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長門 (戦艦) - Wikipedia コンテンツにスキップ

長門ながと (戦艦せんかん)

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長門ながと
1944ねん10がつ21にち、ブルネイ泊地はくち出撃しゅつげき準備じゅんびちゅう長門ながと後方こうほう最上さいじょう武蔵むさし大和やまとえる。
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 海軍かいぐん工廠こうしょう
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
かんしゅ 戦艦せんかん
きゅうめい 長門ながとがた
かんれき
計画けいかく はちはち艦隊かんたい計画けいかく
起工きこう 1917ねん8がつ28にち[1]
進水しんすい 1919ねん11月9にち[1]
竣工しゅんこう 1920ねん11月25にち[1]
最期さいご 1946ねん7がつ29にち戦後せんごべいぐん原爆げんばく実験じっけんにて沈没ちんぼつ
除籍じょせき 1945ねん9月15にちべいぐん接収せっしゅう
要目ようもく
排水はいすいりょう 基準きじゅん 39,130えいトン
おおやけためし 43,580トン
満載まんさい 45,816トン
全長ぜんちょう 224.94m
最大さいだいはば 34.6m
吃水きっすい 9.96m
推進すいしん かん本式ほんしきタービン44じく 82,000馬力ばりき
速力そくりょく 25.0ノット
航続こうぞく距離きょり 16ノット/8,650うみさと[ちゅう 1]
記録きろくでは16ノットで8650かいり
乗員じょういん 1,368めい下士官かしかん1300めい士官しかん68めい
へいそう 45口径こうけい41cm連装れんそうほう4
45口径こうけい14cmたんそうほう18
40口径こうけい12.7cm連装れんそう高角こうかくほう4
25mm連装れんそう機銃きじゅう10
7.7mm機銃きじゅう3
装甲そうこう 水線すいせん305mm
甲板かんぱん70+127 mm
主砲しゅほうぜんたて457mm
主砲しゅほう天蓋てんがい250mm
ふくほうくるわ152mm
特記とっきのないものは改装かいそうしょもと
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長門ながと(ながと)は、きゅう長門ながとこく名前なまえ由来ゆらい日本にっぽん海軍かいぐん戦艦せんかん[2]長門ながとがた戦艦せんかん1ばんかん[3]

概要がいよう

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いわゆる超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかんである。完成かんせい当時とうじ1920ねん大正たいしょう9ねん)では世界せかい最大さいだいであり、かつ最大さいだい口径こうけいの16.1インチ当時とうじ日本にっぽんトル法とるほう採用さいようしていたためじつ口径こうけいは41cmちょうど)主砲しゅほうと、当時とうじ戦艦せんかんなかでは非常ひじょう高速こうそくである26.5ノット(おおやけためし26.443ノット)の機動きどうりょく高速こうそく戦艦せんかん[4]世界せかい軍事ぐんじ軍艦ぐんかんにもおおきな影響えいきょうあたえている[5]史上しじょうはじめて41センチほう搭載とうさいする戦艦せんかんとして建造けんぞうされ、竣工しゅんこう世界せかい最大さいだい最速さいそくほこった。また、連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかんもっと長期ちょうきにわたりつとめ、日本にっぽん海軍かいぐん象徴しょうちょうとしてなが国民こくみんしたしまれた[6]

2ばんかん陸奥みちのくとも各国かっこく海軍かいぐんから注目ちゅうもくされ、大艦だいかんきょほう主義しゅぎ最盛さいせいをむかえていた列強れっきょう海軍かいぐん熾烈しれつけんかん競争きょうそうワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくによる一定いってい歯止はどめをあたえるきっかけとなったのもほんかんであった[7]

完成かんせい連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかんとなり、そのにん陸奥みちのく交代こうたいつとめた[8]だい世界せかい大戦たいせんのち有名ゆうめいになった大和やまとがた戦艦せんかん戦中せんちゅう存在そんざいそのものが極秘ごくひだったこともあり、戦前せんぜん戦中せんちゅうには長門ながと陸奥みちのくこそが日本にっぽん海軍かいぐん代表だいひょうする戦艦せんかんとして国民こくみんからしたしまれている。『陸奥みちのく長門ながと日本にっぽんほこり』といういろはカルタつくられたほどである[9][10][ちゅう 2]

太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかんで、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん 山本やまもと五十六いそろく大将たいしょう座乗ざじょうしていた。1942ねん2がつ連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん大和やまとうつった。以後いご大和やまと武蔵むさし主力しゅりょくかんとして温存おんぞんされ、太平洋戦争たいへいようせんそう終盤しゅうばんまで最前線さいぜんせんることはなかった。終戦しゅうせん横須賀よこすかにてちゅうやぶ状態じょうたい残存ざんそん稼動かどう可能かのう状態じょうたいのこった唯一ゆいいつ日本にっぽん戦艦せんかんである。アメリカぐん接収せっしゅうされたのち[ちゅう 3]原子げんしばくだん標的ひょうてきかん指定していされる[13]。1946ねん7がつビキニ環礁かんしょう実施じっしされた原爆げんばく実験じっけんクロスロード作戦さくせん」に標的ひょうてきかんとして投入とうにゅうかく爆発ばくはつにより浸水しんすいすす沈没ちんぼつした。

かんれき

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建造けんぞう

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新造しんぞう長門ながと

長門ながと1916ねん大正たいしょう5ねん帝国ていこく議会ぎかい建造けんぞう承認しょうにんされた[14]同年どうねん5がつ13にち建造けんぞう予定よてい戦艦せんかん長門ながととう巡洋艦じゅんようかんけい巡洋艦じゅんようかん)2せきにそれぞれ天龍てんりゅう龍田たつた大型おおがた駆逐くちくかん谷風たにかぜ(こうかぜがた)かんめいあたえられる[2][15]。6月26にち長門ながと天龍てんりゅう龍田たつた谷風たにかぜ艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう登録とうろくされた[16]

長門ながと1917ねん大正たいしょう6ねん)8がつ28にちはちはち艦隊かんたい計画けいかくだいいちごうかんとして広島ひろしまけん海軍かいぐん工廠こうしょうにて起工きこう[17]1919ねん大正たいしょう8ねん)11月9にち進水しんすいする[18]1920ねん大正たいしょう9ねん)11月25にち竣工しゅんこうした[19]甲板かんぱん木材もくざい台湾たいわんおもね里山さとやまひのき使用しようされた[20]建造けんぞう当時とうじ価格かかくで4,390まんえんのぼった。東京とうきょうまるうちビルディング(きゅうなな建造けんぞうできる金額きんがくであったという[21]かん本当ほんとう全長ぜんちょう216mや最大さいだい速力そくりょく26ノットはかくされ、対外たいがいてきには660(201m)、23ノットと公表こうひょうしている[22]ワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくによって41cm(16in)主砲しゅほう搭載とうさいかんがた35000トン以上いじょう大型おおがた戦艦せんかん建造けんぞう制限せいげんされる海軍かいぐん休日きゅうじつはじまると[23]長門ながと姉妹しまいかん陸奥みちのくイギリスネルソンロドニーアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくコロラドメリーランドウェストバージニア戦艦せんかんして世界せかいのビッグ7(世界せかいなな大戦たいせんかんばれた[ちゅう 4]

