Ref.C08030116500
    • 「10がつ(2)」『昭和しょうわ19ねん9がつ~12がつ 海軍かいぐん公報こうほう 号外ごうがい』、Ref.JACAR:C12070497400 
  • 海軍かいぐんしょう/へん海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく まきじゅういちの2』 明治めいじひゃくねん叢書そうしょ だい185かんはら書房しょぼう、1972ねん5がつ原著げんちょ1941ねん)。 
  • 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかい日本にっぽん海軍かいぐんだい7かんだい9かんだい10かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1995ねん
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽん水雷すいらい戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1986ねん 
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽんけいじゅん戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1989ねん
  • 田村たむら俊夫としお「5500トンがたけいじゅん長良ながら」のへいそう変遷へんせん定説ていせつただぜん調査ちょうさ」『歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズVol.51 帝国ていこく海軍かいぐん 真実しんじつ艦艇かんてい2』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2005ねん ISBN 4-05-604083-4、80-91ページ
  • 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねんISBN 4-7698-1246-9
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい3かん らんしるし攻略こうりゃく作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい26かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい38かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<1>昭和しょうわじゅうななねんがつまでちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんし中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう戦史せんし叢書そうしょだい62かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1973ねん
  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう写真しゃしん日本にっぽん軍艦ぐんかん だい8かん けいじゅんⅠ』光人みつひとしゃ、1990ねん
  • 吉田よしだ俊雄としお日本にっぽん海軍かいぐんのこころ』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2000ねん12月。ISBN 4-16-356900-6 
  • 官報かんぽう

外部がいぶリンク

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