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薩摩さつま (戦艦せんかん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
薩摩さつま
大正8(1919)年頃に横須賀に入港したときに撮影されたとされる「薩摩」型戦艦1番艦薩摩[1]
大正たいしょう8(1919年頃としごろ横須賀よこすか入港にゅうこうしたときに撮影さつえいされたとされる「薩摩さつまがた戦艦せんかん1ばんかん薩摩さつま[1]
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう[2]
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
かんしゅ 戦艦せんかん[3]
かんれき
計画けいかく 明治めいじ37ねん臨時りんじ軍事ぐんじ[4]
発注はっちゅう 1905ねん1がつ21にち訓令くんれい[5]
起工きこう 1905ねん5がつ15にち[6][7]
進水しんすい 1906ねん11月15にち[6][8]
竣工しゅんこう 1910ねん3月25にち[6][9]
除籍じょせき 1923ねん9がつ20日はつか[10]
その 1924ねん9月2にちじつかん標的ひょうてきとして沈没ちんぼつ
要目ようもく
排水はいすいりょう 計画けいかく:19,200トン[11]
竣工しゅんこう:19,370えいトン[12]
1920ねん:19,350えいトン[2]
常備じょうび排水はいすいりょう 19,372えいトン[6]
垂線すいせんあいだちょう 450 ftin (137.16 m)[11][6][2]
最大さいだいはば 83 ft 6 in (25.45 m)[2]
水線すいせんはば 83 ft 0 in (25.30 m)[11]
または 83 ft 7+14 in (25.48 m)[6]
ふか 44 ft 6 in (13.56 m)[11]
吃水きっすい 平均へいきん27 ft 6 in (8.38 m)[11][6][2]
ボイラー 宮原みやはらしきこんしょうかん 20[13][6]
おも 直立ちょくりつ3だん4つつレシプロ機関きかん 2[14]
推進すいしん 2じく[14] x 120rpm[6]
出力しゅつりょく 計画けいかく:17,500馬力ばりき[14]
または 17,300馬力ばりき[6][2]
竣工しゅんこう:18,425IHP[12]
速力そくりょく 計画けいかく:18.25ノット[14][2]
竣工しゅんこう:19.13ノット[12]
燃料ねんりょう 石炭せきたん:2,860トン、重油じゅうゆ:377トン[2]
乗員じょういん 竣工しゅんこう定員ていいん:926めい[15]
1920ねん:887めい[2]
へいそう 竣工しゅんこう[11]
12インチ速射そくしゃほう 4もん
10インチ速射そくしゃほう 12もん
4.7インチ速射そくしゃほう 12もん
18インチ(水中すいちゅう[6])発射はっしゃかん 5もん
1920ねん[2]
しき30cmほう 4もん
しき25cmほう 12もん
やすしき12cmほう 12もん
よん一式いっしき8cmほう(ほう) 4もん
よん一式いっしきたん8cmほう 4もん
あさしき6.5mmほう 3てい
水中すいちゅう発射はっしゃかん 5もん
探照灯たんしょうとう 6
装甲そうこう 舷側げんそく:9in(228.6mm)-4in(101.6mm)[16]KCこう[6]
甲板かんぱん:2in(50.8mm)[16]
砲塔ほうとう:9.2in(233.7mm)-7in(177.8mm)[16]
司令塔しれいとう:6in(152.4mm)[16]
ふくほうかく:6in[よう出典しゅってん]
または、水平すいへい防御ぼうぎょ平坦へいたん2in、傾斜けいしゃ2in、水線すいせんかぶとたい9in、上甲うえこうたい5in、砲台ほうだい5in、砲塔ほうとう9in[11]
搭載とうさいてい 1922ねん:56ft(フィート)ペデットボート(艦載かんさい水雷すいらいてい)1せき、40ftしょう蒸気じょうきせん2せき、40ftランチ1せき、30ftカッター4せき、30ftどおりせん2せき、20ftどおりせん1せき[17]
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薩摩さつま(さつま)は[18]日本にっぽん海軍かいぐん戦艦せんかん[19][20]かんめい薩摩さつまこく由来ゆらいする[18]日本にっぽんはじめて自国じこく建造けんぞうした戦艦せんかんである[21][22]にち戦争せんそうなか明治めいじ37年度ねんど臨時りんじ軍事ぐんじ建造けんぞうされた[23]。 「安芸あき」は姉妹しまいかんになる[18]。 2せき薩摩さつま安芸あき)ともワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくにより廃棄はいきされ、じつかん標的ひょうてきとして処分しょぶんされた[24]

概要がいよう

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薩摩さつま常備じょうび排水はいすいりょう19,372トンで、建造けんぞう当時とうじ世界せかい最大さいだい戦艦せんかんであった[23]。 だが1906ねんイギリスドレッドノート弩級艦どきゅうかん)が竣工しゅんこうしたため、竣工しゅんこうまえ旧式きゅうしきかんじゅんいしゆみきゅう戦艦せんかん)となってしまった[25][26]。 しかしながら東洋とうよう有色ゆうしょく人種じんしゅ国家こっか独自どくじ設計せっけい戦艦せんかん建造けんぞうすること自体じたいが、西欧せいおう列強れっきょうにとっては驚異きょういてきであり、薩摩さつま無事ぶじ進水しんすいできるかどうかで、当時とうじ日本にっぽん横浜よこはま在住ざいじゅう外国がいこくじんあいだおこなわれていたという[27][28]