建造けんぞう当初とうしょ煙突えんとつ排煙はいえん処理しょり問題もんだいとなり、平賀ひらがゆずる提案ていあんだいいち煙突えんとつにカバーをけたがあまり効果こうかはなく、藤本ふじもと喜久雄きくお造船ぞうせん大佐たいさによって1924ねん大正たいしょう13ねん)に陸奥みちのくとも屈曲くっきょく煙突えんとつ採用さいようした[24]。この姿すがた当時とうじ国民こくみんしたしまれ、一番いちばん印象いんしょうのこ姿すがたとなったといわれる[25]なお、この屈曲くっきょく煙突えんとつ採用さいようは、日本にっぽん海軍かいぐん巡洋艦じゅんようかん機関きかん建造けんぞう影響えいきょうあたえたとされる。また藤本ふじもと提案ていあん平賀ひらがゆずる無断むだん借用しゃくようしたため、両者りょうしゃ対立たいりつ一因いちいんとなった[26]

だい世界せかい大戦たいせんまえ

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さんだん空母くうぼ時代じだいの「赤城あかぎ」とならぶ「長門ながと」。だいいち煙突えんとつ湾曲わんきょくしている。

世界せかいで7せきしかない40cmほう搭載とうさい戦艦せんかんである長門ながとだったが、そのきょほう実戦じっせん発射はっしゃする機会きかいながらくなかった。陸奥みちのく佐世保させぼ鎮守ちんじゅ所属しょぞくだったことから、東京とうきょう海軍かいぐんしょう軍令ぐんれい往来おうらい容易ようい横須賀よこすか鎮守ちんじゅ所属しょぞく長門ながと連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかんえらばれたとされる[27]

1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にち関東大震災かんとうだいしんさいとき連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん竹下たけしたいさむ大将たいしょう旗艦きかん長門ながと」)は大連たいれん沖合おきあい演習えんしゅうちゅうであった[28]連合れんごう艦隊かんたい演習えんしゅう中止ちゅうしして、救援きゅうえん物資ぶっし東京とうきょうはこ[29]連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうとして長門ながと乗艦じょうかんしていた福留ふくとめしげる大尉たいいは「長門ながと最大さいだい速力そくりょく26ノット(公称こうしょう23ノット)で東京とうきょうわん急行きゅうこうしたところ、イギリス東洋とうよう艦隊かんたい旗艦きかん巡洋艦じゅんようかんプリマスに追跡ついせきされ、本当ほんとう速力そくりょく見破みやぶられた」と回想かいそうしている[30]。なお、イギリス中国ちゅうごく艦隊かんたい所属しょぞくけい巡洋艦じゅんようかんディスパッチの航海こうかい日誌にっしに「11.13am: Fired salute to Japanese Admiral in HIJMS Nagato.(HIJMS長門ながと提督ていとく礼砲れいほう)」と記録きろくされており、実際じっさいにはけい巡洋艦じゅんようかんディスパッチに追跡ついせきされていたようである。救援きゅうえん物資ぶっし輸送ゆそう連合れんごう艦隊かんたいかくかんは、被災ひさいしゃ疎開そかい任務にんむ従事じゅうじした[31]

1924ねん大正たいしょう13ねん)には、裕仁ひろひと皇太子こうたいし昭和しょうわ天皇てんのう)の樺太からふと行啓ぎょうけいさい乗艦じょうかんとなった[32]1927ねん昭和しょうわ2ねん)8がつ24にち島根しまねけん美保関みほのせきおきおこなわれた夜間やかん演習えんしゅうけいじゅん神通じんずう駆逐くちくかんわらびけいじゅん那珂なか駆逐くちくかんあし衝突しょうとつ事故じこきた(美保関みほのせき事件じけん)。加藤かとう寛治かんじ連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん長門ながと座乗ざじょうしてかぶとぐん長門ながと陸奥むつ日向ひなた伊勢いせとう指揮しきしており、これをおつぐんだい戦隊せんたい加古かこたか神通じんずう那珂なか〉、だい水雷すいらい戦隊せんたいけいじゅん夕張ゆうばり麾下きか駆逐くちくたい〉)が襲撃しゅうげきするという想定そうてい演習えんしゅうだった。

長門ながと陸奥みちのく日本にっぽん海軍かいぐん象徴しょうちょうとしてひろ認識にんしきされていたが[ちゅう 5]時代じだい変化へんかわせた小規模しょうきぼ改装かいそう漸次ぜんじ実施じっしされた。先述せんじゅつした屈曲くっきょく煙突えんとつへの改造かいぞうも、水上すいじょう偵察ていさつ搭載とうさい主砲しゅほうとうはか距儀かわそうするなどの改装かいそう実施じっししている。1932ねん昭和しょうわ7ねん)から1933ねん昭和しょうわ8ねん)にかけては8cm高角こうかくほうを12.7cm連装れんそう高角こうかくほうかわそうのうえ高射こうしゃ装置そうち毘式よんじゅうみりめーとる機銃きじゅう設置せっちみず偵発かんようのカタパルトが搭載とうさいされたほか、ぜん檣ははかてきしょ指揮しきしょ増設ぞうせつしたことから探照灯たんしょうとう煙突えんとつ周辺しゅうへん新設しんせつした探照灯たんしょうとうだいうつした[34]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)から1936ねん昭和しょうわ11ねん)のあいだ陸奥みちのくともだい規模きぼ改装かいそうおこない、ボイラーのかわそう装甲そうこう追加ついか主砲しゅほうとう改造かいぞう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん撤去てっきょなどが実施じっしされた[35]外見がいけんじょう煙突えんとつがボイラーのかわそうともなふと一本いっぽんものわったほかぜん檣および後部こうぶ指揮しきしょ形状けいじょうおおきく変化へんかした。大西おおにし新蔵しんくら長門ながと艦長かんちょう)は、だい規模きぼ改装かいそう長門ながとがた戦艦せんかん優男やさおとこ大和やまとがた戦艦せんかん獰猛どうもう表現ひょうげんしている[36]近江おうみ従兵じゅうへいちょう回想かいそうでは、艦橋かんきょうにエレベーターがあったという[37]。そして、りょうふなばたバルジもうけ、かん延長えんちょうし、防御ぼうぎょ能力のうりょく向上こうじょうした。反面はんめん、タービンがかわそうされず出力しゅつりょく新造しんぞう大差たいさなかったため、速力そくりょくは25ノットに低下ていかした。大西おおにし艦長かんちょうは、1941ねん5がつ29にちおおやけためしにおいて82000馬力ばりきで24.1ノットを発揮はっきしたとべている[38]。ただし、レイテおき海戦かいせんではカタログスペックを上回うわまわるスピードでてきからげているので、元々もともと機関きかん強度きょうどたい熱性ねっせい余裕よゆうおおきくっていたようである。長門ながとはその航空こうくう設備せつび改修かいしゅう毘式よんじゅうみりめーとる機銃きじゅう撤去てっきょ、25mm機銃きじゅう増設ぞうせつといった追加ついか工事こうじけた[39]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)8がつだい上海しゃんはい事変じへんともない「長門ながと」や「陸奥みちのく」、だいさん戦隊せんたいりくへい輸送ゆそう従事じゅうじ[40]。「長門ながと」の担当たんとう小松島こまつしまからのだいじゅういち師団しだん一部いちぶやく2000めい輸送ゆそうであり、8がつ22にちに「長門ながと」と「陸奥みちのく」は余山よやまの9050かいり付近ふきん進出しんしゅつし、りょうかんおよびだいさん戦隊せんたいりくへいだいはち戦隊せんたいおよびだいいち水雷すいらい戦隊せんたいうつしたのち佐世保させぼ帰投きとうした[40]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)11月1にちで、福留ふくとめしげる大佐たいさ当時とうじささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう)は長門ながと艦長かんちょう任命にんめいされる[41]福留ふくとめ航海こうかいちょう経験けいけんこそあるが艦長かんちょう経験けいけんがなく、前任ぜんにん長門ながと艦長かんちょう高木たかぎ武雄たけお大佐たいさから細々こまごまもうぎをけたという[42]1939ねん昭和しょうわ14ねん)9がつ3にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん吉田よしだよしわれ中将ちゅうじょうから山本やまもと五十六いそろく中将ちゅうじょう交代こうたいした[43]。11月15にち福留ふくとめ大佐たいさ少将しょうしょう昇進しょうしんし、同時どうじ連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう任命にんめいされた[44]艦長かんちょうしつからとなり参謀さんぼうちょうしつへの赴任ふにんであった[44]。このあと福留ふくとめは1ねんはんにわたって山本やまもと五十六いそろく連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん1940ねん昭和しょうわ15ねん)に吉田よしだ山本やまもと嶋田しまだ繁太郎しげたろう大将たいしょう昇進しょうしん)のした参謀さんぼうちょうつとめることになる[43]昭和しょうわ16ねん4がつ軍令ぐんれいだいいち部長ぶちょう転任てんにん[45]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)4がつ3にち連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん任務にんむ陸奥みちのくうつし、長門ながと横須賀よこすか砲身ほうしんかわそう各部かくぶ防御ぼうぎょりょく強化きょうかおこない、5月28にち横須賀よこすか出港しゅっこうした[46]。8がつ10日とおか射撃しゃげき訓練くんれんでは、36500mではつたま命中めいちゅうちか射撃しゃげき成績せいせきした[47]