いしゆみきゅう戦艦せんかんまさらないまでもかなり肉薄にくはくするほうりょくっていたが、実際じっさいにははつ国産こくさん戦艦せんかんであるほんかん主砲しゅほう中間なかまほうには問題もんだいがあり、発射はっしゃ速度そくどひくかった[29]。 だがその逐次ちくじ改良かいりょう整備せいびすすめられ、晩年ばんねんいたっていしゆみきゅう戦艦せんかんにも匹敵ひってきする砲戦ほうせん能力のうりょくたっしたともわれる[29][30]

薩摩さつま安芸あきは、ほうりょく防御ぼうぎょ機関きかん外観がいかん差異さいがあり、純然じゅんぜんたる姉妹しまいかんではない[26][31]薩摩さつま主砲しゅほうは、前後ぜんごに30.5cm45口径こうけい連装れんそうほうかく1りょうふなばたに25.4cm45口径こうけい連装れんそうほうかく3搭載とうさいし、ふくほうとして12cm40口径こうけいたんそうほう12搭載とうさいしていた[18][32]最大さいだい相違そういてん機関きかん外観がいかんで(薩摩さつまはレシプロ・煙突えんとつ2ほん安芸あきはタービン・煙突えんとつ3ほん[26]能力のうりょく安芸あきほう優秀ゆうしゅうであった[25][33]

かんれき

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建造けんぞう

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1904ねん(明治めいじ37ねん)臨時りんじ軍事ぐんじ予算よさん成立せいりつ、これには戦艦せんかん2せき(薩摩さつま安芸あき)建造けんぞう予算よさんふくまれていた[4]

1905ねん明治めいじ38ねん)1がつ21にち横須賀よこすかあておつごう戦艦せんかん製造せいぞう訓令くんれいされた[5]装甲そうこうすべ海軍かいぐん工廠こうしょう製造せいぞうとされた[34]造船ぞうせん材料ざいりょう一部いちぶ三井物産みついぶっさんつうじてアメリカ(USスチール[35])から輸入ゆにゅうされた[36]。 また防御ぼうぎょ甲板かんぱんよう鋼板こうはん輸入ゆにゅうされた[37]。 5月15にちおつごう戦艦せんかん横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう起工きこうした[18]。 6月11にち日本にっぽん海軍かいぐんおつごう戦艦せんかんかんめいを「薩摩さつま」と内定ないていする(かぶとごう戦艦せんかん安芸あき予定よてい[38]

1906ねん明治めいじ39ねん10月5にちよしみじん親王しんのう明治天皇めいじてんのう皇太子こうたいし)は東伏見ひがしふしみみやじん親王しんのうともに、横須賀よこすか軍港ぐんこう横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん上村うえむら彦之すすむ中将ちゅうじょう)を視察しさつする[39]皇太子こうたいし横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう建造けんぞうちゅう薩摩さつま鞍馬あんばおよび整備せいびちゅう戦艦せんかん周防すおう旧名きゅうめいペレスヴェートきゅう戦艦せんかんのポベータ)を巡覧じゅんらん[40]軍港ぐんこうでは戦艦せんかん香取かとり装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん出雲いずもだいいち艦隊かんたい旗艦きかん司令しれい長官ちょうかん片岡かたおか七郎しちろう中将ちゅうじょう)に乗艦じょうかんした[41]11月15にち午後ごご2より進水しんすいしき開始かいし[42][43]明治天皇めいじてんのう皇太子こうたいし臨席りんせき[44][ちゅう 1]おつごう戦艦せんかん制式せいしき薩摩さつま命名めいめいされ[46][20]、 225ふん進水しんすいした[8]同日どうじつ戦艦せんかん類別るいべつ[3]。 11月29にち[47]ボイラーこんしょう装置そうち設置せっち訓令くんれいされた[48]

1909ねん(明治めいじ42ねん)、海軍かいぐん工廠こうしょう製造せいぞうされた兵器へいきわか宮丸みやまる使つか横須賀よこすかはこばれた[49]

1910ねん(明治めいじ43ねん)1がつ23にち貴族きぞくいん衆議院しゅうぎいんりょう議員ぎいん横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう薩摩さつま観覧かんらんした[50]同年どうねん3がつ25にち竣工しゅんこう[18][51]だいいち艦隊かんたい編入へんにゅうされた[52]

1910ねん

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7がつ18にち検定けんてい射撃しゃげきちゅう前部ぜんぶ12インチほうひだりほうあやまはっした[53]かん異常いじょうかったが[54]ちかくにいた2めい鼓膜こまく損傷そんしょうをした[53]

1911ねん

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1911ねん明治めいじ44ねん11月26にち当時とうじ10さい裕仁ひろひと親王しんのう(のちの昭和しょうわ天皇てんのう)およびおとうとみや雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのう、また皇族こうぞく一同いちどう乃木のぎ希典まれすけ小笠原おがさわら長生ながおひとし横浜よこはまこう沖合おきあい停泊ていはくちゅうの「薩摩さつま」に乗艦じょうかんした[ちゅう 2]上村うえむら彦之すすむだいいち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山口やまぐちきゅうじゅうろう薩摩さつま艦長かんちょう案内あんないで、ほんかん見学けんがくした[55][56]