8がつぼう工廠こうしょうにて艦内かんない電灯でんとうせん工事こうじ実施じっし電気でんきちかくの岸壁がんぺき横付よこづ工期こうき5日間にちかん完了かんりょう旗艦きかん任務にんむ復帰ふっきした[48]

太平洋戦争たいへいようせんそう緒戦しょせん

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アメリカとの開戦かいせんそなえて戦備せんびととのえる長門ながとであったが、すで大艦だいかんきょほう主義しゅぎ全盛ぜんせい時代じだいり、航空機こうくうき潜水せんすいかん重要じゅうよう役割やくわりたすようになっていた。1941ねん昭和しょうわ16ねん)7がつ21にち昼間ひるま連合れんごう艦隊かんたいだい12かい基本きほん演習えんしゅう夜間やかん連合れんごう艦隊かんたいだい21かい応用おうよう教練きょうれんでは、急降下きゅうこうか爆撃ばくげき潜水せんすいかん苦戦くせんしている[49]。8がつ10日とおかだい一類いちるいせんわざ作業さぎょう終了しゅうりょう航空こうくうたい襲撃しゅうげきでは、空母くうぼ加賀かがりゅう艦上かんじょう攻撃こうげき27艦上かんじょう爆撃ばくげき54水上みずかみ飛行ひこうてい15翻弄ほんろうされている[50]。また開戦かいせんヶ月かげつまえ土佐湾とさわんおきおこなわれた長門ながと陸奥みちのく主砲しゅほう射撃しゃげき訓練くんれんで、長門ながと散布さんぷかい非常ひじょうせまく、陸奥みちのく遠大えんだい距離きょりたか命中めいちゅうりつした[51]。その長門ながと艦上かんじょうおこなわれた研究けんきゅうかいにて、山本やまもと長官ちょうかんは「長門ながと陸奥みちのくかんをもってアメリカのウエストバージニアきゅう戦艦せんかん(コロラドきゅう戦艦せんかんさんせきたおせば、日本にっぽんてる」という主旨しゅし発言はつげんをしたという[51]。しかし、米国べいこくが16インチほう搭載とうさいノースカロライナきゅう戦艦せんかんサウスダコタきゅう戦艦せんかんといったしん世代せだい戦艦せんかん複数ふくすうせき建造けんぞうちゅうであることは、一般いっぱんにも報道ほうどうされていた[52]大正たいしょう時代じだい設計せっけいされかんよわいかさねた日本にっぽん戦艦せんかんでは欧米おうべい列強れっきょうしん世代せだい戦艦せんかん対抗たいこうできなくなっており、かり艦隊かんたい決戦けっせん実現じつげんしたとしても長門ながとふくめた日本にっぽん海軍かいぐん劣勢れっせい明白めいはくであった[53]

同年どうねん10がつ8にち連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん陸奥みちのくから長門ながと変更へんこうされた[54]連合れんごう艦隊かんたいは10月9にちから13にちにかけて、室積むろづみおき停泊ていはくする長門ながとにおいてハワイ作戦さくせん前提ぜんていとした図上ずじょう演習えんしゅうをおこなった[54]

太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん長門ながと連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかんとして姉妹しまいかん陸奥みちのくともだいいち戦隊せんたい形成けいせいしていた。12月2にちには山口やまぐちけん岩国いわくにわんで「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号あんごう無電むでん打電だでんした[55][56]。12月8にち南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき実施じっし成功せいこうをおさめる。瀬戸内海せとないかいざいはく戦艦せんかん6せき長門ながと陸奥むつ日向ひなた伊勢いせ扶桑ふそう山城やましろ)を中核ちゅうかくとする主力しゅりょく部隊ぶたいは、機動きどう部隊ぶたい退却たいきゃく支援しえん損傷そんしょうかん曳航えいこうとう目的もくてきに、同日どうじつ午前ごぜん830ふん出撃しゅつげきした[57]。なお同日どうじつ瀬戸内海せとないかいでは戦艦せんかん大和やまと」が試験しけん航海こうかいえてくれ帰港きこうちゅうであり、豊後水道ぶんごすいどう長門ながとらとすれちがっている[58]機動きどう部隊ぶたい安全あんぜん確認かくにんされて12月11にち0600に主力しゅりょく部隊ぶたい反転はんてんした[57]空母くうぼおおとりしょう随伴ずいはん駆逐くちくかん行方ゆくえ不明ふめいになるさわぎがあったものの、長門ながと以下いか主力しゅりょく部隊ぶたいは13にちあさになり柱島はしらじま泊地はくち帰投きとうした[57][59]

1942ねん昭和しょうわ17ねん)2がつ12にち山本やまもと五十六いそろく連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん大将たいしょうはた大和やまとうつし、連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん長門ながとから大和やまと変更へんこうされた[60]同年どうねん6がつ上旬じょうじゅんMI作戦さくせんでは主力しゅりょく部隊ぶたいりょうぐん戦闘せんとう序列じょれつ[61]として5月29にち0600に柱島はしらじま泊地はくち出撃しゅつげきした[62]航行こうこうちゅうの5がつ31にち直衛なおえ駆逐くちくかん盲腸炎もうちょうえん患者かんじゃ発生はっせいし、手術しゅじゅつ担任たんにんかん長門ながと収容しゅうようされた[63]。6月4にち主力しゅりょく部隊ぶたいより高須たかす四郎しろうだいいち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん指揮しき警戒けいかい部隊ぶたい分離ぶんりし、山本やまもと長官ちょうかんじきりつおもたいだいいち戦隊せんたい大和やまと長門ながと陸奥みちのく)、だいさん水雷すいらい戦隊せんたい空母くうぼたいおおとりしょうゆうふう)、補給ほきゅう部隊ぶたいとなった[61][64]。 6月5にち濃霧のうむなか長門ながと一時いちじ艦隊かんたいから落伍らくごした[65][66]同日どうじつ南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい空母くうぼ4せきミッドウェー海戦かいせんにより全滅ぜんめつ。6月6にちになると機動きどう部隊ぶたい水上すいじょう艦艇かんてい主力しゅりょく部隊ぶたい合流ごうりゅうした[67]長門ながとは、だい4駆逐くちくたい陽炎かげろうがた2せきはぎふうまいふう)より空母くうぼ加賀かが」の生存せいぞんしゃ収容しゅうようした[68]。6月14にち1900、主力しゅりょく部隊ぶたい柱島はしらじま泊地はくち到着とうちゃくした[69]

7がつ14にち、ミッドウェー海戦かいせん艦隊かんたい再編さいへんにより長門ながと陸奥みちのくだいいち戦隊せんたいからだい戦隊せんたいへと編入へんにゅうされた[70]。8月7にちガダルカナルとうたたかで、陸奥みちのく前進ぜんしん部隊ぶたい指揮しきかん近藤こんどうしんちく中将ちゅうじょうだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)に編入へんにゅうされカロリン諸島しょとうトラックとう進出しんしゅつしたが、長門ながと日本にっぽん本土ほんど待機たいきする日々ひびつづいた。

1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつ8にち柱島はしらじま泊地はくち姉妹しまいかん陸奥みちのく長門ながと扶桑ふそう大淀おおよど龍田たつたしまふうとう目前もくぜん爆沈ばくちんした。 8月16にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん古賀こがみねいち大将たいしょうじきりつ主力しゅりょく部隊ぶたい戦艦せんかん3せき大和やまと長門ながと扶桑ふそう〉、空母くうぼ大鷹おおたか[71]巡洋艦じゅんようかん3せき愛宕あたご高雄たかお能代のしろ〉、駆逐くちくかん部隊ぶたい涼風すずかぜ海風かいふうあきくもゆうくも若月わかつき天津てんしんふうはつかぜ〉)は出撃しゅつげきし、トラックかう[72][73]。 10月17にちにはウェークとう南方みなかた海面かいめんべい艦隊かんたい迎撃げいげきするため長門ながと大和やまと扶桑ふそうきむつよし榛名はるなとうとともに連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん武蔵むさしひきいられトラックとう出撃しゅつげきしたが、作戦さくせん不発ふはつわり10がつ26にちにトラックとう帰着きちゃくした[74]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつ25にち所属しょぞくしていただいいち艦隊かんたいだい戦隊せんたいかいたいされ、長門ながとだい艦隊かんたいだいいち戦隊せんたい編入へんにゅうされた[75]同月どうげつにはトラックとうからも撤退てったい以後いごスマトラ島すまとらとう北部ほくぶリンガ泊地はくち基地きちとする[76]。3月6にちには宇垣うがきまとい中将ちゅうじょう開戦かいせん連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうとして長門ながと乗艦じょうかん)が長門ながと着任ちゃくにんした。5月4にちだいいち戦隊せんたい旗艦きかん長門ながとから大和やまと変更へんこうされた[77]。 6月の「あごう作戦さくせん」では、だい航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん城島じょうしま高次こうじ少将しょうしょう空母くうぼはやぶさたかたかりゅうおおとり)を主力しゅりょくとするおつ部隊ぶたいこうせんはやぶさたかたかりゅうおおとり〉、航空こうくう巡洋艦じゅんようかん最上さいじょうかぶとがた駆逐くちくかん浜風はまかぜ秋霜しゅうそう早霜はやじも〉、だい4駆逐くちくたい満潮まんちょう野分のわけやまくも〉、だい27駆逐くちくたい時雨しぐれ五月雨さみだれ〉)に所属しょぞくして参加さんかした。18にちよる長門ながとたか衝突しょうとつしかけたという[78]。 6月19-20日はつかマリアナおき海戦かいせんにおいて、長門ながとはアメリカぐん機動きどう部隊ぶたい艦載かんさい空襲くうしゅうけるが損害そんがい軽微けいびであった。 20日はつか夕刻ゆうこく空襲くうしゅうにより被弾ひだんかみなりして航行こうこう不能ふのうとなったたか長門ながと曳航えいこうすることになった[79]長門ながと曳航えいこう開始かいししたところ、長門ながとよんばん砲塔ほうとうたかかんくびむすんでいたワイヤーロープが切断せつだんされてしまう[80]結局けっきょくたか沈没ちんぼつ空母くうぼだいおおとりしょうづる沈没ちんぼつみずづるはやぶさたか千代田ちよだ千歳ちとせりゅうおおとりひとし大小だいしょう損害そんがいけ、マリアナおき海戦かいせん日本にっぽん海軍かいぐん惨敗ざんぱいわった。6月24にちみずづる以下いか残存ざんそん空母くうぼだいいち戦隊せんたい内地ないち帰投きとうした[81]。7がつ中旬ちゅうじゅん以降いこう主力しゅりょく艦艇かんていふたたびリンガ泊地はくち進出しんしゅつした。

捷一しょういちごう作戦さくせん

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レイテでの長門ながと形状けいじょう。アメリカがわ資料しりょうなので、厳密げんみつには機銃きじゅう配置はいちなどでことなる部分ぶぶんがある。
1944ねん10月22にちブルネイから出撃しゅつげきする栗田くりた艦隊かんたいおくから高雄たかおがたじゅう巡洋艦じゅんようかんよんせきのちに、きむつよし榛名はるな大和やまと武蔵むさし最後さいご長門ながとつづいた。

1944ねん6がつ27にち小沢おざわおさむ三郎さぶろうだいさん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんは、次期じき作戦さくせんにおいて『長門ながと速力そくりょく戦力せんりょく関係かんけいじょう 大和やまと武蔵むさし別個べっこ行動こうどうヲトラシメ、山城やましろ扶桑ふそうどもだい戦隊せんたい編成へんせい ゆうげき部隊ぶたい編入へんにゅうスルヲみとめム 戦隊せんたい編成へんせい困難こんなんナルトキハ機動きどう部隊ぶたい附属ふぞくニテナリ』と意見いけん具申ぐしんした[82]水上すいじょう戦闘せんとう、タンカーの代用だいようだいよん航空こうくう戦隊せんたいはやぶさたか日向ひなた伊勢いせ)の護衛ごえいとう投入とうにゅう可能かのうとしている[82]。これにたい軍令ぐんれいは、だい戦隊せんたい長門ながと扶桑ふそう山城やましろ)をだいゆうげき部隊ぶたい(だい艦隊かんたい基幹きかん)指揮しきかん だい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん志摩しま清英きよひで中将ちゅうじょう)のじきりつにする意向いこうしめした[82]協議きょうぎ結果けっか軍令ぐんれい小沢おざわ中将ちゅうじょう主張しゅちょうれ、9がつ10日とおかだい戦隊せんたい司令しれいかん西村にしむら祥治しょうじ少将しょうしょう扶桑ふそうがた戦艦せんかん山城やましろ扶桑ふそう〉)を編制へんせいだい艦隊かんたいだいいちゆうげき部隊ぶたい)に編入へんにゅうした[82]長門ながとだい戦隊せんたいのリンガ進出しんしゅつ(10がつ4にち同地どうち)をもってだいいち戦隊せんたい大和やまと武蔵むさし長門ながと)からはずされてだい戦隊せんたい編入へんにゅうだいいちゆうげき部隊ぶたいだいさん部隊ぶたい通称つうしょう西村にしむら艦隊かんたい旗艦きかん予定よていとなる[82]。ところが9がつ16にちだいいち戦隊せんたい司令しれいかん宇垣うがき中将ちゅうじょう)は長門ながとだい戦隊せんたい編入へんにゅうたいし『此の切迫せっぱくせる時機じきまった適當てきとうにして長門ながと戦力せんりょく發揮はっきせしむる所以ゆえんず』と反発はんぱつ長門ながと西村にしむら艦隊かんたいとしてスリガオ海峡かいきょう突入とつにゅうすることはなかった[83]