1914ねん

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1914ねん大正たいしょう3ねん)3がつ下旬げじゅん大正天皇たいしょうてんのう皇太子こうたいし当時とうじ13さい裕仁ひろひと親王しんのう。のち昭和しょうわ天皇てんのう)およびおとうとみや雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのう)は江田島えたじま行啓ぎょうけいすることになった[ちゅう 3][ちゅう 4]。 3月20にちひる神戸こうべこう皇太子こうたいしいちぎょうは「薩摩さつま」(薩摩さつま艦長かんちょう吉島よしじま重太郎しげたろう大佐たいさ)に乗艦じょうかんした[57][58]供奉ぐぶかん戦艦せんかん摂津せっつ摂津せっつ艦長かんちょう木村きむらつよし大佐たいさ)と石見いわみ石見いわみ艦長かんちょう小林こばやしめぐみ吉郎よしろう大佐たいさ)であった[56]薩摩さつまには福留ふくとめしげる太平洋戦争たいへいようせんそう中期ちゅうき連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう)が少尉しょういとして勤務きんむしていた[56]。 3月21にち皇太子こうたいしたち高松たかまつ香川かがわけん)に上陸じょうりくする[59][ちゅう 5]。 3月22にち午前ごぜんちゅう皇太子こうたいしいちぎょう薩摩さつま摂津せっつ石見いわみ)は軍艦ぐんかん3せき筑波つくばきむつよし周防すおう)との演習えんしゅう見学けんがくした[59][61]午後ごご2ぎ、6せき薩摩さつま摂津せっつ石見いわみ筑波つくばきむつよし周防すおう)は江田島えたじま到着とうちゃくして投錨とうびょう[59]。こののちも3せき筑波つくばきむつよし周防すおう)はしばらく御召おめしかん同行どうこうする[62]皇太子こうたいしいちぎょう薩摩さつましたかんし、海軍兵学校かいぐんへいがっこう行啓ぎょうけいした[63][ちゅう 6][ちゅう 7]。 3月23にち皇太子こうたいしいちぎょう海軍兵学校かいぐんへいがっこう行啓ぎょうけい[63]午後ごご4ごろに「薩摩さつま」へもどった[65][ちゅう 8]

3月24にち、「薩摩さつま」と供奉ぐぶかん宮島みやじま移動いどう皇太子こうたいしいちぎょう上陸じょうりくして厳島いつくしま神社じんじゃ参拝さんぱい午後ごご2ごろ帰還きかんした[ちゅう 9][ちゅう 10]移動いどう皇太子こうたいしいちぎょう軍港ぐんこう上陸じょうりくする[67][68]。 3月25にち艦隊かんたい薩摩さつま摂津せっつ石見いわみ)は小豆島しょうどしま移動いどうする[69][ちゅう 11]。 3月26にち艦隊かんたい薩摩さつま摂津せっつ石見いわみ)は小豆島あずしまから神戸こうべこう移動いどうする(途中とちゅう戦艦せんかん朝日あさひ遭遇そうぐう[ちゅう 12][ちゅう 13]ひるごろ神戸こうべこう到着とうちゃく皇太子こうたいしいちぎょう御召おめしかん薩摩さつま」を退すさかんした[71][72]じゅんみや秩父宮ちちぶのみや)は海軍かいぐん志望しぼう高松宮たかまつのみや陸軍りくぐん志望しぼうだったが[73]、この旅行りょこうちゅう秩父宮ちちぶのみや陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう入学にゅうがく内定ないてい、また高松宮たかまつのみや海軍かいぐんりもうわさされていたという[62]後日ごじつ病床びょうしょうこう松宮まつみや宣仁のぶひと親王しんのう見舞みまった昭和しょうわ天皇てんのうが「あのときたのしかったね」とかたったように、薩摩さつまでの江田島えたじま行啓ぎょうけい三宮さんのみやにとってわすれられない旅行りょこうとなった[74][62]

だいいち世界せかい大戦たいせん

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だいいち世界せかい大戦たいせんにおける「薩摩さつま」はだいみなみ支隊したいれられ[75]太平洋たいへいようドイツりょう攻略こうりゃく作戦さくせんなどで活躍かつやくした[76]

1920ねん

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1920ねん大正たいしょう9ねん)3がつ下旬げじゅん大正天皇たいしょうてんのう皇太子こうたいし(のちの昭和しょうわ天皇てんのう)が四国しこく九州きゅうしゅう地方ちほうめぐけいすることになり、3月24にち神戸こうべこう御召おめしかん香取かとり」に乗艦じょうかんする[77][ちゅう 14]先導せんどうかんを「安芸あき」、供奉ぐぶかんを「薩摩さつまつとめた[77][79]

はいかん

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ワシントン軍縮ぐんしゅく条約じょうやくによってはいかん決定けってい[18][80]1923ねん大正たいしょう12ねん9がつ20日はつか除籍じょせき[10]艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょうからも削除さくじょされた[81][82]