10月1にち、リンガ泊地はくち停泊ていはくする大和やまと武蔵むさし乗組のりくみいんシンガポール休養きゅうようするにあたり、さんかいにわたり長門ながと人員じんいん輸送ゆそうかんとして使用しようされ、いちに2100めい大和やまと武蔵むさし乗組のりくみいん輸送ゆそうした[84]。10月中旬ちゅうじゅん連合れんごう艦隊かんたい捷一しょういちごう作戦さくせん発動はつどう長門ながと引続ひきつづ栗田くりた艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょうだいいち部隊ぶたいだいいち戦隊せんたい大和やまと武蔵むさし長門ながと)に所属しょぞくしてどう作戦さくせん参加さんかした。

10がつ下旬げじゅん長門ながとレイテおき海戦かいせん参戦さんせんする。10月24にちのシブヤンうみ空襲くうしゅうでは、だいいち戦隊せんたいより武蔵むさし沈没ちんぼつした。長門ながとは14:16にべい空母くうぼフランクリン(USS Franklin, CV-13)とカボット(USS Cabot, CVL-28)からの攻撃こうげきによりはつばくだんける。一発いっぱつ長門ながとおおくの機銃きじゅうだいいちかんしつ換気かんきこう破壊はかい、25分間ふんかんじく停止ていしとなり、もう一発いっぱつ無線むせんしつ酒保しゅほ付近ふきん破壊はかいし52めい死亡しぼう、106めい負傷ふしょうした。10月25にちのサマールとうおき海戦かいせんでは06:01に護衛ごえい空母くうぼセント・ロー(USS St. Lo, CVE-63)に砲撃ほうげきおこなうが失敗しっぱいする。06:54に駆逐くちくかんヒーアマン (USS Heermann, DD-532)が榛名はるな魚雷ぎょらい発射はっしゃ魚雷ぎょらい榛名はるなはず線上せんじょう大和やまと長門ながとかい、大和やまと回避かいひ運動うんどうすえりょうわき魚雷ぎょらいはさまれ、りょうかん北方ほっぽうやく16km回避かいひ行動こうどういられた。長門ながと主砲しゅほうふくほう砲撃ほうげきべい護衛ごえい空母くうぼぐんつづけてった。

09:10に栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょう砲撃ほうげき中止ちゅうし北方ほっぽうへの移動いどうめいじた。10:20に栗田くりた中将ちゅうじょうふたた南進なんしんめいじたが、艦隊かんたいへの攻撃こうげきはげしさをしたため12:36に退却たいきゃくふたためいじる。長門ながとは12:43にはつばくだんけるが損害そんがいおおきくなかった。10月26にち退却たいきゃく連合れんごう艦隊かんたいはアメリカぐんはげしい空襲くうしゅうけることとなる。長門ながとホーネット(USS Hornet, CV-12)艦載かんさいから4はつばくだんけ、38めい死者ししゃと105めい負傷ふしょうしゃした。長門ながといちにちで99はつ主砲しゅほうだんと653はつふく砲弾ほうだん発射はっしゃした。栗田くりた艦隊かんたい損傷そんしょうかん救援きゅうえん駆逐くちくかん次々つぎつぎ派遣はけんしたため、最終さいしゅうてき戦艦せんかん4せき大和やまと長門ながときむつよし榛名はるな)をまも駆逐くちくかんは17の2せきゆきふういそふう)のみとなった。長門ながとゆきふうに、榛名はるないそふうにそれぞれ燃料ねんりょう補給ほきゅうした。

太平洋戦争たいへいようせんそう終盤しゅうばん

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1945ねんられた長門ながと
終戦しゅうせん戦艦せんかんマサチューセッツより撮影さつえいした長門ながと

1944ねん11月5にち - 13にちのマニラ空襲くうしゅうのち、11月15にちだいいち戦隊せんたいかいたい大和やまとだい艦隊かんたい旗艦きかん長門ながとだいさん戦隊せんたい編入へんにゅうされることになった[85]。 11月16にち戦艦せんかん3せき大和やまと長門ながときむつよし)、だい水雷すいらい戦隊せんたいけい巡洋艦じゅんようかんはぎどう戦隊せんたい所属しょぞくだい17駆逐くちくたいうらふう浜風はまかぜゆきふういそふう)、まつがた駆逐くちくかんきりうめ〉(20日はつか分離ぶんりうまこう回航かいこう)はブルネイより日本にっぽんへの帰路きろいた[86]。これが長門ながと日本にっぽん海軍かいぐんでの最後さいご外洋がいよう航海こうかいとなった。しかし11月22にち台湾たいわん海峡かいきょうおき艦隊かんたいべい潜水せんすいかんシーライオン IIから襲撃しゅうげきされ、同行どうこうしていたきむつよしだいさん戦隊せんたい司令しれいかん鈴木すずきよし少将しょうしょう)と金剛こんごう右側みぎがわにいた駆逐くちくかんうらふう(17司令しれいかん)が撃沈げきちんされた[87]浜風はまかぜいそふう金剛こんごう生存せいぞんしゃ収容しゅうようした[88]。 11月25にち長門ながとだい17駆逐くちくたい浜風はまかぜゆきふういそふう)に護衛ごえいされて神奈川かながわけん横須賀よこすかこう到着とうちゃくした。28にち、17浜風はまかぜゆきふういそふう)は空母くうぼ信濃しなの(大和やまとがた戦艦せんかん改造かいぞう空母くうぼ)を護衛ごえいして横須賀よこすか出港しゅっこう信濃しなの最初さいしょ遠洋えんよう航海こうかい長門ながと乗組のりくみいん全員ぜんいん総出そうで見送みおくった。その長門ながとでは損傷そんしょう箇所かしょ修理しゅうり整備せいび実施じっししたが、燃料ねんりょう物資ぶっし不足ふそくにより外洋がいようることはなかった。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ20日はつか長門ながと榛名はるな警備けいびかん指定していされる[89]大和やまと坊ノ岬ぼうのみさきおき海戦かいせん沈没ちんぼつすると、日本にっぽん海軍かいぐん損傷そんしょう燃料ねんりょう不足ふそくのため運用うんようできなくなった残存ざんそん大型おおがたかん一斉いっせい予備よびかん指定していする。 4がつ20日はつか長門ながと伊勢いせ日向ひなた榛名はるな天城あまぎおおとりしょうはやぶさたかりゅうおおとり青葉あおばだいよん予備よびかんとなった[90]。 6月1にち長門ながと以下いか榛名はるな伊勢いせ日向ひなた天城あまぎおおとりしょうりゅうおおとり特殊とくしゅ警備けいびかんとなる[91]。それにともな長門ながとではふくほう対空たいくうへいそう陸上りくあげし、マストや煙突えんとつ撤去てっきょされ、空襲くうしゅう擬装ぎそうようみどりけい迷彩めいさい塗装とそうほどこすなどの処置しょちがとられた[92]ふくほう陸上りくじょう砲台ほうだい転用てんようされた[92]。アメリカぐん相模さがみわん上陸じょうりくしてきた場合ばあい長門ながと横須賀よこすかより砲撃ほうげきをおこなう手筈てはずだったという[93]

どう時期じき米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじん軍務ぐんむきょくは、戦艦せんかん長門ながと空母くうぼおおとりしょうじゅう巡洋艦じゅんようかん利根とね駆逐くちくかんすうせきウラジオストク回航かいこうしてソビエト連邦れんぽうソ連それん)に譲渡じょうとし、航空機こうくうき物資ぶっし燃料ねんりょう交換こうかんする計画けいかくてていたが、実行じっこうされずにわっている[94]