1924ねん大正たいしょう13ねん9月2にち[83]連合れんごう艦隊かんたい連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん鈴木すずき貫太郎かんたろう大将たいしょうだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん加藤かとう寛治かんじ中将ちゅうじょう)の主力しゅりょく艦艇かんてい館山たてやまおき集結しゅうけつした[84]高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう少尉しょうい候補こうほせいたち練習れんしゅう艦隊かんたい旗艦きかん八雲やくも乗艦じょうかんし、研究けんきゅう射撃しゃげき見学けんがくする[83]きゅう薩摩さつま房総半島ぼうそうはんとう野島のじまおき伊豆いず大島おおしま東方とうほう海面かいめん)において戦艦せんかん日向ひなたきむつよしなどの研究けんきゅう射撃しゃげき標的ひょうてきかんとなる[85][86]午後ごご140ふんから日向ひなた金剛こんごうによる砲撃ほうげき実施じっしした[83]。つづいて長良ながらがたけい巡洋艦じゅんようかん2せき由良ゆら名取なとり)による研究けんきゅう射撃しゃげき実施じっししたが[85]上部じょうぶ構造こうぞうぶつ破壊はかいにとどまった[86]最終さいしゅうてきだい5駆逐くちくたい松風まつかぜがた駆逐くちくかん3せきだいさんごう朝風あさかぜだいごう春風しゅんぷうだいななごう松風まつかぜ)が発射はっしゃした魚雷ぎょらい3ほんにより雷撃らいげき処分しょぶんされた[86]沈没ちんぼつ時刻じこく午後ごご350ふん[83]中村なかむら俊久としひさ当時とうじ東郷とうごう元帥げんすい副官ふっかん)によれば、東郷とうごう平八郎へいはちろう元帥げんすいは「石見いわみもとロシア戦艦せんかんオリョール)は分捕ぶんどかんだからべつだが、国民こくみん血税けつぜいようや出来できかんみずからのしずめるのはるにしのびない」として「薩摩さつま」の沈没ちんぼつにはわなかったという[87][88]

艦長かんちょう

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※『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれきおよび『官報かんぽう』にもとづく。

  • 上泉かみいずみ徳弥とくや 大佐たいさ:1909ねん1がつ15にち - 1909ねん12月1にちけん横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう艤装ぎそういん
  • 荘司しょうじもと 大佐たいさ:1909ねん12月1にち - 1910ねん3がつ1にちけん横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう艤装ぎそういん(1909ねん12月8にち - 1910ねん3がつ1にち
  • 江口えぐちろく 大佐たいさ:1910ねん3がつ1にち - 1911ねん1がつ31にちけん横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう艤装ぎそういん( - 1910ねん4がつ1にち
  • 上村うえむらけいきち 大佐たいさ:1911ねん1がつ31にち - 1911ねん11月20にち
  • 山口やまぐちきゅうじゅうろう 大佐たいさ:1911ねん11がつ20日はつか - 1913ねん5がつ24にち
  • 上村うえむらけいきち 大佐たいさ:1913ねん5がつ24にち - 1913ねん12月1にち
  • 吉島よしじま重太郎しげたろう 大佐たいさ:1913ねん12月1にち - 1915ねん10がつ1にち
  • 布目ぬのめみつるづくり 大佐たいさ:1915ねん10がつ1にち - 1915ねん12月13にち
  • ほりあきらぼう 大佐たいさ:1915ねん12月13にち - 1916ねん12月1にち
  • 飯田いいだひさつね 大佐たいさ:1916ねん12月1にち - 1917ねん3がつ19にち
  • 竹内たけうち重利しげとし 大佐たいさ:1917ねん3がつ19にち - 1917ねん12月1にち
  • 島内とうない桓太 大佐たいさ:1917ねん12月1にち - 1918ねん4がつ9にち
  • 飯田いいだのべ太郎たろう 大佐たいさ:1918ねん4がつ9にち - 1918ねん6がつ1にち
  • 大内田おおうちだもりしげる 大佐たいさ:1918ねん7がつ5にち - 1919ねん11月20にち
  • 森本もりもと義寛よしひろ 大佐たいさ:1919ねん11月20にち[89] - 1920ねん11月20にち
  • 中川なかがわひろし 大佐たいさ:1920ねん11がつ20日はつか -
  • 三上みかみ良忠よしただ 大佐たいさ:1921ねん11月26にち - 1922ねん1がつ26にち
  • 横地よこちじょう 大佐たいさ:1922ねん1がつ26にち - 1922ねん11がつ10日とおか
  • 田村たむら丕顕大佐たいさ:1922ねん11がつ10日とおか - 1923ねん9がつ1にち[90] ※1923ねん6がつ1にちまで「三笠みかさ艦長かんちょう兼任けんにん[91]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 『○行幸ぎょうこう 天皇陛下てんのうへいか豫定よていノ如クさくじゅうにち横須賀よこすか軍港ぐんこうニ於テ軍艦ぐんかん薩摩さつま進水しんすいしき擧行きょこうづけ午前ごぜん八時四十分御出門同九時新橋停車場御發車同港ヘ行幸ぎょうこう午後ごご五時八分新橋停車場御着同五時三十分還幸アラセラレタリ/○東宮とうぐう行啓ぎょうけい 皇太子こうたいし殿下でんかさくじゅう五日午前八時十分新橋御發車横須賀軍港ヘ行啓ぎょうけい軍艦ぐんかん薩摩さつま進水しんすいしき御覽ごらん午後ごご三時五十六分横須賀御發車同五時五十五分還御アラセラレタリ』[45]
  2. ^ 『(明治めいじよんじゅうよんねんじゅういちがつ)じゅうろくにち 日曜日にちようび(軍艦ぐんかん薩摩さつま見学けんがく)軍艦ぐんかん薩摩さつまだいいち艦隊かんたい旗艦きかん見学けんがくのため、午前ごぜんはちじゅうふん雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうとも馬車ばしゃにてもんになる。新橋しんばし停車ていしゃじょうからはよし麿まろおうひろしちゅうおうあさとおるおう邦久くにひさおうのほか学友がくゆうじゅうめい合流ごうりゅうし、学習がくしゅう院長いんちょう乃木のぎ希典まれすけおよどう御用ごようかけ小笠原おがさわら長生ちょうせい随伴ずいはんする。横浜よこはま停車場ていしゃじょうより人力車じんりきしゃにて税関ぜいかん波止場はとばかわれ、艦載かんさい水雷すいらいていにて薩摩さつま乗艦じょうかんになる。長官ちょうかんしつにおいてだい一艦隊司令長官上村彦之丞及び艦長かんちょう山口やまぐちきゅうじゅうろう以下いか長官ちょうかんに謁をたまう。いでかんくびうつられ、うえいかりはり信号しんごう海図かいず司令塔しれいとう砲塔ほうとうおよしょしつ救護きゅうご演習えんしゅう水雷すいらい填込はめこめとう巡覧じゅんらん、さらに薩摩さつま朝日あさひ弥生やよい以下いか駆逐くちくかん水雷すいらいていとの砲撃ほうげき演習えんしゅう御覧ごらんになる。昼食ちゅうしょく弁当べんとうされ、午後ごごは、昼食ちゅうしょくくりやより吹奏すいそうつづける軍楽隊ぐんがくたいのもとにおましになり、軍歌ぐんか唱歌しょうかとう演奏えんそうをおきになる。それよりうえ甲板かんぱんうつられ、馬蹄ばていがた整列せいれつした総員そういんによる軍歌ぐんか決死けっしたい」「軍人ぐんじんみことのりさとし」の合唱がっしょうをおきになる。ついで消火しょうか練習れんしゅう御覧ごらんのち午後ごごじゅうふん退すさかんどうよんじゅうふん横浜よこはま停車場ていしゃじょう発射はっしゃになり、帰還きかんになる。なお、薩摩さつまかん見学けんがく実現じつげんには、学習がくしゅういん御用ごようかけ小笠原おがさわら長生ちょうせい(海軍かいぐん軍令ぐんれい出仕しゅっしけん参謀さんぼう)が種々しゅじゅ奔走ほんそうし、この皇太子こうたいし内命ないめいによりもっぱ案内あんないにんあたる。』[55]