7がつ18にち長門ながと横須賀よこすか空襲くうしゅうにおいて空母くうぼエセックス (USS Essex, CV-9)、ランドルフ (USS Randolph, CV-15)、シャングリラ (USS Shangri-la, CV-38) およびベロー・ウッド (USS Beleau Wood, CVL-24) 搭載とうさいからの攻撃こうげきける。3はつばくだん命中めいちゅうして艦橋かんきょう破壊はかいされ、大塚おおつかみき艦長かんちょう樋口ひぐち貞治さだはる副長ふくちょう[ちゅう 6]など、ほとんどの艦橋かんきょう要員よういん戦死せんししてしまう(戦死せんししゃ35めい[95]後任こうにん艦長かんちょう杉野すぎの修一しゅういち大佐たいさにち戦争せんそう旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせん戦死せんしした杉野すぎの孫七まごしち兵曹へいそうちょう長男ちょうなん)が発令はつれいされ、それまで池内いけうち正方せいほう少将しょうしょう長門ながと艦長かんちょうつとめた[95]長門ながとはそのまま修復しゅうふくされることなく終戦しゅうせんむかえた。

終戦しゅうせん - 戦艦せんかん長門ながと最期さいご

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ビキニ環礁かんしょうでの長門ながとえがいた水彩すいさいおくのオレンジしょくかんべい戦艦せんかんネバダ。
ビキニ環礁かんしょうでの7がつ25にち実験じっけん光景こうけいくも根本こんぽんひだり部分ぶぶん長門ながと姿すがた確認かくにんできる。

終戦しゅうせん、1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ30にちに、連合れんごうこくぐんの1こくであるアメリカぐん接収せっしゅうされる。長門ながと空襲くうしゅうによってなかやぶしたまま修復しゅうふくされておらず、煙突えんとつとマストは撤去てっきょされていた[96]。9月15にちづけ除籍じょせき[97]。アメリカ海軍かいぐんによる詳細しょうさい調査ちょうさのち武装ぶそう解除かいじょされる。9月17にちには、原爆げんばく実験じっけん標的ひょうてきかんとするむね発表はっぴょうされた[ちゅう 5]。9月20にち、アメリカぐん報道ほうどうかんは「公債こうさい販売はんばい運動うんどうのためアメリカ本土ほんど曳航えいこうされ、原爆げんばく実験じっけんには使用しようしない」と発表はっぴょうした[ちゅう 3]

工作こうさくかんデルタによる作業さぎょうののちに[98]、1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ下旬げじゅん原爆げんばく実験じっけん標的ひょうてきかんとなることが発表はっぴょうされる[13]。 3月18にちクロスロード作戦さくせん(アメリカぐんかく実験じっけん)に標的ひょうてきかんとして参加さんかするためマーシャル諸島しょとうビキニ環礁かんしょうにむかうことになった。艦長かんちょうW・J・ホイップル大佐たいさで、180めいのアメリカ海軍かいぐんへいんだ。20日はつか横須賀よこすかこう出発しゅっぱつする[99]。しかし破損はそんのために使用しようできるボイラーのかずかぎられすうノットという低速ていそくしかせず、途中とちゅう応急おうきゅう修理しゅうりのためエニウェトク環礁かんしょうっている。5月上旬じょうじゅんにビキニ環礁かんしょう到着とうちゃくし、同地どうち繋留けいりゅうされた[100]。クロスロード作戦さくせん長門ながと動向どうこうは、日本にっぽんでも注目ちゅうもくあつめた[101]

7がつ1にちだいいち実験じっけん(ABLE、空中くうちゅう爆発ばくはつ)では戦艦せんかんネバダ」が投下とうか目標もくひょうとして中心ちゅうしん配置はいちされ[100][102]長門ながと爆心ばくしん予定よていから400m[103]のところにかれた[97]ばくだん西方せいほう600mにずれてしまい、結果けっかばく心地ごこちからやく1.5 km(1,640ヤード)の位置いちとなった。このとき長門ながとほとん無傷むきずばく心地ごこち方向ほうこう装甲そうこう表面ひょうめん融解ゆうかいしたのみで航行こうこう問題もんだいなし)であった。長門ながと同時どうじ実験じっけん標的ひょうてきにされたけいじゅん酒匂さこ」はほぼ真上まうえばく心地ごこちとなったために大破たいは炎上えんじょう翌日よくじつ沈没ちんぼつした[104]

7がつ25にちだい実験じっけん(BAKER、水中すいちゅう爆発ばくはつ)ではばく心地ごこちから900-1000m[105]位置いちにあり、右舷うげんがわやく5傾斜けいしゃしょうじた[97]長門ながと傾斜けいしゃした状態じょうたい海上かいじょうかんでおり[106]、礁外に曳航えいこうしたのち魚雷ぎょらい撃沈げきちんする予定よていであった[107]。しかし、4にちの7がつ29にちあさ実験じっけん関係かんけいしゃ長門ながとのいた海面かいめんてみると、すで同艦どうかん姿すがた海上かいじょうにはなかった[97]。7月28にち深夜しんやから29にち未明みめいにかけて、浸水しんすい拡大かくだいによって沈没ちんぼつしたものとられる[97]

長門ながと被爆ひばくしてなお4にちまでしずまなかったことは、当時とうじ日本にっぽんでは「べいかん次々つぎつぎしずなか最後さいごまでちこたえた」「長門ながとかんだった証拠しょうこ」「日本にっぽん造艦ぞうかん技術ぎじゅつ優秀ゆうしゅうせい証明しょうめい」と喧伝けんでんされた。もっとも沈没ちんぼつした大型おおがたかん空母くうぼサラトガ」と戦艦せんかんアーカンソー」だけだった[108]被爆ひばくえたかん長門ながと以外いがいにもおり、沈没ちんぼつまぬかれたべい戦艦せんかんネバダニューヨーク、アメリカのけい空母くうぼインディペンデンス[107]、ドイツのじゅう巡洋艦じゅんようかんプリンツ・オイゲン(後日ごじつ座礁ざしょう放棄ほうき)とう多数たすう存在そんざいする[106]。さらに長門ながととほぼおな距離きょりにいた駆逐くちくかんヒューズ」ですら被爆ひばくえ、沈没ちんぼつふせぐため浅瀬あさせ曳航えいこうされた[106]。しかしながらだい実験じっけん(BAKER)の実施じっしまえ長門ながとかんたい機雷きらい装着そうちゃくされていたとされる[109]など大型おおがたかんなかでは不利ふり条件じょうけんであったともえる。

やく40ねん1985ねん、アメリカ政府せいふとマーシャル諸島しょとう政府せいふから調査ちょうさ許可きょか読売新聞社よみうりしんぶんしゃ戦後せんご40ねん企画きかく一環いっかんとして、ビキニ環礁かんしょう海底かいていしず長門ながと撮影さつえいする企画きかくてた[110]。1985ねん12月21にち潜水せんすい調査ちょうさせんはくよう」の船上せんじょうで、海中かいちゅうカメラにうつされた画像がぞう海軍かいぐん研究けんきゅう戸高とだか一成いっせい検討けんとうし、長門ながとかんたいであることが確認かくにんされた[111]

現在げんざい長門ながとかんたい上下じょうげさかさまでそこしており、艦橋かんきょう部分ぶぶんれている。ダイビングスポットとしてビキニ環礁かんしょう貴重きちょう観光かんこう拠点きょてんとなっているが、かく実験じっけん放射線ほうしゃせん影響えいきょうのためかんたい直接ちょくせつダイバーがれること許可きょかされていない。ビッグ7なか、ネルソンきゅう2せきとコロラドきゅう3せき戦後せんごスクラップとして解体かいたいされてしまったが、長門ながと上記じょうきとお沈没ちんぼつ状態じょうたい現存げんそん陸奥みちのく沈没ちんぼつしたのち一部いちぶかんくびから艦橋かんきょう付近ふきんだい1主砲しゅほうふくやく25%)がげられず現存げんそんしている。

エピソード

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  • 大和やまと武蔵むさし大和やまと神社じんじゃ武蔵むさし神社じんじゃがあったのと同様どうようほんかんにも艦内かんない神社じんじゃとして「長門ながと神社じんじゃ」があった[112]長門ながとこく一宮いちのみや住吉すみよし神社じんじゃからのぶんまつ
  • 1944ねん3がつ6にち宇垣うがきまといだいいち戦隊せんたい司令しれいかん駆逐くちくかん谷風たにかぜよりだいいち戦隊せんたいはた艦長かんちょうもん乗艦じょうかんし、陣中じんちゅう日記にっきせんろく』に「かんしんあり 乗艦じょうかんよろこべば、彼女かのじょ健在けんざい今日きょうまで奮闘ふんとうしゃするものなり」としるした[113]宇垣うがき司令しれいだいよん艦隊かんたい先任せんにん参謀さんぼう昭和しょうわ8ねん)、連合れんごう艦隊かんたい先任せんにん参謀さんぼう昭和しょうわ11ねん)、連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう昭和しょうわ16ねん)、だいいち戦隊せんたい司令しれいかん昭和しょうわ19ねん)として、たびたび長門ながと乗艦じょうかんしており、「せんろく」で『われじん相當そうとうえんあり』とべている[114]前述ぜんじゅつのように、レイテおき海戦かいせんにおける長門ながと西村にしむら艦隊かんたい編入へんにゅうあん反対はんたいしたのも宇垣うがきである[82]
  • 1944ねん3がつ15にち長門ながと艦上かんじょう赤道祭せきどうさい実施じっしされた[115]列席れっせきしていた宇垣うがき司令しれいかんは「演藝えんげい用品ようひん多数たすうゆうするははたして戦備せんびるれるものにや。假装かそう演藝えんげいども練習れんしゅう艦隊かんたいにてはられざるほど上手じょうずなり」との感想かんそういている[115]
  • 海軍かいぐん将校しょうこう養成ようせいする海軍兵学校かいぐんへいがっこう海軍かいぐん機関きかん学校がっこう武道ぶどう必修ひっしゅうであり、卒業そつぎょう柔道じゅうどうもしくは剣道けんどう有段者ゆうだんしゃになるようきたえられていた[116]。また下士官かしかんへいたちべつ時間じかんになると各種かくしゅ武道ぶどう柔道じゅうどう剣道けんどう銃剣じゅうけんどう相撲すもう短艇たんてい競技きょうぎとう)を選択せんたくし、所定しょてい場所ばしょ鍛錬たんれんしていた。海上かいじょう軍艦ぐんかんであっても、うえ甲板かんぱんにマットをいて相撲すもう柔道じゅうどう稽古けいこおこなわれている[117]長門ながと相撲すもう部員ぶいん横須賀よこすか鎮守ちんじゅ代表だいひょうしゃおおく、じゅうりょう匹敵ひってきする実力じつりょくしゃそろっていたという[118]
  • 長門ながと太平洋戦争たいへいようせんそうはつ主砲しゅほう射撃しゃげき日本にっぽん空母くうぼはやぶさたか攻撃こうげきするてきさんしきだん撃墜げきついしたこと最初さいしょとされており、のち長門ながと艦長かんちょうになったもとはやぶさたか艦長かんちょうわりのさい貴様きさまがこのきているのは長門ながとのおかげだ」と、冗談じょうだんわしたという逸話いつわもある[よう出典しゅってん]
  • 終戦しゅうせん直後ちょくご食糧しょくりょう不足ふそく懸念けねんされたころ大洋たいよう漁業ぎょぎょうマルハ現在げんざいマルハニチロ)が小笠原おがさわら海域かいいき捕鯨ほげい再開さいかいするため、社員しゃいん一人ひとり横浜よこはまかけた「(捕鯨ほげい操業そうぎょう必要ひつような)スリップウェイのついた軍艦ぐんかん」をりるべくだい復員ふくいんしょうもと海軍かいぐんしょう)にもうたところ、「よし、なんでもしてやる」としめされた保有ほゆう艦艇かんていリストの一番いちばんじょうにあったのが「長門ながと」だった[119][ようページ番号ばんごう]目的もくてきかんだいいちごうがた輸送ゆそうかんで、無事ぶじこれをしている。

軍艦ぐんかんはた

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  • どう番組ばんぐみには長門ながと艦内かんない時計とけい出品しゅっぴんされたことがある。評価ひょうかがくは50まんえん出品しゅっぴんしゃ依頼人いらいにん)のちち長門ながと接収せっしゅうったもと日本にっぽん海軍かいぐん将校しょうこうであり、この放送ほうそうでは接収せっしゅう映像えいぞう公開こうかいされた。

要目ようもく一覧いちらん

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新造しんぞう長門ながと後方こうほうから写真しゃしん
1937ねん昭和しょうわ12ねん)の長門ながと戦艦せんかんうごかすのに必要ひつよう乗組のりくみいんおおさがよくわかる。
終戦しゅうせん唯一ゆいいつのこり、アメリカぐん接収せっしゅうされた長門ながとかんくびマストのがった星条旗せいじょうきと、ばくげきけた艦橋かんきょう破壊はかいじょうきょうはずされた菊花きっか紋章もんしょうあとわかる。
要目ようもく 新造しんぞう
(1920ねん[4]
だい改装かいそう
(1936ねん
レイテおき海戦かいせん
(1944ねん
排水はいすいりょう 基準きじゅん:32,759t
常備じょうび:33,759t
基準きじゅん:39,130t
おおやけためし:43,580t
全長ぜんちょう 215.80m 224.94m
全幅ぜんぷく 28.96m 34.60m
吃水きっすい 9.08m 9.49m
しゅかん ごうかん本式ほんしきせんしょうかん15
どうこんしょうかん6
ごうかん本式ほんしき大型おおがた4
どう小型こがた6
おも かん本式ほんしきタービン44じく
軸馬力じくばりき 85,478shp 82,000shp
速力そくりょく 26.443ノット 24.35ノット
航続こうぞく距離きょり 5,500海里かいり/16ノット 8,650海里かいり/16ノット
燃料ねんりょう 石炭せきたん:1,600t
重油じゅうゆ:3,400t
石炭せきたん:57.8t
重油じゅうゆ:5,600t
乗員じょういん 1,333めい 1,368めい
主砲しゅほう よん一式いっしき41cm連装れんそうほう4
ふくほう よん一式いっしき14cmたんそうほう20もん どう18もん
高角こうかくほう 8cmたんそう4もん 12.7cm連装れんそう4
機銃きじゅう さんねんしき3てい 7.7mm3てい
40mm連装れんそう2
25mm連装れんそう10
後日ごじつ40mmにわって装備そうび
25mm3連装れんそう14
25mm連装れんそう10
どうたんそう30てい
魚雷ぎょらい 53cm水中すいちゅう発射はっしゃかん4ほん
どう水上すいじょう4ほん
なし
そのへいそう 21ごうでんさがせ1
22ごう2
13ごう2
装甲そうこう 水線すいせん305mm
甲板かんぱん70+75 mm
主砲しゅほうぜんたて305mm
主砲しゅほう天蓋てんがい152mm
ふくほうくるわ152mm
水線すいせん305mm
甲板かんぱん70+127 mm
主砲しゅほうぜんたて457mm
主砲しゅほう天蓋てんがい250mm
ふくほうくるわ152mm
搭載とうさい なし 3
カタパルト1

※ ←はひだりおなじ(変更へんこうし)。空白くうはく不明ふめい。1944ねん推定すいていふくむ。

歴代れきだい艦長かんちょう

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※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』27-30ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれきおよび『官報かんぽう』にもとづく。