  3. ^ 『(大正たいしょうさんねんさんがつ)じゅうにち 金曜日きんようび(軍艦ぐんかん薩摩さつまにて神戸こうべ出港しゅっこう)午前ごぜんきゅうじゅうふんじょう離宮りきゅうもん江田島えたじまかわれる。これより服装ふくそう海軍かいぐん通常つうじょう礼装れいそうとなる。京都きょうと停車場ていしゃじょう発車はっしゃになり、途中とちゅう大阪おおさか停車場ていしゃじょうにおいてみことのり任官にんかん以上いじょうに謁をたまう。神戸こうべ停車場ていしゃじょうよりただちに人力車じんりきしゃにてべいけん波止場はとば移動いどうになり、御召おめしかん薩摩さつま乗艦じょうかんだいいち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん加藤かとう友三郎ともさぶろうどう参謀さんぼうちょう佐藤さとう鉄太郎てつたろう薩摩さつま艦長かんちょう吉島よしじま重太郎しげたろう摂津せっつ(先導せんどうかん)艦長かんちょう木村きむらつよし石見いわみ(供奉ぐぶかん)艦長かんちょう小林こばやしめぐみ吉郎よしろう以下いか乗組のりくみ将校しょうこうに謁をたまう。午後ごごれいさんじゅうふん御召おめしかん出港しゅっこうする。航海こうかいちゅううえ甲板かんぱんにおいて兵員へいいん作業さぎょう艦隊かんたい航行こうこうなどの御覧ごらんになる。ろくさんじゅうふん香川かがわけん高松たかまつおきはしかん仮泊かはくになる。ゆう餐後、甲板かんぱんにおいてサーチライトを御覧ごらんになり、乗組のりくみいんによる「軍人ぐんじんみことのりさとし」などの軍歌ぐんかをおきになる。』[57]
  4. ^ 『○東宮とうぐうはつかん 皇太子こうたいし殿下でんか雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうりょう殿下でんか同伴どうはん豫定よていノ如クほんがつじゅうにち午前ごぜんきゅうじゅうふんじょう離宮りきゅうもんどうきゅうよんじゅうふん京都きょうと停車場ていしゃじょう發車はっしゃどうじゅう一時二十分神戸停車場御箸車軍艦薩摩ニ乗艦じょうかん午後ごごれいさん十分じゅうぶんはつかんアラセラレタリ|○東宮とうぐうはしかんなみ假泊かはく 皇太子こうたいし殿下でんかなみ雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうりょう殿下でんかほんがつじゅうにち午後ごごろくさんじゅうふん高松たかまつおきはしかん假泊かはくいちさくじゅういちにち午前ごぜんきゅうじゅうふん上陸じょうりく栗林公園りつりんこうえん御覽ごらんどうじゅういちよんじゅうふん歸艦きかん午後ごごれいさん十分御發艦同四時五十分愛媛縣來島沖御箸艦御假泊アラセラレタリ』[58]
  5. ^ 『(大正たいしょうさんねんさんがつ)じゅういちにち 土曜日どようび(栗林公園りつりんこうえん)午前ごぜんきゅうじゅうふん高松たかまつ上陸じょうりくになり、人力車じんりきしゃにて栗林公園りつりんこうえんにおりになる。園内えんない巡覧じゅんらんのち広芝ひろしばにおいて小学校しょうがっこう生徒せいとによるはた体操たいそう舞踏ぶとうなどを御覧ごらんになる。(りゃく)じゅういちよんじゅうふん帰艦きかんになる。午後ごごれいさんじゅうふん高松たかまつおき出港しゅっこうされる。航海こうかいちゅうこう甲板かんぱんにおいて兵員へいいんによる柔道じゅうどう撃剣げっけん銃剣じゅうけん相撲すもうとう試合しあい御覧ごらんになる。よんじゅうふん愛媛えひめけん来島らいとうおき到着とうちゃく仮泊かはくになる。』[60]
  6. ^ 『(大正たいしょうさんねんさんがつ)じゅうにち 日曜日にちようび(発火はっか演習えんしゅう御覧ごらん)午前ごぜんきゅう来島らいとうおき出港しゅっこう江田島えたじまかわれる。じゅうより筑波つくばきむつよし周防すおうさんかん仮想かそうてきとした発火はっか演習えんしゅう御覧ごらんになる。演習えんしゅう途中とちゅうおう国軍こくぐんかんカイゼリン・エリーザベトに邂逅かいこうする。じゅういちじゅうふん演習えんしゅうえた筑波つくばきむつよし周防すおうさんかんによりとうふなばたれいをおけになる。昼餐ちゅうさんこう艦橋かんきょうにおいて兵員へいいん作業さぎょう様子ようす御覧ごらんになる。午後ごごじゅうふん江田島えたじま到着とうちゃく海軍かいぐん兵学へいがく校長こうちょう山下やました源太郎げんたろうきむつよし艦長かんちょう山中やまなか榮吉えいきち周防すおう艦長かんちょう岡野おかの富士ふじまつ筑波つくば艦長かんちょう加藤かとう寛治かんじ御召おめしかん薩摩さつま伺候しこうにつき、謁をたまう。午後ごごさん御召おめしかん薩摩さつまかん海軍兵学校かいぐんへいがっこう行啓ぎょうけいされる。きゅうしょにおいて山下やました校長こうちょう以下いか教官きょうかんに謁をたまい、つづいて校長こうちょうより同校どうこうかんする説明せつめいをおけになる。ついで運動うんどうじょうにおましになり、学生がくせいによる徒手としゅ体操たいそう人馬じんば競争きょうそう野砲やほう競争きょうそうとう御覧ごらんになる。よんさんじゅうふん帰還きかんになる。ゆう餐後、甲板かんぱんへおましになり、海岸かいがん付近ふきんにおけるへい学校がっこう生徒せいとによる発火はっか演習えんしゅう御覧ごらんになる。』[61]
  7. ^ 『○東宮とうぐうはしかん竝行へいこうけい 皇太子こうたいし殿下でんかなみ雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうりょう殿下でんかいちさくじゅうにち午前ごぜんきゅう來島らいとうおきはつかん午後ごご二時十分江田島御箸艦同三時十分御上陸海軍兵學校ヘ行啓ぎょうけいどうよんさんじゅうふん歸艦きかんアラセラレタリ』[64]
  8. ^ 『○東宮とうぐう巡覽じゅんらん 皇太子こうたいし殿下でんかなみ雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうりょう殿下でんかいちさくじゅうさんにち午前ごぜんはちじゅう五分御上陸海軍兵學校御巡覽午後四時五分御歸艦アラセラレタリ』[66]
  9. ^ 『(大正たいしょうさんねんさんがつ)じゅうよんにち 火曜日かようび(宮島みやじまおき厳島いつくしま神社じんじゃ参拝さんぱい弥山ややま登山とざん)午前ごぜんろく江田島湾えたじまわん出港しゅっこう厳島いつくしま神社じんじゃ参拝さんぱい雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうともすぎ手植てうえ・弥山ややま登山とざん帰艦きかん三時さんじじゅうふん宮島みやじまおき出港しゅっこう軍港ぐんこうかわれ、よんじゅうふん到着とうちゃくになる。ゆう餐後、こう艦橋かんきょうにおいて市街しがい遠望えんぼうになり、海軍かいぐん工廠こうしょうかんする説明せつめいをおきになる』[67]