艤装ぎそういんちょう

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  1. 飯田いいだのべ太郎たろう 大佐たいさ:1919ねん11がつ20日はつか - 1920ねん3がつ2にち[123]
  2. けん飯田いいだのべ太郎たろう 大佐たいさ:1920ねん3がつ2にち[123] -

艦長かんちょう

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  1. 飯田いいだのべ太郎たろう 大佐たいさ:1920ねん3がつ2にち - 1921ねん12月1にち
  2. 樺山かばやま可也かなり 大佐たいさ:1921ねん12月1にち - 1922ねん11がつ10日とおか
  3. 高橋たかはし節雄せつお 大佐たいさ:1922ねん11がつ10日とおか - 1923ねん12月1にち
  4. 左近さこん司政しせいさん 大佐たいさ:1923ねん12月1にち - 1924ねん12月1にち
  5. 中島なかじますすむ 大佐たいさ:1924ねん12月1にち - 1925ねん8がつ22にち
  6. 小副川おそえがわけい 大佐たいさ:1925ねん8がつ22にち - 1926ねん12月1にち
  7. 長谷川はせがわきよし 大佐たいさ:1926ねん12月1にち - 1927ねん12月1にち
  8. 松下まつしたかおる 大佐たいさ:1927ねん12月1にち - 1928ねん12がつ10日とおか
  9. 井上いのうえつぎまつ 大佐たいさ:1928ねん12がつ10日とおか - 1929ねん11月30にち
  10. 浜田はまだ吉治郎よしじろう 大佐たいさ:1929ねん11月30にち - 1930ねん12月1にち
  11. 中村なかむら亀三郎かめさぶろう 大佐たいさ:1930ねん12月1にち - 1931ねん10がつ10日とおか
  12. はらたかし太郎たろう 大佐たいさ:1931ねん10がつ10日とおか - 1931ねん12月1にち
  13. 杉坂すぎさか悌二郎ていじろう 大佐たいさ:1931ねん12月1にち - 1932ねん3がつ4にち[124]
  14. 園田そのだみのる 大佐たいさ:1932ねん3がつ4にち - 1932ねん12月1にち
  15. 宇野うのつもるぞう 大佐たいさ:1932ねん12月1にち - 1933ねん11月15にち
  16. 佐田さた健一けんいち 大佐たいさ:1933ねん11月15にち - 1934ねん11月15にち
  17. ゆき勝美かつみ 大佐たいさ:1934ねん11月15にち - 1935ねん7がつ15にち
  18. 斎藤さいとうろう 大佐たいさ:1935ねん7がつ15にち - 1936ねん12月1にち
  19. 鮫島さめしまおも 大佐たいさ:1936ねん12月1にち - 1937ねん12月1にち
  20. 中島なかじま寅彦とらひこ 大佐たいさ:1937ねん12月1にち - 1938ねん11月15にち
  21. けん角田つのださとし 大佐たいさ:1938ねん11月15にち - 1938ねん12月15にち
  22. 福留ふくとめしげる 大佐たいさ:1938ねん12月15にち - 1939ねん11月5にち[125]
  23. 徳永とくながさかえ 大佐たいさ:1939ねん11月5にち[125] - 1940ねん10がつ15にち
  24. 大西おおにし新蔵しんくら 大佐たいさ:1940ねん10がつ15にち - 1941ねん8がつ11にち
  25. 矢野やの英雄ひでお 大佐たいさ:1941ねん8がつ11にち - 1942ねん11がつ10日とおか
  26. ひさしそう米次郎よねじろう 大佐たいさ:1942ねん11がつ10日とおか - 1943ねん8がつ2にち
  27. 早川はやかわ幹夫みきお 大佐たいさ:1943ねん8がつ2にち - 1943ねん12月15にち
  28. あに勇次ゆうじ 大佐たいさ:1943ねん12月15にち - 1944ねん12がつ20日はつか
  29. 渋谷しぶや清見きよみ 大佐たいさ:1944ねん12がつ20日はつか - 1945ねん4がつ28にち
  30. 大塚おおつかみき 少将しょうしょう:1945ねん4がつ28にち[126] - 1945ねん7がつ18にち 戦死せんし同日どうじつづけにん海軍かいぐん中将ちゅうじょう[127]
  31. 杉野すぎの修一しゅういち 大佐たいさ:1945ねん7がつ24にち -

にち戦争せんそう旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせんられる杉野すぎの孫七まごしち兵曹へいそうちょう長男ちょうなん

  1. W・J・ホイップル 大佐たいさ:1946ねん3がつ18にち -

同型どうけいかん

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画像がぞうしゅう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 昭和しょうわ12年度ねんど[海軍かいぐん]しょう年報ねんぽうによる。福井ふくい静夫しずお著作ちょさくでは16ノットで10,600海里かいりとの数値すうちもある。
  2. ^ 少年しょうねん倶楽部くらぶ昭和しょうわ5ねん新春しんしゅんごうだい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ)の付録ふろくである、「新案しんあん物識ものしりかるた」のなかの1まい[11]
  3. ^ a b 東京とうきょう國際こくさいじゅうきゅうにちはつ[12] べい海軍かいぐんスポークスマンは横須賀よこすか港内こうないべい艦載かんさいによつて破壞はかいされた日本にっぽん超弩級ちょうどきゅう艦長かんちょうもんさんまんせんとん)は來週らいしゅうごろ米國べいこく曳航えいこうされるむねけふ發表はっぴょうみぎ戰艦せんかん多分たぶん公債こうさい販賣はんばい運動うんどう使用しようされるであらうとかたり、なお海軍かいぐんりょくたいする原子げんしばくだん効力こうりょくためすため長門ながとをその試驗しけんだいとする建議けんぎ目下もっかなされてゐないむね附言ふげんした(記事きじおわり)
  4. ^ 平易へいいいた陸海りくかいぐん知識ちしき海軍かいぐんまきp.18 の原文げんぶんでは世界せかいなな大戦たいせんかん記述きじゅつされている。NDLJP:1452574/143参照さんしょう
  5. ^ a b 東京とうきょうはつ[33] 日本にっぽん海軍かいぐん至寶しほうとして一時いちじぜん世界せかい無敵むてき海軍かいぐん日本にっぽん脊髄せきずいであつた戰艦せんかん長門ながとは、戰爭せんそうちゅうべい空軍くうぐんひゃく襲撃しゅうげきにもかかわらず依然いぜん沈没ちんぼつしなかつたもので目下めした横須賀よこすか軍港ぐんこうにあり、ちかべいぐんこれ太平たいへい洋上ようじょうひゃくまいる位置いち引出ひきだ原子げんしだん試驗しけんきょう爆沈ばくちんする豫定よていであると發表はっぴょうした アトミック・ボンブは曾て軍艦ぐんかんワシントンごうこころみたがいま完全かんぜんでないのでいまいち試驗しけんせんごと企圖きとしたものである。(以下いかりゃく
  6. ^ 樋口ひぐち貞治さだはる副長ふくちょう戦艦せんかん霧島きりしま沈没ちんぼつ砲術ほうじゅつちょうであった。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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    • 国防こくぼう科学かがく研究けんきゅうかい へん平易へいいいた陸海りくかいぐん知識ちしき』(二松ふたまつどう書店しょてん、1934ねん
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    • 佐藤さとう光貞みつさだ海軍かいぐん科学かがく』(東亜とうあ公論こうろんしゃ、1941ねん)「戦艦せんかん長門ながと』と『陸奥みちのく』はいつ出来できたか」
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき
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  • 官報かんぽう

関連かんれん史料しりょう

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  • 日本にっぽん造船ぞうせん学会がっかい昭和しょうわ造船ぞうせん
  •  福井ふくい静夫しずお日本にっぽん軍艦ぐんかん』『海軍かいぐん艦艇かんてい

外部がいぶリンク

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