  10. ^ 『○東宮とうぐうはしかん 皇太子こうたいし殿下でんかなみ雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうりょう殿下でんかいちさくじゅうよんにち午前ごぜんろく江田島えたじまはつかんどうなな十分宮島御箸艦御上陸宮島御覽ノうえ午後ごご三時十五分御發艦同四時五十五分呉軍港ニはしかんアラセラレタリ』[68]
  11. ^ 『○東宮とうぐうはしかんなみ假泊かはく 皇太子こうたいし殿下でんかなみ雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうりょう殿下でんかハ一昨二十五日午前六時呉軍港御發艦午後五時十分小豆島ニはしかん假泊かはくアラセラレタリ』[70]
  12. ^ 『(大正たいしょうさんねんさんがつ)じゅうろくにち(神戸こうべ上陸じょうりく)午前ごぜんななよんじゅうふん御召おめしかん薩摩さつま神戸こうべこう池田いけだわん出航しゅっこうする。じゅうさんじゅうふんより乗組のりくみいんによる相撲すもう御覧ごらんになる。途中とちゅう航行こうこうちゅう軍艦ぐんかん朝日あさひよりかんれいけられ、答礼とうれいになる。午後ごごれいよんじゅうふん神戸こうべこう到着とうちゃくになる。じゅうふん退すさかんべいけん波止場はとばかわれ、停車場ていしゃじょうにてだいいち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん加藤かとう友三郎ともさぶろうどう参謀さんぼうちょう佐藤さとう鉄太郎てつたろう薩摩さつま艦長かんちょう吉島よしじま重太郎しげたろう兵庫ひょうご県知事けんちじ服部はっとりいちさん以下いかたまもの謁ののち発車はっしゃになる。(以下いかりゃく)』[71]
  13. ^ 『○東宮とうぐうやすばし 皇太子こうたいし殿下でんかなみ雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうりょう殿下でんかいちさくじゅうろくにち午前ごぜんななよんじゅうふん小豆島あずしまはつかん午後ごごれいよんじゅうふん神戸港こうべこうはしかん上陸じょうりくどうさん神戸こうべ停車場ていしゃじょう發車はっしゃどう四時五十分京都停車場御箸車同五時二十分二條離宮ニやすばしアラセラレタリ|○東宮とうぐう行啓ぎょうけい 皇太子こうたいし殿下でんかなみ雍仁親王やすひとしんのう宣仁のぶひと親王しんのうりょう殿下でんかさくじゅう七日午前九時三十分二條離宮御出門八幡及宇治方面ヘ行啓ぎょうけい午後ごごよんじゅうふん還御かんぎょアラセラレタリ』[72]
  14. ^ 『○東宮とうぐうはつかん 皇太子こうたいし殿下でんかいちさくじゅうよんにち午前ごぜんろくよんじゅうふんじょう離宮りきゅうもんどうなな京都きょうとえき發車はっしゃどう八時五十五分神戸驛御箸車御乗艦同十一時神戸港御發艦アラセラレタリ』[78]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
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  19. ^ #帝国ていこく最新さいしん軍艦ぐんかんじょう(1912)コマ41「戰艦せんかん 薩摩さつま Battle Ship "Satuma"」
  20. ^ a b #たち明治めいじ39ねん11月p.6『いたるだいひゃくよんじゅうきゅうごう 横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞうおつごう戰艦せんかん薩摩さつま命名めいめいセラル 明治めいじさんじゅうきゅうねんじゅういちがつじゅうにち 海軍かいぐん大臣だいじん 斎藤さいとうみのる
  21. ^ #幕末ばくまつ以降いこう帝国ていこく軍艦ぐんかん写真しゃしん史実しじつコマ238(原本げんぽん84ぺーじ)『いちはじめて内國ないこくにて装甲そうこうかん起工きこうす ― 明治めいじさんじゅうはちねん(いちきゅう)戰艦せんかん薩摩さつま」を横須賀よこすか工廠こうしょうにて、また巡洋艦じゅんようかん筑波つくば」を工廠こうしょうにて起工きこうす、はじめてじゅういんちほうおよ装甲そうこう鈑をくれにてつく宮原みやはらしきこんもえすいかんかん装備そうびす、(此年英國えいこくに「ドレットノート」起工きこう)』
  22. ^ 帝国ていこく軍艦ぐんかん発達はったつ 1937, p. 1「(前略ぜんりゃく)つぎ薩摩さつま安藝あき純然じゅんぜんたる日本にっぽん設計せっけいもとづわが海軍かいぐん工廠こうしょう建造けんぞうせられたるもので、薩摩さつまは12いんちほう4もん速力そくりょく18 1/4せつ排水はいすいりょうやく19,400とんで、わが造船ぞうせん技術ぎじゅつ躍進やくしんてき進歩しんぽでありました。安藝あき排水はいすいりょうややだいとして速力そくりょく20せつはじめてタービンしき機關きかん採用さいよういたしてります。(以下いかりゃく)」
  23. ^ a b 写真しゃしん日本にっぽん軍艦ぐんかん 戦艦せんかんII、248ぺーじ
  24. ^ #海軍かいぐん夜話やわコマ110-111(原本げんぽん193-195ぺーじ)「軍縮ぐんしゅく條約じょうやく廢棄はいきかん
  25. ^ a b #現代げんだい海上かいじょう兵備へいび(大正たいしょう4)コマ23-24(原本げんぽん11-12ぺーじ)「(前略ぜんりゃく)ひるがえって我國わがくに如何いかるに、我國わがくにでは明治めいじよんじゅうねんに、排水はいすいりょういちきゅう,はち〇〇とん速力そくりょくじゅうせつへいそうじゅういんちほうよんもん じゅういんちほうじゅうもん ろくいんちほうはちもんほかを備ふる軍艦ぐんかん安藝あき進水しんすいせしめたのであって、さきいしゆみがたかんぞくする、安藝あき姉妹しまいかん前年ぜんねん進水しんすいした薩摩さつまは、噸數とんすうへいそううえでは安藝あき大差たいさはないが、速力そくりょくてんいしゆみがたかんたる資格しかくがない。すなわ我國わがくにでは、英國えいこくのちるヽこといちねんで、いしゆみがたかんしたのである。(以下いかりゃく)」
  26. ^ a b c 写真しゃしん日本にっぽん軍艦ぐんかん 戦艦せんかんII、250ぺーじ
  27. ^ #海軍かいぐん夜話やわコマ108(原本げんぽん188-189ぺーじ)
  28. ^ 帝国ていこく軍艦ぐんかん発達はったつ 1924, p. 3c「(前略ぜんりゃく)鹿島かしま香取かとりまでの戰艦せんかんすべ外國がいこく建造けんぞうされましたが(もっと鹿島かしま香取かとりきましても根本こんぽん設計せっけいわが海軍かいぐんよりあずかへられたのであります)薩摩さつま安藝あきいたりましては純然じゅんぜんたる日本にっぽん設計せっけいもとづ海軍かいぐん工廠こうしょうおい全然ぜんぜん日本人にっぽんじん建造けんぞう材料ざいりょうだい部分ぶぶん内地ないちひん使用しようしたのであります それで薩摩さつま進水しんすいさいにははたして無事ぶじ進水しんすい出來できるかどうかとうんてんかん横濱よこはま外人がいじんあいだがあったとうんふことでありました 今日きょうよりればじつ馬鹿馬鹿ばかばかしきはなしでありますがかかることもあったのであります 此二かん今日きょう弩級艦どきゅうかんたっするだいであります。(以下いかりゃく)」
  29. ^ a b 写真しゃしん日本にっぽん軍艦ぐんかん 戦艦せんかんII、249ぺーじ
  30. ^ 海人あましゃ 世界せかい艦船かんせん 増刊ぞうかんだい24しゅう 日本にっぽん戦艦せんかん
  31. ^ 帝国ていこく軍艦ぐんかん発達はったつ 1924, pp. 2–3「(前略ぜんりゃく)其次が薩摩さつま及安げい(明治めいじよんじゅうさんねん及四じゅうよんねん竣工しゅんこう)でありまして此二かん最初さいしょ姉妹しまいかんとして設計せっけいせられたのでありますが仕事しごと都合つごう安藝あきほうはししゅいちねんばかりのちになりましたので其間にかんがた變更へんこうされまして純然じゅんぜんたる姉妹しまいかんではなくなりました。(以下いかりゃく)」
  32. ^ 帝国ていこく軍艦ぐんかん発達はったつ 1924, p. 3a「(前略ぜんりゃく)主砲しゅほういずれもじゅう二吋砲四門十吋砲十二門でありますがふくほう薩摩さつまおいよんななインチほうじゅうもんのものが安藝あきおいてはろくいんちほうはちもんとなり防禦ぼうぎょ安藝あきほう舷側げんそくじょうれつきのえてつ及砲くるわかぶとてつあついんちされてります。(以下いかりゃく)」
  33. ^ 帝国ていこく軍艦ぐんかん発達はったつ 1924, p. 3b「(前略ぜんりゃく)おっとしゅ機械きかい薩摩さつまのものは「レシプロケーチング、エンジン」でありますが安藝あきのものは「カーチス、タルビン」になりまして馬力ばりきいちじるしくしましたので速力そくりょく一節いっせつよんぶんさんしてります もっと排水はいすいりょう安藝あきほうよんひゃくじゅうとんしてりますがかん勢力せいりょく増加ぞうか排水はいすいりょう増加ぞうかした割合わりあいでありません。(以下いかりゃく)」
  34. ^ #M44公文こうぶん備考びこう17/かんたい構造こうぞう(1)画像がぞう1-2、明治めいじ38ねん1がつ28にち官房かんぼう機密きみつだい147ごう横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞうスヘキ臨時りんじ軍事ぐんじ支弁しべんおつごう戦艦せんかんようスルきのえてつそうくれ海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞう横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう送付そうふセシムヘシ ただしきのえてつ寸法すんぽう数量すうりょう製造せいぞう豫算よさんくれ海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞうスヘキかぶとごう戦艦せんかん同様どうよう心得こころえヘシ 明治めいじさんじゅうはちねんいちがつ廿にじゅうはちにち 海軍かいぐん大臣だいじん くれ鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん
  35. ^ #M44公文こうぶん備考びこう17/かんたい構造こうぞう(1)画像がぞう14-18、明治めいじ38ねん2がつ7にち契約けいやくしょ
  36. ^ #M44公文こうぶん備考びこう17/かんたい構造こうぞう(1)画像がぞう12-13、明治めいじ38ねん2がつ3にち起案きあん官房かんぼう機密きみつだい185ごう
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  38. ^ #海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく(まき8、1940)p.199『◎戰艦せんかん安藝あき薩摩さつま装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん筑波つくば生駒いこま鞍馬あんば伊吹いぶき命名めいめいけん 明治めいじさんじゅうはちねんろくがつじゅういちにち(うちれいさんいちろく)新造しんぞう軍艦ぐんかんろくせきかんめいひだりつう治定じじょう相成あいなこうじょう命名めいめいしき擧行きょこうマテ部内ぶないげん通用つうようスルコトヲとく心得こころえヘシ|海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞう かぶとごう戰艦せんかん 安藝あき|横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞう おつごう戰艦せんかん 薩摩さつま|海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞう ごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん 筑波つくば/うしごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん 生駒いこま|横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞう とらごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん 鞍馬あんば|海軍かいぐん工廠こうしょうニ於テ製造せいぞう だいいちごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん 伊吹いぶき
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 官報かんぽう

関連かんれん項目こうもく

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